第30話 「アクィラ・フォレスロッタ」

第三十話 「アクィラ・フォレスロッタ」



 泣きっ面に蜂ということわざがある。

 このことわざの意味をわざわざ行数を割いて説明する必要はないと思うが、要するに悪いことは重なるということだ。これと同じ意味を持つことわざは、意外とたくさんあって、すぐに思いつくものだけでも踏んだり蹴ったりとか弱り目に祟り目など、例を挙げればきりがない。

 悪いことが重なることが多すぎて、こんなにもたくさんのことわざが生まれてしまったのだろう。しかし、良いことが重なることだってあるのだから、そんなことわざもすぐに思い浮かぶだろうと少し頭をひねってみたら、全く思いつかなくて愕然とする。確かに棚から牡丹餅的な思いがけない幸運に巡り合う的なことわざはいくらでもあるのだが、幸運が何度も立て続けに重なる的なことわざは意外と少ない。開いた口に牡丹餅がこれに該当するだろうが、こんなことわざまず日常で聞いたことはない。

 まぁ、こうなる原因はだいたい想像がつく。良いことはすぐに忘れるが、悪いことはずっと覚えているという人の心理から生まれる真理がそこにあるからだ。


 さて、この前置きが本当に必要だったか?と言われると必要だと声を大にしていいたいわけである。そう、今正に泣きっ面に蜂状態だからである。

 そして、ここからが重要なのだが、この状況は見た感じの印象とは全く異なり、命の危機ともいえる危険な状況だということである。


 私の名前はミリセント。それ以上でもそれ以下でもない、ただのミリセントである。

 今、私は超絶美人に後ろから抱きつかれている。これを客観的に見れば、羨ましいとか何のご褒美か?と言われるかもしれないが、実際はそんな生易しいものではないことは、この一部始終を見ていたものなら既にお分かりだと思う。

 この女性の名はアクィラ・フォレスロッタというのだが、その容姿は100人中100人が美人と評するであろう本物の美人で、さらに単純に美しいというだけではなく、相当な実力者と思われる独特の強者のオーラを醸し出し、その実力に見合った素晴らしい装備に身を包んでいる。

 しかし、この絶世の美女にはいろいろと問題があって、天は二物を与えずということわざの通り、非常に厄介な欠点があった。

 その欠点とは単刀直入に言えば変態である。そう変態なのである。しかも頭がよろしくないようで、つまりストレートに言ってバカなのである。バカだから馬鹿力があるのかどうか、その因果関係についてはよくわからないが、とにかく凄まじい腕力を持っていることに間違いなく、締め付けられることによる圧迫感は尋常ではないのだ。これ以上強く締め付けられれば中身が出てしまいそうで、いろいろな意味で大変なのである。

 こういう美人を世間では残念な美人というらしいのだが、美人ならもうそれだけで十分素晴らしいではないか!美人無罪!と思い込んで疑わなかったその個人的見解を改めるに今回の件は十分な材料といえる。

 最期に美女の胸に抱かれて死ねるなら本望だという者は男女問わず必ず一定数以上いると思うし、そのことについてとやかく言うつもりは全くないのだが、彼女が今特殊なフルプレートに身を包んでいるという条件で同じことが言えるかと、条件を提示する前後のアンケートで変化するパーセンテージを比較してみたい心境である。

 鋼鉄に抱かれるその心地悪さをぜひ皆にも味わってほしいものだ。


 泣きっ面に蜂ということわざがある。大事なことなので二回言ったが、自由を奪われ、しかも死と隣り合わせのこの状況が「泣きっ面」に該当する。

 ここに蜂がやってきてはじめてこのことわざが完成するのだが、その蜂の名はリッカー・モンブランなのである。あの悪名高き――か、どうかはわからないが、個人的に苦手でこの際はっきり言ってしまうが、大っ嫌いなあのガードインスペクター様である。

 ガードインスペクターとは、街の治安を守るガード(衛兵)を監視する、軍隊でいうところの憲兵、ミリタリーポリス(MP)のような存在である。

 どの世界においても、憲兵とかMPと呼ばれる存在は何かと煙たがれるもので、おそらくこっちの世界でもそういうものなのだろう。


 ここに現れたのがミツバチならまだマシだと思えるし、なんならミツバチといわずヘラクレスオオカブトあたりが飛んできてくれれば、捕まえて売って大儲けできただろうに……

 彼女をしてスズメバチと評するのは過大評価だろうし、ここはクマバチくらいがお似合いだろう。クマバチ、地方によってはクマンバチなどとも呼ばれるこの見た目強そうな蜂は、見た目どおりの大きな羽音で思わずびっくりしてしまうのだが、意外なことにミツバチの仲間でおとなしい部類の蜂である。別の言い方をすれば見掛け倒しといえなくもないが、これはまさにリッカー・モンブランそのものといえなくもなく、思わず苦笑いがもれそうだ。


 そのリッカー・モンブランは、昨日の大捕り物で捕えた犯罪者を護送する為の緊急の輸送任務を、ここナントの街の冒険者ギルドに発注したと、すぐ横にいるガードのフィミオから既に聞いている。彼女とはもう二度と会うこともないだろうと高をくくっていたが、早すぎる再開に朝から幸先が悪い。

 この時、たまたま滞在していた銀輪隊商警備という運の悪い民間輸送会社がこの護送任務を請け負ったそうである。まぁ、実際には請け負ったというより半ば強制的に命令されたというのが正解だろう。この護送任務中の彼らが味わうであろう息苦しい数日間の心労を思うとご愁傷様としか言いようがない。


 銀輪隊商警備のメンバーは6人。それに護衛の冒険者パーティー6人を合わせた計12名のうちその半分も集合場所に現れず、予定の時間に出発できないでいるモンブラン。

 とっとと出発していれば良かったのにと思うのだが、あまりにもタイトなスケジュールであったため、人が揃わず出発できないという問題が発生した。これは、このスケージュールを組んだモンブランの自業自得以外の何ものでもないだろうが、その遅滞の最大の原因がこの変態女であり、それに巻き込まれてとばっちりを喰うこっちの身にもなってほしいものである。

 こうした背景を知っていれば、リッカー・モンブランの怒りに満ちたその形相にも一定の理解を示す努力をしてあげようというボランティア精神が発揮される可能性があっただろう。この時点ではそうした事情は知らなかったので、そんな殊勝な感情は起こりようがないが……


 さて、改めて状況を整理しよう。

 今、冒険者ギルドの何故か引き戸のドアの真ん前で、アクィラ・フォレスロッタという超絶美人兼変態に、座った状態で後ろからがっちりと拘束されている。どう頑張っても両腕の束縛から逃げることは不可能である。

 土方の力を使えばこの状況はどうとでも出来るが、西カロン地方ではこの能力は使わないと決めているので、これはここでは選択肢に入らない。

 ナントの街の地元ガードであるフィミオ・ティシガーラが一塊になっているアクィラと私の横にいて、拘束を解くように何度も説得してくれていた。フィミオは本当に良い人で、今どきのスマホゲームのキャラクターなら、コメント欄が高評価の雨あられになるのは間違いない。

 その背後、ギルドの建物と私たちとの間に、まだ幼さの残るいかにも駆け出しの冒険者と思しきパーティー5人いや6人と、メイド服姿のギルドの職員のお姉さんが野次馬よろしく遠巻きに傍観している――と、いう状況だった。

 だったという過去形になってしまったのは、そこに新たな登場人物が現れ、怒りのオーラを醸し出しながら蔑んだ目でこちらを見下ろしているという、新たな状況が始まっているからである。

 これを、泣きっ面に蜂と例えたわけだが、何か異論があるだろうか?

 何だって?前門の虎後門の狼のほうが適切?まぁ、確かにそうかもしれないが、それだともう完全に詰んでるので却下である。


「これはどういうことだ?」


 こめかみにマンガのような青筋を立て、これまたアニメの委員長キャラのように腰に手を当てて前かがみに問い詰めてくるリッカー・モンブラン。思わずありがとうございますと言いたい心境になるが、これはそういうフェチだからというわけではなく、今まで一度も経験したことがなかったシチュエーションを体験させてもらった感謝の気持ちからである。サブカル、ポップカルチャー、オタク文化を嗜む者にとって、これは素晴らしく貴重な体験といえよう。

 しかしながら、彼女の質問に対する適当な答えが見つからない。そもそも、この質問をする相手を間違えている。だから答えはこうだ。


「ど、どういうことかと言われましても……」


 モンブランがイラっとする顔を見るのはとても気分がいいのはなぜだろうか。

 前後の事情を知らない通りすがりの第三者がこれを見れば、遊んでいる、或いはサボっているように見えるだろうし、朝っぱらから公衆の面前でいかがわしいことをしているようにも見えなくもない。しかし、この状況を生んだのは自分ではないので、彼女の望む答えは持ち合わせていない。


 フィミオも予想もしなかったモンブランの登場に少し困惑、いや目に見えて狼狽えている。この状況をガードとしての責任を問われてしまったら反論のしようがないからだ。

 冒険者ギルドの戸を外して迷惑をかけたのは間違いないが、問題はその後のアクィラの行動である。あれは明らかに犯罪にあたる危険行為だ。しかし、何故か犯罪フラグが立たないのである。フィミオもそれが不思議でならない様子だ。

 ガードの治安維持行動、例えば相手の動きを止めたり、強化スキルを解除するストップシャウトなどは任意で発動可能だが、それでも職権乱用を避けるために、犯罪フラグが立ってから行動するという基本的な取り決めがある。が、そのフラグが立たないということはこれは合法ということになってしまう。そんな馬鹿な!というのがフィミオの素直な感想である。


「フィミオ・ティシガーラ、この状況はどういうことか?」


 モンブランは質問の相手を変えた。


「ど、どういうことかと言われましても……」


 返答に窮したフィミオがさっきと全く同じセリフを繰り返す。ガードインスペクター相手にウソをつけないフィミオとしては、そうとしか言いようがない。

 そのことを良く知っているモンブランは、はぁと、ひとつため息をつきながら首を振った。腰に握りこぶしを当てたポーズはそのままに、背筋を伸ばしてその場にいる全員を見渡す。その立ち姿は素直に凛々しいと思った。

 モンブランは、そこで見覚えのある顔を発見した。そう、クエストを受け付けたギルド員が野次馬にいたのである。


「緊急のクエストを発注したはずだがどうなっている?護送対象4名は既に護送車に移して出発の準備は整っているはずなんだが?すぐにも出れると聞いたがこれはどういうことかな?」


 モンブランは、努めて冷静に振舞っているようだが、この無理して怒りを抑えている態度が爆発寸前の風船を思わせ、周囲に思いっきり気を遣わせている。そして、本人はあくまで冷静だと自己を過大評価しているようで、周りに悪い印象を与えていることに気付いていない。

 昨日ガードポストの牢屋の前で事情聴取を受けた時は、少なくとも彼女は怒っている様子はなかった。この時の彼女はいけ好かない女だという印象が強かった。しかし、今は怒気を隠そうとしてみっともなく大失敗している。内心未熟者め!と嘲笑ってしまうところだが、正直こっちのほうが年相応の人間らしく、昨日の彼女より好感が持てた。

 感情を抑えていい子ちゃんを装うのはやめた方がいいだろうと、老婆心ながらそう思ってしまう。


「ど、どういうことかと言われましても……」


 と、また同じセリフを言ったところでギロリと睨まれ、流石にまずいと思ったのか言い直すギルド員の女性。3人の質問者の中では最も確信に近いのだからこれはしかたがない。


「い、今から向かうところでして……あはは」


 頭を掻いてごまかすような歯切れの悪い態度をとるギルドの受付兼酒場の給仕係に対し、モンブランは元々低めの凛とした声に、ドスを効かせて更に問い返す。


「そうか?ではこの場に残りの銀輪隊商警備の者や護衛の冒険者がいるということで間違いないな?」


 もう一度周囲を見る。クエストを発注した早朝にはいなかった冒険者、いや恐らくルーキーの亡命者パーティーだろう6人をジロリと睨む。そして、もう1人、ミリセントを抱えてその陰に隠れている女性を見る。


「ん?」


 そこで何かに気付いたモンブランが、大きな反応を示し急に態度が変わった。


「お、お前はアクィラ・フォレスロッタ?何故お前がここに……」


 そう言って本人確認のためにギルド員に一瞥入れる。肩をすくめている姿を見て、それをイエスという返答と受け止めて驚愕するモンブラン。


「(え?このアクィラって人、有名人なの?)」


 変態という皮をかぶっているせいで忘れがちだが、このアクィラという女性が凄まじく強いというのは最初から分かっていた。隣にいたガキ共とは物が違っていたし、格が違い過ぎて場違いだとも思った。

 純粋に戦闘能力だけで判断すれば、有名人であることを疑う理由はない。変態でなければ周囲の尊敬を一身に受けただろう。いや、或いは度を超えた変態具合が彼女を有名にしたと言えなくもない。ガード関係者に知り合いが多いということは、つまりはそういうことと受け取ることができる。

 となれば、ガードインスペクターであるリッカー・モンブランと知己があってもおかしくはないだろう。


「最近噂を聞かないと思ったが、まさかこんな地方の隊商警備に従事していたとはな……」


「(この変態(ヒト)有名なの?)」


 小声でフィミオに尋ねる。


「(ああ、戦時民間人殺害で指名手配経験のある要注意人物だ)」


「(ま、マジで?)」


 ショッキングな話を聞いて正直ビビる以前にドン引きしてしまった。


「(その件はアクィラの責任ではないと判明して罪には問われなかったが、カルマブレイクを起こしてカルマを著しく悪化させてるから、一応要注意人物としてギルド界隈に知られているんだ)」


 話を聞いた限り、冤罪っぽいので少し安心する。もしそれらが事実なら、救いようのない変態ということになってしまう。

 小声で話していたがすぐそばにいるアクィラにもモンブランにもその会話が聞かれている。フィミオの話を聞いた時にアクィラがほんの少し震えたような気がしたが、これは恐らく気のせいではないだろう。きっとあまりしてほしくない話だったに違いない。

 何となく気まずくなったが、モンブランもそれに気づいたのか話を元に戻すためにフィミオにこうなった状況を尋ねる。


「フィミオ、状況説明を」


 アクィラという変態の存在を知ってモンブランの態度が急に冷静になった。先ほどまで聞く耳を持たない感じだったが、今は状況を知るためにフィミオに情報の提供を求める程度に冷静である。

 何となく場の空気が変わった気がしたが、果たしてどうなるか?何もできず俎板の鯉となっているこの現状では、もう黙って成り行きを見守るしかない。


「えーと、かくかくしかじか――で」


 フィミオが説明するために、かくかくしかじかと口にした。これは説明の時間を省くための代用表現で、実際に口に出して言っても意味が通じるわけがない。この状況で渾身のギャグをかましてくるとは恐れ入ったとフィミオを再評価してしまった。


「ちょっ!フィミオ!」


 普通ぶっとばされるだろうと思い、思わず心配になってフィミオにツッコミを入れようとしたが、モンブランは真顔で返した。


「あ、悪いが私は偽証看破スキルをパッシブモードで常時発動している。情報省略スキルは外しているので悪いが内容を口頭で説明してくれ」


 驚いた。びっくりした。ウソの証言を見抜くためのスキルや、情報を省略して時短で伝えるスキルなどが存在したのだ。フィミオのかくかくしかじかは、捨て身のギャグではなく、ただの情報提供スキルだったのだ。


「ミリセント?どうした?」


 途中で口をはさんでしまったことを問いただしてくるモンブランにあははと笑ってごまかす。モンブランの視点からは、私は取るに足らない圧倒的格下に見えているらしいので、「愚か者のする意味のない行為」として簡単に受け流してもらえた。

 一方、フィミオはモンブランからの指示を受けて、これまでの経緯を順に説明している。年下の上司に対しても誠実に対応しているあたり、彼の真面目な性格が表れている。


「なるほど……そういうことか」


「え?どういうこと?」


 フィミオからの状況説明を聞いて1人納得するモンブラン。アクィラの変態行動に対し理解を示すような態度は正直受け入れることはできない。こっちは被害者といっても過言ではないし、ちゃんとこちらにも分かるように説明をしてほしい。

 それを受けてモンブランはこちらの問いに素直に答えてくれた。


「アクィラには慧眼という天賦持ちでな――」


 そこからアクィラについての長い説明が始まってしまった。


 天賦というのは、生まれながらに持っている特別な才能で、ただの『才能』とは似て非なるものである。

 単に『才能』というのはプラス面もマイナス面も含め一定のベクトルを持ち、それを生かすか殺すかは所有者が任意に決めることができる。例えば、馬術の才能を持つものは、例えその才能があったとしても、必ずしも馬に乗る必要性はなく、一生馬とは無縁で没する人も大勢いる。マイナス面の才能はそれを使わないように努力するとか、それを打ち消す別のスキルを身に着けて欠点を補うことも出来るし、敢えてそのマイナス面を利用することもできる。例えば、相手を不快にさせる才能があれば、挑発スキルの効果が倍増するのでタンク職などには都合がいいし、相手に好印象を与える装備で身を固めて不快を魅力で相殺する――などである。


 冒険者ギルドと魔法インフラが敷かれるまでは、当然ながらそれを知るす術などまるでなかった。

 それら才能や天賦といった先天的な資質は、冒険者にならずとも冒険者ギルドで診断することができ、職業の選択等に大いに役立っている。

 また、才能は高確率で遺伝しやすく、西カロン地方で手に職を持つ者は、才能を引き継いだ子供に地位や店舗などの財産を受け継がせるのが一般的である。

 才能が引き継がれたかどうかは、冒険者ギルドで検査をしてみないとわからないが、一般的に15歳前後で確定するといわれている。しかし、20代や30代になってからようやく才能が開花する遅咲きな者も少なからずいて、お家騒動の一因にもなっている。

 才能と違い、天賦は遺伝との因果関係はなく、突然変異的に発現してしまうことが多く、これで人生が狂ってしまう人が意外に多い。アクィラなどは天賦によって完全に人生が狂った典型的な例といえよう。


 天賦というのは、単に個人的なものとして自己完結するものばかりではなく、他者やあるいは地域社会にすら大きな影響を与えてしまうようなものもあり、それはもはや一種の呪いといってもいいだろう。先ほどの馬術で言うなら、馬術の天賦とは一生涯馬に乗ることを強いられることになる。馬が大好きならそれで構わないが、馬が死ぬほど嫌いな人であれば、その人生は悲惨なものになるのは間違いないだろう。

 問題になっているアクィラの慧眼だが、これが才能としての慧眼であれば、本質を見抜く力や高い洞察力ということだけで、ほとんどメリットしかない非常に有用な才能といえる。しかし、これが才能ではなく天賦となると話が大きく変わってくるのである。


 アクィラの慧眼は、才能に満ち溢れた人を見抜く才能であると同時に、それを証明しなければならないという厄介な制約がついているのだ。

 ただ凄い人を見抜くだけなら『慧眼の才能』で事足りるし、それを利用するかどうかは本人次第である。しかし、『慧眼の天賦』となると、一生涯その人の人生をかけて才能を見出すことを強いられることになるのと同時に、その才能が本物であることを世に知らしめる努力をしなければならなくなる。

 アクィラ個人に戦う力や他者をサポートする能力がなければ、この天賦は完全に宝の持ち腐れどころか身の破滅につながる諸刃の剣になってしまう。


 ここに偶然、天賦持ちが居合わせていた。虹ノ義勇団、ジミーことシーフのハヤタである。

 彼の『地味の天賦』は、地味であることを強いられるが、これは極めて個人的なものであり彼の場合は特別なことをしなくても勝手に地味になるので問題はない。強いて言えば、所属するパーティーも地味な活動を強いられ、有名になりずらいという問題がある。いずれ、パーティーの方向性で軋轢が生じる可能性があるかもしれないが、これは何も彼らだけの問題ではない。音楽ユニットが、メンバー個々の音楽性の相違を理由に解散したり再結成したりするなど、こうしたことは、物事を突き詰めていくにつれて自然発生する問題である。

 しかし、アクィラの場合は個人的問題として完結するのではなく、その影響が他者に及ぶことが大前提というのが問題なのである。しかも、彼女は以前、見出した人物を亡くしているのだ。これがアクィラをおかしくさせた原因なのだろうと、モンブランは勝手に結論を出しているが、これは少し早計というものだろう。


 アクィラの出身地は西カロン地方北部ピュオ・プラーハで、両親や家族構成などはわかっていないが、放浪癖があり常に何かを探すようにあちこち旅をする不安定な生活を送っていた。20歳を過ぎた頃、その放浪癖を有効活用できそうな冒険者を目指し、その時冒険者ギルドで受けた適性検査で慧眼の天賦の保有者であることが判明したのである。自分でも不思議に思っていた放浪癖の正体をそこで初めて知った。そして、自分だけの英雄を探す旅をすることになったというわけである。


 アクィラが見つけた英雄は、西カロン地方中部都市国家群の一都市にいた。彼は民間軍事会社を経営し、戦闘においては自ら前線に立って指揮をとるチュードー・クリャバースという人物であった。


 ここで中部都市国家群についても説明しておかなければならないだろう。ちなみに、これはミリセントとも無関係ではない案件である。何故なら、ヴァイセント・ヴィールダーの評価は地域ごとにバラバラで、その子孫であるミリセントに対する印象も地域ごとに差異が出てしまうからである。歴史を知ることで安全な場所とそうでない場所を選別できるわけだ。


 西カロン地方、北部のピュオ・プラーハと南部カント共和国に挟まれた中央部には、小規模な都市国家群が乱立していた。それらの都市は城塞都市を形成し、元々は旧プラーハ王国から離反し独立した領主たちのかつての居城である。

 西カロン地方を蛇行しながら横断するダーヌ川の沿川で発展した商工業を中心とする非常に裕福な土地柄で、これが中部都市国家群の特徴である。

 ここで生まれる富は、ピュオ・プラーハとカント共和国を合わせた富よりも多いとされ、プラーハ王国時代は王国の金庫などとも呼ばれていた。

 この地域の貴族は商人からの所謂成り上がりが多く、プラーハ王国全体でみるとかなり地位が低く、社交界からは下賤と煙たがれ、特に王家の縁戚という以外取り柄のない門閥貴族との間には埋めがたい大きな溝が生じていた。それらは数世代にも亘って鬱屈しマグマのように地の底で蠢いていたのである。


 王国最大の鉱山であるガスビン鉱山を有し、国家予算の実に2割を一つの領地だけで担っていたヴァスカヴィル家がこの時期既に爆発寸前だった不満分子を糾合し謀反に至ったのは、ある意味自然な流れであったのかもしれない。

 このクーデターは、王国に不満を持つ不遇な下級貴族、平民軍人たちの蜂起を促す起爆剤となって、一気に西カロン地方全体に飛び火していったのである。

 謀反を受けたプラーハ王家は、抵抗する準備も与えられないままなす術もなく無条件降伏を受け入れる結果となった。

 プラーハ王家に連なる一族郎党は、女子供に至るまで、王女1人を残してことごとく滅ぼされてしまい、プラーハ王国は事実上滅亡した。代わりにプラーハ王国旧領のほとんどを手中におさめたヴァスカヴィル家当主が皇帝を僭称し、ここにヴァスカヴィル王朝が誕生することになったのである。

 プラーハ王家唯一の生き残りである王女は、ヴァスカヴィル皇帝の側室になることで、旧王家の忠臣を黙らせるという策を弄したが、しかしこれは完全に逆効果で、かえって旧王家の忠臣たちの反発をかった。その後、王女が自害したという噂が立ち、これが様子見をしていた中立派の貴族たちの逆鱗に触れてしまったのである。

 電撃的に王都を攻め落とされたことで、遠く離れた南部、現在のカント共和国に取り残されていた地方貴族たち。そんな散らばっていたプラーハ王家派の貴族たちが反帝国連合を結成し、ヴァスカヴィル帝国に対し徹底抗戦を開始し、ここで地域限定のクーデターが、西カロン地方全体を巻き込む大戦へと発展していったのである。

 しかし、鉱山を要するヴァスカヴィル領と資金の潤沢な中部商業都市を有する帝国軍に敵うはずもなく、反帝国連合は一大決戦で大敗を喫し、その後敗戦に次ぐ敗戦で大幅な後退を余儀なくされた。

 食糧庫といわれた南部穀倉地帯を有する抵抗貴族連合は、穀物を集積地から遠く分散させて配置し帝国軍の進軍を鈍らせ、最南端のカント要塞(現ナントの街)まで後退する時間を稼いだ。

 農地や収穫した穀物を焼くなりして処分していれば、事態は変わっていたかもしれないが、プラーハ派の貴族は、王国から任された農地を傷つけることはせず、あくまで忠義を貫いたのである。


 その後、ある奇跡が起こり、結果だけ言えばこの戦争はプラーハ王国側の逆転勝利に終わった。

 この奇跡はあまりにも常識外れの出来事だったため、後世に正確な情報が伝わっておらず、地域によって大きな差異があった。

 たった1人の魔術師に100万の軍勢が1時間ももたず崩壊するなど、どう考えてもありえないだろうし、敗者側はこの敗戦の言い訳の為に話に尾びれをつけて、まことしやかにウソの情報を流布してまわった。禁忌を侵す強力な魔法によって帝国軍は蹂躙され虐殺されたとする怪伝説が、正史として今に語り継がれている。

 離反した貴族はまとまればなお脅威となっただろうが、ヴァスカヴィル帝国という求心力を失ったことで船頭多くして船山に登る状態となってしまい、元の領地へ戻って独立勢力となってしまったのである。

 これが中部都市国家群となって今に至っているのだ。


 プラーハ王国から離脱した中部都市国家群を形成する各都市国家は、かつての民衆から富を搾取する旧態依然の貴族制度から、民衆が主体の民主制、或いは軍事独裁制など各都市ごとに特色が出始め、それに伴い戦争の形態も大きく変わる。

 食料を南部のカント共和国に依存している西カロン地方全体の事情を鑑み、農地といった国土への被害を出さないための協定が結ばれ、戦争は領土の奪い合いではなく、富を生む利権の奪い合いへと変遷していった。

 富の中には当然人材も含まれ、民間人の殺害は禁止事項となり、戦争は民兵を廃止し旗印を持った軍人だけで行う決まりができた。

 こうした戦時協定は、向こうの世界でも建前として一応存在はしていたが、得てして守られることはなく、律義に守って損をしたのは我が大日本帝国くらいなもである。

 こうした協定は西カロン地方においても絶対に守られることはないだろうと思うだろうが、かつての戦争で100万人の兵士や軍事拠点が一瞬にして無力化されたという故事が未だに中部都市国家群のトラウマとして残り続け、幼少から植え付けられたその恐怖心が規則を遵守する精神を育むという、喜劇とも悲劇ともよべない状況を生んだ。自分たちの名誉を守るために相手を貶めたウソが、数世代後の子孫たちに律義にルールを守る道徳心という名のトラウマを植え付けたのは、歴史の皮肉というものである。


 以上が西カロン地方中部の情勢であり、国土を荒廃させない競技性の強い秩序だった小規模戦争が活発に行われる特殊な土地柄が出来上がっていた。

 これは同時に、戦争そのものがビジネスの対象になることを意味し、傭兵団や民間軍事会社などが当然のように台頭しはじめた。彼らは文字通りしのぎを削るようになったというわけである。


 こうした戦争地帯でアクィラは兵士として力をつけ、指揮官チュードー・クリャバースのもとで名声を得る。しかし、あまりにも強すぎた彼らは、敵対組織の罠にはめられ禁じ手の民間人殺し、しかも大量虐殺という最悪の悪事に手を染めさせられてしまうのである。


「私もそれ以上のことは知らないが、とにかく天賦というのは厄介なもので、人生に大きな影響を及ぼしてしまうということだ」


 アクィラの事情はよく分かったが、自分には正直どうでもいいことである。


「それは理解したけど、だからといってこの状況は許されることなの?」


「もちろん、許されない」


「だったら……」


 アクィラの締め付ける腕の力がほんの少しだけ緩む。彼女の心情を察するに、同情の念を禁じえないが、それはそれ、これはこれである。この拘束を解いてもらわないとまともに話もできない。


「アクィラ、それ以上の拘束は許されない。ただちにミリセントを開放しろ。さもなければ……」


 そこまで言われても、放そうとせず嫌々をするアクィラ。どうしてそこまでするのかさっぱり理解できない。恐らく頭で考える以前に、慧眼の天賦がそうさせているのだろう。


「お前はミリセントに何を見た?カルマか?このカルマは確かにただ者ではないが、お前はこのカルマを見てどうしたいのだ?」


「カルマなんて知りません!この人はとにかくすンごい人なんです!」


 今までだんまりだったアクィラが久しぶりに声を上げる。

 すンごいなどと褒められると、たとえ相手が変態でも照れてしまいそうになるが、具体的に何が凄いのかさっぱりわからない。凄いにも種類やベクトルがあって、良い意味で凄いのとその逆では話が全く違う。

 自分で言うのもなんだが、この犯罪者と似た私のやばいカルマが彼女の琴線に触れたのだろうか?それとも別の要因があるのかもしれない。

 別の要因……土方の力だろうか?相手の詳細な力を具体的に見破ることは慧眼ではできないはずだし、単に普通の人と違うってことだけを漠然と見抜いたということだろうか?或いは犯罪者同士気が合うということだろうか?アクィラは実際に人を殺してしまったらしいが、私は別に何も悪いことはしていないはずなので、共感性的な感情とも違うだろう。


 ここで、アクィラがなぜこちらに興味を示しているのかについて考えている一瞬の間に、周囲の傍観者たちに変化が起こったのに気づいた。モンブランが私のカルマについての話をし出したのを合図に、その場にいた亡命者6名とギルド員が確認の為に一斉に目尻をこすり始めてしまったのだ。


「あ」


「あ」


「あ」


 その後の展開を一瞬で予見したフィミオと私、そして身をもってその意味を知るモンブランを含めた3人が、それぞれの音程で同じ短い言葉を同時に発して絶妙なハーモニーを奏でた。

 そして次の瞬間!


「おわぁー!」


「きゃー!」


「のわぁー!」


「ふぎゃー!」


「ひょえー!」


「ぎゃー!」


「ひぃー!」


 7つの悲鳴が同時に重なり、それはそれは見事なハーモニーとなってナントの街を取り囲む城壁に反響する。

 そして、悲鳴を上げた7人のうち6人がその場で卒倒し、仰向けになって泡を吹く。その中で辛うじて持ちこたえたのはメイド服姿のギルド員の女性である。冒険者ギルドの受付として様々なカルマに接してきた経験が生きたのだろう、みっともなく悲鳴を上げたものの倒れなかったのは流石と言うべきだろうか?

 しかし、ギルド員の女性は、恐怖心から正気を保てず完全な恐慌状態で騒ぎ始めた。


「ガード!ガード!ガード!ガァァァーーードォ!」


 身の安全を確保するためだろう、本能的にガードと叫んで助けを呼ぶ。それも何度も何度もである。一見すると無様にも思える彼女の行動だが、とっさに大声で助けを呼ぶというのは実は簡単なことではない。横で倒れている6人の見習い冒険者はもとより、失神を免れたとしても恐怖で身がすくんで声が出せなくなるか、その場から逃走するのが恐慌状態である。踏みとどまって助けを呼ぶのは、冒険者としての経験が豊富だったり、しっかりと訓練を積んでいるかのどちらかだろう。つまりこのギルド員のお姉さんは結構すごい人なのだ。


「ミーオ!ミーオ・クォーズィミ!俺だ!フィミオだ!ガードはここにいるぞ!」


 ミーオ・クォーズィミとはギルド員の女性の名前だろう。フィミオが彼女の名前を呼んで、ガードが既にここにいて、安全であることを知らせてやる。


「はっ!え?え?フィミオさん?あれ?何で?」


 正気に戻ったミーオ・クォーズィミは、すぐに状況を確かめようとして平静を保とうと努める。しかし、目の前で爆発している私自慢のダークカルマオーラに中てられて中々状況が理解できないでいる。

 フィミオからカルマフィルターをオフにするように助言され、すぐに実行してようやく冷静になることに成功したミーオと呼ばれたギルド員は、この悪魔のようなカルマがすぐそばにあって、何も反応せず平静でいる正規ガードとガードインスペクターの2人を見て、ある程度状況を理解する。

 ギルド員たるもの頭の回転が速くなければ務まらない。この謎の少女とフィミオが一緒にギルドに来たことや、ガードインスペクターがこの辺鄙な街にいること、そして最近騒がしかったことや、犯罪者の緊急護送任務などの諸々が関連しているのだろうと察した。具体的にはよくわかっていないが、このアクィラに異様に好かれた少女の件はガード側としては既に承知しているようだ。

 アクィラの反応なども鑑み、この子は普通の女の子ではない――と、今はそれだけ分かればいい、そう納得するミーオである。


 状況を自分なりに飲み込んで消化することに成功したギルド員の女性を見て、複雑だったのはガードインスペクターのリッカー・モンブランである。

 モンブランは油断していたとはいえ、あのカルマオーラを浴びて白目をむいて失神してしまったのである。ギルド員のミーオとモンブランとでは、相対したミリセントまでの距離が違うので一概に同条件とはいいずらいが、それでも、失神を免れたあとも助けを求める彼女の勇敢さと責任感、使命感を見て、敗北感を覚えずにはいられないのだ。

 このやるせなさをどこかにぶつけてやりたい気分になったが、そんな八つ当たりを実際にやってしまったら周囲はおろか自分自身に幻滅してしまうだろう。

 そうならないように努めて平静を装うも、目の前でキョトンとして身動きできないでいる元凶の少女を見て、さらに苦々しい思いが込み上げる。そう、ほんの昨日のできごとなのだ。自分もそこで無様を晒しているガキにも見える若い冒険者たちと同じように白目をむいて泡を吹いたのだ。思い出しただけではらわたが煮えくり返り、その怒りを自分以外の誰かにぶつけたくなってくる。

 ミリセントに対する敵意が表情に出たのかアクィラがこちらを睨んでいる。ゾッとして思わず視線をそらしてしまった。くそっと口の中でつぶやく。

 肝心のミリセントといえば、ミーオの方を向いてテヘヘと笑いながら舌をペロっと出している。人の気も知らないでと頬っぺたの一つもひっぱたいてやりたい心境になる。

 様々な感情が入り乱れて内心穏やかではない。しかし、今はそれをどうにかすることよりも、任務を優先しなければならない。モンブランは気を取り直して当初の目的を達成させるために動いた。


「お前たちいい加減にしろ!」


 その声の鞭に叩かれたかのようにフィミオも自分がしなければならないことを思い出し、アクィラに拘束を解くようにさらに強く促しはじめる。しかし、やはりアクィラは言うことを効かない。それどころか少女を拘束する腕の力を強める。そして少女は苦痛を訴える。


「あいだだだだだ……死ぬ!マジで死ぬ!」


 これは演技ではなく本気で胴体がへし折られそうだ。

 失神する6人を起こそうとしているギルド員を尻目に、フィミオは直接の上司ではないが、立場が上のガードインスペクターに目配せをし、こくりと小さく顎を下げる彼女の仕草を見て意を決する。そして、大きく息を吸った次の瞬間、アクィラに向けて雷鳴のような咆哮を浴びせる。


「ストォォーーーップ!!!」


 そのストップシャウトに息を吹き返しはじめたルーキー6人はさらに驚いて身体をピンっと張って、打ち上げられた魚の様にビチビチと小さく痙攣する。

 流石の変態アクィラも抵抗することができず震撼して少女を背後から抱きしめる腕の力が抜けた。


「キタァーー!」


 この瞬間をどれほど待ちわびていたことか。

 状況が自身のコントロールを離れて誰かの思惑で進行している最中は、成り行きに身を任せ何もせず無抵抗主義を貫くのが得だと学習していた。そしてそれを今回も忠実に実行した。そして、その甲斐がありこちらにようやく自分で状況をどうにかできるターンが回ってきたのだ。


 ここからは私のターンだ!


 弛緩剤でも注射されたかのようにアクィラの肢体から急速に力が抜けていくのを感じる。チャンス到来だ。


「よし!逃げろー!」


 苦労して開けた金庫の前でガッツポーズをする盗賊の気分になって、間髪入れず文字通りぴゅーっという感じでその場をダッシュで離れる。


「あっ!」


 あっという間に小さくなって通りの向こうにあるガードポストの入口に吸い込まれていくのを見送るフィミオとモンブラン。

 その余りにも見事な逃走劇に、別に敵ではないが、敵ながらあっぱれと素直な賛辞を送りたい心境になるのはフィミオで、モンブランは出し抜かれたと思った。

 この一瞬のためにじっと我慢の子を演じ、千載一遇の時を狙っていたのだろう。この態度は見習わなければならない教訓であると同時に、ミリセントを矮小と侮っていたことを恥じて自戒とした。

 その後2人は顔を見合わせてどうしましょうか?どうしたものか?と互いにアイコンタクトで相談する。

 いずれにしてもミリセントは被害者で、この逃走を逃亡ととることは酷である。

 呼び止めたり、呼び出したりするのは可哀そうだし、ガードポストに入ったというのなら、それは逃げたというより避難したと捉えるのが妥当だろう。


「まーいいか、自分から好き好んでガードポストに入りたがる者はいないだろうしな……」


「え?ええ、そうですね……」


 誰も好き好んでガードポストに入る者はいない。これは、この世界に住む全ての住人の共通した思考である。そして、もしそんな物好きがいるのなら会ってみたいものであるとつぶやき、ガードポストの中に消える少女を見送るモンブラン。

 少女を見送るモンブランの後姿に、フィミオは残念な表情を浮かべていた。


「あ、スィミカ!衛士長!牢屋借りるよーん!」


 そんな物好きがここにいた。

 ガードポストの中から外の様子を見ていた正規ガードでフィミオの同僚であるスィミカ・アリィと、この街のガードのトップであるトゥール・サイト衛士長の間を光の速さで走り抜け牢屋に滑り込む。そして、今入った鉄の格子戸から顔を出し、たった今横をすり抜けたスィミカの名を呼ぶ。


「スィミカ!スィミカ!早くカギ閉めて!早く!早く!」


「いや、別にミリセントは何も悪いことはしてないだろう?」


 牢屋まで追いかけてきたスィミカがやれやれといった様子で、口ではそう言うもののすぐに希望通りカギを閉めてくれた。これでようやく変態から逃れることができた。


「サンキュー!スィミカ!」


 自ら望んで、しかもこんなに嬉しそうに牢屋に入る者が、かつて存在しただろうか?これはおそらく記録にも記憶にも存在しない。それなりに長いガード人生で初めての経験をするスィミカである。


「災難だったな、ミリセント」


 ガードポストの中から一部始終を見ていたスィミカは、見事な逃走劇に対し称賛と労いの言葉をかけてくれる。彼女もフィミオに負けず劣らずの良い人である。


「ミリーでいいよ」


 フィミオと同じようにスィミカも愛称で呼ぶことを許可する。


「ふぃー、いやー娑婆の空気はうめーなー」


「おいおい、それは逆だろミリー」


 牢屋の中で気持ちよさそうに深呼吸をしているところに期待通りのツッコミが入る。そして最後に笑われる。


「え?そうだっけ?なんか私にとっては外のほうが牢獄だわ~」


 牢屋の安心感と居心地の良さといったら、もうずっとこのままでいいやと本気で思えるほどだ。

 これには流石のスィミカも苦笑いである。

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