第1話
私が彼を初めて見たのは、彼が元々いた世界だ。ニホンという国、トウキョウという町にあるアパートと呼ばれる建物の小さな一室が彼の住み処だった。彼は真っ昼間だというのに何処に出掛けるでもなく、ただぼぅっと部屋の天井を眺めているだけだった。全く覇気の感じられないその姿に、私はいささか不安を覚え、女神様に思念を飛ばした。
『女神様、本当に彼で間違いないのでしょうか?』
『はい~。彼がこちらの世界を救ってくれる勇者様・・・になる人です~。』
女神様の呑気な間延びした思念が声となって聴こえてくる。
『・・・もしかして起こしてしまいましたか?』
『あ、いえいえ~。ちょっぴりシエスタしていただけですので~、気にしないでください~。』
私は勇者の導き手となるべく女神様に産み出された
ともあれ彼が勇者に違いないとあれば私はなす事をなすのみである。
『それでは彼をそちらへ連れて行くためにやるべきことをやりましょうか。』
世界を移動するには魂を物質的に拘束している身体の存在が邪魔となる。一度魂を身体から切り離し我々の世界へ魂を運んだ後、転生という形で全く新しい身体にその魂を定着させるという行程が、人間が世界間を移動するためには必要となる。端的に言えば、死んでもらう必要があるのだ。グッと右拳に魔力を込める。
『あぁっ!待ってください待ってください~!殺しちゃあダメですよぅ!』
女神様が慌てた様子で私を制する。
『何か問題でも?』
『問題大アリですよぅ。女神の使いである貴方が罪もない人を殺生だなんて~。生まれたての聖霊ちゃんは発想が怖いですねぇ。』
ではどうしろと言うのか。まさかこの男が自然に死ぬまで待てというのだろうか。
『少し待っていてください。じきに彼は死にます。殺すまでもなく。』
なんと、本当に待てと言われてしまった。しかしじきに死ぬとはどういうことだろうか?寿命が来るには年若いように見えるが、何かしらの病でも患っているのだろうか。
『待っている間に彼のことを少し知ってみては?ほら、これから長~い付き合いになるんですし~。』
どれだけ待てば良いのかも分からないし、他にやることもない。相も変わらずぼぅっと寝転がる彼の額に右手をかざし、意識を集中して彼の身体から情報を引き出す。
年齢の割に健康状態は良くないようだが差し当たって命の危険は無い。右手指が不自然に骨折しているが大した事はなさそうだ。視力の低下や腰部に疼痛が有るようだが、筋力等の運動能力は平均的男性より少し低いぐらいで問題ある範囲ではない。まぁ、身体は転生の際に完全に変わってしまうのだからどうでも良いといえばどうでも良いのだ。それよりも問題なのは・・・。
(精神状態が非常に不安定だ・・・。)
とても大きな心の傷を負っている。それも一度のショックで付いた傷ではなく何度も何度も汚れた針に突き刺され徐々に化膿していったような、とても深く不快な傷。一体なぜ彼はこれほどの心の傷を負ってしまったのか、私は彼に興味が沸いてきた。彼の額にかざした右手に意識を集中し、彼の魂とのリンクを試みる。彼の思考と記憶を覗き見て、この心の傷の原因を見つけるのだ。
彼の魂に接続し彼の幼少期から現在までの記憶をざっと辿る。両親からの愛情は極めて希薄。少年期から現在に至るまで友人・恋人など、他者と親密な関係を持ったことはほとんどない。学力も体力も取り立てて優れている点はなく、容姿にはコンプレックスを抱いている。マンガと呼ばれる大衆娯楽の書籍が彼の数少ない好きなものであり、そのマンガの製作者になることを目指していたようだ。
それに関して最近彼の心に深く刻み込まれた記憶がある。私はその記憶を直接覗いてみることにした。
「駄目・・・ですか?」
「ですね。これじゃあウチの雑誌には載せられませんよ。」
彼の魂とリンクした私は彼の記憶を
「なんとか、なんとかなりませんか?先日バイトもクビにされてしまって、俺にはもう、漫画しか・・・。」
「いやいや、クビになったんだったらこんなもん描く前に次のバイト探しましょうって。」
彼の懇願にヘンシュウシャは呆れた口調で答える。
「まぁ、いいや。そのへんはあなたの人生だし?自分には関係ないですから。じゃあこの漫画のダメなところ、いくつか指摘させてもらいますよ。あなたのためを思ってね。」
そう言いながらヘンシュウシャは机の上にあった紙の束をペラペラとめくり始めた。どうやらこの紙の束がマンガであるらしい。
「まずストーリーですね。どこがどうってレベルじゃなく、全体的に暗すぎる。読んでて気分沈みますよ、こんなの。人気の漫画とか読んでます?どれも基本的に明るくて爽快感があるんです。もしストーリーが暗い展開だったとしても読み味は明るい。そうじゃなきゃ読んでて苦痛になっちゃいますから。あなたの漫画は読んでて苦痛です。漫画がお手軽な娯楽だってこと忘れてません?」
ヘンシュウシャの言葉に彼は
「絵は・・・まぁ可もなく不可もなく、及第点ってところですけど。ただ作画のみの起用を検討するとかそういうレベルでは全然ないので、あらぬ期待は抱かないでくださいね。」
彼の拳がギュッと強く握られる。
「で、一番ヒドイのがキャラクターね。暗いストーリーのせいなのかもしれないけど、生きてる感じがしないんです。あのですね、価値ある作品っていうのはキャラクターが魅力的なんですよ。グッズ展開やゲームのコラボに魅力的なキャラがいると強いのはもちろんのこと、アニメ化が喜ばれるのもキャラの魅力があってこそなんです。ファンは好きなキャラがフルカラーで動いたり喋ったりするからアニメを見るんです。つまりキャラの強い作品は、稼げる作品だってことです。あなたの漫画は金にならない。」
ヘンシュウシャはそう言い切り、彼のマンガを机の上へ放った。彼は何も言わず、俯いて肩を震わせている。顔面は氷りづけにされたかのように蒼白だ。
「あなた、海へ行ったことあります?」
ヘンシュウシャの突然の質問に彼はえっ?と声を上げる。
「友人と海へ行ったこと、ありますか?山へ行ったことは?お祭りに出かけたことは?花火を見上げて感動したことは?スキーやスノーボードをやったことは?遊園地で遊んだことは?」
ヘンシュウシャは淡々と続け、彼は何も言えずにいる。
「必死で勉強したことありますか?志望校に受かって喜んで泣いたこと、もしくは落ちて悔しさで泣いたことは?部活に真剣に取り組んだことは?仲間と一緒に辛い練習に耐え抜いたことは?」
彼の体が小刻みに震えだした。しかしヘンシュウシャの問い掛けは終わらない。
「女性に告白したこと、ないしは告白されたことありますか?振られて泣いたことは?付き合えて飛び跳ねて喜んだことは?初デートで緊張しながらも手をつないだことは?腕を組んだり、キスを―――。」
「もうやめてくれ!」
バンと机を叩いて彼が立ち上がった。その目は赤く血走っている。息は荒く、
「私が今言ったような経験、無いでしょう?そういう経験の薄さが漫画にも出てしまっているんですよ。たまにいるんですよね。漫画読んでるだけで漫画が描けると思ってる人。あなたに足りないのは技術だとか知識だとか、そういうレベルのものじゃない。足りないのは人生経験だ。」
「お、俺ッ、俺のッ!人生がッ!空っぽだったていうのかッ!?無意味だったっていうのかッ!?」
彼の蒼白だった顔は今は真っ赤に紅潮し、その拳は痛ましいほどに固く握り締められていた。そんな彼に対し、ヘンシュウシャはフッと失笑した。
「違うって言うなら漫画に描いてきてくださいよ。」
プツンっ―――と記憶が途切れ、私は彼の過去から追い出された。これはつまり、彼が我を忘れたということだろう。しかしあの後何が起こったかは容易に想像がつく。あの、固く握られた右拳を、ヘンシュウシャに向けて振り下ろしたのだろう。右手指の骨折はその時のものだ。それからどのようにして彼がこの部屋に戻ってきたのかは分からない。しかし自分の指の骨が折れるほどの勢いで人を殴りつけたのだ。問題にならないはずがない。
私は右手を彼の額から離し、彼の魂とのリンクを切った。なるほど、彼のことが少し理解できた。同情すべき点は多々有れど私に言わせれば、彼はつまり世界に負けた敗北者なのだ。もとより彼は敗北者だった。なのに分不相応な望みを抱いた結果、現実を思い知らされ絶望することになった。溺れる者が、掴んだ藁を高みへと導いてくれる梯子だと勘違いしたのだ。自分という人間が、高みへ上るどころかまともに泳げてもいないことに気付けなかったのだ。ヘンシュウシャの言葉に激昂したのもつまり、その言葉が図星を射ていたからだ。彼自身が自分の人生に意味や価値を見い出せなかったのだ。何とも、惨めで哀れなものだ。
しかしこうなるとますます彼が世界を救う勇者になり得るとは思えなくなってきた。こんな平和そうな世界でまともに生きることすらできない弱者の魂に、何故世界の命運を託せるというのか。
『女神様。彼に勇者という大役が勤まるとはとても思えません。彼は、余りに弱い。』
私の意見に女神様はクスクスと笑う。
『聖霊ちゃんは真面目で真っ直ぐ過ぎますねぇ。一元的にものを見てしまうと言いますか~。彼にもとっても強いところがあるんですよぅ?そしてその強さが私たちの世界を救ってくれるんです。私の考え通りなら、ですが~。』
こんな男のどこが強いと言うのか。女神様の要領を得ない物言いに私は問いを重ねようとしたが、それに
『まぁ、その辺の話はおいおいでいいでしょう。そろそろみたいですよ?』
『そろそろ?一体何が―――?』
ふと見ると彼がおもむろに起き上がり、何やら作業を始めた。指の骨が折れているというのに、何を始めたのだろうか?虚ろな目で一心不乱に作業する彼が作り上げたのは、天井からぶら下がるひとつの輪っか。これは・・・そうだ、絞首台だ。
『女神様。彼は・・・。』
『痛ましいことですねぇ。自ら命を絶ってしまうなんて~。』
彼は椅子の上に立ち、自分の首を輪に通す。
ため息を一つつき、まっすぐ前を向く。
そして、左手の中指を真っ直ぐ立てて天を指し、虚空に向けてつぶやいた。
「大嫌いだ。」
彼は足元の椅子を蹴り飛ばした。
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