第37話 「血塗れのバット」

第三十七話 「血塗れのバット」



 3時間の作業をまた1からやり直し、同じ作業をもう一度やる場合、合計時間は倍の6時間となる。

 誰でもわかる簡単な足し算だ。

 では、一定の速度で3時間の距離を進み、そこで忘れ物に気付いてスタート地点に戻り、再び同じ道を進んで元の場所に戻った場合、時間的ロスはどのくらいになるだろうか?

 3時間のロスだろうか?いや、この場合、往復分を含めた6時間のロスとなる。

 いずれにしても、時間の浪費であることに代わりはなく、出来ればこんなミスはしたくないと思うわけだが、でも、ついついやってしまうのが人間というもので、これはどうしようもないことなのだ。


 と、そんな言い訳じみたことを考えながら、忘れ物を取りに3時間の行程を6時間かけてやり直す自分自身を慰めてみる。

 しかし、どの面を下げてガードポストに顔を出せばいいのだろうか?

 大言壮語して出発した手前、「忘れ物しちゃった!テヘ」などとは言えない。

 でも、それ以外、言いようがないので、実際にそれを実行してみたら、フィミオから残念な人を見るような憐みの表情を向けられ、預けていたバックパックを無言で渡されてしまったのである。

 この時のバツの悪さといったら、穴があったら入ってさらに土をかぶせて埋まりたい心境だった。

 やっぱりクリプトに行くのはやめた方がいいんじゃないか?と言うフィミオの老婆心からくる無言の圧力を無理やり振り払って再び往路に着いた。


「我ながらアホだなー」


 そのアホの名前はミリセント。ただのミリセントでそれ以上でもそれ以下でもない名前だけのただのアホセントである。

 いろいろあって、いよいよ冒険者の街と名高い自由都市クリプトへの旅路についた3時間後に、夢と希望と全財産が詰まったバックパックをナントの街のガードポストに忘れてくるという失態をおかしてしまう。

 これまでも災難続きだったが、これからの旅もまた前途多難を予感させる。

 しかし、だからと言って足を止める選択肢はない。この逆境をバネに再び走り出すしかないのだ。


「もう日没か……」


 オレンジ色と藍色のコントラストが美しい夕暮れ時。誰彼時(黄昏時)ともいうらしいが、確かにこの時間帯は前に人が居ても顔が分からず誰だろう?となる。

 明け方や夕暮れ時は、そうした理由で敵襲を警戒する時間帯といってもいいだろう。

 まぁ、誰かが接近してきても能力で分かるだろうし、この辺りにいるのは2回すれ違ったマカトのおっちゃんだけだろうから、そこまで慎重になる必要はないだろう。


「追いつくのは完全に夜になってからかな?」


 初老とはいえ、元冒険者のマカト・イノーエーの健脚であれば、こちらが戻った時間分だけ先に進んでいるだろうから、追い付くのはもう少し先のことになる。

 天頂に広がる闇夜のベールには、気の早い明るい星たちが瞬き始めている。そして、夕焼けのオレンジ色から始まるグラデーションは、見る見るうちに藍色に侵食されていく。

 そこには、息を飲むほどの美しい光景が広がっていた。

 その一瞬が過ぎ去ると、まるで電飾のスイッチが入ったかのように、夜空がキラキラと騒がしくなる。

 不思議なもので、つい先ほどまでのオレンジと影の二色の世界が、星の光にほんのりと照らされた幻想的な灰色の濃淡だけの世界にかわってしまう。

 月でも出ていれば、星明りとはまた違った輝くような夜景を見せてくれるに違いない。

 さわさわとざわめく麦畑に囲まれ、この世のものとは思えない景色に、一種の恐怖感すら覚える。

 元居た世界の夜は、電気の光に満たされ、こんな闇夜を体験する機会は与えられない。もし、それがあるとするならば、それは、あの震災のように大地がきれいに均された時だ。

 先ほど覚えた恐怖は、あの時の風景と重なったからかもしれない。


 エグザール地方の駅に居た頃から、星の出ている夜には決まって天体観測をしていた。

 その観測の結果、いくつかの明るい星が移動していることが判明し、この世界にも遊星(惑星)の存在が確認された。

 平面上にある世界が、丸い天体上の世界と同じ星の動きをするのは不思議でならない。実は惑星と思っていた星たちも、お天道様と同じで気まぐれに動いているだけかもしれない。

 こちらの天体図は、向こうの世界のものとは完全に別物で、見慣れた星や惑星、星座は影も形もない。

 この世界にも星図がって、星に名前があったりいろいろな星座があるのだろう。クリプトの図書館を利用できた暁には、馬車の知識以外にも、この世界の星の知識も仕入れようと思う。もちろん、それだけではなく、可能な限りの知識を土産にして帰りたいところである。


 空を見上げながら走る足を一旦止めて、早速、お宝を取り出して天測を始める。

 背筋を伸ばして大地に真っすぐ立ち、目標と決めていた星を見つけると、六分儀のテレスコープを覗く。

 天測といってもそう難しいものではない。目印になる星を決めてテレスコープを覗くだけでいい。実際の六分儀の操作を知らなくても問題なく、全ての複雑な操作はアーティファクトが勝手にやってくれる。

 この六分儀は、本物の六分儀としてももちろん使えるが、アーティファクトに分類されるように、自称『土方の力』と連動することで周辺地図の作成ができる優れものである。つまり、マッピング機能付きのアイテムというわけだ。

 既に詳細な国土地図があると思われる西カロン地方では、敢えてこれを使う意味はないだろう。航海士なるものがいれば、大枚をはたいても手に入れたい垂涎のアイテムになるのは間違いなく、それが元でとある事件に巻き込まれることになるが、それはもう少し先のことである。


 天測によって周辺の地形図を取得する。これでナントの街周辺とプラナト方面までの地図が完成する。

 ナントの街とプラナトまでは意外と近く、大人の脚でも2日もかからないそうだ。

 ただ、プラナトからクリプトまでは、その10倍以上の行程になるらしい。

 次の天測は三叉路あたりがいいかな?と大雑把に予定を立てると再び走り出す。


 最初は景色を眺めるために時々立ち止まったりしたので、走っていたのは実質2時間強といったところだろう。2回目ともなれば寄り道はせず最短最速で走ることになるので、遅れはだいぶ取り戻すことができる。

 元冒険者のマカトのおっちゃんは、軽装で歩くのがとても速かった。思ったより先に進んでいるのかもしれないが、夜は危険だということで、恐らくどこかの小屋を宿にしていると思われる。


「そろそろ追いつくかな?」


 一旦立ち止まり、広域調査の能力を発動する。

 最近、能力を使っていないせいで、使い方を忘れてしまったかと思ったが、ちゃんと使えたのでほっと胸を撫でおろした。


「どれどれ……うーん、サーチ範囲には何もないな……」


 能力を解除し、再び走り出そうとした時だった。かすかだが見覚えのある不快な臭いが鼻腔を刺激した。


「ん?この臭い……ゴブリン?」


 エグザール地方の駅が流刑地として一応機能していた頃、害獣として扱われるゴブリン駆除の手伝いをさせられていた。

 最底辺のゴブリンは吐き気をもよおすような強烈な悪臭を放っていて、駆除をするにもその臭いと不衛生さが、簡単な仕事を複雑で難しいものにしていたのを思い出す。

 ゴブリンは上位種になればなるほど、強くなると同時に、臭いがやわらいでいくそうで、冒険者が相手にする武装するような上等なゴブリンは、臭いで自分たちの位置がバレないように体臭を抑える努力をするらしい。具体的には、獣を狩ってその毛皮を羽織って獣臭で体臭をごまかすとのことである。それはそれで臭いが、ゴブリンとはバレないのだ。

 これは、駅の護衛役を務めていたカーズ・サトゥー(独身)から得た知識である。冒険者になることを勧めたのも彼で、今ここでこうして冒険者になるための旅路にいるのは、この男のせいともいえる。

 故郷に戻ったら結婚するんだ――とか盛大に死亡フラグを立たせていたが、彼の無事を遠い空の向こうから祈っておこう。


「カーズのことはおいといて……」


 広域調査にゴブリンやマカトと思しき人物の反応はなかった。

 この広域調査の能力は、簡単に言えばレーダーみたいなもので、自分を中心に360度全方位を透過することができる。どのへんに何がいるかといった大雑把な情報しか入手できないが、障害物を貫通して調べることができる。

 高速で何かが接近してくると、自動的に発動して危険をしらせる自動広域調査という超便利なパッシブ能力もある。

 能力の有効射程は今のところ半径300メートル程度だが、六分儀の望遠機能と連動させると、調査範囲が限定されるものの、射程距離を格段に伸ばすことができる。

 こういう便利なことが出来るお宝だからこそ、わざわざ取りに戻る価値があったというわけである。

 その自慢のアーティファクトを取り出し、テレスコープを覗きながら道の先を観測する。持ってて良かった六分儀!


「いた!ゴブリン多数!えっと……マカトのおっちゃんもいた!なんかやばそう!急がないと!」




 ナントの街と協同農地集積都市プラナトを結ぶ農道には、休憩に使える停留小屋が点在しているが、そのひとつを約15匹のゴブリンが取り囲んでいた。

 小さいがそれなりに頑丈に作られた小屋の分厚い木の壁を、ゴブリンたちは道端の石を拾い、それでどんどんがんがんと激しく叩きまくっている。

 その様子は、小屋を壊そうというより中にいる何者かを外に追い立てようとしているように見えた。

 遠目には、借金の取り立てをするチンピラ集団に見えなくもない。


「くそう!しくじったわい!」


 小屋の中にいる初老に差し掛かった元冒険者のマカト・イノーエーは、自身の判断ミスを呪っていた。

 元冒険者と、元を付けて呼ぶと「まだ現役じゃ!」と強がってみせるマカトであったが、ここ10年、まともな冒険者的な活動はしておらず、それが判断力の低下につながった直接の原因であることは否定できないだろう。

 昔取った杵柄というだけあって、スキルとして身につけた技能は失われていないが、老いによるステータスの低下は否めない。体力や腕力は明らかに全盛期より落ちているのだ。


 ゴブリンの放つ異臭に気づいて目を覚ましたマカトは、窓のない小屋の僅かな隙間から外の様子を伺い、それらは最弱クラスと判断した。そして、迎撃のために小屋から討って出ることにしたが、予想以上に数が多く包囲されることを嫌って小屋に戻って籠城作戦をとることにしたのだ。

 全盛期のマカトであれば、押し通していただろうし、それは間違いなく正しい判断といえた。しかし、体力的な問題を抱えているマカトは、無意識に肉弾戦を避ける戦術を選んでしまったのである。

 籠城作戦も決して間違いとはいえない。多数の敵を同時に相手にするより、細い通路や扉の前に陣取って一度に複数と交戦しない戦術は、ダンジョン攻略においては定石である。


「忌々しいゴブリン共め!」


 元冒険者のマカトの豊富な経験によると、ゴブリンは数に物を言わせて襲い掛かり、弱そうな相手なら執拗に狙う卑怯な連中という認識である。

 そんなゴブリンであれば、逃げ込んだ人間を追って小屋の入口を塞ぐドアに殺到してくるはずである。それを入口に陣取って一体ずつ倒すだけの簡単な作業になるはずだった。

 しかし、相対するゴブリンたちは、ドアの開け方すら知らない、つまりドアというものを初めて見る、下等も下等、最下等のゴブリンだったのだ。

 見れば、手には武器らしい獲物は持っておらず、その辺に落ちている石を拾って、それで壁を叩いてるだけだった。新米冒険者でもソロで余裕で勝てる相手だった。

 ここまでレベルの低いゴブリンなら、2、3匹瞬殺してみせればすぐに潰走を始めたに違いない。


「それにしても、こんなにたくさんゴブリンが湧くとは……本当にこの周辺には巡回の兵隊がいないのか……」


 冷静にゴブリンの戦力を評価して、少し落ち着きを取り戻したマカトは、この状況よりも、この状況になった周辺事情の方が気になりはじめていた。

 昼間2回すれ違ったピンク色の髪の小生意気な少女の情報によると、軍が駐留しているはずの三叉路と呼ばれる交差点の停留所は無人だったそうだ。しかし、いくらなんでも無人なわけがない。兵が巡回に出ているだけで人の姿がたまたま見えなかったのだろうと決めつけてしまっていた。

 どうやらあの少女の言にウソ偽りはなく、本当に巡回する兵すら残さず、全て東の海岸に移動させてしまっていたのだ。

 でなければ、これほどのゴブリンが湧くはずがないのだ。


「ええい!五月蠅くてかなわん!」


 いくら頑丈で、壊れる心配がない小屋でも、全方位から叩かれては中に居る人はたまったものではない。


「雑魚共相手なら外で戦う方が安全じゃわい」


 ルーキーのゴブリンなら、いくら数がいようとも恐れる必要は全くない。

 冒険者として慣らした昔を思い出したマカトは、ドアを勢いよく開いて、たまたまドアの正面にいた不運なゴブリンを吹き飛ばし、素早く前に踏み込んで胸元に剣を突き立てる。そして、左右にいたゴブリンの首を跳ね飛ばした。

 そのあまりにも鮮やかな剣さばきに、小屋を叩いているゴブリンの半数以上が、未だにマカトの出現に気付いていない。

 マカトの攻撃範囲の外にいたラッキーなゴブリンの1匹が、雄たけびを上げて周囲に危険を報せる。奇声を上げながら嬉しそうにドアを叩いていたゴブリンたちは、それを受けて一斉に小屋の前にいるマカトを取り囲もうとする。

 マカトは、背後を取られる前に手近なゴブリンに斬撃を喰らわせていく。そしてあっという間にその数を半数に減らしてしまう。


「むぅ?おかしいのう」


 普通、半数もやればとっくに尻尾を巻いて逃げる頃である。しかし、ゴブリンたちは一向に逃げる気配がない。

 ゴブリンたちの方は、初めての戦闘で何をしていいのかわからず、とりあえず目の前の人間を殺して食って腹を満たすことだけしか考えていなかった。

 武器の使い方とか、仲間と連携をとるとか、そういうものは、リーダーが指導したり、生き残った者たちが教訓として得ていくものである。

 何もかも初めてのルーキーたちは、マカトが知る最弱のゴブリンの更に下位にいるゴブリンたちだったのである。


 高度に制度化された冒険者システムにおいては、冒険者の実力に見合ったクエストを発行する形で、対戦相手と狩場を指定している状況で、実質的にそこに冒険は存在していない。

 多くの冒険者は、実際に狩場に出る前に基礎的な能力を訓練所で予め身に着けるため、完全なド素人が何もわからずそのまま狩場に出ることはまずありえない。

 マカトは、戦闘経験のない完全に無知無能のゴブリンを相手にしたことがなく、目の前の素人ゴブリンを、クリプト周辺にいる弱めのゴブリン程度と想定して戦っていたのである。


「おっと!」


 その時、何かが顔のすぐ横を通り過ぎた。

 その何かが何なのかは全く見えなかったが、投石モーションをみせたゴブリンに気付いて咄嗟に身をひるがえした結果、偶然回避が成功したのだった。

 しかし、たまたま避けることが出来た見えない攻撃に、勇敢なマカトは恐怖にも似た感覚を覚えてしまった。


 もしあれが毒ナイフだったら?それが頬をかすったら?


 ギョッとして背中に冷たいものが走った。モーションは見えたが、飛んでくる何かは黒い影となって背景に融け込み、気付いたら風を切る音だけが耳の横を通り過ぎていた。

 そして、次の投擲モーションを無意識に身体が嫌がり、その咄嗟の回避動作が、普段使わない筋肉を刺激した。


「うぐぅ!」


 腰に激痛が走る。


「ま、魔女め!こ、こんな時に……」


 いわゆるギックリ腰というやつである。

 不意の身体の痛み、特に腰の痛みを、冒険者たちは魔女の仕業と信じて疑わない。

 経験のない者はギックリ腰と聞いて笑うかもしれないが、痛みと痺れで最悪身体が動かなくなってしまう。こればかりは実際になってみないと分からないだろう。

 そんな『魔女の不意打ち』(ギックリ腰)も、戦闘中に喰らってしまえば、冗談ではなく、それはすなわち死を意味することになる。

 マカトは、半身を捻った回避ポーズのまま、彫像のように身体が動かせなくなってしまった。

 冷汗が止まらない。世界の終わりがきたような錯覚を覚え、もうあきらめて楽になりたいとも思いかけた。しかし、力を振り絞って甲高い雄たけびを上げて虚勢を張った。

 このマカトの奇異な行動と修羅の如き形相は、ゴブリンたちを驚かせるのに充分な効果があった。

 急に石造の様に固まってしまった人間をゴブリンたちは遠巻きに眺めている。やがて、ゴブリン集団の中の勇敢な1匹が、これまで小屋の壁を叩くのに使っていた石を握りなおしてマカトに向かって投げつける。

 身体にドスっと当たったが、マカトは上着の下に非常に軽くて頑丈なチェーンメイルを着込んでいたので、ほとんどダメージは受けなかった。

 石をぶつけられても微動だにしない不格好な彫像が、反撃してこないことを知って面白がって次々石を投げ始める。しかし、投石スキルゼロのゴブリンたちの命中率は低く、当たっても面積が広く、防御力の高い胴体ばかりである。

 マカトは痛みと寒気に耐えながら、このゴブリンたちが殺傷力のある武器を何一つ装備していないことを知って愕然とした。

 先ほど、戦力判定を大幅下方修正したが、それでも過大評価だったのだ。

 あの時、討って出た瞬間に有無をいわせずゴブリンを薙ぎ払っていれば、こんな事態にならなかったと後悔する。

 ゴブリンたちに決定打となる武器はないが、長年連れ添った自慢の愛剣が相手に渡れば状況は一変するだろう。

 腰の症状は改善の見込みが全くないどころか、加速度的に悪くなっている。もう立っているだけでもやっとで、このままだと気が遠くなりそうである。


「こんなところで……終わるとは……だが、ワシが死ねばセージのやつも跡を継ぐ気になるじゃろう……」


 家族の顔が過る。これはもういよいよやばいと終末を予感する。

 せめてゴブリンにやられるのではなく、自害して果てたいところだが、それも出来そうにない。

 喧嘩別れをしてしまった愛してやまない実の息子の顔が頭を過る。


「セージ、すまんな……」


 ゴブリンたちが、マカトの持つ剣に気付いて奪おうと身体にまとわりつく。

 バランスを崩したマカトの腰にさらに激痛が走った。そこで最後の力を振り絞って1匹のゴブリンの首筋に剣を叩きつけた。

 腰の入らない軽い剣の一撃を喰らったゴブリンだが、上半身裸で防ぐものがなにもないので十分致命傷になりうる。マカトの最後の攻撃をくらったゴブリンは、悲鳴を上げてのた打ち回る。それを見て1匹のゴブリンが恐慌をきたして逃げ出してしまったが、残りの数匹は逃げずにその場にとどまった。

 声にならない悲鳴と共に剣を落としてしまったマカトは、そのまま膝を折って地面に手を付いてうなだれてしまう。

 こんな状態になっても地面に倒れない根性と執念は見事としかいえなかった。

 剣を拾い上げた1匹のゴブリンが、マカトを真似をするかのように2、3回振るって、使い心地を確かめている。

 そして、他のゴブリンたちは地面に手をついて耐えているマカトを殴る蹴るで痛めつけていた。ただ、これも子供がおじいちゃんと遊んでいるようなもので、大したダメージにはならなかった。

 人間でいば5歳程度の子供程度の腕力しかないゴブリンの攻撃など、腰の痛みに比べればなんでもない。せっかく奪った剣も、使い方を理解できずに刀身を横にして尻をぺんぺん叩くだけである。

 叩かれるたびに、腰に響く痛みでうめき声をあげるマカトを見て、笑い合っているゴブリンたち。

 これは屈辱以外の何物でもなかった。


「はよ、殺さんかい!」


 と、声にならない心の叫び声を上げた時だった。


「ぅぉぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおお!」


 何かが唸り声を上げて遠くから近づいてくる。


「ドロップキィィィーーーック!」


 そして、意味不明の奇声を発する何かが物凄い勢いで飛んできて、取り囲むゴブリン集団に突っ込むと、それをまとめて吹き飛ばしてしまった。


「どうだ!って、おっちゃん、大丈夫?まだ生きてる?」


「お、お主は……」


 数時間前に聞いたあのピンクの髪の少女のよく通る声が、朦朧とした意識を現実に引き戻した。

 腰を震源とする痛みが全ての神経を蝕んだかのように全身が固まって動けないマカトは、少女の声で霞んできた意識が覚醒した。

 これは正に天の助けだ――と、最初は歓喜したが、一瞬にして現実に引き戻され落胆が大きくなる。

 兵隊ならともかく、もやしのような少女一人に何ができるのか?これではかえって犠牲者が増えるだけではないのか?

 しかし、それは杞憂に終わった。焦るマカトの耳に入ってくるのは、鈍器から奏でられる独特の鈍い打撃音と、ゴブリンたちの断末魔の悲鳴、そして、オラついた少女の声だった。




 闇夜を騒がせた、ガラの悪い少女の声と打撃音のハーモニーはすっかり鳴りを潜め、まるで何事もなかったかのように元の静寂が訪れる。


「おっちゃん、大丈夫?どこかやられた?致命傷?とどめ刺してあげようか?」


 地面に膝をつき、そのまま上体を前に倒し、両の腕で身体を支えているマカト。これは正に例のアスキーアートのような恰好で、見た感じ相当やばそうな雰囲気である。思わず瀕死の重体を疑い、調査解析でコンディションを確認したが、腰部に炎症が見られるだけで、症状だけを見ればただの軽傷にしか見えない。

 そこまで辛そうにする怪我でもないと思ったが、腰というのが問題だとすぐに気付いて慌ててそばに駆け寄った。


「おっちゃん?もしかして腰やっちゃった?」


 いくつか問診しても何も応えなかったマカトだが、腰というキーワードで反応した。これは間違いなくアレだ!ギックリ腰だ!

 見た目は美少女だが、中身はおっさんであるミリセントの中の人である中田 中(あたる)は、何度かギックリ腰をやった経験があったので、マカトの辛さは痛いほど理解できた。

 ギックリ腰はびっくり腰ともいい、その名前がギャグっぽいので、経験のない人は大したことないと思うだろうが、欧米では魔女の一撃などと言うように、致命傷でも喰らったかのような絶望感を覚えるヤバイやつなのだ。

 はっきりと覚えているだけでも2回は確実にやっている。1回目は、若い頃に部屋の模様替え中に、調子に乗って荷物を持ち上げようとした時。2回目は、この世界にくる直前のつい最近のことで記憶にも新しい。この時は、流石に年齢を感じた。何せただ普通に掃除機をかけていただけなのだから……

 そんなギックリ腰の痛さと辛さを知る身とすれば、マカトが同じ体勢のまま動けない理由が痛いほどわかる。全身を貫くようなこの痛みは、身体の自由を失うという錯覚を覚えるのだ。これがまるでこの世の終わりのような精神的なショックを植え付け、動けるのに動けないと思い込んでしまう。いや、そんな生易しいものではなく、動かしたら死ぬ!と思ってしまうのだ。

 少し安静にすればすぐに動けるようになるし、痛くても少し無理をして動かしていると直りが速い。辛いのはせいぜい2、3日程度だろう。


「身体支えるから、ゆっくりうつ伏せになって」


 マカトの頭をまたぐようにして脇に手をまわして胴体を持ち上げる。そして、つっかえ棒状態で固まっていた両腕から荷重を取り払ってやる。

 次に、そのままゆっくりと上半身を地面に下ろしていき、時間をかけて完全なうつ伏せ状態にした。

 胴体が接地した瞬間、マカトの口から大きなため息が漏れて、全身から無駄な力が抜けていくのがわかった。


「しばらく、そのまま休んでたほうがいいよ」


「すまんのぅ、本当に助かったわい」


「いいってことよ」


「お主、ゴブリン共をみな追っ払ったのか?」


 うつ伏せのまま首だけ向けて尋ねるマカト。


「うん、っていうか、あんな雑魚に負ける要素なくない?」


「……あんなに弱いゴブリンは初めてじゃったわい」


「それなのに、何で腰を?」


「何かを投げるモーションを見て、毒ナイフでも飛んでくるかと思ってしまってな……」


「なるほど、それを咄嗟に避けようとして変な体勢になったのね?」


「うむ、まったく歳は取りたくないのぅ」


 年寄扱いされると烈火の如く怒って否定するマカトだが、こんな無様を晒した後ではさすがにそんな虚勢ははれなかった。

 最初に積極的に討って出れなかった時点で、肉体以前に精神的にも老いていたのだなと思い返す。


「良かったね助かって。あんな雑魚にやられたとあっては、一生笑われそう」


 そう言ってケラケラ笑って見せると、ふん!と不満そうに鼻息をならして、その後、まったくじゃわいとつられて薄く笑うマカト。

 この時、マカトの中で何かが吹っ切れたような気がした。もう冒険者を気取るのはやめよう――と。


「ん?っと、どうやらまたおかわりが来たようね」


「まさか、またゴブリン共か?分かるのか?」


「あの嫌な臭い、間違いなくゴブリンね」


「わしの剣がその辺に落ちてるはずじゃ、使えるならそれを使うといい」


「お?剣?どこどこ?あ、あった!……うーん、ちと私には重いかな……いらない!」


 二度三度振ってみたが、この華奢な少女の筋力では重すぎてまともに振れない。これなら、たった今ゴブリンをフルボッコにした自前の木製バットの方が断然使い易い。

 この木製バットは、ご存じの通りボールを打ち返す野球のバットで、料理に使う四角いバットのことではない。

 高校まで野球を続けていたのでバットの扱いはお手の物であり、これをメイン武器とするのは当然の流れである。

 臭くて不衛生なゴブリンは、刃物で傷つけて返り血を浴びるより、殴る方が断然よい。そういう意味でバットは最適な武器というわけである。

 ちなみに、野球の存在しないこの世界では、バットはこん棒の一種という認識になるだろうと思われる。


 マカトの愛剣をゴミのようにポイっと捨てると、今度はすぐそこにある小屋に向かう。

 剣を粗末に扱ったことを叱るマカトの声を背中に受けながら、小屋の中を物色する。

 狭い小屋の中には簡易ベッドのような木製の長細い段差が奥の壁から突き出ていて、その上にとても毛布とは呼べないような麻の布が埃をかぶっているのを発見した。

 武装もしない下等なゴブリンは、弱すぎて脅威にすらならないが、奴らは奴らなりに考えて、一番弱そうな、或いは傷ついて弱っている者を優先的に狙う性質がある。

 そんなゴブリンであれば、倒れている人間を弱っていると判断して優先的に襲うはずである。

 とりあえず、見た目で弱っている人間だと分からなければいいので、この麻布で覆って見えなくしておけばマカトを危険にさらさなくて済むだろう。


「おっちゃん、ちょっと汚れてるけど、この布かぶってて」


「うわっぷ!こら!何をするんじゃ!」


 本人の了解を得ずに、そのまま布を被せて姿を見えなくする。

 身体を動かすことのできず、地面で気をつけの姿勢のマカトに、頭から布をかぶせてしまったので、外から見ればまるで死体である。

 苦情を言うマカトを尻目に、布を折って空気穴を作り、念のため護身用に彼の愛剣を拾って手元に押し込んでやる。


「ちょっと静かにしててね」


 布の中で騒いでいるマカトは、それを聞いて素直に黙る。

 アニメなどに出てくる護衛対象の民間人は、静かにと注意しても大声で騒いで味方を危険に晒すのがテンプレだが、この辺は流石元冒険者である。


 夜目の効くゴブリンは、広域調査範囲に侵入して間もなく、こちらの存在に気付いて走り寄ってきた。

 接敵するまでの時間を利用して集めておいた手ごろな小石を片方の手に収まるだけ持って迎え撃つ。

 マカトの安全を考え、こちらから接近して10メートルの距離で石をバットで撃ち放つ。


「喰らえ!」


 密集しているゴブリンの群れに、適当に打った石が見事に命中する。先頭の列にいた1匹がギャーと悲鳴を上げてうずくまり、群れがばらける。

 それを見て、手に持っていた残り3つの石を続けざまに打ちこんで、2匹のゴブリンの動きを止めることに成功した。

 その後は、各個撃破でゴブリン達を順番に撲殺していく。

 戦闘経験のない小柄なゴブリンのルーキー達は、何度も死線を潜り抜けてきた少女の敵ではなかった。

 ほんの数分で10匹のゴブリンを倒し、3匹のゴブリンを敗走させることに成功した。


「おっちゃん、終わったよー」


 布をめくって外の新鮮な外気にマカトの身体をさらしてやる。

 マカトは無言のまま目がこちらをギロリと睨んでいたが、気にせず腰をさすって機嫌を直してもらう。

 マカトは、渋々お礼を言う。その後、起き上がりたいのか、寝返りを打ちたいだけなのか、身体をゆっくり捻ろうとする。

 介護の経験はなく適切な対応をとるための知識は持ち合わせていなかったが、マカトの動きに合わせてサポートする。

 マカトは、うつ伏せ状態を嫌がり仰向けになりたいだけのようだった。

 それを手伝っていざ仰向けになると苦しそうに顔を歪める。ギックリ腰になりたてホヤホヤの時は、幹部を刺激するので仰向けは推奨しない。しかも堅い地面の上となればなおさら良くない。

 そこで、身体を横にすることを勧めて、それを手伝う。

 体勢を横にして膝を曲げる楽な姿勢になれて、マカトはようやく一息つけたようだ。


「それにしても、これほどまでにゴブリンが増えているとはな……」


「どこかに巣でもあるんじゃないの?」


 エグザールの実家から、徒歩で2、3日のところにゴブリンの巣があった。

 動物やゴブリンは、無人エリアに勝手に湧いて増えていくので、定期的に駆除しておかないと、人間の住む環境に悪影響を及ぼすようになる。城塞のない小さな集落では、獣やゴブリン除けのために、ビーストテイマーらが特別に飼いならした猛獣や魔獣を番犬として飼っているとのことである。そんな理由で、獣使いの需要はそこそこあるらしい。

 エグザールの実家をクマゴローに留守番させているが、これはどうやら正解のようである。


「そうとしか考えられん……はやく巣を探して駆除しなくてはな……」


「夜とはいえ、ゴブリンが道の真ん中を堂々と歩いてるって、かなりやばくない?」


「強力なリーダーが生まれてなければいいがのぅ……」


 カント共和国は、今でこそ国土全体が安全とされているが、ゴブリンなどの敵対勢力やその他害獣等を完全に駆逐し、安全宣言がなされたのは、たった20年前のことである。

 1匹1匹は雑魚なゴブリンでも、数を増やしそれが一定数に達すると、そこからネズミ算式に増殖し、あっという間に人間の生活圏に侵食していく。一度こうなってしまうと、完全に駆除するまで何十年も不毛な掃討戦を強いられることになる。

 西カロン地方の食糧庫でもあるカント共和国は、魔物の勢力による国土の浸食を防ぎ、農地の安全を確保する責任があり、これを怠ればあっという間に北部の中立勢力が独自に食糧確保の為に南下してくることになる。


「東にオークが来てるからって、こっちを空っぽにするのはどうかと思うけどねー」


「こんな小娘でも分かることなのに、軍の連中ときたら困ったもんじゃわい」


 小娘呼ばわりされても全く気に留める様子のない小娘は、ついでに軍の現状について尋ねてみる。


「前もって各部署に留守を通知してなかったの?」


「軍の連中は、基本的に冒険者やギルドを嫌っておるのじゃ。連携なぞ端っから考えておらん。じゃから、この件でプラナト側から国に陳情してもらおうと思ってな……」


「なるほど、その途中にゴブリンに襲われたってことね。マカトのおっちゃんが被害者なら説得力ありそう」


「そうなんじゃが、その会議が明後日なんじゃ」


 もうすぐ日付が変わるので実質明日である。


「ありゃ?んじゃ急がないとね……って、ダメじゃん!今日1日は安静にしないとだし、無理しようにもできないでしょ?」


 風邪を引いたくらいなら、なんとか頑張って歩けるだろうが、腰を痛めるとがんばろうにも頑張れないのだ。


「ああ、まずいことになった……まったく、セージの奴め、人や物を運ぶのは結構じゃが、情報も伝えなければ何にもならんじゃろて、本当に役に立ってほしい時に役にたたん!」


 何やら、愚痴を言い始めるマカト。

 セージとは、セージ・イノーエーのことで、彼はマカトの実の息子であり、銀輪隊商警備の隊長である。そして、その隊にあの変態アクィラが所属しているのだ。

 完全に忘れていたアクィラの顔を思い出して、思わず悪寒が走って身震いしてしまう。


「って、相乗りさせてもらえば良かったのに」


「最初からそれをあてにして予定を組んどったんじゃ!それが罪人の移送とかで急な輸送任務を引き受けてしまったんじゃ!」


 怒気を含んだ声で、ここにはいない息子を罵るマカト。しかし、地面に横になり膝を抱えて小さくなっている姿では何だかいじけているように見えて、まるで迫力がない。

 思わず、クスっと笑ってしまう。


「(なるほど、そういうことだったか……)」


 ほとんど牢屋の中にいたので、外でそのようなことがあったことなど全く感知できなかった。

 何にせよ、全ての元凶はリッカー・モンブランと名乗るガード・インスペクターである。

 しかし、モンブランにも言い訳があるだろう。どこかの誰かさんがナントの街にこなければ、自分もそこへ行く理由が無かったと。


「それにしても、ここにこれだけゴブリンがいるってことは、全体的にかなり増えてきてるってことだよね?」


 周囲に散らばっている死骸を見渡しながら、周辺のゴブリン事情を聞いてみる。


「やつらは群れがある程度大きくなるまでどこかに隠れとるから、増え始める兆しは分かりずらいんじゃ。ここまで大胆に街道に出てくるということは、本体がどこかに巣くって既にある程度の数に増えているじゃろう」


 マカトにとっては地元で起こっている重大な事件なので他人事ではない。

 しかし、深刻そうな面持ちで語っているマカトだが、膝を抱えて横になっている姿が台無しにしていた。


「なるほどねー(鼻ほじ)」


 しかし、こちらとしては完全に他人事で、2人の間にはだいぶ温度差があった。


「この死体どうしたもんかな?」


 エグザール地方では、ゴブリンの死体は完全焼却処分していた。こちらでは、どんな処分の仕方があるのだろうか?

 これがもしアニメやゲームであれば、消滅エフェクトと共に霧散し、魔石とかお金、アイテムがドロップするところだろう。


「そいつらにカルマはないじゃろ?だったら、すぐに消えてなくなる」


「え?そうなの?」


「カルマを持たない死骸はマナに還元されるんじゃ」


 マナが枯渇している地元エグザール地方は、ゴブリンに限らず死体は消えて無くなることはない。

 シカなどの動物の死骸は他の生き物の糧になるが、ゴブリンは悪臭と病原菌の発生源になるので、必ず焼却処分をしていた。

 マナのある西カロン地方では、マナが分解者の役割をしてくれるらしく、これはとても良いことである。

 しかし、そこで一つ気になった。では、カルマがある人間などの死体はどうなるのだろうかと。


「そうなんだ……じゃー、カルマがある死骸はどうなるの?」


 率直に聞いてみた。


「長時間放置すればただのゾンビになるだけじゃ。何じゃ?そんなことも知らんのか?」


「あっ!なるほど!」


 手をポンと叩く。

 ゾンビというのは、男ゾンビと女ゾンビが愛し合い結婚して子供ゾンビが生まれて繁殖するわけではない。ゾンビというのは元になる生き物がいて初めて成立するのだ。

 考えてみれば当たり前のことで、我ながらバカな質問をしたものである。


 カルマの無い生き物というのは、ゲームでいえば倒しても一定時間でリポップする敵や、予め決められた思考ルーチンで動くNPC(ノンプレーヤーキャラクター)といえる。ようするに『中に誰もいない』或いは『魂が入っていない』モブキャラクターというわけだ。

 そういえば、エグザールの実家に置いてきたクマゴローや、勝手に住み着いた5頭の巨馬、さらに山向こうに住むピューマや大鷲などにもカルマがあり、当然ながらスパルタン(宇宙人)たちにもカルマがあった。一方、シカやゴブリン、そしてスパルタンの素であるミニオンたちにはカルマはなかった。


 この世界に住む者は、最初からカルマの有無が決まっているのかというと、実はそんな単純なものでもないらしい。

 物にも魂が宿ると云われるように、カルマのないゴブリンも生き残って生存し続けると、やがてカルマを宿すようになるというのだ。

 ゴブリンも含めたモンスターと呼ばれる敵性モブは、経験を積むと『カルマ持ち』に昇格し、そこからさらに上位種族に進化する可能性がある。

 死線を潜り抜けた歴戦のゴブリンが、リーダー的な存在として群れを率いるようになると、その群は一気に強化され、軍隊へと変貌を遂げる。

 主に冒険者が相手にしているガスビン鉱山周辺のゴブリンは、どこかに隠れ住むリーダー率いる強い群れから派遣された勢力拡大の任を負った尖兵たちである。それらは、まだまだカルマを宿すレベルに達していない雑魚ではあるが、それなりに戦い方は知っている立派な兵隊なのである。

 ガスビン鉱山周辺と街道に現れたゴブリンの違いは、まだリーダーが誕生していないということで、早めに駆除しなければ、いずれリーダーが生まれ、やがて街道がガスビン鉱山化してしまうことになる。


 その後、ゴブリンの襲撃はなく夜明けが近づいてきていた。

 散乱していたゴブリンの死骸はいつのまにか中空に溶けて無くなり、代わりに豆粒状のマナを含んだ石ころのような残滓が残った。

 この残滓は、ゴブリン討伐の証として冒険者ギルドで換金することができるとのことだ。しかし、この弱すぎるゴブリンのマナ残滓は、強さに比例するのか小さすぎて換金は難しく、しばらくするとその残滓も霧散してきれいさっぱり無くなってしまった。

 この見た目ウサギのフンのようなマナの残滓は、放っておくとすぐに消えて無くなってしまうため専用の保管袋で管理する必要がった。

 この保管袋は、冒険者になれば無料で支給される。冒険者免許証を返還していないマカトは、一応まだ持ってはいるのだが、必要ないので携帯していなかった。


 一面麦畑の地平線が白み始める。

 マカトのギックリ腰は、発症からまだ半日も経っておらず、未だに腰の痛みで辛そうな顔をしていた。

 大人2人くらいで介助できれば簡単だっただろうが、貧弱な少女1人の力では、彼を小屋まで運ぶことは到底不可能である。

 道の真ん中で膝を折って横向きに寝ているマカトの寝返りのタイミングで、小屋にあった残りの麻布を全て持ち出してきて地面に敷いてやった。

 そして、痛みで眠れないマカトの話し相手になって夜を明かしてしまったが、ここで得たクリプトや冒険者ギルドの情報はとても勉強になった。


 ゴブリンとの戦闘前に再構成して装備した木製バットは、忘れ物の一つと誤魔化しておいた。能力を使えば自在に出し入れできるのだが、冒険者でもないのにそれをやると怪しまれるので、バットは資源に還元せずそのままにしておく。

 合計20匹くらいのゴブリンを撲殺し、さらに10回くらい石ころを打ったので、バットは血まみれ&デコボコになってしまい、何やら曰くつきのバットに生まれ変わってしまった。差し詰め殺人バットとか呪いのバットといった様相である。

 普通に野球がやりたくて作ったボールやバットなので、このような使い方は不本意であると言わざるを得ない。まぁ、これも人助け、背に腹はかえられない。これは名誉の負傷、いや勲章なのだ!


 特徴的な打撃スタイルを持つプロ野球選手の動作の真似をしながら、そう自分に言い聞かせた時である。


「ん?」


 急に、自動広域調査が発動したのだ。

 この自動広域調査は、急接近する運動エネルギーを感知して自動的に発動する広域調査で、かなりのスピードで何者かが接近していることを示していた。


「馬2頭が接近してくる!」


「む?どこからじゃ?」


「これから向かう三叉路の方かな?方角的には北東?」


「巡回の兵か?」


「さぁ?でも、このスピード、ギャロップできてる」


「早馬か?」


 北東の方角は、膝を曲げて横に寝ているマカトからは死角で、見えない後ろが気になってモジモジしている。かわいい。

 仰向けにさせてくれというマカトの頼みを聞いて、麻布の掛布団をめくって体勢変更の介助をしてやる。

 マカトは首を曲げて農道の先に目をやった。

 今日はお天道様が律義に東から昇るつもりなのか、朝焼けが燃えはじめていた。


「誰だろ?」


 血まみれの殺人バットを担ぎ、トントンと肩を叩いて一応警戒態勢をとる。

 馬を押して接近してきた2人は、こちらの存在に気付いて一旦スピードを落とす。

 東の空が明るくなり、逆光気味で非常に見ずらい。

 夕暮れの誰彼時に対し、明け方は彼誰時(かはたれどき)ともいう。双方とも人の見分けがつきにくい時刻を指す言葉どおり、馬上の2人が誰か判別することはできなかったし、調査解析をするには遠すぎた。

 互いの距離が50メートルを切ったあたりで、「ミリさん!」と聞き慣れたくない声が聞こえ、思わずゾッとした。


「げえぇ!!アクィラ!!!」


 赤壁から脱兎のごとく敗走する魏軍の前に現れた、今絶対戦いたくない相手、そして絶対敵わない相手である関羽と出会ってしまった曹操の気持ちが、ちょうどこんな感じだったに違いない。

 しかも、隣にいる張飛――ではなく、何となく見覚えのあるようなないような男が、馬を蹴って猛然と迫ってくる。さらに、弓を構えて明らかにこちらを狙っている。


「は?どういうこと?私何かまずいことした?……はっ!」


 思わず身構えた瞬間、手に持っている木製バットが視界に入り、それを二度見した。

 倒れる老人、血まみれの凶器(バット)――そこから連想するものは……


「隊長、待ってください!早まらないで!」


 アクィラが慌てて隊長と呼ぶ男を制する。

 そうか、あれはセージ・イノーエー。銀輪隊商警備の隊長にしてアクィラの上司、そして、マカト・イノーエーの実の息子!

 これは何というタイミングの悪さだろうか。


「ちょっと待って!私じゃないってば!」


「親父から離れろ!うす汚い殺人鬼め!」


 マカトを撲殺したと完全に勘違いしているセージは、激昂で我を忘れているようだ。見えない憤怒のオーラを纏ったセージは、有無を言わせず弓を放った。


 飛んでくる矢を対象に調査解析の能力を発動する。すると脳がフル回転し、高速で情報を処理できるようになった。こうなると周囲の動きが相対的に遅く見えるようになり、スローモーションの世界で自分だけが自由に動けるようになる。

 この状態であれば、矢を避けるのは簡単だ。ただ、スパルタンたちに鍛えられた今の自分なら、能力を使わなくても余裕で避けられる自信はあった。ただ、思考する時間が欲しかったので、敢えて能力を使ったのである。


 どうしてこうなってしまうのだろうか?

 このカルマが、周囲をそのような目にさせるのだろうか?

 或いは、自分は本当に悪党なのだろうか?

 セージの目から見るこちらの印象は、最初から良いものではなかったのだろう。

 しかし、だとしても、この状況を見て事実確認もせずいきなり攻撃を仕掛けてくるのは普通ではない。これは恐らく、私は人間ではなく、ゴブリンと同じ敵に見えているからなのだろう。


「(この世界では私は人間の敵扱いなのか……)」


 薄々気づいていたが、今それを確信した。

 これから先も、恐らくこうした誤解をされ続けるに違いない。


「ま、いっか」


 まぁ、しようがない。こうなってしまうのは、中田 中(あたる)自身の普段の行いの悪さのせいであり、言うなれば因果応報なのだ。

 とりあえずマカトのおっちゃんの安全は確保されたし、これで自分は用済みということで、後はいつものように逃げるだけである。


 そうと決まれば話ははやい。

 しかし、ここでセージの背後にいたアクィラが折りたたんでいた大弓を展開して間髪入れずに矢を放ってきた。


 アクィラよ、結局お前もそうなのか……


 慧眼の天賦がどうのと言っていたが、結局最後は本性を現したのだ。

 セージに矢を射かけられるより、何故かショックが大きかった。


「え?」


 その時、信じられないものを見てしまった。

 アクィラの大弓から放たれた矢は、凄まじいスピードで飛翔し、何と先に放ったセージの矢を追い抜き、さらに風圧でその矢を叩き飛ばしてしまったのである。

 軌道をそらされたセージの矢は明後日の方に飛んでいく。


「うそぉーん!」


 ありえない!物理的に起こりえない!いや、もしかしたら魔法とかスキルとかそういうものか?

 とにかく、信じられないものを間近で見てしまった。

 能力発動中は、周囲の状況がスローモーションになるのに、アクィラの放った矢は、高速で横を通り抜けていったのだ。最初からこちらを狙っていなかった矢が、それて外れるのが確定しているのを知っているのにもかかわらず、思わず見入ってその軌道を目で追ってしまった。


「うそだろ……」


 見送った矢から振り向いて、また信じられないと口にしてしまう。


 一方、矢が外れた、というよりアクィラによって外されたことに気が向く余裕もなく、馬上で抜刀したセージは、激昂状態のまま突っ込んでくる。

 マカトは、大声でセージを止めようと何かを叫んでいる。しかし、セージの耳には入らない。


「ふむ、ここまでね」


 セージの攻撃を難なくかわし、そのまま彼らが来た方向に向かって駆け出す。

 その横を走り去るまで何故か放心状態で無防備のアクィラ。そんなこと当然気に留めもせず、行きつけの駄賃代わりに「あばよ!」の捨て台詞を置いていく。そのセリフを受けてようやく我に返ったアクィラは、待ってと叫ぶ。だが、待てと言って待つアホはいない。

 逃してなるものかと、慌てて馬を返したアクィラだが、昇り始めた陽の閃光に目がくらみ、思わず顔を背けてしまう。弓を持った左手で陽光を遮った時には、敬愛する少女の姿はどこにもいなかった。


「……ミリさん、失明の矢を目視していた……そんなの絶対にありえないのに」


 失明の矢とは、人の目では認識できないほど早く飛ぶ弓術スキルで、威力はほぼないに等しいが、風圧による牽制や防御に使われる支援用の弓術スキルである。自分で撃った矢なのに目視できないので、こんな名前が付けられてしまったのだ。

 ミリセントはその誰も見ることのできない矢を見ていたのである。常人には到底不可能な芸当なのだ。


「すごい!すごい!くぅー、やっぱり私の目には狂いは無かったのですー!絶対にゲットするのですー!」


 背後で何やら騒いでいるマカトたちを尻目に、興奮気味のアクィラは少女の消えた東の空に向かって、何やら意味不明な決意を表明していたのだった。

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