第35話 「父と息子」
第三十五話 「父と息子」
「なんてこった!」
その実りの一粒を黄金に例えられる見渡す限りの小麦畑の一本道を、全力疾走で駆け抜ける少女が1人。何やら慌てているようだが、一体何をそんなに急ぐ必要があるのだろうか?
彼女の名前はミリセント。ただのミリセントであって、それ以上でもそれ以下でもないただのミリセントである。
無限の体力を誇る野生児ミリセントは、全力で走り続けても全く息が上がらないという特異体質?の持ち主である。
いくら息が上がらないからといっても、長時間全力で走り続ければ、いい加減飽きてしまって途中で走るのをやめてしまうのでは?と、疑問に思う人も多いだろう。
長時間全力疾走できる人間など、恐らくこの世のどこにも存在していないのだから、そう思うのも無理はない。
確かに最初はナチュラルに無理だとそう思っていた。何時間も走るなんてめんどくさい――と。
しかし、100メートル走の様に風を切って、風をまとって走る疾走感というものは、マラソンやジョギングのような経済速度では得られない爽快感がある。
しかも、この身体はかなり運動神経が良く、足もずば抜けて速く、中の人の身体の重いメタボ体型の全速力とは比較にならない。100メートル10秒を余裕で切っているのではないかと思うほどだ。
目に見えない大気の壁が前に進むことを拒んでくる。しかし、それを突き破って景色ごと砕いて背後に吹き飛ばしていく。その砕けた大気が背後から追いかけてくるが、それを振り切って置き去りにする。
あまりのスピードに視野角が狭まり、見えないはずの集中線がはっきりと見える。
まるでマンガやアニメの主人公にでもなったかのようで、走るだけなのにテンションが爆上げになる。ゲームで操作キャラをダッシュさせた時のエフェクトが感覚的に近いだろう。ただ、ゲームはあくまで資格的な効果だけだが、これは身体全体で味わえる。一度体験したらやめられなくなる凄まじい中毒性だ。
こういったハイテンション状態を引き起こす脳内麻薬は、エンドルフィンやアドレナリン、ドーパミンなど小難しい名前がつけられており、日本ではこれをまとめて脳汁と誰かが名付けた。
この脳汁が大量に溢れて引き起こされるのが、所謂ランナーズハイというやつで、この状態になったが最後、走ることに幸福感を覚え始め、やめることが出来なくなってしまうのだ。
30年以上も昔の話をしよう。野球少年だったミリセントの中の人である中田 中(あたる)は、運動全般得意だったが、マラソンが大の苦手だった。持久走大会なるものが何故この世に存在するのか全く意味不明で許せなかった。
しかし、そんなマラソンを好きな奴がいた。小学校の休み時間になると、ドッヂボールなどで遊ぶクラスメイトを尻目に、校庭の200メートルトラックを黙々と走り続ける頭の可笑しいヤツ(当時は真面目にそう思っていた)が必ず2、3人いた。当時、彼らが何を考えてただひたすら走っているのか全く理解できなかった。
しかし、この身体になって、全力で長く走れるようになって、何となく彼らの気持ちが理解できた。
何故走るのか?それは単純明快、気持ちが良いからだ。
「やっちまった……」
そんな快感を覚えてしまった全力長距離走だったが、今はだいぶ焦っていて、せっかくの脳汁が全て引っ込んでしまい、快感を味わっている余裕がない。
こうなると、気持ち良さよりも不快感が勝り、疲れていないのに疲労感が身体を蝕んでくる。
「あ、マカトのおっちゃんだ!おーい!」
来た道をひーひー言いながら全力で戻っていると、途中で追い抜いた中年を通り越して初老に片足が入りかけたマカト・イノーエーの姿を狭い視界の中に捉えた。
「こら!ちょっと待たんか!」
手を振って横を走り抜けようとしたが、強い意思に満ちた強制力のある声に呼び止められ、思わず急停止させられてしまった。
アニメの様に地面をズザーっと踵を使ってブレーキを掛けようとしたが、失敗してそのままお尻と背中をついてスライディングしてしまう。
「あたたたた……失敗、失敗」
道の真ん中で大の字に寝転んだ状態から、首を支点に背筋だけでピョンと跳び上がり、服をパタパタ掃いながら呼び止めた声の主のそばに歩み寄る。
「何しとるんじゃ」
「マカトのおっちゃんこそ、こんなところをちんたら歩いていて目的地に着くの?」
マカト・イノーエーは、銀輪隊商警備の隊長、セージ・イノーエーの父親である。
彼と出会ったのは2時間ほど前だろうか?冒険者ギルドの本部があるクリプトに向かう道中、追い抜いた際に呼び止められ、少し立ち話をしたのだ。
最初、セージの父親と言われたが、肝心のセージが誰なのか分からなかった。銀輪隊商警備の隊長ということはアクィラの上司であり、牢屋の前に並んでいた野次馬の列の中に見慣れない男性がいたが、それがセージだったのかな?と思い至ったわけである。
その後、変態アクィラの事件の裏で起こっていた親子喧嘩の愚痴を無理やり聞かされたわけだが、器が小さい親父だなと言ってやったら、マカトのおっちゃんも思うところがあったのかそこで話は終わった。
マカトは、元、いや自称現役の冒険者でありしかも農場経営者である。今は農場経営がメインで、農業のみならず商工会など様々な組織から請われて重役を歴任し、今回も会合か何かで協同農地集積都市プラナトに赴く途中とのことだった。
こちらのカルマを見て片方の眉を少し動かす程度だったのは、彼がカント共和国出身だからだろう。それでこちらも興味を示して少しの間、歩調を合わせて話をしていたのである。
小童のくせになんという禍々しいカルマをしとるんじゃ!と何故か怒られてしまったが、カルマで人を判断する連中のカルマこそ問題がある!と、嘘八百で返したらガハハと笑われ、何故か気に入られてしまったというわけである。
「明日に着けばいいから、これでいいんじゃ!それより、どのあたりから引き返してきた?三叉路あたりまではもう行ったのか?」
「三叉路?あー、別の大きな道と繋がる駅みたいなとこ?」
「そうじゃ、そのあたりの様子はどうなっておった?」
「それを確かめようとして望遠鏡(六分儀)を取り出そうとして、バックパックを開けようとしたら……まー、なんていうか……その」
「バックパック?そんなもの背負っとらんじゃろ……って、お主、まさかバックパックをカント要塞に忘れて、それを取りに戻ろうとしとったのか?」
「そのとおり!」
胸を張ってⅤサインを決める。完全にやらかしてしまったので、ここはもう潔く開き直るしかない。
「うははははは!こりゃー傑作じゃわい!」
虫歯でも我慢しているような、常に不機嫌そうな顔のオヤジが、本当に心の底から愉快そうに笑い出す。旅行に行くのに荷物を忘れるバカはいないだろう?いや、目の前にいたのだ。笑われて当然なので全くもって反論のしようがない。
笑われて傷つくような自尊心など最初から持ち合わせていなかったので、つられて一緒になって笑ってしまう。
「うははははは」
道のど真ん中でマカトと一緒に彼の笑い方を真似る。自身の馬鹿さ加減に本当に笑うしかない話である。
ガードポストに戻るつもりで冒険者ギルドに向かったはいいが、皆がクリプトに行くのは危険だ、危険だ、と言うものだから、ついムキになって何が何でもクリプトに行く!と、息巻いてそのまま取る物もとらずに、勢いだけでナントの街を出発してしまったのである。
最初は、プンスコしながら歩いていたが、そのうち無性に走りたくなって、そしてテンション上がって、大事なことを全部頭から吹き飛ばして全力で走って今に至るというわけである。
「いやー、ここ30年で一番笑ったわい」
腹筋を押さえつつ涙を指でぬぐいながらホントかウソか分からないことを言うマカト。いくら何でも30年はないだろう。
「私も、自分がこんなにマヌケだとは思わなかったわー、ホント参った!」
「ふん、これはクリプトには行くなという虫の知らせじゃ。悪いことは言わん。カント要塞に戻っておけ」
「はいはい、それはもう聞いたわ。で、その三叉路って何なの?重要な場所?」
「そこを東に進めばアリアドとクリプトを結ぶ街道とぶつかる。プラナト経由で行くよりそっちの方が近道じゃ」
「へー」
「そんなことも知らずにクリプトに行こうとしてたのか?」
「そーだよ」
「まったく、旅をなめていると足元をすくわれるぞ?」
「はいはい、その話はいいってば」
こちらは誰よりも危険な旅を経験してきたのだ。道のある土地を歩くなど旅のうちにはいらない。ただ、それを言っても信じてもらえないし、説明するつもりも最初からないので丁重に聞き流すだけである。
「で、三叉路に軍は駐留しとったか?」
「軍?遠目から見る限り誰もいなかったかな?そういえば、途中に小屋が何個かあったけど、あれって何?」
「そうか、軍はおらんのか……そうなると、この辺の夜道は危険じゃな……」
こちの質問には答えず何やら独り言をつぶやいたあと、道端の小屋は簡易宿泊施設で、無料で利用できることを教えてくれた。夜間は危険なので、徒歩で移動する者にとっては非常にありがたいサービスである。
各街を繋ぐ街道には、大規模な隊商が余裕をもってすれ違うことができる石畳で舗装された広い主要道路と、小さな集落や農場を結ぶ農道に大きく分けられる。
ナントの街はカント共和国の中では田舎の部類に入り、周辺の治安維持を担当する方面軍の本拠地という認識で、隊商が頻繁に行き来する商業都市には数えられていない。そのためか、ナントの周辺の道は商業用に整備されていないのが現状である。
人の手の入らない場所というのは、ゴブリンや野生生物などの跋扈を許す温床になる。つまり治安が悪いということで、こうした避難所として使える小屋を道中に置いて旅の安全の担保に使われるのだ。もちろん、それは気休め程度で、無いよりあったほうが良いというレベルだが……
マカトの言う三叉路とは、プラナトとアリアドを結ぶ街道と、今進んでいるナントからプラナトに向かう農道が接続する交差点のことである。
物流の観点から見れば、アリアド、プラナト間を結ぶ街道が本道で、今立っているこの道は言わば支道である。
プラナトは小麦を主とした農産物の集積所、つまり、巨大な卸売り市場であり、物流拠点ともいえるので、当然ながら買付業者や運輸業者が一斉に集まることになる。
カント共和国北部の国境線に隣接する中立都市群への物資輸送は、ダーヌ川から伸びる運河を利用した河川舟運で行われ、陸路による大規模な輸送は行わない。
中立都市国家は必ずしも友好関係になっておらず、食糧の供給は義務的に行われているだけで、国境自体は事実上閉鎖されているのが現状である。
400年前の戦争でご先祖様のヴァイセント・ヴィールダーが、城塞を消し去り、さらに兵士の装備まで奪い去って10万の兵を無力化させたのがここプラナトである。ちなみに戦後、元に戻されたので当時のまま城壁は今でも存在している。
ヴァイセント・ヴィールダーが行使した城壁を消して再びもとに戻すという力は、ミリセントが持つ『土方の力』(勝手に命名した)と全く同じである。そして、そのあり得ない現実が起こってしまったことで、そこから様々な憶測を呼んだ。
城塞が一夜にして消えて、そして一夜にして元に戻ったなどという現実的ではない話に尾びれがつくのはやむを得ない話である。だからこそ、プロパガンダが成功し、ミリセントの先祖は大罪人という汚名が今でも呪いの様に続いているというわけである。
「オークが上陸してるんだっけ?それで軍がみんな東に移動したんでしょ?カント要塞も空っぽだったし」
軍がいないことを気に掛け、元々険しい顔がさらに深くなっていくマカトに、ナントで仕入れた情報を元にしたにわか知識で軍隊のいない現状の考察を披露してみる。まぁ、釈迦に説法だろうが、そこから話が広がって新たな情報を引き出せるかもしれない。バカを演じるわけではないが、実際問題この世界の知識が無さ過ぎて、完全におバカさんな状態なのである。マカトは、ナント周辺の各組織の理事などを歴任しているということなので、フィミオなどでは到底知りえない情報を持っているかもしれない。
マカトがカント要塞という言葉に反応してギロリと一瞬睨む。ナントの街をカント要塞と呼ぶのは地元民だけなので、何か訝しく思ったのだろう。これまで、ずっと余所者と思っていたマカトは、ここにきて急にこの頭の悪そうな少女の出身が気になりだした。
「お主、どこの出じゃ?」
「え?エグザール地方だけど?」
「何?あそこに人が住んでおったのか?」
エグザール地方は、マナの枯渇地帯として名前だけは超有名だが、その内情を知る者はほとんど存在しない。マナが無い=人間は存在できない――などと思い込んでいる今現在の西カロン地方の人間にとっては、エグザール地方とは、人が住めない不毛な禁忌の土地という印象を持つ者が多い。
そこが流刑地だったという歴史的事実を知る者であればその限りではないが、つまりマカトはただの頑固おやじではなく、知的な頑固おやじというわけである。
「つい最近までね。10人もいなかったけど。でも、完全に撤退することになって、しょーがないからこっちに出てきたってわけよ」
「あそこは流刑地だったな……なるほど、そういうことか。お主は罪人の子孫というわけか?」
「うん、そーだよ」
罪人というネガティブな印象とは程遠いまるで他人事のような気のない返事をしてみせる。実際、このカルマは自分の責任ではないので、本当に他人事である。
「お主のご先祖は、どんな大罪人だったのか……まぁ、ワシには関係ないがな」
これまでとは違い、ほんの少しだけ同情の念を向けるマカト。
ナントの街の衛士長やフィミオにはヴァイセント・ヴィールダーの子孫だということは他言しないほうがよいと言われていたので、それ以上のことは知らないふりをすることにした。
「さてと、そろそろ行きますか。それじゃーまたねー!」
いつまでも立ち話をしているわけにもいかず、このあたりで話を区切って別れの挨拶をする。忘れ物を取りに戻ったらまた同じ道を進むことになるので、すぐに再会するだろう。
「今から行って戻ってきたら夕刻じゃろ?」
「へーき!へーき!昼も夜も関係ないからー」
「暗くなればゴブリンどもが……って、もうあんなところに……」
ぴゅーっとその場からいなくなって、あっという間に小さくなる少女の豆粒のような背中を見送るマカト。
やれやれと小言のようにつぶやいて、目的地を目指し再び歩き出す。他人の心配をしている場合ではない。陽が沈む前にどこかの小屋を探して寝床を確保しなければならない。
軍の巡回が滞っている現状では、夜間の移動は危険である。野外で、しかも1人で野宿など完全に自殺行為である。
「日没までに三叉路までは無理そうじゃな……どこか適当な小屋をまず見つけるか」
登山における山小屋のように、避難所や宿泊施設として利用できる粗末な小屋が街道のあちこちに点在している。治安が悪くなればそれらの小屋はゴブリンに破壊されたり、占拠され連中の巣になってしまう恐れがある。しかし、今はまだそこまで治安は悪化していないので問題はないだろう。ただ、この状態があと半年も続けば、たちまち治安が悪くなってゴブリンも強くなっていき、治安の回復が困難になっていくに違いない。
今回の会合では、定例事案以外に、一定数の治安維持部隊を駐留させるべきという請願を国に出すための意見調整をしなければならないだろう。課題は山積していくばかりで頭が痛い。
先ほど三叉路手前から戻ってきたピンクの髪の少女の話では、警備兵の姿は見えなかったとのことである。全くいないわけではないだろうが、遠目に見て分からないほど減っているのは間違いないらしい。
三叉路で足になるものを調達できる確証があれば、もっとのんびりできるのだが、それを当てにはしないほうがいい。
いずれにしても、ゴブリンの気配はまだないようなので、このまま予定通り進んでも恐らく何も問題はないだろう。
しかし、マカトの勘は大丈夫だと判断しているが、ベテラン冒険者の経験がそれに警鐘を鳴らしている。ここは安全重視で夜間行動は避けるべきだろう。
「少し脚を速めるか」
何度も通った道なので、小屋の位置は全て把握している。どの小屋を目指すかで歩みは変わる。活動限界時間を夜の8時と決め、その時間で着ける小屋をピックアップする。
「ふむ、あそこがちょうどいいだろうな」
ちょうど良い時間に着ける小屋の目星がついた。かなりボロ小屋だが野宿よりだいぶマシに違いない。
そうと決まれば、明るいうちに出来るだけ距離を稼いでおくのが得策である。
「まだまだ、若い者には負けんわい!」
今朝方、ユーサーとショジーに年寄り扱いされたことを未だに根に持っていたマカトは、冒険と農作業で鍛え上げたこの自慢の脚の見せ場だと意気込んだ。
マカト・イノーエーは、一見すると作業服に身を包んだどこから見ても農業従事者の姿だが、冒険者として大成し一代で財を成しただけあって大金を持っていた。服の下に着込んでいる超軽量で布地の様にきめ細かい鎖帷子は一級品であり、装備の質は駆け出しの亡命者たちなど足元にも及ばない。
腰に帯びた幅広だが短めの体格に合わせたオーダーメイドの専用剣。安全靴に長ズボンの脛にゲートルを巻いている姿、これがマカトの旅装ではなく普段着である。
ゴブリン相手であれば10匹以上の群れでも簡単に追い払うことができるCランクの冒険者の実力は伊達ではない。
しかし、年齢を重ねたことで能力は全盛期より劣っているのは確かで、そこが彼の唯一の心配事である。普段、年寄扱いされるのが嫌で息巻いているが、その自信過剰な威勢の良さが足元をすくいかねないと、息子のセージは常々心配していた。
そして、その心配事が的中してしまうのである。
一方、そのマカト・イノーエーを心配する息子のセージ・イノーエーと彼が隊長を務める銀輪隊商警備は今、アリアド港湾都市にいた。
アリアド港湾都市は、港を形成する港湾施設の大半を南方の島国『カナーラント』が保有している。つまり、この港湾都市の主要部分のほとんどがカナーラントの領地ということになる。
現状このような治外法権が認められているのは、カント共和国特産の小麦を鉱物資源と高レートで交換できているからである。また、国内の情報、造船や航海技術など一切合切を非公開としている。
カナーラントは、西カロン地方の南部に位置する小さな島国で、島の大半が鉄鉱石など鉱物資源が豊富な反面、農地の少なさ故に慢性的な食糧不足に悩まされている状況である。
食糧を輸入に頼り、鉱物資源をその代金替わりとして交換しているので外貨が稼げずに、国はなかなか豊かになれなかった。
一大小麦産地を見つけたカナーラントとしては、カント共和国と不利なレートで取引したとしても、無限ともいえる鉱石を食糧と交換ではなく、売ることによる外貨獲得が重要だと判断した。
そこで、カント共和国がカナーラントの介さず独自に交易を行わないように、ただ同然で鉱石を小麦と交換し、その対価として港全体に治外法権を認めさせたというわけである。
ちなみに、ガスビン鉱山の復興がなされない理由が、鉱物資源が格安で流通するようになったからである。そして、この港に狙いをつけ、さらに外洋進出を目論んでいるのが、東カロン地方からやってきた冒険者ギルドである。
現在、アリアド港湾都市カナーラント領地側に入れる条件は、キシリア半島にある陸の孤島である刑務所への物資の補給や、罪人を移送する時だけである。
この港湾都市アリアドは、元々キシリア半島から続く長大で複雑なリアス式海岸の中にある大きな入江が始まりで、内陸側からでは切り立った崖下にあるため発見が困難であり、文字通り陸の孤島だった。
カント共和国の南岸はこうした切り立った複雑な海岸線のために、大きな港を作るのが困難で、そのために外洋進出が不可能だったという歴史がある。
その入り江にカナーラントの交易船が遭難して流れ着いた。
最初は、無人島か何かだと思い込んでいた船員たちは、入り江を拠点として前面の崖を登って、島の調査を始めようとした。しかし、そこに驚くべきものを見たのである。
はるか彼方まで広がる黄金色の平原。そう、無限とも思える広大な小麦畑だったのである。
カナーラントの交易船の船員たちは、地図にも伝承にもない未知の新大陸を発見してしまったというわけである。
船員改め開拓者となった彼らは、しばらくの間入り江の存在を隠して周辺を調査し、この地が良質の小麦の産地であるカント共和国であることを知る。
既に魔法インフラが始まっていた西カロン地方の未知の魔法技術の存在を知ったカナーラント側は、彼らと争うのは得策ではないと判断し、交易で小麦市場を制そうと画策する。
徹底的な情報隠蔽で、魔法技術の発達した西カロン側の人員を外洋に出さないように努め、他国に安く買い叩かれていた豊富な鉱物資源を小麦という名の黄金に換え、慢性的な食糧不足を解決しつつ、余剰の良質の小麦を転売。さらに、鉱石を西カロン地方に輸出するために、他国への輸出を絞った。これによって鉱石が高騰して外貨を稼ぐことが可能となる。そして、それを元手にたくさんの技術者を招致して自国産業を発展させたのである。
「相変わらずガードが堅いな……」
虹ノ義勇団のメンバーが港湾を見られないように覆い隠す高い塀に辟易した様子でブーたれている。ここまで完璧な秘密主義だと暴いてみたくなるのが人情というものである。
アリアドには、ナントに行く前に寄っているので、最初ほどの感動はなかったが、たくさんの隊商が出入りする街なので、日によって見える景色がかわってくる。
港湾部を見下ろせそうな場所は封鎖され、崖の下に本当に港があるのか信じられないほどだ。しかし、海の見える場所からは遠くに大きな船が見えることがあるので、おとぎ話の類ではないらしい。
アリアドのカント共和国領側には巨大な3基のクレーンがあり、ちょうど今荷下ろし作業をしていた。
物資は倉庫に保管し、開閉式の倉庫の屋根からクレーンで吊り上げて落差15メートルの崖下に下ろしていく。軽量化と保護の魔法で、小気味良く作業が進むので、重量物を取り扱っているようには思えない。遠目には模型やおもちゃの動きにしか見えなかったりする。
クレーンと巨大倉庫群以外の建物は、冒険者ギルドや各種商業施設や宿泊施設が一本の通りに整然と軒を連ねている。
街の広さ的にはナントの街程度だが人の数が明らかに多く活気と密度に満ちている。あちこちから大きな掛け声が聞こえてくるし、そうこうしていると新たな隊商が街を囲む城壁の門をくぐってやってくる。
輸送船の入港状況次第で、荷馬車が一杯になるまで時間がかかるので、物資待ちの隊商はここで数日留まることが多い。そのため、宿泊施設は非常に充実している。また、娯楽施設も豊富で酒場には多種多様な遊戯施設があり、商人だけではなく、娯楽やギャンブルを求めてこの街を訪れる者も多い。
「ここで、プラナト宛ての速達便があるかチェックだな……」
マカトの息子、セージ・イノーエー銀輪隊商警備隊長が、虹ノ義勇団のリーダーのアヤを呼んでクエストの確認を指示する。
普段は穏やかなセージだが、ナントを出てからずっとイライラしているような、そんな明らかに集中力を欠いている様子である。
当初、虹ノ義勇団との契約はナントまでで、帰路はセージらの好意で再契約という形にしてもらうことができた。この後は銀輪隊商警備の予定に沿って、プラナト、クリプト、そしてコンコードに戻る予定である。このルート上に配達クエストがあれば今のうちに契約してくるようにというセージのアドバイスである。
しかし、そんなやりとりに邪魔が入ってしまった。
「あー、その件だが、プラナトには寄らずにクリプトに直行してくれ」
声の主は、罪人の緊急移送のクエストを発行した張本人、ガード・インスペクターのリッカー・モンブランである。
それを受け、セージは一瞬苦情を言おうとしたが、口には出してアヤに今の話を了承してもらうための謝罪の言葉に代えた。
銀輪隊商警備は、カント共和国や冒険者ギルドからの補助金で運営されている組織であるため、彼女とそのバックにいる者には逆らえない立場にあるのだ。半分宮仕えの辛いところである。
「……わかりました。スピード重視の仕事ですから、仕方がないですね」
一瞬、場が緊張したが、アヤはすぐに空気を読んでセージの謝罪に対して恐縮し、優等生の態度で予定変更を積極的に受け入れる態度を示した。
今回の一連の護衛任務は、往路だけ見ても損害もなく仕事量に比べてもらえる報酬の量が明らかに多かった。1件あたり安い配達のクエストも、チリも積もればなんとやらで、意外と馬鹿にならない額になってしまったのである。だから、帰路のクエスト報酬が無くなってもトータルでは十分過ぎる稼ぎになったのである。これで良しとしておいたほうがいいだろうとの判断である。
しかし、そんなアヤに助け船が来た。
「あ、ちょっと待って!そっちの都合で急な予定変更したんだ、稼ぎ分の補填は当然してくれるんでしょ?」
聞き分けの良い優等生のアヤを見て、セージの部下であるリーン・オーガーが見てられずにモンブランにいちゃもんを着ける。傭兵団や軍事会社を転々としていた元傭兵の彼女は、契約についてはちょっとうるさいのだ。
「銀輪隊商警備に対する臨時報酬とは別に、彼らにも損失分は当然補填する」
最初からそのつもりだったのか、それとも言われて応じただけなのかわからないが、モンブランの表情からは特に損得の駆け引きをしている様子は伺えない。
民間の業者なら、そうした保証にはかなりシビアになる。払う方は1円でも安く、貰う方は1円でも多くほしい。しかし、モンブランはバックにガードセンターや冒険者ギルドといった巨大な金庫が存在する。活動資金は充分確保していたのだろう、やたら気前がいい。
この気前の良さは、ようするに自分の財布から出すわけではないからだ。リーンの目には、モンブランのような世間知らずは上客、つまりカモに見える。この調子なら欲しい分だけ貰えそうである。
「良かったねアヤ。ギルドに行ってクエストのキープだけして、写しを貰ってきな」
キープとは、要するにクエストの予約である。
おいしいクエストというのは、貼り出された瞬間、掲示板の前で手ぐすね引いて待ち構えている冒険者たちの争奪戦にさらされる運命にある。クリプトなどの大きな街ではこれが日常茶飯事なのだ。
しかし、おいしいクエスト(その時はそう思い込んでいる)を運良くゲットしてみたものの、冷静に考えて自分たちの実力では無理だと断念するケースが往々にしてある。そうなると、クエスト失敗で評判と評価がだだ下がりになり、途中で契約破棄などするものなら、それに加えて違約金まで払わされることになる。一攫千金を狙ったおいしいクエストで破産するパーティーも珍しくはないのだ。
ギルドとしては、クエストの失敗や破棄はクライアントの信用問題に直結するので、当然ながらそうなっては大いに困るわけである。だからこそ冒険者とクエストのランク分けをして、実力のミスマッチが起こらないようにしているわけである。
しかし、とはいうものの、「あ、やっぱり無理だった!サーセン!」という状況は必ず起こる。起こらないわけがない。だから、クエスト受けた際にそれを一旦持ち帰って頭を冷やして冷静に話し合うクールタイムを設けることにしたというわけである。これがクエスト仮契約制度である。
仮契約といっても「今、お金持ってないから、家に戻って取ってくるまで、この品物キープしておいて!」という程度の意味の仮であって、キープできる時間はたったの1時間である。
仮契約者が自らキャンセルするか、1時間経って当事者がギルドに現れなかった場合はキャンセルとなり、改めて貼り出されることになる。この段階でのキャンセルは、冒険者ギルドの評価に影響しない。ただ、バックレて無為に放置したり、その常習犯ともなれば評判はお察しであるし、度が過ぎれば社会的信用をなくし、事実上の出禁になる。
最近の冒険者ギルドは、受付が信頼のおける冒険者をご指名する、指名制度なども導入され、とにかくクエスト成功率向上に努めている状況である。
リーンがアヤにした短いアドバイスは、仮契約した際に発行されるクエストの写しを補填額の証明にすれば、面倒な手続きをしなくても満額補償してもらえるというおいしいテクニックである。
元傭兵のリーンは、自分の命を担保にシビアな金勘定をしてきただけに、口約束だけの補填や賠償は損になることを身をもって知っているのだ。
そのことをルーキーのアヤにタダで教えてやったのだから気前のいい話である。しかし、本来リーンも親友のミンキーも元から気前がいいわけではなく、むしろケチな方である。そんな彼女がアヤに無償でお得なアドバイスをするのには理由があった。
それは、このアヤをリーダーとする虹ノ義勇団の若者たちの、よく訓練されたというか、よく躾けられた、先輩、目上に対する態度に好感が持てて、ついつい先輩風の大盤振る舞いをしたくなるのだ。
「はい、わかりました!それじゃ、ちょっと行ってきます!」
頭の回転の速いアヤは、リーンの短い説明で全てを把握し、先輩たちが好むはきはきとした返事をして、そのまま走ってギルドへ向かった。
その走る後姿はとても様になっており、まるで走ることを仕事にしているような、そんな凛とした姿勢がとても印象的だった。
そして、そんなアヤの後ろ姿を発見した仲間たちが声をかけながら彼女を追いかける。
虹ノ義勇団は皆走る姿勢が良いし、しかも速い。身体の大きなメープルも皆にしっかりと付いていっている。このパーティーは全員何か走ることに関するスキルでも取得しているのだろうか?
リーンはそんな若者を見て微笑み、何だか自分が年寄りになった気分に一瞬なって慌てて首を振る。まだまだ自分も若いのだ。
一方、これまでルーキーたちを気にかけて何かと世話をやいていた隊長のセージだったが、今の会話を他人事のように上の空である。
「…………」
いつものセージらしくないのが気になる。イライラして明らかに集中力を欠いている。
その理由は、同僚のショジーが教えてくれた。ナントを出る前に父親のマカトと激しく口論し、喧嘩別れのようになったというのだ。
そんなのいつものことだろうと返したが、その時は少し状況が違ったという。
モンブランの断れない緊急の移送クエストが入り、約束を反故にされたマカトは息子を激しくなじった。彼がここまで激しく怒ったのは、権力者側の言いなりになって民間人相手の約束を破棄してしまったからである。
セージは経済的に不利な立場にいる民間人のために、自身の隊商を活用してもらおうとして、国に掛け合ってがんばってきた。しかし、今回、緊急案件を優先して協力するという国との協定に沿って、これまで貫き通してきた弱者に寄り添うスタンスを覆してしまったのである。
父親が自分の全てを息子に継がせたいという思いを後回しにして、自身の夢を優先し父親を裏切ってしまったセージ。しかし、その夢の一番大事な根拠を、お上に売り渡してしまったという思いが、時間が経つにつれて大きく膨らんでいき陰鬱になってイライラが募っていくのだ。
この緊急移送任務を受けたことを後悔しているセージである。
「…………困りましたねー」
少し離れた場所でその様子をみていたアクィラ・フォレスロッタは、新たに得た変態の称号を返上してしまったかのような真面目な表情で、このまずい状況を何とかしたいという思いに駆られている。
ナントの街で騒ぎを起こしていた時は、裏でセージとマカトが深刻な事態になっていることは全く知らなかった。
誰にでも人懐っこく話しかけ、怖くて近寄りがたい雰囲気を常に醸し出しているマカトにも、自分の父親のように気さくに接することができるアクィラ。
マカトとしては馴れ馴れしい(気持ち悪い)アクィラに対し苦手意識を持っているようで、親子2人が口論を始めたらアクィラが間に入って仲裁するのが銀輪隊商警備の暗黙の了解になっていた。
あの時、ミリセントという『お宝』を目の前にして正気を失い変態化したアクィラは、2人の問題に全く関与することができなかった。そこに自分がいればこんな状況にはならなかったと思うのはうぬぼれかもしれないが、それでも、セージがここまで追い込まれる状況にはならなかったという根拠のない自信があった。
ナントでは皆に迷惑をかけてしまったことを自覚しているアクィラとしては、ここで汚名を返上したいと思うわけである。
「ここは、私が何とかしなければ!」
ナントで衛士長からもらったミリセントの私物である水筒の水を飲み干してパワーを注入すると、意を決してセージのところに歩み出す。そして、セージではなくモンブランの腕を捕まえてそのまま20歩ほど歩いて、セージたちから距離をとる。
「何だ?アクィラ?」
「モンたん!モンたん!」
「だから、そのモンたんはやめろ!」
「モンたん!ちょっと相談があるんだけど聞いてーモンたん!」
「だから、お前が話を聞け!」
端から見ると中の良い女友達同士のじゃれ合いに見える。
しかし、片方がガード・インスペクターだと分かれば、その印象も変わるだろう。あの髪の長いブロンドの女は何て怖い者知らずなんだ――と。
アレに馴れ馴れしく近づけるアクィラをリーンは素直に凄いと思いながら、モンブランを連れ去ってくれたことに感謝していたりする。やはりモンブランが近くにいるだけで微妙に居づらかったのだ。
「モンたん!隊を2つに分けても別に構わないですよねー?」
「は?何故だ?護衛はどうなるんだ?」
「アリアドからクリプトまでは大きな街道を進むだけですよー?襲われる心配は皆無だと思いますけどねー」
「それは確かにそうだが……しかしだな、こちらはそれに高い金を払っているわけで……しかも補填まで」
「そんなこと分かってますよー。でも、この緊急クエストのせいで超重要案件をキャンセルしてるんですよー?」
モンブランの腕を取り、逃がさないように身体を密着させ、更に顔を近づけて話すアクィラ。思わず「顔が近い」と、後ずさろうとするモンブランを嬉しそうに追いかけるように拘束する腕の力を強める。逃げると余計に追いかけてくるので、根負けして逃げるのをやめるモンブラン。
アクィラには、すぐに抱き着く癖があるが、これでいろいろ誤解を生むことが多々あったりする。ミリセントの中の人としては、最も苦手なタイプの女性である。
「それは、悪いと思っているし、損失分の補填はする」
「お金は補填できても、心はそれではまかなえませんよー」
首と目を逸らしながら言い訳をするモンブランに、ぐいぐい食い下がるアクィラ。
モンブランとしては、この面倒くさいアクィラを突っぱねることはいつでも可能だった。しかし、それが出来ないのは、こうやって構ってくれる相手がアクィラくらいしかいないからでもある。
彼女にそういう趣味がある訳ではないが、若くして高い地位にあり、しかも憲兵のような仕事に就いているモンブランには自ら好んで近づこうとするものは皆無だった。だから、心のどこかでこの状況が嬉しいのだ。
実際問題、先ほどのリーン・オーガーのように、辛く当たられるのは慣れてはいるものの、だからといって内心穏やかであるはずがない。それにリーンだけではない。彼女の親友のミンキー・アーリィもだいたい同じである。他の2人の大男は、明らかにこちらを恐れて目も合わせてくれない。これはこれで傷つくのだ。
ちなみに、亡命者のパーティーは、同じ土俵にすら立っていないので、彼らがどんな態度を取ろうとも何とも思わない。
しかし、これは普段より全然マシな方である。クリプトでは、あからさまに舌打ちをして嫌悪感丸出しにされることも多いのだ。
ガード・インスペクターとはそういう孤独な仕事だと分かっているが、女性でこの地位を保っていくためには、しっかりと冷徹な自分を演じていかなければならないのである。
「お父さんが心配で、隊長の集中が切れてますし、この状況をこのまま放置しておくことのほうが問題ですよー」
確かにアクィラの言う通りである。隊全体の士気が低下しているのは明らかで、他人のネガティブな視線になれているモンブランとしては、それが手に取るようにわかってしまう。
ただ、この微妙な雰囲気は主に自分のせいだと思っていたが、どうもそれだけではないようで少し安心する。だから、次のアクィラの言葉は少し魅力的に聞こえた。
「ここで、恩を売っておけば後々いいことあるかもしれませんよー。隊長の心証も良くなって、帰りは馬車で至れり尽くせりですってば」
そう言って少し悪い顔になってニンマリとほほ笑むアクィラ。
ゴブリンの出没エリアを突破し、以後は安全な街道の旅になる。ここで護衛の人数が減ったところで任務に支障はない。ならば、アクィラの誘惑に乗っても損はないだろう。
「何人必要だ?」
喰いついた!とアクィラは勝利を確信した。
「2人で十分ですよー。馬はここで借りられますし、あ、これは勿論自腹ですー」
「ふむ……で、人選は?」
「隊長と私が行きます。隊はリーンさんたちがいれば問題ないですよね?昨日の夜の活躍は見たでしょう?」
夜間移動時に、リーンとミンキーの高い索敵能力によってゴブリンの待ち伏せを看破し、先制して相手の戦意をくじき逃走させ、無用な戦闘を避けることができた。あれはまさしくプロの仕事だった。
全く周囲の見えない暗闇の中でのゴブリンの包囲網突破は見事であり、全く無名の銀輪隊商警備の評価は、モンブランの中ではすこぶる良いものになった。
「…………だが、しかしなー」
ここまで条件を提示して、それでも決断を渋るモンブランにダメ押しで、更に顔を近づけるアクィラ。もう唇と唇がくっつきそうである。
「ああー!わかった!わかった!許可するからいい加減離れろ!」
その言質を取った瞬間、パッと手を離したアクィラは、モンブランの両手を取って向き合った後、身体をうずうずさせ、そこから一気に抱き着いて頬にキスをする。そして、「モンたん大好きー」と周囲に聞こえる大きな声で叫びながらセージたちのところに走り出した。
「なっ!…………ったく……」
キスをされた頬を押さえながら、そのままポツンと取り残される赤面を隠せないモンブラン。
アクィラとモンブランの出会いは、やばい経歴を持つ錬金術師とその奴隷が、ピュオ・プラーハからクリプトに移住してきた数年前に遡る。
ピュオ・プラーハは未だに戦争継続中の国民総動員状態にあるが、自由都市クリプトとは友好的中立関係にあった。
その国からフリーエージェントとして派遣されるかたちで、錬金術師と奴隷が入国するとのことで、その審査の立ち合いにガードセンター長アイーナ・シフォンに同行したのがモンブランである。これが2人の出会いだった。
錬金術師エーリカ・ベルリーンとアクィラ・フォレスロッタのカルマは共に低カルマ帯という位置にあり、これはようするに、クリプトでは犯罪者予備軍という扱いになる。
そうした異常なカルマになった経緯を理解した冒険者ギルドとガードセンターは、彼女らのクリプトの移住を認めたわけだが、半年間保護観察という条件が課せられ、その観察官にモンブランが指定され、宿舎で共同生活をした時期があったのである。
その時にアクィラにつけられたあだ名が『モンたん』である。
やれやれという態度で隊商の車列に向かい、捕らえた盗賊たちの監視に戻るモンブラン。御車を務めるショジーらが急に緊張し始める。
アリアドに長居をするつもりはないので、アクィラ達の準備が整ったらすぐに出発する予定である。
アクィラの言う通りここまでくれば、もうゴブリンの襲撃を恐れる必要はない。ここから先は、大きな隊商が頻繁に行き来する1本道の街道をひたすら北進するだけである。
「ふぅー」
少し安心して小さくため息をつく。そして、今回の一連の騒動でもっと上手く立ち回れなかったかと1人反省会を始める。
ナントという片田舎にふさわしくない優れた能力を持つ衛士長。生まれつきの異常なカルマを持つミリセント。あの盗賊たちだって優れた能力を持っていた。衛士長の協力がなければ捕らえることは不可能だっただろう。そしてこれまた片田舎の隊商と侮っていた銀輪隊商警備の優れた能力を持つ隊員たち。亡命者のルーキーたちも真面目にしっかりと仕事をこなしていたし、亡命者特権にあぐらをかく様子もなく謙虚で好印象だった。
ふと、クリプトとは違うさわやかな潮の香りが鼻腔をくすぐり、ハッとなって顔を上げた。
「…………カントの空ってこんなに青かったのか」
空を見上げると雲一つない快晴。海鳥の鳴き声が遠くに聞こえる。
流れの速すぎるカロン海河には、海鳥が波間に浮き沈みできるような穏やかさは皆無で、鳥といえば流れ着くオークや化け物の死体をついばむカラスばかりである。
初めて訪れたカント共和国。ナントやアリアドののどかな風景を今初めて堪能している自分に気付くモンブラン。それほどまでに気持ちに余裕がなかったのだ。
顔を巡らし、アクィラの走っていった方を向くと、どこで調達したのか2頭の馬にまたがったセージとアクィラが、ルーキーたちを引き連れてこちらに歩いてくるのが見えた。
隊を二分することを許可したことに対するお礼と挨拶に来たセージの顔のなんと晴れやかなことか。まるで憑き物が抜け落ちたようである。
それにしても、こんなに感謝されたことは生まれて初めてかもしれない。
リッカー・モンブランにとって、この短い旅はたくさんの出会いをもたらしてくれた貴重な時間となった。それは、これまでの歩んできた人生の全てを合わせたものよりも、濃密で意義のあるものだった。
彼女が自分の人生を振り返った時、今回とそしてそこから繋がる一連の事件を一番先に思い浮かべることだろうが、それはまだ先の話である。
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