第4話 「鬼籍」
第四話 「鬼籍」
フワフワした感覚
何も見えないが真っ暗ではない
真っ白だがまぶしくはない
夢?
遠くから声が聞こえる
誰かに呼ばれているような気がする
聞き覚えがあるような――初めて聞くような
声がだんだん近づいてくる――女の子の声だ
誰だろう?
お兄ちゃん?
その声はオレを兄と呼ぶ
兄はいるが、妹がいた記憶はない
人違いだろう
ありがとう?
礼を言われることは何もしていない
消えそうな私の手を握っていてくれた?
何を言っているのだろうか?
女の子の手を握ったら警察に捕まってしまうじゃないか
また、ありがとうと言われた
あれ?変だな――視界がぼやけている
泣いているのか?
早く戻れ?
なぜ?
私がお兄ちゃんを殺してしまう前に?
急に物騒なことを言わないでくれ
泣かないでくれ
いやオレが泣いているのか?
今度は自分の内から声が聞こえる
オレはずっと独り芝居でもしていたのか?
意味がわからない
まぁいいか
どうせまた夢なんだろう
最近夢と現実の区別がつかない
……
…………
「はっ!」
目が覚めた!
思いっきり目が覚めた。
目が覚めたはいいが、身体が動かない。
何かの力が働いているように身体が重い。金縛りという奴だろうか?何かに乗られて身動きがとれないようだ。
なんだろうこの臭い。見覚えがある独特の獣臭!
思い出した!
手負いとはいえ、あの巨大なクマのそばで迂闊にも眠ってしまったのだ。
喰われるのか?いや、もう既に喰われてしまったのか?或いは今まさにムシャムシャされているのか?
目を開くとそこには巨大なクマの顔?あれ?……いや、小っちゃいクマの顔があった。
そのクマに思いっきりなめられた。
クマは1頭だけではなかった。もう1頭の小さな顔が視界に入ってきた。
同じようになめられた。それはもうペロペロペロペロと延々になめられ続けられた。
この状況に頭が追い付かない。
あの巨大なクマが2頭に分裂し、その割合だけ小さくなってしまったのか?
いや、そんなことはありえないだろう。そもそも割合でいうならあと5頭くらい増えてないとおかしい。
これは単純に子熊2頭にいたずらされている状況だ。
そういえば、あの巨大なクマは2頭の子供がいる母グマだったはず。
ということは、そばに昨日のあの巨大なクマがいるはずだ。
これはまずいと子熊を力いっぱい払いのける。
子熊と言えど中型犬以上の重さがある。苦労してなんとか上体を起こす。すると今度は膝と背中から2頭がかりでサンドイッチしてきて立ちあがれない。
「こらぁ!いいかげんにしろ!」
さすがにいたずらが過ぎると、怒っているポーズを見せて子熊を脅かす。
その時背後に何か気配を感じた。
(は!まさか……)
いつの間にかまとわりつく子熊がいない。
恐る恐る後ろを振り向く。顔が引きつっているのを自覚する。
(い、いたー!)
昨日のクマがいた。間違いなくあの死闘を演じた巨大なクマだ。さぞ昨日のことを根に持っていることだろう。
目と鼻の先というのはこういうことをいうのだろう。いやちょっと違うだろうが、とにかく鼻の頭どうしがくっつきそうなほど近い。これが可愛い女の子なら恥ずかしくて赤面するところだが、相手がクマだとまったくそんな気にはならない。
鼻息どころかクマの体温が顔全体に伝わってくる。思わず息をとめてしまい、別の意味で顔が赤くなりそうだ。
(そうか、この子熊たちのエサになるのか……)
昨日は死んではなるものかと必死に逃げていたし、今も逃げようとすればあの例の便利な能力で簡単に逃げられるはず。しかし、一生懸命子育てをするクマの心情を思うと、なんだかかわいそうになって、これまでにはなかった感情が芽生えると同時に、妙に肝が据わって覚悟が決まってくる。
これはまずい。死を覚悟してしまっている――と、冷静に自己分析をする自分がいる。
自分に学や才能があれば辞世の句でも読んで、その死に華のひとつも添えられるところだが、あいにくそんなものは何一つ持ち合わせていない。
記憶が走馬灯のように頭の中をぐるぐると駆け巡り始める。いよいよもうダメかもしれない。
こうなると我が人生を振り返りたくなる衝動にかられてしまう。
オレの名前は『中田 中』。中と書いて『あたる』と読む。
この苗字と名前の組み合わせのおかげで、様々な愛称で呼ばれたのは、想像に難くないだろう。
そんなオレは、もうすぐ生後半世紀になろうとしている。ようするに、いい年のおっさんである。
一身上の都合で12月いっぱいで勤めている会社を辞め、年が明ければ晴れて憧れのニート生活が待っている。
そんな、どうしようもない独身のおっさんである。
思うところがあって会社を辞めたのだが、正直なところ長生きはしたくないと思い始めたため、人生を前倒ししようとこんな選択をしてしまったのである。
突然何を言い出すかと思うだろうが、この考え方の変化が巡り巡って今の状況を生んでいるのだ――と先に宣言しておきたい。
数年前までは、定年まで働いて残りの人生は悠々と年金暮らしなんてことを漠然と考えていた。
しかし、現実は世知辛く、死ぬまで働くか、収入が低ければ若いうちから老後のために貯金をしていかなければならない。そうやって、少ない収入で貯金をしながら今日まで、ひたすら働いてきたわけだ。
何も考えず日々を過ごしていたが、ここにきて会社を辞めたくなる理由が生まれた。
それは、老後のためと、一生懸命働いて子育てしながらも貯金をしていた父親が、仕事を辞めた途端に痴ほうが始まってしまい、70歳半ばでとうとう家族の顔すらわからなくなって、養護施設送りとなってしまったことである。
小さい頃から老後の為に貯金しろと父から子守唄のように言い聞かされて育ったわけだが、自分の子供をそう躾けてきた父親が、ご覧のありさまになってしまったのは、驚きとともにとても残念で、そしてなによりその無常な現実に失望した。
無趣味で、仕事が生き甲斐の人が、仕事を辞めた途端にボケるという話は、時々耳にする。しかし、それが身内に起こるなど思いもよらなかった。
自分は父の言いつけ通り、仕事と貯金一筋で生きて来た。つまり父の今は未来の自分の姿でもあるのだ。
こうはなりたくない。この思いがすべてだった。
老後に対する考え方が180度変わってしまった。
大きな病気や怪我をして、命の大切さを改めて知り、人生観が変わるというような大げさな話ではない。
部屋のカギを閉め忘れたかもしれないと、家を出てから気になって戻って確認するみたいな、そんなちっぽけなはなしなのだ。
そのちっぽけなことが老いてしまうとできなくなってしまう。閉め忘れたことすら忘れてそのまま部屋を出ていったきり、もう戻ってこれなくなるのが老いなのだ。
だからそうなる前に、やりたかったこと、やらずにいたことを振り返ってもう一度ゆっくり確認したかった。
それを見つけることができなければ、そこからまた新しい人生をスタートさせればいい。
もし、幸運にもその何かを見つけることができたなら、戻ってそこから再スタートすればいい。
その決断をする機会を父から与えてもらった。背中を押してもらった――そう考えれば父の現状を素直に受け入れて、前に進むことができるのではないか?
しかし、その矢先の死神登場だった。
歩んできた道を外れて、別の道を進もうとした瞬間、足元がガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
貯金がたっぷり残っているとはいえ、ニートになって自分のやりたいことだけやるというのは社会から見ればあまりよいことではないだろう。
そんな馬鹿な選択をした天罰だと最初は思った。
しかし、そんなものが些細なことに思えるようなある驚愕の事実が判明した。
自分の中に姉妹がいるというのだ。
運命のいたずらか?
初めからそうなると決まっていた既定路線だったのか?
いずれにしても自分の中では、自分の選択が運命を変えたと信じた。
だから死神の任務を――最悪の結果が待っていようとも――受け入れたのだ。
死神の任務を遂行する。
だが、どうせ死ぬならクマのエサになるのも悪くない――と思ってしまう破滅願望を持つ自分も確かに存在する。
死というものが避けられないとするならば、どちらの死に意味があるのだろうか?どちらに価値があるだろうか?
死に方を天秤にかけてみる。
母グマと対決して決着をつけなければならないとして、実際そうした場合、残されるこの2頭の子熊は今後どうなるのだろうか?
親離れしていない子熊から親を奪えばどうなるかなど少し想像力をはたらかせればすぐにわかることだ。
もう一度無力化するか?この子熊たちのいる目の前で……
後味の悪い思いをして生き延びて、その後でやっぱり殺されるか。
潔くここで喰われて死ぬか。
今更、人生の展望を描くことに意味があるとは思っていない。
だが、人生をどう締めくくるかは自分の意思で決められる。父はもう自分ではどうすることもできないが、自分ならまだ間に合う。
巨大なクマの息づかいを感じながらしばらく見つめ合う。
生殺与奪を相手に預けてみるのも一興かもしれない。
逃げたって、投げ出したって、あきらめたって別にいいじゃないか。あたる
目を閉じる。
次の瞬間、生暖かいザラっとした何かが顔面を下から上に通り過ぎた。思わずアッパーカットでも喰らったかのように顔が強制的に上を向いてしまう。
さらにまた同じ感触で上を向かされてよくわからない。
「うわっぷ!」
3回目でようやくわかった。ベロンベロンと顔をなめられていたのだ。
クマの舌はかなり長い。しかもクマ自体が巨大なので舌もそれに比例して大きい。この舌だけで焼肉10人前以上になりそうだ。
少女の小さな顔だとなめられているというより、もう軽く食べられている感覚である。
3回目のベロンでなめるのをやめたクマは、こちらに背を向けてそのままノシノシと山の方へ歩き出す。
2頭の子熊がまたからんでくるが、母親が離れていったのに気づいて慌てて追いかけていく。
(…………助かった?)
ゆっくり立ち上がってクマの後姿を見守る。予想外のことでそのあとどうすればいいのかわからず、完全に思考が停止してしまった。
やがて、やるせない気持ちがふつふつと湧き上がってくる。走馬灯を見ながら死について散々かっこいいことを考えていたのに、この昂った思いを今更どこにしまえというのか。
(……かっこわるぃ)
さらし者になった気分だ。一人で勝手に盛り上がって……穴があったら入りたい。今から掘るか……
しばらくぼーっと途方に暮れていると、クマが斜面の途中で立ち止まって振り向きこちらを見つめている。
(ん!?……ついてこいってことかな?)
一瞬ためらったが、また別の物語が始まりそうで、意を決して後を追いかけることにした。
タタタタっと軽快に足が動く。昨日はあまり意識していなかったが、地面を踏む感触がおっさんの時とはだいぶ感触が違う。体の重いおっさんだと膝にくるので走るのがつらい。
すぐに追いついてとなりに並ぶとクマはまた前を向いて山の頂上方向へ歩き出す。モフモフというよりゴモゴモした毛皮に覆われた身体に触れてみたが、2頭の子持ちの肝っ玉母さんは特に気にするようすもなく、こちらの好きにさせてくれる。
それにくらべて自分の器の小ささを痛感する。
野生の力を間近に感じながら自己を顧みる。50歳になろうとしている独身おっさんの無力さに涙が出てきそうだ。自分は今までの人生でいったい何をしてきたのだろう。
こんなことを言うと『また始まった』と言われるかもしれない。歳をとるということは、こういうめんどくさい生き物になるということだ。
内心落ち込んでいると、子熊がまたしても足に絡んだり身体をよじのぼろうとする。
子供といっても母親がこの巨体である。体格差から考えるとまだ1歳未満の赤ちゃんではないだろうか?
クマは長いと3歳くらいまで親離れしないらしい。これは子供の頃に見た動物番組や動物図鑑で得た知識である。
3、4年ぐらい前に『熊の子殺し』などというショッキングな映像をテレビで見たことがあるが、子連れのメス熊は発情しないので、オスがメスを発情させるために、連れている子熊を殺してしまうというのだ。信じられないと思うがこれは真実である。
北海道のヒグマの母親は、子育て中にオスに子供を殺されないように、敢えて人間の里近くで子育てをするという。オス熊は警戒心が強く人里に近づかないのを利用しているのだ。母は強しだ。
もしかしたらこのクマの親子もオス熊から逃れるために人里近くに降りてきてるのかもしれない。ということはこのあたりに人間の集落があるのかもしれない。
ただの推測ではあるが、子供のころやテレビで得た知識が役立つとは思ってもみなかった。
子熊たちはまだ赤ちゃんのようだが、とはいえ体重は軽く10キログラムを超えている。この――中身おっさんだけど――少女の体重は恐らく40キログラム以下だと推察できるので、2頭合わせて自分の体重の半分以上もある元気な子熊を相手にするということである。これはかなりの重労働だ。試しに1頭持ち上げて抱っこしたが結構大変である。
おっさんの時のイメージで持ち上げようとすると、ギックリ腰になるかもしれないので注意が必要だ。
走ったり動き回る時はこの身体は都合がいいが、力仕事に関してはおっさんのままがよかったと痛感する。
しばらく母グマと並んで歩いていたが、子熊がいいかげん鬱陶しくて小走りでぐるぐる逃げ回る。子熊たちは喜んで追いかけてくる。
マイペースで歩く母グマを中心に2匹を連れまわしながら周囲をぐるぐるまわっていると、1匹が逆走して挟み撃ちを仕掛けてくる。それを母グマの背中を跳び箱にして反対側に逃げる。子熊たちはそれを見てさらに喜んで追いかけてくる。その繰り返しである。
そんなベビーシッターを引き受けている間にも母グマはゆっくり歩いている。どうやら真っすぐ山の頂上を目指しているようだ。
次第に木々がばらつきはじめた。見ると頂上付近は完全に開けた広場になっているようだ。
おそらくそこが目的地だろうと思い、子熊たちを引き連れながらゴールへ走っていく。
山というよりもなだらかな丘といった感じだろうか。
視界が開けると正面右に雪をまとった尖がった尾根で続いている山並みがはるか遠くに見える。その手前にもいくつかの緑まばらな群青色の山が重なって見える。周りを見渡すと綺麗な三角形の山が幾重にも見える。
どの山も山肌がところどころ露出し、生えている樹木は、どれも針葉樹ばかりでこの丘の周辺だけが落葉樹で囲まれていることに違和感を覚えた。
この丘は明らかに人の手が入っている――というよりも人の手で山ごと造りだしたようにも思える。それは冗談だとしても、そのくらいこの場所が周囲の山と不釣り合いなのだ。
広場の中央付近に周囲の土や下草に半分埋もれた、時代を感じる古い石畳と建物の基礎跡が見える。そしてその中央にこんもりとした瓦礫の山が目に留まる。比較的最近瓦礫になったばかりの何か建物の残骸ではないだろうか?
昔ここにそこそこ大きな建物があったことは伺えるが、この瓦礫はその名残だろうか。
子熊たちに追いつかれる前に、その気になる瓦礫の場所に向かう。
(なんだろう?)
この場所になにやら既視感がある。
何かを思い出そうとしてキョロキョロしているとついに子熊に追いつかれ後ろから両足同時にタックルされて転ばされる。あとは執拗なペロペロ攻撃である。これが子猫とか子犬なら幸せを堪能できたところだが、1頭あたり体重10キログラムを超える、しかも肉食獣の子供である。もはや無駄な抵抗はあきらめて無防備を宣言する。
なぜこんなにも好かれるのかわからないが、もしかしたらこれはクマの親子のピクニックで、自分はおいしいお弁当なのではないだろうか?
このペロペロ攻撃は、はやく食べたい!食べたい!というサインではないか?
天気も景色も絶好のピクニック日和で主役のお弁当をさぁ召し上がれ。
半分冗談だが、もしそうなっても別にいいやという、ある意味悟りの境地である。
なめられてばかりもシャクなので、今度はこちらからナデナデ攻撃をしかける。すると子熊たちは受け身になってもっとなでろと要求してくる。最初からそうすればよかったのだ。逃げたり嫌がったりするから追いかけてくるのだ。
子熊の攻略方法を見つけて主導権を奪い返したころ、ようやく母グマの登場である。
何かを探すように周囲を見渡したあと、こちらを一瞥してから瓦礫に向かうと、なにやらガサゴソとその残骸の山をほじくりかえしはじめる。
その意味ありげな行動が気になって立ち上がり、母グマの方に歩いていく。
子熊たちは先ほどとは違い、おとなしく後ろをついてくる。
周囲を見渡しながら忘れている何かを思い出そうとする。
歯に何か挟まったまま、なかなか取れないあの絶妙な不快感。
そうこうしているうちに母グマの作業がおわったらしく、場所を明け渡すように後ろに下がってこちらを見つめてくる。
なんだろうと思いながら、瓦礫を掘り返していた場所にいくと、1冊の手帳のようなものがそこにあった。
例の力『調査解析』を使い、それが何なのかを探る。
結論から言えば丈夫な厚紙で出来たただの帳面である。
危険なものではなさそうなので、そのオレンジ色の表紙の手帳のようなものを拾い上げる。
「あっそうだ!思い出した!」
手帳を手に取った瞬間、唐突に思い出した。
そう、ここに飛ばされて目を開いたとき、この年金手帳のような冊子を持ってこのあたりに立っていたのだ。そして、たまたま通りすがり?のクマの親子と目が合い、その巨体にビビッて逃げてしまい、そこから追いかけっこがはじまったのだ。
その際、ここに建っていた掘立小屋を盾代わりにしようとしたら、小屋をそのままなぎ倒して、そこから昨日のあの命がけの鬼ごっこがはじまったのだ。
おそらくその時、この手帳を落としてしまったのだろう。
今考えると、あそこで逃げなければクマもムキになって追ってこなかったのではないか……
チュートリアルがクリアできなかったのは、あそこで皆逃げてしまったからではないか?
今更それを言ってもはじまらない。今はなぜその手帳をクマが探してくれたのか?という疑問に答えを出すのが先だ。
やっぱりこのクマは本物の森のクマさんなのではないだろうか?いや、それはひとまず置いておくとして、もしかしたらこの手帳をゲットするまでがチュートリアルだったのだろうか?或いはまだまだこの先も引き続きチュートリアルは続くのか?
得意のゲーム的思考でありがちな条件に当てはめて考えれば、クマを殺した戦利品として獲得できるはずだった手帳が、助けたことで入手方法が変わり、それがこの状況ということだろうか?
つまり、この手帳はどのような条件でクマを攻略しても必ず手にはいるように仕組まれている必須アイテムということではないか?
いや、そもそも手帳は初めから持っていたので、あそこで逃げずにクマと親睦を深めていれば、チュートリアルはそれで無事終了だったのではないか?
昨日のあの死闘は別にしなくてもよかったのではないのか?
(…………)
考えるのはやめよう。もう終わったことだ。
今はこの手帳について調べるのが建設的だ。
「どっから見ても年金手帳だな」
表紙の色や材質、大きさなど、どこから見ても年金手帳にそっくりである。
年金手帳は親が管理してたり勤め先で預かっていたりで、若い人は見たこともない人もいるだろうが、転職とか退職とかいろいろ経験すると必ずお世話になる。免許証がなければ身分証のかわりのひとつとしても使える。
ちなみに年金手帳は青色とオレンジ色の二種類あるが、発行された年代で表紙の色がかわる。自分が持っているのはオレンジ色の表紙のほうである。
もはや年金を受給できる年まで生きられないのが確定しているので、もう考えなくてよいはずなのに、オレンジ色の手帳を見た瞬間、すぐに年金手帳を思い出すのは何か悲しいものがある。
「……鬼籍本人手帳?」
手帳の表紙にはそう書いてあった。
鬼籍というのは、死んだ人の名や死亡年月日が書かれた帳面で、閻魔帳ともいうらしい。そういえばここはあの世側にあるのだから、戸籍ではなく鬼籍で正しいのか。
向こうの世界の戸籍抄本みたいなものか?
「つまりオレ――あ、いや、私は死んだのか?」
何気なく普段通りの『オレ』という主に男性が使う定番の一人称を使ってしまったが、この声でオレというのは聞いててものすごく違和感があったので、一応言い直してみた。
一人称はたくさんあるが、やはり声、口調とキャラクターが合っていないと違和感を通り越して不快感につながる。
この少女に合いそうな一人称を何通りか試してみたが、無難に『わたし』でよさそうである。というか正直これ以外の一人称はおっさんには荷が重い。
それはともかくとして、鬼籍というのが気になる。
手帳を開いて見たいという好奇心が抑えられないが、これを開いてしまうと自分の命日がわかってしまうのではないのか?
思わずマンガのような生唾を飲んでしまう。
クマたちに注目されている。
何だこのプレッシャーは?成り行き上絶対開かないと先に進めないイベントなのか?
手帳をひらいた瞬間ファンファーレが鳴ってチュートリアルクリアになるのだろうか?
(…………)
ダメだ。開けない。
自分の死ぬ日時を見るのが正直怖い。この任務が終われば恐らく高い確率で死が待っているのだから、何も恐れることはないと思うかもしれない。しかし、まだほんのわずかでも希望があるのならそこにすがりたい。
我ながら情けない。
この状況をいったん保留したい。
その許可を求めるため無言でクマを見たが、ただこちらを見つめ返すだけだ。
どうすればいいのだろうか?
(……!?)
いいことを思いついた。
例の能力『分解収集』で一時的にストレージに保管しておけばいい。
(さっそく分解――と)
「よし!これでどうだ?」
手元から手帳が消える。
この結果の是非を問うため、両手を開いて何も持ってないよとクマたちにお伺いを立ててみる。我ながらこれはうまいことごまかせたのではないか?
(……あれ?やっぱダメかな?)
クマは小首をかしげているだけである。
ついついゲーム的にものを考えてしまったが、このクマは純粋に助けたお礼をするために落とし物を探して返そうとしているだけなのではないか?
見たくなければポケットにでもしまっておけばよかったのではないか?
(しょうがない、手帳をもとに戻すか……あれ?)
ストレージに手帳が見当たらない。
(……)
(…………)
(………………)
「や、やってもーーーーたああああああああぁぁぁぁ!!!!」
分解収集は、オブジェクトをそのまま収納する能力ではない。構造を分解して資源にしてしまう能力である。
つまりあの手帳は単なる紙というわずかな資源となってストレージに収納されてしまったのである。
やってしまった。バックアップをとる前に重要なデータに上書き保存してしまった時のアレと同じで、サーっと血の気が引いていく。
仕事で何度かそんなことを経験したが、まさかあの世でもやらかすとは思ってもみなかった。
ガクッと膝が落ち、前に崩れる上体を支えるために地面に両手をつき、頭が重力に逆らえずうなだれる。
どこから見ても完璧な例のアスキーアート状態である。
しかし、この状態は長くは続かなかった。今までおとなしかった子熊たちは、スイッチが入ったように嬉しそうに競い合って背中に乗っかってくる。このポーズを見て遊んでもらえると思ったのだろう。
その重さに耐えられず――というより耐える気すら起こせず地面に押しつぶされる。
あまりのショックに無抵抗のまま、ただひたすら子熊たちのおもちゃになる。
これを見た母グマは、そのポーズをお礼と受け取ったのか、その場から離れ樹木のあるほうへと歩き出す。恩は返したクマということだろう。
「待ってええええ~見捨てないでええええ~もう1回やり直してえええ~」
子熊に抑え込まれたまま母グマの後姿に向かってカムバック・クマ~と、泣きの待ったをかけるが後の祭りである。
母グマが遠ざかっているのに気づいて子熊たちも慌ててあとを追いかける。
1人むなしく取り残される。
一陣の風が吹き抜けていくというのがお約束だが、あいにく今は無風である。
風を待ってしばらくそうしていたが、あきらめてゆっくりと立ち上がる。
念のため分解した素材が元に戻らないか、再構成を試してみる。
「……やっぱりだめか」
取り出せたのは、手帳を構成したものと同じ分量の大きな無地の紙1枚だけである。
その時、待ってましたとばかりに一陣の風が吹いて、その手から紙を奪い去っていく。
「あああぁぁ~、待ってえええぇ~」
20歩くらい追いかけたところであきらめた。
「はぁ~」
あの手帳はとても重要なアイテムではなかったのだろうか?普通のゲームなら大切なアイテムは処分できないようになっているものだが……
この世界が人工的に作られた仮想現実世界のMMORPGならおそらくそうなっていただろうが、ここは『リアルのあの世で創られた世界』である。
何を言っているのか自分でもよくわからないが、橘 頼蔵と名乗った死神のいうとおりの世界がここに存在している以上、それを信じるという前提で動くしか選択肢はない。
「……ま、いっか」
情報を持ち帰ればそこで任務完了でもとの世界に戻ることができる。そして、その情報をもとに頼蔵が用意した凄腕エージェントがこのチュートリアルをもう一度クリアして、晴れてこの少女は別の誰かに引き継がれる。めでたしめでたしである。
この世界から退去する方法はだいたい想像がつく。ここで死ぬか、向こうにいる自分を殺せばいいのだ。
あのイカれた死神が、労をねぎらって何かご褒美をくれるとは到底思えない。
どう考えても詰んでいる。
「鬼籍本人手帳か……」
もしかしたらと、スケベ根性出してこの状況を保留しようとして完全に墓穴をほった。
もう見れないとなると余計に見たくなる。こんなことなら見ておけばよかった。
「そうすればあきらめもついたのに……」
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