第32話 「奴隷」
第三十二話 「奴隷」
アクィラ・フォレスロッタの身分は奴隷である。
奴隷という言葉から受ける印象は総じて良いものではないが、これは現代社会に生きる者にとっての共通認識といえるのではないだろうか。
人種差別問題と相まって複雑化し、近年大きな社会問題になってテレビやネット上でニュースになっているのはご存じの通りである。
ここではその問題を提起したり、掘り下げて議論を重ねるつもりは毛頭ない。ただ、一応知っておいてほしいのが、人類が文明を築いて以来、奴隷や奴隷制度が当たり前に存在して、人が物として扱われていた世界が、ファンタジーなどではなく我々と同じ世界線上の過去に事実として存在していたということを――である。
そして、皆が愛してやまないファンタジー作品群にも奴隷は存在し、無自覚にその存在を受け入れてしまったり、歴史的改変をして自分勝手にポジティブな解釈をしてしまっていたりもする。
男女平等の行きつく先には、男尊女卑の歴史的事実を無かったことにし、織田信長が女性だったという歴史的改変が事実となる未来も、オタクの妄想などではなく本当になるかもしれないのである。この傾向は決して大げさな話ではなく現在進行形で起こっている社会的現実なのである。
現代とは地続きではないこの世界の名前を知らない。しかし、未だその全容の見えない世界の中にある一部に名前がついている。
その中の一つである西カロン地方は、概ね平等で文明レベルや時代背景がごちゃ混ぜのファンタジー世界、つまり日本人の考えがちな中世ヨーロッパをモチーフにした世界といえる。この時点で既に中世ヨーロッパではないだろう?というツッコミは無視して、これはあくまで中世ヨーロッパ「風」なので問題ないのである。
全体的に縦長の西カロン地方の南部に位置するカント共和国では、人間を家畜のように売買する奴隷制度は今のところ見られない。恐らく食糧供給が過剰気味に安定しているおかげだろう。
今現在慢性的な戦争状態にある北部のピュオ・プラーハや中部の中立都市国家群の奴隷事情は情報がないのでわからないが、明確な労働者階級はあるようなので、戦争の結果如何では人員の強制的な移動はあるだろう。
ピュオ・プラーハはともかく、中部は商工業地帯で労働者といえど、技術者として厚遇されているので、仮に奴隷だとしても農奴などとは全く違う扱いになるだろう。さらに言えば、技術者は莫大な価値を持つそれそのものが資産になると思われる。
そんな前置きをした上で、もう一度言うと、アクィラ・フォレスロッタの身分は奴隷である。
奴隷と聞くとやはりショッキングなものだが、この世界における奴隷制度が現代のそれと同じである可能性は低く、今の自由主義社会の理論で善悪やその是非を判断しても意味がない。
アクィラは、手枷も足枷もされていないし、顔など見えるところに奴隷とわかるような刺青もない。さらにいえば、組織に所属し護衛という仕事をしている身分である。自由も人権もないとされる我々の知る奴隷とは雲泥の差である。奴隷や奴隷制度の意味合いがこちらとは大きく異なっているのかもしれない。或いは、奴隷の主が開明的でアクィラだけが特別ということかもしれない。
主(マスター)に全身全霊で仕える従者的な意味合いで、今風に言えばサーヴァントというのがわかり易いのかもしれない。
カント共和国南西、領土の中で一番南に位置するナントの街のど真ん中で、複数の男女が何やら輪になって深刻な話し合いをしている。それぞれの思惑をぶつけ合って一向に解決の糸口が見いだせないという状況のようだ。
逮捕した犯人を一刻も早く本拠地であるクリプトに移送したいガードインスペクターのリッカー・モンブラン。
その犯人を移送する脚となる銀輪隊商警備の隊長であるセージ・イノーエー。その部下のミンキー・アーリィとリーン・オーガー、そして急に隊商を辞めると言い出し、主にこの問題を大きくこじらせた張本人であり、奴隷のアクィラ・フォレスロッタ。
その隊商の護衛として雇われた亡命者と呼ばれる新米冒険者パーティーの6人。
モンブランの発注した緊急移送の案件を銀輪隊商警備に委託したギルド員のミーオ・クォーズィミ。
そして、この街の正規ガードであるフィミオ・ティシガーラである。
先ほどまでここに1人の少女の姿があったが、その少女に対しアクィラが常軌を逸した変態行動をとってしまったのがこの騒動の原因である。
その少女、ミリセントは獄中にあった。
獄中と聞けば、暗くジメジメした地下牢や囚人を何百人と収容する監獄をイメージするだろうが、ガードポストの牢屋は留置所といったもので、あまりネガティブなものではない。
ナントが小さい街ということもあり、あまり利用されたこともないのだろう。その為比較的清潔で異臭もしないし快適である。入る側にとっては大変結構なことだが、それをいいことにホテル代わりに牢屋を利用されるのは管理する側としては困りものである。
好き好んで牢屋に入る者はいないだろうから、一般人立ち入り禁止の規則も特に設けていなかったので、入りたいという者を拒む理由がない。よってこの珍妙な価値観を持つ小さなお客に対し微妙な顔で見守るしかないというわけである。
窓のないガードポストの建物の中は昼間でも薄暗いところだが、魔法の照明器具のおかげで灯りに困ることはない。流石に牢屋の中にまで照明はないが、子供が簡単に通り抜けられてしまう程度にスカスカな鉄格子のおかげで、周囲の魔法照明の光を十分に取り込めてしまう。
無限の刑期という有り難くない財産をご先祖様から強制的に受け継がされてしまったミリセントは、流刑地で生まれ流刑地で育った生粋の流刑地っ子である。
流刑地というのはいわば、塀のない刑務所であり、流刑地で生まれ育つということは、刑務所で生まれ育ったのと同義である。
つまり、生まれ故郷が刑務所というわけで、故郷というものは懐かしく心が落ち着くものであるのが一般的であり、要するに牢屋というのは最も故郷に近い第二の故郷のような安心感を提供してくれる場所ということになる。
ホンマかいなと思わず関西弁でツッコミをいれたくなるウソくさい状況なのだが、実際問題、牢屋の居心地の良さといったら、それを言葉や文字では言い尽くせないほどの心地良さなのである。
そんな第二の故郷でまったりした時間を堪能しているところに、正規ガードのスィミーカ・アリィが申し訳なさそうな顔で鉄格子の前に現れた。
「ねぇ、ミリー……何と言えばいいのか、せっかく安全な場所に逃げてきたところ申し訳ないんだけど……」
「どうしたの?別に臭い飯は必要ないよ?勝手に入ってきただけだし、ほとぼりが冷めたら勝手に出ていくし」
「あー、食事の話じゃなくてね……その、面会の件で……」
「面会?私は牢屋に勝手に入ってるだけで、そういう扱いじゃないでしょ?」
「それはもっともなんだけど、是非会いたいという人がいてね……」
「え?それって、ま、まさか?」
「アクィラが会いたいって……実はもうそこに来てるんだけど……」
スィミーカからの衝撃の告白を聞かされた瞬間、忘れようとしていたあの死の恐怖が甦る。
あの変態がすぐそこに迫っているという。ここが絶対安全だと思って逃げてきたというのに、完全に裏目に出てしまった。
今にして思うと、窓もなく逃げ道が全くない狭い牢屋に籠城するという作戦は、自ら袋の鼠になりにいった自殺行為ではなかったか?
何故その選択が危険だと思い至らなかったのか?ガードポストではなく、街の外へ逃げるという当然の選択をなぜとらなかったのか?
あの、身体を握り潰されるような死の恐怖から、一刻も早く逃げ出し、身の安全と安心を得たいという生存本能が、ガードポストが一番安全だと誤判断してしまったのだろう。
せめて、タンスとかベッドとか、ホラーゲームで定番の露骨な隠れ場所のある部屋とか、そもそも牢屋の外にいればよかったのだ。
「ちょっ!ちょっと待って!マジで?ぜ、絶対に会わないからね!叩き出して!お願い!」
「いや、今更そういわれても……」
断固面会拒否を宣言して牢屋の中で抗議の声を上げるが、スィミーカはガードポストの入口の方を見てポリポリと目尻を掻いて苦笑いする。それと同時に複数の人間の足音と話し声の混ざったドヨドヨした小さな騒音の塊が近づいてくることに気付く。死角で見えないが、牢屋の中からでもその接近と、それが思いのほかすぐそばまで来ていることを知り愕然となる。
やばい!どうしよう!と、挙動不審になってどこかに隠れる場所がないかと首を振って探してみるが、三方を窓のない壁に囲まれたシンプルかつ見通し抜群の四角い部屋に、そんな逃げ道などありようもなく最後の手段は壁に張り付いて少しでも鉄格子から距離をとることしかできなかった。狭い牢屋だが、壁に張り付けば手は届かないはずだ。もし、差し込まれた手で、腕でも掴まれようものなら、あのバカ力で引っ張りこまれて鉄格子につっかえて心太にされてしまう。
近づいてくる足音の数から察するに10人くらいの集団のようだ。あの場に10人も居たかな?と、冷静に思い出す余裕もなく、ゴクリと固唾を飲んで見守る。
一番最初に鉄格子の前に現れたのが申し訳なさそうな顔をしたフィミオで、すぐ後についてあの変態女が現れた。
「……ミリさん」
キタアアアアァァァーー!と、心の中で叫び恐怖してしまったが、その妙にしおらしい態度を見て、先ほどの変態と同一人物かと軽く疑ってしまう。
立ち姿を見ただけでわかる普通の人とは全く違う特別な強者の雰囲気。これは、ギルドで最初にその姿を見た時の感想と同じだった。その後、豹変して変態になってしまったが、今、目の前にいるのは普通の美女で、あの変態と同一人物には思えなかった。
「あ、あのー」
「わ、私に何か用?」
「あ、元気そうで良かったですー」
「(はぁ?何言ってんだコイツ)」
独特の語尾の間延びした口調とその美貌は、一見すると世間知らずのお嬢様にも見えなくもない。しかし油断大敵、中身は変態である。
その変態行動の要因になっているのが、生まれ持った自分ではどうすることもできない天賦の才とやらだが、それを免罪符にこちらの被害がチャラになるわけではない。
それにしても、アクィラの態度は妙である。申し訳なさそうにしているが、殺しかけた相手に対する罪悪感的な後ろめたさを全く感じない。本人に殺人を犯そうとしたという自覚が全くないようで、それが無性に腹が立つと同時に、こいうった危険人物を放置していていいのだろうかという疑念が出てくる。
「…………」
不機嫌を隠そうとはせず、アクィラの不当な変態暴力行為に対する無言の抗議をするが、なぜそのようないけずな態度をとるのか理解できずにアクィラは不思議そうにしている。
「あのー、やっぱり怒ってますよねー?」
「(イラ!)……怒ってない!」
「あーやっぱりミリさん怒ってますー」
「お前が怒らせたんだろうがー!」
「ご、ごめんなさーい!」
「はー、はー……ふー(何だコイツ?疲れる……)」
ミリさんなどと勝手につけた愛称で呼びやがってと、別の怒りも込み上げてくる。公式愛称はミリーであり、勝手に決めるなと抗議してやりたいが、話がややこしくなりそうなのでここはぐっと堪える。
しかし、ここまでのアクィラの態度を見て、やっぱりこいつはダメだ、という印象が、印象ではなく確信となった。
相手の都合よりも自分の意思を優先するタイプで、例えば、好きな相手がボッチでいる時間を大切にしたいのに、自分が四六時中一緒にいたいという思いを優先して、ストーカーのようにウザがらみした揚げ句嫌われるというタイプ。しかし、このタイプはこんなことでは終わらない。好きなんだから自分の行動は当然で、嫌われた理由が理解できずに、相手側に責任があると真相究明のためにあらゆる手段を講じて接近を試みてくるようになる。最終的に友人や家族などにも手を広げて外堀を埋められ、相手は遂にノイローゼになる――という、誰も幸せにならないオチが待っている。
正気に戻ったと思われるアクィラという女性を間近で見て、そしてほんの少しの会話のやりとりで、そんな想像力が働いてしまう。もちろん、こちらの勝手な思い込みかもしれない。腹を割って話し合えば案外相性がいいと気が付くかもしれない。
だが、正気を失うと暴走する天賦持ちの性と、バカ力から繰り出す殺人ハグのことを考えると、アクィラとの和解は、初めて出会った猛獣と仲良しになるという無謀なミッションを課せられるのと同じである。
一般的に猛獣にカテゴライズされる熊のクマゴローや、他近所の猛獣や猛禽とも既に仲良しになれた実績を持っているが、この変態とは仲良くなれる自信が全くない。
「おい!アクィラ!お前ミリセントを怒らせに来たのか?」
この主にアクィラのせいでかみ合わないマヌケなやり取りに苛立ちを募らせたのは野次馬たちも同様だった。和解したいという本人のたっての希望でこの場を作ったのに、アクィラの態度は端から見ても喧嘩を売っているようにしか見えないのだ。
何故こんなにも大勢のギャラリーがいるのか不思議なのだが、自分が彼らの立場なら面白そうだから同行して野次馬の列に顔を連ねているに違いないので、一先ずこの状況は受け入れることにした。
牢屋の前にいるアクィラを半包囲する野次馬の中に先ほどの騒動にはいなかった顔が2、3見えた。あの場にいたほぼ全員が初対面の者ばかりなので、どの顔が初見なのか気にするのも無意味だろう。ただ、こうやって見世物になっているのはあまり気分の良いものではないのは確かで、さっさと要件を済ませて帰ってほしいところである。
「アクィラ、さっさと謝罪して出発するぞ!」
最初にアクィラを叱った女性は、その顔を良く知るリッカー・モンブランで、その後に声を上げた30代半ばと思われる男性は初めて見る顔だ。後でその名前を知ることになるが、彼が隊商のリーダー、つまりアクィラの上司にあたるセージ・イノーエーである。
さっさと謝罪して――という機械的な言い方に少しカチンときたが、話しぶりからしてアクィラの上官にあたる人物で、こちらの被った被害など何も知らないし、彼には直接関係ないのだからこんなものだろう。
事情を知っていれば、うちの部下が大変失礼なことをして――と、菓子折り持参で挨拶にくる流れになるはずである。
しかし、そんなことはどうでもよく、さっさとこの変態をここから連れ出して早くこの街から出て行ってほしいものであり、この場にいるアクィラ以外全員がきっと同じ思いだろう。
「えー?私はミリさんと仲良しになりたくて、ここに来たんですよー?」
モンブランへなのか、この男への返答なのかわからない。相変わらずのアクィラの人を喰った態度に野次馬も若干苛立っているのが理解できる。
恐らくアクィラ自身、正気を失っている間にとった自分の行動を理解しておらず、実感が全くないのだろう。だから先ほどからずっと他人事なのだ。
アクィラの目を見れば分かるが100%純粋な好意に満ち溢れ少女漫画のヒロインのようにキラキラ輝いている。目と目が合った瞬間に好きになられてしまった程度の好かれ方だが、そこまで好かれる理由が全く理解できない。天賦とやらがそうさせているのだと一応理解しているが、そんなものでここまで人をおかしくできるものなのだろうか?
単純な天賦の力だけではなく、例えば、元々強烈な少女趣味で、美少女に目がないという危険なフェチを備えていたという可能性もある。或いは中身がおっさんであることを天賦で見抜いた骨の髄からのオヤジフェチなのかもしれない。
美人であろうがなかろうが、好かれること自体はやぶさかではないのだが、性格や人間性以外の要素だけで好かれるのは納得いかないものがある。
特に、誰にも好かれなかった中の人の立場からすると、この状況は理不尽極まりない。こんな姿になってしまったが、中身はおっさんの中田 中(あたる)のままなのである。
「(これじゃー、埒が明かないな……)」
罪の意識に乏しい相手に対して何を諭しても馬の耳に念仏である。第三者を立て、客観的な意見を交えてゆっくり言い聞かせないと理解してもらえないだろう。そして、それをしている余裕はこちらにはあってもモンブランと銀輪隊商警備側にはないはずだ。
フィミオやモンブランの説得に全く耳を貸さなかったアクィラには何を言っても無駄だろう。
なまじ手の届く位置にいてしまったから、彼女は必死に手に入れようと頑張ってしまうのだろう。逆に言えば、アクィラの手の届かない位置にいれば、一先ずあきらめてくれるかもしれない。
「(やっぱりここから逃げるしかないな……しかし、どうやって逃げよう?)」
アクィラとのファーストコンタクトで、彼女のタックルを避けることができなかった。ましてや完全に退路を断たれた牢屋の中ではもう逃げることは不可能に近い。
土方の力を使えば余裕かもしれないが、これは本当に最後の手段であり、使ったが最後二度とこの地に足を踏み入れることは不可能になる。何故なら、この力を使えば噂になるだろうし、そうした力を追い求める死神の追跡という危険性が常に付きまとっているからである。これがなければ何でも好きなように出来るのだが……
「(そういえば、空いてる牢屋に勝手に入っただけだからカギ空いてるんだよな……)」
牢屋の鉄格子が施錠されていないことがアクィラに知られたら、絶対に入ってくるに違いない。そしてもう二度と牢から出してもらえなくなりそうである。或いはロープで2人の身体を縛って逃げられないようにして強制的に隊商の仕事に引き回されるに違いない。
「はぁ~」
ため息しか出てこないが、トゥール・サイト衛士長が何食わぬ顔でいつのまにか野次馬の列の端に馴染んでいることに気付いた。
牢屋というのは狭い通路沿いに並んでいるものが普通だと思うが、ガードポストの牢屋は比較的広い取り調べ室の壁にある。そのおかげで牢屋の前は10人程度余裕で並んで立つことができるくらいのスペースがあったのだ。衛士長はその列にこっそり紛れ込んでいたのである。
「(ん?)」
チラっと目が合い、彼の視線が自分の手元を一瞬見る。その右手にカギが握られていた。
「(あれは……牢屋のカギか……あっ!そうか!ナイス衛士長!)」
ここで名案を思いつく。いつもなら人目をはばからず悪い顔をして隠す気もなく悪だくみをしていることを他者に敢えて知らせてしまうところだが、ここは必死にポーカーフェイスを保ち、心の中だけでニヤリと笑みを浮かべる。
「よし!わかった!ここは腹を割って話そう!」
露骨な態度の変化に周囲は疑念の顔を向けるが、そのセリフを聞いた瞬間、アクィラの顔がぱーっと明るくなり、両手を胸元で組んで「はいっ!」と短い返事をする。単純なヤツである。いや、単純だからこそ簡単に天賦に従ってしまうのだろう。
「その扉開いてるから……」
投獄されていると思ったアクィラは、当然カギが閉まっていると思い込んでいたので、少し戸惑っていたところに助け舟を出す。もちろんその舟はただの舟ではなく沈むことを前提にした泥の舟である。
「それでは、お邪魔しますー!」
この成り行きを予想できなかった衛士長以外の野次馬達は、アクィラを止めるという思考すら働かず絶句したままである。それを尻目に嬉しそうに牢屋の鉄格子を開けて中に入ってくる。
鉄と鉄がこすれるキーという耳障りな音の次に、ガチャンという金属音がガードポストの取り調べ室に木霊する。
これで狭い個室に二人きりである。このシチュエーションはそういうお店を連想してしまうと同時に、アクィラは水商売も似合いそうだと思ってしまった。
牢屋の中に入ったアクィラはついにこの時が来たという顔で、自分の背丈より頭1個分低い小さな少女を見下ろすように向かい合う。
周囲は一体これから何が始まるのかと固唾を飲む。実際に誰かが呑み込んだ生唾の音が聞こえた。
アクィラはゆっくりと手を伸ばす……
そして、その両手が今正に少女のか細い肩に触れようとした。
次の瞬間、少女の身体はアクィラの魔の手から横にスルっとスライドしてかわす。周囲は「ですよねー」と、いった感じで肩透かしを食らうが、事態はそこで終わることはなかった。なんと、か細過ぎる少女の肢体は横移動を止めることなく、そのまま鉄格子をすり抜けてしまったのである。
その場にいたほぼ全員が声にならない驚きの声を上げ、マジックショーでとっておきのイリュージョンを見せられたような観衆の様に、その目の前の現実を受け入れられないという顔のまま時間が凍り付いてしまった。観衆だけではなく当然アクィラもだ。
先ほどまでのアクィラとミリセントとの立ち位置が完全に入れ替わっている。マジックでもなんでもないが、観衆の顔を見ればこれが見事な瞬間移動の手品だということがわかる。
いつの間にか鉄格子の扉の前に移動していた、この手品を演出した衛士長が、カギを挿し45度回して施錠して、このマジックショーは完成した。
「それじゃー私、故郷に戻るわ~!」
衛士長に親指を立ててグッジョブと合図と感謝の意を示し、そのまま右手を振って真っすぐガードポスト入口にダッシュする。
扉の無い解放された玄関を出る瞬間、顔だけ横を向いて立ち尽くす野次馬と、牢屋の中にいる死角で見えないアクィラに「あばよ!」と捨て台詞を吐いて姿を消した。一度は言ってみたかった「あばよ!」が言えて大変満足である。
「ぅぅぅぁぁぁああああああぁぁぁぁーーー!!!」
次の瞬間、呆気に取られて固まっていたアクィラが、急にスイッチが入ったサルのおもちゃのように悲鳴とも雄叫びともとれない大きな声を上げる。それが合図になったのか止まった野次馬たちの時間も動き出し、場が突然慌ただしくなる。
「あ、あれ?カギが……あれ?さっきまで開いてたのに……」
逃げた獲物を追いかけようとしたアクィラが、たった今開けて入った牢屋の鉄格子に阻まれガチャガチャさせている。
「アクィラさん」
いつの間にか鉄格子の前に立っていた衛士長が、こじ開けて出ようとするアクィラを呼び止める。
「は、はい?」
「アクィラ・フォレスロッタさん、あなたを殺人未遂の容疑で逮捕します。また、彼女を管理する銀輪隊商警備とそのメンバーを事情聴取の為に一時勾留します」
突然の衛士長の宣言に場が一瞬静寂に包まれたあと、すぐに騒然となった。
この判断に対し、銀輪隊商警備の隊長であるセージ・イノーエーや部下であるミンキーやリーンも抗議の声を上げたが、それ以外にも彼らに仕事を依頼しているリッカー・モンブランも猛然と抗議を始める。
「衛士長!何の権限があってこのような措置を?」
「何の権限ですと?この街の治安を守る責任者としての権限以外に何があるというのです?」
「そ、それはそうだが……」
馬鹿な質問をしたと気づいて赤面して声が詰まるモンブラン。
「い、今はこちらの犯人の移送を優先すべきではないか?」
「犯人の移送に罪人やその一味を使うことは問題です。犯人の移送には別の業者をお使いください」
「衛士長!それは……」
「アクィラさんのとった暴力行為の現行犯を見逃すのですか?」
「確かにあれは問題だが、犯罪フラグが立たなかった……」
「フラグが立たなければ殺しても問題ないと?」
「いや、そういうわけでは……」
横でこのやりとりを聞いていたフィミオも、アクィラの暴力行為は完全にアウトだと思っていた。しかし、犯罪フラグが立たなかったのでアクィラへの抑止行為を思いとどまってしまったのである。
犯罪フラグの如何に関わらず、暴力行為に対してガードとしては治安維持行動をとらなければならなかった。これは、自分の責任でもあるとフィミオは自責の念に駆られる。
「犯罪フラグというのは、冒険者ギルドが取り入れた後付けのシステムで、派遣ガードなどの所謂素人でもガードとして活動できる簡易的な識別システムにすぎません。そもそも、貴女の捕らえた賊2名も、このガードシステムの不備を突いたもので、それを過信すべきでないことを昨日知ったばかりですよね?」
昨日の大捕り物のキモは、ガードシステムに頼らない衛士長のベテランの勘とミリセントによって犯人の油断を引き出させた合わせ技である。
今回の脱出劇も衛士長とミリセントとの打ち合わせの無いアドリブであり、ここに魔法や何かのシステムの入り込む余地がなかった。
「た、確かにその通りだ。だが、ミリセントは特殊な事例でもあるし、今回の件はこちらの預かりで、とりあえず銀輪隊商警備の処遇に関してはクリプトで判断するというのはどうだろう?」
衛士長の正論にぐうの音も出ないモンブラン。これまで衛士長に対して上から目線で話していたが、今は立場が完全に入れ替わったようである。
ミリセントが罪人の子孫という特殊な条件であることを差し引いても、やはりアクィラのあの暴力行為は看過すべきではない案件で、あの時、モンブランもフィミオも、ガードとして正しい判断を下せれば、ここまで話はもつれなかったかもしれないのである。
「あ、アクィラ、あんた何やらかしたのよ?」
殺人容疑などと聞いて、急に青ざめる途中参加の同僚たち。
現場を直接見ていないアクィラの先輩同僚である2人の女性隊員が、たった今獄中の人になってしまった後輩に代わる代わる質問攻撃を始める。
「何てことをしてくれたんだ……現行犯逮捕って、アクィラの罪は全てエリーさんが被ることになるんだぞ?」
主の名前を出されてビクっと身体を震わせるアクィラ。
奴隷の罪は主が負い、主の罪は奴隷に覆い被せるものである。
「わ、私は!……」
そんなこと私はしてない無実だ!と、言いかけて言葉が詰まる。ミリセントという慧眼の天賦を刺激する対象の気配がこの場から完全に消えたことで、アクィラを突き動かす力も同時に消えた。これで頭の中がすっきりとクリアになったのである。そして。それと同時にこれまでの自分の行動がフラッシュバックする。そこでようやく自分の犯した罪についての自覚と罪の意識が完成する。次にくるのは後悔である。
その後悔の念が鎌首をもたげてアクィラの良心を締め付け始めた。
「私……ミリさんを殺そうとしてしまった……」
鉄格子を握る手がブルブルと振るえだし、自分の意思に反して勝手に外れてしまう。その様子は、端から見ればわざとらしく大げさに手を動かしているのだろうと思いたくなるほどの動揺ぶりである。
衛士長トゥール・サイトは、そのアクィラの様子を見てひとつ頷いた。ようやく彼女の中に反省する準備が整ったことを確認したのだ。
これまで事の成り行きを沈黙でもって無視してきたように見えた衛士長だが、実は最初からずっとミリセントとアクィラを注意深く見守っていたのである。
「わかりました。この件は閣下に一任いたします」
そう言ってモンブランに対し恭しく頭を下げる衛士長。
「は?あ、そ、そうか?あ、いや、その……理解に感謝する」
これまで衛士長の正論に対し、半ば無駄だろうと必死に抵抗していたモンブランは、突然の譲歩に思わず拍子抜けしたような間の抜けた声を上げてしまう。これについては驚きよりも安心が大きく、更に言えば閣下呼ばわりされて自尊心を大いに刺激されて寛大な気持ちになって、普段しない謝意を述べてしまったりもする。
全て衛士長の掌の上でコロコロ転がされていたことに気付かない未熟なモンブラン。それを客観的に見て、尊敬の念と自身の無能さを改めて痛感するフィミオである。
「ところで、まだ発たなくてよろしいのですか?」
「は?ああ!そうだった!銀輪隊商警備の諸君、アクィラや君たちの処遇に関しては一旦私が預かる。悪いようにはしない。至急出立に取り掛かってくれ」
いきなり逮捕やら勾留やらと動揺の渦中にあった銀輪隊商警備の面々と、これまで居心地悪そうにしていた護衛のルーキー6人は、堰を切ったように動き始める。
「アクィラさん、釈放です。早く任務に戻ってください」
牢屋のカギを開け放ち出るように促す衛士長だが、アクィラは牢屋の壁にあるベッドとして使う段差に力なく腰を下ろしたまま立ち上がろうとしない。
「わ、私、取り返しのつかないことをしてしまいました。もうここから出ることは出来ません……」
完全に正気に戻ったことで、これまで犯した罪の大きさに耐えられず圧し潰されそうになっているようである。この場にミリセントがいてその様子を目撃すれば、アクィラに対するバカでアホで変態という最悪の印象はだいぶ和らいだことだろう。ただし、ミリセントがこの場にいれば変態は自動的に発動するので、その姿をみることはできない。
「早くしろアクィラ!」
隊長が発破を掛けるが心神喪失気味のアクィラは返事すらできない。
「隊長さん、ここは私が」
「……衛士長、いやトゥールさん、よろしくお願いします」
街の有力者であるマカト・イノーエーの息子であるセージのことは子供の頃から知っている衛士長である。そのセージが隊商警備の仕事を始めようと思い立ったのは、実は衛士長の影響も少なからずあったりするのだ。
フィミオとスィミカ以外の野次馬全員、蜘蛛の子を散らすようにあっという間にいなくなって急に閑散とする牢屋前。
「アクィラさん、ミリセントさんがここに来た理由は冒険者になるためで、冒険者になってクリプトのギルドが管理する大図書館を利用したいからだそうです」
ミリセントというキーワードを聞いて反応を示すアクィラ。ここ数日の交流で、ミリセントがこの地へ現れた理由を聞いていた衛士長は、そのことについて教えてやる。
アクィラは、うつむいていた顔を上げて無言で話を聞きはじめる。これまで何も聞いていなかった、いや、聞こうともしなかったミリセントの情報にここで初めて触れることができたのである。
「彼女のカルマは特殊で、犯罪者と間違われてしまいます。このままクリプトに向かえばいろいろと困ることが多いでしょうね」
「…………」
「彼女にはよき理解者の助けが必要になるでしょう……わかりますか?」
「……はい」
衛士長の言わんとしていることを理解したアクィラの目に力が戻ってきた。
「こちらに来てください」
アクィラの目の奥に宿った力を確認した衛士長は、そう言ってホールの自分の机の方へ歩き出す。
スィミカが既に開いている牢の扉からアクィラの手を引いて出すと、手をつないだまま衛士長の後を追う。
「これは、ミリセントさんの忘れ物です。申し訳ありませんが、彼女に届けてくれませんか?」
ミリセントは着の身着のままで外に飛び出してしまったので、彼女の持ち物が詰まったバックパックはそのままである。そのバックパックを預かっていた衛士長は、それをアクィラに見られないように隠したまま、その中から水筒だけを取り出しアクィラに手渡す。
「衛士長さん……ありがとうございます」
衛士長の厚意に感動したアクィラは、人目をはばからず端麗な顔がくしゃくしゃになってしまう。そして、受け取った水筒を愛おしそうに頬を寄せる。
「隊商の仕事をしていれば、再会できる機会がいずれ必ずやってきます。それまで焦らず、ミリセントさんの旅の安全と無事を祈ってあげてください。私も貴女に負けず劣らずミリセントさんのことを気に入ってましてね、私からもお願いします」
ミリセントの始祖であるヴァイセント・ヴィールダーは、カント共和国にとって救国の英雄である。そのカント共和国で生まれ育ったトゥール・サイトにとっても、ミリセントは恩人の末裔であり、彼女の為に力を尽くしたいと思うのは当然である。
叶うならトゥール・サイト自身がミリセントの旅に同行してやりたいとすら思うのだが、それは不可能なわけで、しかし、それが叶わないのであれば、誰かにそれを託したいと思うのは当然といえる。
目的さえ間違わなければ、アクィラはミリセントにとって強力な味方となりえる。だからこそ、間違えないようにアクィラを正しく導こうと思ったのだ。
アクィラにとっても、衛士長の厚意は万の軍勢にも勝る援軍となった。誰も彼もが2人を引き離そうとするのに、彼だけはむしろ引き合わせてくれようと努力してくれている。これはミリセントを求めても罪ではないというお墨付きをもらったような気がし、必死に追わなくてもよいという安心感を与えてくれた。
「自分の欲望を満たすためではなく、彼女の幸福の為に行動してください」
「頭では分かっていたはずなのに……ミリさんを見つけた瞬間、頭がおかしくなってしまいました」
「一筋縄ではいかないでしょう。根気よく彼女の信頼を勝ち取ってください」
「わかりました。それでは、行ってきますー」
最後の挨拶はいつもどおりのアクィラの口調に戻っていた。
そして、入れ違いの様に隊商の車列の警備にかりだされていた派遣ガード4人が戻ってくる。
仲間を迎え入れたフィミオは、彼らに労いの言葉をかけつつ朝から大変な、そして貴重な体験をしてしまったことを不満とも満足ともとれない複雑な思いで反芻していた。
長い1日が終わりを告げる時に感じる一種の充実感を味わうが、この場所をミリセントと共に出てギルドに向かおうとした時からまだ2時間も経過していない。つまりまだ午前中で、もっと言えばまだ朝で、1日はこれから始まるわけである。
「やれやれ、銀輪隊商警備も無事出発したようだし、もう事件は起きないだろうな」
相変わらず盛大にフラグをたてるフィミオだった。
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