第11話 「命日」

第十一話 「命日」



 鍛冶屋と聞くと武器や防具を作る場所を真っ先に思い浮かべる。なぜだろうか?

 現代の日本社会で、街中に鍛冶屋があって武器や防具が簡単に手に入るわけではない。むしろ日常生活に最も遠い存在だといえよう。にもかかわらず、鍛冶屋と聞けばすぐにそれらを思い浮かべてしまうのは、アニメやゲームの劇中にあふれているからだろう。

 日常の中で見ない聞かない鍛冶屋の名前も、ファンタジーの世界なら耳慣れた言葉であり、鍛冶というキーワードはそれを構成するうえで外せない、重要な要素の一つになっている。


 耳慣れた言葉なのに、実際のその現場を全く知らない、近くて遠い魅惑の存在。それが鍛冶屋である。


 私の名前はミリセント。ただのミリセントでそれ以上でも、それ以下でもない。

 何故急に鍛冶屋の話をしたかといえば、今は鍛冶場で鍛冶職人のテッサンの見習いで、今日も今日とて鍛冶場で鞴を踏んで、炉に新鮮な空気を送っているからである。


 鍛冶と聞けばロングソードとかアイアンメイルといったファンタジー世界の定番を思い浮かべ、いろいろな妄想がはかどるところであるが、こんな辺鄙な土地にある数名の住人しかいない小さな駅には、それを職業としてやっていけるほどの需要があるわけもなく、普段は日用品の製作や修理が主な仕事である。


 ご先祖様から受け継いだ能力の中に修理修復の能力があるらしく、それを修得するためには修理の基本を身に着ける必要があるのでは?という、今は鍛冶の師匠であるテッサンのありがたいアドバイスのおかげでこの状況に至っているというわけである。


 小娘――中身はおっさんだが――如きが、数日で鍛冶仕事をマスターできるほど世の中甘くはないのだが、鍛冶をマスターするのが目的ではなく、その仕組みを学びたかっただけである。そして、その訓練のおかげで修理の能力を無事修得することができた。

 この能力を使えば、小さな炉の中の貴重な石炭を真っ赤に燃やす必要もなく、簡単な修理が可能になった。

 そして、この修理とセットで修復という能力も身に着けることができた。

 最初はこの2つが別々であることの意味が理解できなかったが、修理は損傷個所に必要な資源を投入して現状を回復させることに対し、修復は製品そのもののコンディションを回復させ新品同様にしてしまうという、似て非なる能力であることがわかったわけである。


 この2つを敢えて分ける必要があるのかと最初は疑問に思っていたのだが、修理は所有者に関係なく使える能力であることに対し、修復は自分の所有物にしか使えないという大きな違いがあったのである。


 他人の持ち物を修復してあげたい場合はどうすればいいのだろうか?と考えた時、最初に思いついたのが所有権の譲渡である。言葉では簡単なのだが、試しに口頭で所有権の譲渡を宣言してもまったく意味がなかった。そこで、書類を作ってサインをしてもらうという手続きを踏んでみたら無事、所有権が移ってくれたのである。

 これをゲーム的に表現するなら、相手のストレージからアイテムを勝手に取り出すのと、トレードを申し込んで合意のもとでアイテムをやりとりするという違いなのだろうと推測できる。


 これらの取引は、鬼籍本人手帳や冒険者証明書、商取引の証書や免状の有無で簡略化されるそうなのだが、ようはそれが無いので面倒くさい書類が必要になったというオチである。


「おい、ミリー、修理ができるようになったんなら、あの馬車を見てくれないか?」


 この駅には馬車と呼べるような馬車は存在しないが、鍛冶場兼倉庫であるこの建物の隅っこに馬車だったものは存在する。テッサンが言っているのはおそらくそれのことだろう。

 この壊れた馬車は、前から気になっていたので、ちょうどよい機会なので詳しく聞いてみることにする。


「あれって何なん?」


「あー、そうだなー……どっから説明したらいいのか……えーと、オレは説明下手なんだよな……悪いが、親父のとこ行って聞いてきてくれないか?」


「ええ?」


 話を振っておいて、説明しずらいから長老に聞いて来いとは、ひどいはなしではないかと思う一方で、何か面白そうな予感もする。最近鍛冶仕事の手伝いばかりで飽きて来たのでちょうどいい。それにこれはゲームでいうところのお使いクエストではないだろうか?

 この世界では何事もゲーム思考で行かなければならないのだ。


「わかった!ちょっと聞いてくる!」


 鞴を踏む足を止めて、さっそく長老のセンザン・マティオの家に向かう。本当は長老ではなく駅長と呼ぶのが正解なのだが、やはり長老のほうが雰囲気があってよい。道の駅などというように、駅=鉄道というわけではないのだが、駅というとどうしても鉄道関係を思い浮かべてしまい、個人的には何かしっくりこないので、長老と呼ぶことにしたのだ。


「長老!」


「ミリー、いいかげんその長老はやめんか」


「えー、なんで?」


「長老というと、おじいさんみたいだろう?駅長か名前で呼べ」


「えー!」


 小さな村で一番偉い人を長老というのはお約束なので、そこは譲れない。


「まぁ、子供の目線ならワシも十分老人か」


 少し寂しそうなセンザンは見た目まだ50代である。確かに長老と呼ぶには若すぎると思わなくもない。


「ところで何か用でもあるのか?」


「あっ、そうだ!おっちゃんの仕事場にある馬車のことを教えて?」


「そんなもの、テッサンに聞けばいいだろう?」


「いや、そのおっちゃんが長老に聞けって……」


「むぅ?なるほど、そういうことか」


「?」


 何か、あの馬車にはいわくつきなエピソードでもあるのだろうか?少しワクワクしてくる。


「あの馬車の説明をする前に、この駅と周辺国との事情を説明しなければならんな」


 450年前にこの土地が発見され、400年前に流刑地となった経緯は学んでいる。

 西カロン地方は400年前の戦争で、北に位置するプラーハ王国と新たに建国された南のカント共和国、そしてその中央に自治領が乱立するという、大きく分けるとこの3つの勢力にわかれていた。

 カント共和国は、元々プラーハ王国の救援のために結成された貴族連合だったので、この2つの国は基本的に友好関係にあり、その中間の中立国は、いうなればプラーハ王国に帰順しない中立或いは敵対勢力ということである。


 プリズンウォールマウンテンをはさんだ西側に位置するここエグザール地方は、プラーハ王国領として広大な土地を有していたが、マナの存在しない枯れた不毛な土地柄で、食料などの生活物資はプラーハ王国から輸送されて成り立っていた。


 友好国であるカント共和国との安全な交流はこのエグザール地方を経由して行われていたのだが、プラーハ王国で評議会制の採用と貴族制度の廃止が推進されていき、情勢に変化が生じはじめる。


 当時のプラーハ王国領は、戦前から三分の一に縮小し、多数の自治勢力と国境を接する危険な状況だった。

 国土防衛のため軍人主導の政治体制になると同時に、既得権益を持つ貴族の財政負担が増え、王国内の対立が深まる。

 国防を支える戦士団と、貴族の私兵である騎士団や王家直属の魔道兵団ほか、さまざまな組織がそれぞれの育成機関を巻き込んで独立組織に変貌し、それらの代表者会議で意思決定がなされ国の方針が決まる評議会制となる。


 そうした国の体制の変化にともない貴族の既得権益が国に没収されていき、貴族たちが路頭に迷うことになってしまった。


 そうした情勢の中、南方のカント共和国は、君主をもたない元貴族中心の議会制を推し進めていた。

 そうした情勢のため、プラーハ王国の貴族たちは、貴族を優遇するカント共和国への亡命を希望し、亡命が盛んに行われ、莫大な金が動く亡命ビジネスが誕生する。


 プラーハ王国としては貴族のもつ資産を国営化できると同時に、貴族制の廃止を推進できることもあり、この亡命ブームを事実上黙認した。

 しかし、莫大な資金を持ったままの引っ越しは不安定な中立地帯では危険を伴い、そうした情報を入手した敵対自治領や野党、さらに不運なモンスターとの遭遇など、襲撃事件が多発してしまう。

 そこで、遠回りだが当時比較的安全なエグザール地方を経由した裏道亡命が活発におこなわれることになった。

 さらに、財政難に陥り借金の返済にあえいでいた中立化した弱小貴族も、この亡命を夜逃げに利用しはじめ、エグザール地方の人の往来が活発に行われることになった。


 カント共和国はもともと複数の貴族連合であったが、敗戦後領地を放棄して南端のカント要塞に逃げ込んだ、いわば敗残兵の集まりだった。戦後、領地は回復したものの人的被害が甚大で、広大な国土の運営には、領地経営の経験がある貴族の知的財産が必要で、彼らの亡命は大歓迎であった。


 2国間の利害が一致した亡命を支えていたのが信用のおける輸送業者で、亡命成功報酬で大きな輸送業者に成長した。これがいわゆる亡命ビジネスの発端で、当時は複数の業者が存在していた。


 しかし、400年の月日が経った頃には、西カロン地方は安定して勢力図もほぼ固まり、同時に亡命も夜逃げもほとんど行われなくなって久しく、次第に亡命ビジネスも廃れてしまい、さらに流刑地としてもほとんど利用されなくなる。

 そして、約20年前にプラーハ王国側の山道の大崩落が起きてしまい、エグザール地方との直接行路が完全に遮断されてしまったのである。


 エグザール地方の駅はプラーハ王国領土だが、人材を受け入れるカント共和国側が駅の維持を請け負う立場だったため、駅に住む住人はプラーハ王国から委託されて派遣されるカント共和国の人間である。

 つまり、テッサンたちはカント共和国の人間ということである。


「――と、まーこんな経緯があったわけだ」


「ふ~ん、つまりあの馬車はその亡命者が使っていたってこと?」


「そういうことになるが……」


「なるが?続きがあるの?」


「ふむ、本当かどうかわからないが、あの馬車はどうやらプラーハ王家の偽装馬車だと、見つけてきた行商人が言っているのだ」


「偽装馬車?」


「荷台だけの幌馬車とはわけが違う、貴族や王族が乗る儀礼用の馬車のことだな」


「なんでそんなものが?」


「駅からカント領までの道は良いのだが、プラーハ王国からここまでは山越えと、山間部の隘路続きで、当然事故も多かったのだ」


「事故車か……」


「ここにくる白馬運輸商会が、駅の補給ついでに事故車捜索をするんだが、その時見つけたものらしいのだ」


「王家の馬車ってことは、プラーハってもう王様いないのかな?」


「王族といってもたくさんいるだろうからな。まぁ、今はピュオ・プラーハという国名に変わって、王族は象徴のようなものになってしまったが……」


「ほむほむ」


 プラーハ王国とかカント共和国など行ったこともないし、これからも行く予定がないので、正直その変の事情は完全に他人事である。

 ただ、補給物資を届ける輸送業者がいて、白馬運輸商会というらしいのだが、もしかしたら、その業者の人とは既に顔見知りかもしれないので、来る前にその情報を仕入れておきたい。


「その業者の人とは、私顔見知り?」


「ん?ああ、既に何度も会っているな」


「なるほど、顔見知り……と」


「そういえば、そろそろ定期便が来る頃だな」


 白馬運輸商会以外の業者は既に撤退しているらしいが、その唯一の輸送業者がそろそろ来る頃だという。

 物資として届けられるのは、食料や日用品をはじめ、テッサンが鍛冶で使う金属や石炭、他の住人の希望の品、そして西カロン地方の情報である。


「ありがとう、長老!」


 駅長に礼を言って、テッサンの元に戻ろうと外に出る。


「おや?」


 駅長の自宅兼領事館でもある駅で唯一の木造の建物から外に出ると、手前にテッサンの仕事場、そしてそれよりもっと奥に風車が見える。その鍛冶場と風車の間の比較的広いスペースに二頭引きの大きな幌馬車が見えた。あれが定期便に間違いないだろう。


「お!噂をすればなんとやら!」


 この長老との会話イベントが終わるまで、その辺で出待ちしていたのではと勘ぐってしまうような絶妙なタイミングでの登場である。

 1人用のゲームならそうなのだろうが、この世界は多人数参加型なので、そういうギミックはおそらくないだろうと思いたいが、この地域が隔離エリアで、この少女のアバターを巡って何度も繰り返された挑戦の数々を考えると、ここに至るまでも引き続きチュートリアルの真っ最中なのではないかと思ってしまう。


 テッサンと、おそらく業者と思われる身なりの良い小太りの男性が何やら話し込んでいる様子が見える。

 見るからに商人を思わせる雰囲気の男性が、長老宅の玄関口に立っているこちらに気付いたようで、それを見てテッサンもこちらを向く。何やら少し話し込んだ後、テッサンが手を振ってこっちにこいと合図を送ってくるので、小走りに駆け寄っていく。


「こんにちは、ミリー。久しぶりだなぁーって、何も覚えてないんだったか……」


 こちらを見る小太りな男の表情はとても友好的だったが、能力覚醒で記憶が飛んでいることをテッサンから既に聞いたようで、少しの同情と落胆が混ざり合った微妙さを含んだ顔をしている。


「てへへ」


 てへへ笑いでごまかすしかないが、この行商のおじさんも駅の住人同様良い人のようで安心する。

 能力で調べなくても、こちらを見る表情と態度で、友好的かどうかはすぐにわかるのは、ゲームアサイラムのシステムと同じ、カルマによる縛りがあるからだろう。

 カルマシステムによって1人から繋がる交友関係には一定の繋がりが生まれる。ようするに、良い人は同じく良い人同士が集まりやすいということである。もしこの行商のおじさんがカルマの合わない人であるなら、テッサンの態度も違ってくるということである。


「慣れないときは大人しかったが、今は昔とほとんどかわんねーな」


 テッサンが一応フォローしてくれるが、これは裏表のない彼の素直な性格の表れだろう。


「記憶が無くなって別人になってしまったかと思ったが、確かに私の知ってるミリーのようで安心したよ」


 一人称が私の白馬運輸商会の男性は、お腹の突き出た小太りな体型で、その体系にぴったりと合わせた特注と思われる薄茶色のクラシックゴルフウェア――のような服をオシャレに着こなしている。ベレー帽とちょび髭も絶妙だ。


 頭をよしよしと撫でられる。初めての感覚になんだか少し気分がよかったが、ハゲたテッサンの顔を見て、忘れていた馬車のことを何故か思い出す。


「そういえば、おっちゃん。馬車の件は?」


「おお、そうだった。サダール、ミリーのやつ修理修復ができるようになったんだ。あの馬車もしかしたら復元できるかもしれないぞ」


 サダールというのはこのオシャレなほうのおっちゃんの名前なのだろう。テッサンよりも少し年配のようだが、タメ口で話せる親しい友人のようである。


「それは本当か?」


「うん、まぁ、できなくもなさそうだけど、私の力は元の形に戻すしかできなくて……」


「すばらしい!私としては応急修理ではなく、完全に元通りに復元してほしかったのだよ!」


「でも、それには足りない分の材料とか資源がないと……それと他人の所有物は盗みになっちゃうから……」


 修復、つまりもとの形に復元できると聞いて、感激しているサダールのおじさんには申し訳ないが、そうは問屋が卸さないのだ。


「ふむ、具体的に私は何をすれば復元が可能かね?」


「えーと、高品質の木材とか鉄とか?あとガラス?あ、豪華な装飾品に使われている貴金属とかも」


「ふむふむ」


 メモを取り始めるサダールを見て、馬車の調査解析をしながら他に細かいところも付け加えていく。


「それで、今言った材料ってのは、新品のものじゃなくても廃材とかで問題ないよ」


「廃材?本当に廃材でよいのかね?」


「うん、取り壊す予定の古い家とか、ぜんぜん壊れててかまわないから、なるべく品質のよいところを……理想はこの馬車と同じ時代のものかな?」


「ふむ、なるほど、古い家を取り壊す話はいくつかあったな……うむ!この条件なら問題ない、お安い御用だよ。むしろ処分してくれるのなら資金的に大助かりだ」


「あと、一旦この馬車の所有権を私に譲って。直したら返すから」


「それも問題ない。何か書類を書けばよいのかな?」


 流石、商人だけに話がはやい。


「そうしてもらえると助かります」


 契約っぽい話になって思わず敬語になってしまった。


「……さっきは昔のままと言ったが、何やら大人になったようだね」


 にっこりとほほ笑むサダールは、またポンポンと頭をなでてくれる。

 完全に子ども扱いだが、中身おっさんとしても悪い気はしなかった。


「普段はちゃらんぽらんだが、例の能力に関してはしっかりしてるし、これがまた頼りになるんだな」


 ちゃらんぽらんは余計だが、テッサンも素直にほめてくれる。なんだかくすぐったい。

 ここの住人というか、この世界の住人は、自分自身を偽らない。よほど捻くれた性質を自分に課していなければ、皆自らの人格とキャラ設定とカルマ通りの態度をとる。

 これまでの人生の中で、親にも褒められたことなどなかったが、ここにきて一月も経っていないのに、一生分褒められてしまった。いいことばかりで、逆に怖くなってくる。


「廃材の件は近いうちになんとかしよう。廃材に関しても書類は必要かな?」


「うん、お願い」


「ここはもう半年以内に全部引き払うが、そうなったら白馬運輸も契約解除になるのか?」


「物資運搬の契約は解除になるが、越境の免状はなくなるわけじゃありませんからね、来ようと思えばいつでもこれますよ」


「でも、ここに人がいなくなったら来る必要なくない?」


「ミリーにはわからないと思いますが、旧街道は宝の山なのですよ」


「亡命貴族がだいぶ事故で亡くなってるし、物資を落としたり捨てたりで、未回収の物資がけっこうあの山には眠ってるって噂なんだ」


「ほほぅ!」


 宝の山と聞いて思わず目が輝いてしまう。この前のゴブリン退治でゲットしたワインの戦利品も、そうした放棄物資なのかもしれない。


「あの馬車は恐らくプラーハ王家の盗まれた偽装馬車。単に骨董的価値だけではなく歴史的価値も計り知れないのですよ」


「まぁ、こんな感じで、サダールはあの馬車にご執心ってわけだ」


「しかし、夢物語だった馬車の復元が、これで叶うかもしれないとは……」


 少しオーバーアクションなサダールは天を仰ぎ涙を流している。これは単なる金持ちの道楽を越えた、正真正銘の彼の夢なのだろう。

 自分のことをここまでよく思ってくれている人たちなら、何としてもその夢を叶えてあげたいと素直に思えてしまう。

 こんな風に素直に誰かのために頑張りたいと思えたことが、これまでの人生の中であっただろうか?


 自分自身でありながら、自分という実感がまるでない、このミリセントというアバターの中の人は本当に中田 中(あたる)本人なのだろうか?

 住む環境や、周囲の関係性、そして自身の能力によって、人生の景色が大きく変わってくる。

 大人になればできることが増えて、子供の頃にさんざんさぼってきた努力を挽回できると、そんなくだらない幻想を抱き続けているうちに、どうやって死ぬか以外に考えることがなくなってしまった。

 人生において、幼少期というのはとても重要なのだと今更ながら痛感する。あの時がんばっていれば……しかし、後の祭りとはこのことで、次に生まれてくるときは、この失敗を糧にして良い人生を歩んでほしいものだと、自分自身の来世を応援したくなる。


「そうだサダール、ミリーのカルマ見たか?」


「カルマ?どれどれ……うわっ!な、何ですかこのカルマは……こんなカルマ今まで見たことがない……」


「てへへ、自分では何がどうなっているのかわからないんだけどね……」


 自分のカルマを初めて見た人は皆、同じリアクションをする。もう見慣れたわけだが、そこまで驚かなくてもいいじゃないか!と、最初は結構傷ついたものである。


「いやー、驚いた……でもミリー、このカルマはある意味ラッキーだと思った方がいい」


「え?何で?」


 突然サダールがおかしなことを言い始める。このカルマのどこがラッキーだというのだろうか?これまで、サダールおじさんのことを良い人と思っていたが、勘違いしていたのだろうか?


「このカルマを街の人が見れば100人中99人が、驚いて犯罪者扱いをするでしょう。でも、その中に1人でも、カルマではなくミリー自身の人柄を見てくれる人が必ずいます」


 突然真顔になったサダールが、両肩をがしっと掴んで顔を寄せてくる。驚いて思わずその拘束から逃れようとしたが、その真剣な眼差しに魅入られたかのように身体が固まってしまう。


「そういう者こそ、真の友と呼べる存在なのですよ。これから先、その特殊なカルマのせいでひどい差別を受けたり、或いは暴言どころか暴力をふるわれるかもしれない。それでも、ミリーを一人の人間として扱ってくれる人が必ずいる。そういう人たちの話はしっかり聞きなさい。いいね?」


「……あれ?」


 何故か涙があふれていた。自分の意思に反して涙があふれてとまらない。

 これは真剣に自分を思っての助言だ。かわいそうな境遇にある少女に対する励ましの言葉なのだろう。

 外見は少女だが中身はおっさんなので、サダールのこの反応に最初どうリアクションしてよいのかわからなかったが、それでもその言葉は、このおっさんの心に突き刺さってしまったのだ。

 真実を知らないサダールに対して、申し訳ない気持ちと同時に、その言葉がとてもありがたく、感謝の気持ちでいっぱいになった。


 こんなのマンガやアニメでしかみたことがない。こんなシーンを身をもって体験することなど想像もしていなかった。


「亡命ビジネスなど、まっとうな商売では決してない。いうなれば反社会的なビジネスともいえるものだよ。でも、それで助かっている人たちも大勢いた」


「サダールのサガ一族は何百年も後ろ指さされてきただろうしな。オレたちだって流刑地という場所での仕事をしていれば、同じような目でみられるかもしれねーしな」


「私も、ミリーのカルマをとやかく言えるようなご立派なカルマを持ち合わせているわけではないし、それでいろいろ苦労してきたからね。カルマでしか人を判断しない人はとても多い。結局は、カルマではなく真心を込めた仕事ぶりを評価してくれる相手と長くお付き合いすることになるのだよ」


 サダールは肩に置いた手を放して後ろに腕をくんで背を向ける。

 その隙に――というわけではないが、涙を拭いて鼻を思いっきりすすって、居住まいを正す。


 大人が真剣に子供の将来を憂いて助言をする。こういう体験を子供の頃にしていれば、もしかしたら自分の人生は今とはだいぶ違っていたのかもしれない。


「カルマは人を判断するうえでとても便利な指標だが、しかし、同時にそれは本質を見えなくする目くらましにもなる。これは年長者からの助言だよ」


 振り向いてまた頭をなでなでされる。


 ここで何を言えばいいのか分かっている。しかし、その短い言葉がなかなか出てこない。単にそれをそのまま音として発音することは簡単だ。しかし、そこに心をこめることがこんなにも難しいものだということを初めて知って愕然とする。50年弱生きてきて、誰かに本当の想いをしっかりと伝えたことなど、今の一度も無かったことに気づかされたのだ。

 どれほど愚かでつまらない人生を歩んできたのだろうかと、後悔しか出てこない。


「あ、あの……」


 何かを言おうとして声が詰まる。

 相手に思いをくみ取ってもらおうなどと思ってはいけない。やはりここはしっかりと口にして感謝を表さなければいけない。でないと、次の機会は恐らくない。


 勇気を出せ自分!


「あ、ありがとう」


 言えた。こんな簡単なことが、なぜ今までできなかったのか……




 誰彼時、駅から少し離れた何もない枯れた大地に立ち尽くし、星がまばらな薄闇の空をただ茫然と眺めている。


 正直ショックだった。


 これまで生きてきた中で何千何万という言葉を音として発し、紙に描き、そしてネットに垂れ流してきた。そのどれもがカタチだけのものだったことを思い知った。


 心が無かった。


 子供の頃はどこにでもいる野球少年だった。小学生高学年の時に生まれて初めてクラスの女子から告白された。クラスメイトから茶化されたり、噂になるのが嫌で結局返事を保留したまま月日が流れた。

 強がって発した言葉で、もしかしたらその子を傷つけていたのかもしれない。


 幼かった。


 家族は何も教えてくれないし、そもそも教えてもらうようなことでもない。

 ただその時何も答えを出さなかった、出せなかったことが今でも心の片隅に引っかかって、小学五年生のままずっと心を置き去りにして体だけが大きくなってしまった。


 高校生以降は親友とよべるような友達もできず、会社に入ってもただ真面目に働いて、便利に都合よくこき使われた。今にして思えば何を考えているのかわからない人間だと思われていたのかもしれない。


 こちらから踏み込まないし、誰にも踏み込ませない。


 仕事はできても結局誰も近づかない孤独な存在で生きて来たのだ。

 もし、その孤独に耐えられないほど弱い人間なら、多少は自分を替えようと努力していたのかもしれないが、孤独に対する耐性が人一倍あったようで、むしろ独りが良かった。


 サダールのおじさんの真剣な眼差しが今でも脳裏から離れない。


 他人にあそこまで真剣になれるのだろうかと、最初は猜疑心を抱いていた。

 だが、その言葉に心が宿っていることを直に感じた時、魂が揺さぶられた。

 身体が動かなかった。言葉という形のない存在が、まるで物理的な塊となって身体の中に流れ込んで血肉となっていくのを感じた。


 永く生きればいいというものではない。自分は人として未完成だったのだ。


 恥ずかしかった。自分をさらけ出すのが怖かった。

 本心を吐き出して、それが否定された時、自分をどう保てばいいのかわからなかった。ただただ傷つきたくなかった。


 どうすれば良かったのだろうか?


 過去を振り返ってもしようがない。ミリセントとしての自分は、本当の自分ではなく、中田 中(あたる)であり、自分にはもう未来がないので後悔のしようもない。

 この世界の片隅でミリセントとして生きていくしかないのである。

 ロールプレイ。つまり役を演じるということである。


「そうか……」


 人生もまた自分という役割を演じるということだったのかもしれない。

 中田 中(あたる)は人間として何も演じていなかったのだ。


「よし!」


 小さな両の手で頬をパンパンと叩いて気合を入れる。

 もう、迷うことはない。ミリセントとして生きていこう。


 今日が中田 中(あたる)の命日である。

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