第2話 「決着」

第二話 「決着」


 クマとの追いかけっこは未だに続いている。

 能力のひとつ――と思われる回避の力が覚醒したことで、クマの脅威レベルが格段に下がった。情報収集が任務の一つになっているので、これで準備が整ったといえる。

 何度目かの対峙で、すべての攻撃をことごとく回避されているクマは、さすがにおかしいと感じているのだろう。その目から怒りよりも、冷静さと警戒心が強くあらわれている。しきりに鼻をならし、匂いでこちらを分析しているようだ。

 クマもクマなりに考えているということだろう。攻撃を自重して、こちらの隙をうかがいはじめており、さらに手ごわくなりそうだ。しかしその反面、調査には都合がいい歓迎すべき流れだという前向な見方もできる。


 意識を集中すると発動するスローモーション状態は、当初それ自体が一つの能力と思っていたが、どうやらオブジェクトを解析する際に発生する効果で、たまたま回避行動に都合がよかっただけのようである。

 『調査解析』能力はクマだけではなく周囲の木々、地面の土にいたるまで、この世界を構成するあらゆるオブジェクト――動物や静止物について、その名称や状態を確認できる能力のようだ。

 この能力を何度か使っていくうちに、クマの状態以外にも倒すことで得られる資源情報という新しい項目を確認できるようになった。

 チュートリアルという名の通り、能力が徐々にアンロックされ、さらにそれを学習できるということだろう。


 現実とゲームが融合したような世界、これが『あの世』ということだろうか。いや、現実の世界とあの世は、自由に行き来できないだけでひとつの世界にくくられているのだから、『あの世の中に何者かによって創り出された異世界』としたほうがしっくりくるだろう。


 どちらにしても不親切極まりない状況で、これがもしゲームなら秒でクソゲー認定されるに違いない――と、これだけは自信をもっていえる。

 しかし――ということは、現実という名のゲームもまたクソゲーということになる。

 現実をヌルゲーで生きている人たちがうらやましい限りである。


(クソゲーか……昔そうよばれていた『神ゲー』に一時期はまってたな……)


 神ゲーとはクソゲーの反対の意味であるが、そのどちらも個人の主観によるところが大きく、絶対無二の世界共通基準があるわけではない。

 ゲーム雑誌やユーザーのレビューなど多くのサンプルから評価が導き出された結果、一般論として神ゲーとクソゲーに振り分けられる。

 しかし、過去に遊んだとあるゲームの中に、そうした従来の基準にあてはまらないものがあった。それは『自分としては神ゲーだが、他人にはクソゲーだろうからおすすめできない』的な評価で、そのゲームは残念ながら今は存在していない。


 そのゲームは主にネット配信から世界中に拡散し、やがてアニメやコミックなどのジャンルに展開し、ゲームだけではなくサブカル業界に大きな影響をあたえ、メディアミックスの成功例としてマスコミからも注目された。

 しかし、ゲームと――主にアニメのファンの間で対立が起こり、さらにゲームの大幅改変、プロデューサーの更迭と自殺によって、マスメディアが手のひらを返して社会的弾圧が始まり、一瞬にしてそのゲームは市場から抹殺されてしまったのだ。


(タイトルはたしか、『アサイラム』だったか……あの時は楽しかったな……)


 なぜこのタイミングでこのタイトルを思い出したのだろうか?と腑に落ちない何かを感じたが、それはともかくとして、オンラインゲームの一時代を築いた名(迷)作だったのは間違いない。

 このゲームもたしかチュートリアルはクマとの戦闘だったことを思い出す。

 スキル制のアクションRPGだったので、レベルを上げて物理で殴る的なパワープレーができない、完全にプレーヤーの能力――知力と反射神経と想像力に依存したゲームで、そうしたアクション系のゲームに慣れた人でないとチュートリアルすら突破が困難だった。

 さらに高い自由度を謳っていたとおりPK(プレーヤー・キル)も可能で、アニメやコミックからウキウキでゲームに入ってくる初心者が、その高すぎる難易度に門前払いとなってしまったのである。

 彼らはゲームの運営側に猛然と抗議したが、コアなゲーマーはそれに反発し、ビギナーとの間で対立が発生してしまう。こうしたことは他のジャンルでも時折起こっていたが、このゲームの場合ではアニメ側が人気絶頂の時期だっただけに問題は深刻だった。

 当時市場規模的にアニメ・コミック側が圧倒的優勢で、スポンサーの意向もあってゲーム側はすぐに劣勢になっていた。

 このゲームの作者であり、メインプログラマーの河上和正プロデューサーは、現役プレーヤー側に立ち、難易度調整に反対した。そこから対立構造がより深刻化し、公式サイトや氏のSNSは大炎上してしまう。

 当時の彼へのバッシングは常軌を逸したもので、本人だけでなく家族まで脅迫され、氏の子供たちが学校でいじめをうけるなど、正常な日常生活が送れないほどにまでおいつめられ、最終的に引退という形で現場から身を引いた。

 これで一件落着かと思われたが、引退表明の一週間後、住宅火災で河上家一家全員死亡というショッキングな事件が発生し、自殺、放火殺人事件などあらゆる方面で警察も動き、多くの関係者が事情聴取され業界は騒然となった。

 最終的に無理心中という線で決着したが、新聞テレビといったマスメディアは、この事件を例によってゲームは社会的に悪であるという、いつもどおりの論調で非難するネガティブキャンペーンを展開し、アサイラムという存在は社会的に抹殺されてしまったのである。


 アサイラムのチュートリアルではだいぶ苦労した。この状況に既視感を覚え、あの時はずいぶん世話になったなと、こちらの世界のクマに八つ当たりする。

 そういえば、ここはあの世にある世界だ。亡くなった氏や家族ももしかしたら……


(まさか、な……)


 いくらなんでも飛躍しすぎである。あれはもう10年前の出来事なのだ。


 首を振って頭を切り替える。

 クマとの追いかけっこも一段落し、周辺の情報収集も完了した。

 頭の中に予備の脳でもついているかのように、収集した情報がいつでも閲覧できた。

 ゲームであれば画面を見ながらマウスやコントローラーで――つまり物理的に手や指を動かして行うが、考えたことやりたいことが頭の中で行える。同時にいくつもの処理を並行して行えるという、今まで体験したことのない感覚である。

 電脳や外部記憶装置など、SF作品の世界設定が実用化した暁には、インターフェースはこんな感覚になるのだろうか。

 教えられてもいないのに、こんなことができてしまうのは、様々なアニメやマンガの作品に触れることで、それぞれの独自設定が自身の中で常識として昇華されてしまったからだろう。逆に言えば、ゲームやアニメに触れたことのない人がこの状況に直面した時、インスピレーションが働かずパニックを起こしてしまうかもしれない。

 もしかしたら――というか、おそらくこのチュートリアルに挑戦した1000人の女性は、文武両道で優秀な人材だったがサブカルとは無関係だったのではないだろうか?

 だとするならこれは男女の問題ではない気がする。勉学・運動・オタク活動を同時並行して実践するエリートオタクがどれくらい存在するのかわからない。勉学とオタクは兼任できるだろうが、そこに運動となると途端にハードルが高くなる。

 そうした人をスカウトすればすぐに成功していたのかもしれないが、今となっては完全に後の祭りだ。

 ちなみにこのおっさんは、やや運動とややオタク寄りで勉学はからっきしである。


 それにしても、子供のころアニメの世界は、大人になれば実現するだろうと信じて疑わなかった。しかし、40年経った今も夢の彼方にある。時代がアニメに追いつくのにあとどのくらいの月日を要するのだろうか?


 無駄な追いかけっこをする時代はとうに終わり、次の時代は睨みあいだ――というのは冗談にしても、これまでの劣勢を挽回し睨み合いまでに持ち直したのは称賛に値するのではないか?

 互いの目を見ながら一定の距離を保ち、互いの一挙手一投足に目を光らせている。

 侍同士の一騎討ちさながらの緊迫感だが、端から見ると少女とクマである。たまたま通りすがりの人がこれ見たら、どんな感想を述べるだろうか?


 そんな睨み合いの中、一歩一歩ゆっくりと移動しているうちに、一本のブナの木が視界に入ってくる。

 特に何をするでもなく、何気に幹に触れ情報を確認する。


(ん?)


 ここで新しい情報を発見した。

 頭の中に『分解』というキーワードが発生したのだ。分解というのはどういう意味だろうか?そのままの意味で受け取れば、ブナの木をバラバラに砕いてしまうということになる。そんなことが果たしてできるのだろうか?できるのなら目の前のクマもバラバラにできてしまうのではないだろうか?それはそれで楽なのだろうが、かなりバイオレンスでもある。


 その時、一瞬足を止めてしまったのが合図になって再びクマが襲い掛かってくる。


(ぶ、分解!)


 不意打ちに驚き、考える間もなく、とっさにその分解を試してしまう。

 すると、ブナの木が大小さまざまな無数の立方体に分割されるのとほぼ同時にはじけるように一瞬で根っこごと消えてしまう。


「おわっ!」


 思いもよらなかった突然のできごとにびっくりして思わずひっくり返りそうになった。

 今の手品のような現象を見てクマもかなり驚いたのだろう、突進をやめ、前足を突っ張って急停止を試みて失敗し、おしりをついたままズサーっとスライディングして近づいてくる。そして停止した反動で前につんのめる。1メートルしか離れていないところでお互いに目が合い、そのあとクマは慌てて元の位置に戻り、何事もなかったかのように様子見にはいる。

 クマの動きはコミカルで普通なら吹き出すところだったが、その行動に「わかる」と心から同意した。


 互いに動けずまたしても膠着状態になった。クマもびっくりしただろうが、こちらもそれに負けず劣らずである。そしてもう一つびっくりしたことがあった。

 今、思わず声を上げたが、この身体になって初めて声を出したことに気づいたのだ。


 頭の中で何かを考える時、思考を言語化し、その文字列を無意識に心の声で読み上げている。つまり、中身がおっさんなので、外見的には少女――いや、美少女でも心の声は元のおっさんのままということだ。

 今初めて自分の肉声を自分の耳で聴いて、頭の中が軽く混乱している。

 それは確かに女性の声だった。可愛い声だと思ったが、記憶に刻まれた自分の野太い声と違い過ぎて、脳が理解できず軽くパニックを起こしている。決して萌え萌えで悶絶しているわけではない。

 この驚きをどう例えれば理解してもらえるのか――寝ている隙にヘリウムガスを吸わされ、朝起きた開口一番の声が『それ』だったら誰だってびっくりするだろう。つまりそういうことである。


 心を落ち着け、喉に手をあてながら、あーあーと少し発声練習をして耳を慣らす。その行動はクマにしてみればさぞ珍妙に映っただろう。やばいヤツと思われてそのまま去ってくれてもよかっただろうが、それはそれで悲しい。


 落ち着いたと思ったら、次から次へと新しい発見が出てくる。

 声のインパクトが強すぎて忘れそうになったが、あの『分解』という力が、この少女の能力の最終系ということだろうか?

 いや、そう決めつけるのはまだ早い。まだ何か隠れた能力があるに違いない。次は驚かないぞと小さな手を握りしめる。


 分解したブナの木は消えてしまったが、どうやら木材や繊維質の資源として取得しているようだ。脳内ストレージに獲得した資源と量が見える。つまりこれは『分解』だけではなく『分解収集』ということだろう。

 クマの情報も更新され、倒すことができれば毛皮や肉、クマの脂といった資源がどのくらい獲得できるかわかるようになった。もちろんクマだけではなく周囲の樹木や草、土などもだ。


 オブジェクトを壊して資源として収集し、それを加工したり積み上げだりして建物やアイテムを作れるゲームがあったような気がする。もしかしたら、この少女はそういう能力を持っているということだろうか。

 異世界というとMMORPG(大規模多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム)を真っ先に思い描くが、この世界はそれとはまったくジャンルの違う世界なのかもしれない。


 だんだんとこの少女の扱い方がわかってきた。


 分解した資源は、細かく切り刻んで現物をストレージに格納するのではなく、一度分子――のようなものに還元してしまうのだろう。取り出すときは『取り出す』ではなく『再構成』だ。

 再構成は元の木の形にはもどらない。分解した時点で木材と繊維質などの構成要素に分離されているので別の形で実体化する。

 資源を組み合わせて何か別のものを作る――いわゆる合成やクラフトをすることは現状ではできないようだ。いずれできるようになるかは不明だが、今はオブジェクトをバラバラに分解し、それぞれ再構成して実体化させることだけである。


 そういうわけでさっそく再構成を試す。


 ゲームであればマウスやコントローラーを駆使するチマチマとした作業になるが、この能力は頭でイメージするだけでいい。

 木造建築物――民家の柱をイメージして確保している資源すべてを使って再構成する。すると、目の前に背丈の倍もある太い角材が空中に現れる。まるで手品のようで感動すると同時に、いろいろ応用できる力だと直感する。『たらい』を用意できれば、何もないところから誰かの頭に落とすことができるかもしれない。夢が広がる。

 もしこの力が世界に一人だけの固有のものであれば――と考えると高難易度のチュートリアルも納得がいくというものだ。


 再構成して実体化した角材は予想したよりもはるかに重く、持ち上げて振り回せるものではなかった。分量を調整すれば武器として扱えるくらいに軽くすることもできるだろう。しかし、非力な少女の腕力で振り回せる程度の棒きれでは巨大なクマに対抗できない。


 空中に出現した角材はニュートンの運動法則にしたがってドスンと大きな音をたてて地面に縦に落ちる。そしてバランスを崩して、さらに大きな音をたてて横に倒れる。倒れた瞬間、アニメの演出のように身体が宙に浮きあがりそうな衝撃がくる。おそらく200キログラム以上はあったであろうその角材の下敷きになれば、この華奢な身体ではひとたまりもない。

 心の準備をしていたので目の前に突然現れた角材に対しての驚きは半減しているが、クマはかなり驚いたようで、今度は苛立ちが出てくる。さっきまでクマにいじめられている立場だったが、いつの間にか力関係が逆転し、こちらがストレスを与える側になっているようだ。


 分解や再構成は出来たものの、実体化したものを浮かせたり、持ち上げたり、飛ばしたりする魔法のような不思議な能力はさすがにないようで、一連の動作はただクマを驚かせただけで終わる。


 だが、これでようやくこのクマの攻略方法が見えてきた。


 物理の法則は難しく考えなくても日常的な現象として誰もが体験していることだ。

 今ここで起こっている物理現象が、現実の世界と同じ挙動であるなら、この二つの世界は同じ物理法則が働いているといえる。感覚的にだが重力も1Gで間違いないだろう。

 先ほど角材が空中に出現したあと、重力に逆らえず地面に落ちて倒れる様は、まさに物理の法則通り――つまり現実と同じ動きだった。

 クマにはこちらの何倍もの質量があり、それが全力で走れば、大きな運動エネルギーを持つことになる。

 貧弱な身体のままでは有効打は与えられない。他に方法があるとすれば、それは相手の力を利用することだけである。


「よし!」


 攻略プランが完成した。

 決意と気合を声としてはき出して体の力を抜くと、間髪入れず麓の方向へ走りだす。

 今自分がいるのは山側で、麓の方向にクマがいるので、まずはその横を通り過ぎなければならない。

 こちらの行動に対し、四つん這いだったクマは、ラスボスの最終形態かのごとく二本足で立ちあがる。

 デカっ!っと思わずその大きさと迫力に圧倒されるが、すでに腹はくくっている。そのまま真正面からクマに突進して攻撃を誘う。とびかかってくる瞬間、意識を集中して例の力を発動する。攻撃の当たらないラインを狙ってスライディングでクマの脇の下を抜き去っていく。刃物を持っていればすれ違いざまに切りつけられるところだが、それはまた次の機会にしておこう。

 とにかく身体が小さくすばしっこいので、針の穴を通すような繊細かつ大胆な動きができる。

 能力を使った回避をするとクマはほぼ確実にこちらを見失ってしまうので、手を叩き大声をあげて後ろにいることを敢えて知らせてやる。

 追いかけてくるクマを背後に感じながら、緩やかな斜面をくだり、十分な速度になるまで偽装逃走を続ける。逃げるのは卑怯というが、逃げるという選択肢を選べる時点でこちらに戦術的優位性がある証拠だ。恥じる必要などなにもない。


 そろそろ頃合いというところで振り向いて止まり、足を払う動作をする。これによって地面の土が分解収集されて大きな穴が開く。つまり落とし穴だ。

 立ち上がったものの結局四つん這いになって追いかけるクマの顔の位置は意外と低く、穴の存在を直前まで認識できないはずだ。

 穴の存在を隠すために敢えて注意を引く必要があり、穴のそばに立って待機する。

 あと3メートル、2メートル、バックステップで穴の後ろに下がって十分な距離をとる。

 前足に力をこめようと地面を叩いたクマだが、そこに地面はなく思い切り空振りするように穴に頭から飛び込んでしまい、逆立ち状態になった。


「よっしゃー!」


 拳を突き上げる――普通の少女がしないような少し下品なガッツポーズをする。

 あまりにも作戦通り過ぎて小躍りしそうである。


 逆立ち状態からずるずると穴に落ちていき姿が見えなくなる。中から低いうめき声が聞こえる。おそるおそる近づく。穴をそーっと覗き込もうとした瞬間、予想通りクマが穴から飛び出してくる。

 それを例の能力で難なく回避する。この能力がある以上、クマがどんな擬態をしても見破れる。お前はすでにこちらの手のひらで踊っているのだよ――と、内心ほくそ笑む。

 穴から這い出して来るクマの雰囲気がかわっている。そこそこのダメージを負っているようだが、怒りと興奮で痛覚がマヒし、冷静さを完全に失っている。

 私をここまでコケにしたのは、あなたがはじめてですよ――とクマの気持ちを心の中で代弁する。いや、或いは――

 ついに俺を本気にさせてしまったな!――のほうがよかったかもしれない。

 クマのつぶらな瞳から正気が消えうせ完全にやばい人、いやクマの目つきになっている。形勢逆転今度はクマのターンか?

 しかし、ここまで完全に想定内である。この程度で致命傷を与えられるとは最初から思っていない。ここからが仕上げである。


 グワーっという今まで聞いたことのない雄たけびを上げ、襲い掛かってくる何も知らないクマ。すぐにまた偽装逃走を始める。

 周辺の地形を確認し、斜面の勾配がきつくなっていく方向へ誘導する。

 クマは後先考えずひたすら牙をむいて追いかけてくる。状態は激昂――バーサク状態である。この状態は一般的に攻撃力アップ、防御力ダウンであるが、この世界にもそういったゲームのようなシステムが適用されているかはわからない。つい、そんなふうに考えてしまうのがゲーマーのゲーマーたる所以だろう。


 斜面がきつくなりスピードが上がりすぎて走るのも危なくなりつつある。クマはもはやブレーキをかけるといった思考すら働かず、坂を転げ落ちてくるように向かってくる。これを狙っていた。

 チラリと視線だけで上を見る。次に下を見る。そして、立ち止まってクマに向き直り、片足を斜面の山側に踏みこみ斜に構える。

 頃合いである。

 少女のかたちをしたおっさんは、ここぞとばかりに地面を踏み鳴らす。

 すると、立っている位置の地面が飛び出すように一気に盛り上がる。軽い身体はその勢いで跳ね上がる。そして、突進してくるクマは最後は文字通り転がりながら、その盛り上がった地面に乗り上げて、少女の下をそのまま突っ切っていく。

 斜面の途中の土盛り。それはスキーのジャンプ台と同じである。坂を転げ落ちてくるクマはジャンプ台から一気に空中に放り出される。

 空中に飛び出し放物線を描くクマ。遠のいた地面がやがて一気に接近して、ドスンと背中から着地する。受け身を知らないクマにとってはかなりキツイ衝撃だっただろう。


 この様子を木の枝にぶら下がって見ている少女が一人。

 先ほど落とし穴用に分解収集した土を自分の足元で再構成させただけの簡単な作業だったが、効果はてき面だった。

 自分は上に飛んで枝に逃げ、クマの斜め下に働くエネルギーを真横にずらして斜面から切り離しただけである。あとはご覧の通りだった。

 枝から手を放して土盛りした地面に降りる。

 クマは横方向にけっこうな距離を飛んでいったが、高さ自体はそれほどでもない。斜めに地面に衝突してそのまま転がったので、即死するほどのダメージにはなっていないだろう。

 急がず焦らずゆっくりと倒れて苦しそうにしているクマに近づいていく。完全に戦意は喪失していて反撃する余力も意思もなさそうだ。


 背中から着地して転がって今はうつ伏せになっている。

 近づいてくる少女の気配に気づいて、それを嫌がっている。殺されると思ったのだろう、恐怖を感じているようだ。


「ごめんなー」


 そんなクマを安心させるように背中をやさしくさする。うずくまっているのに背中が目の高さまである。改めて近くで見るととても大きい。

 戦いの中で友情が芽生えた――というわけではなく、もともとこちらはクマに対して恨みがあったわけではない。ようはチュートリアルとやらをクリアすればいいだけなのだ。

 たすけてと懇願するようにうめくクマから見える位置で仰向けに寝転ぶ。敵意がないことを示すのと同時に、ドッと出た疲れを回復させるためである。実際、今頃になって膝が笑い出して立っているのがしんどかった。

 チラリと横目でクマを見ると、どうやら降参の意思をしめしているようで安心した。骨折はしていないようで、しばらくそうしていれば、回復して歩けるようになるだろう。


 これでチュートリアルとやらは終わったのだろうか?

 報告すべきことは、クマとの戦闘と、『調査解析』『分解収集』『再構成』といったところだろう。

 チュートリアルをクリアした後の行動については、どこどこへ向かえといった指示はされていない。そもそもチュートリアルの内容や場所自体、先方も不明だったので指示のしようもないだろう。

 お迎えがくるとのことだが、このあたりで待っていればいいのだろうか?


「お迎えか……」


 この無理やりやらされた任務が終われば、本当のお迎えがくるだろうか。


 不意に寂しい気持ちになり、身体を起こし膝を曲げ体操座りをする。線が細いので信じられないほど身体を小さく折りたためることができた。おっさんのままでは足も組めないので、この身体の肢体可動範囲は感動的だった。

 しかしこのまま何もしないでいるのは落ち着かない。一度立ち上がり、クマのそばに行ってその巨体を背もたれにして座りなおし、手足をダラっとのばして完全にその身をクマに委ねる。

 考えてみれば完全に知らない世界、知らない土地で孤立無援なのだ。いくら中身がおっさんでも心細いのだ。

 小さい頃から動物は好きだった。さすがにクマをペットにしたいとは思わなかったが、いろいろな動物と友達になれるチャンスがあるならそうしたいと常々思っていた。

 クマはしきりに鼻をならしている。これは匂いでこちらの意図を調べているということだろう。クマの生態はテレビ番組で得られる程度の知識しかないが、こうやって接しているとなんとなく気持ちが理解できる。


 肉体的な疲労もあるが、だいぶ頭も疲れている。たくさんの情報を短時間で処理してきたせいだろう。

 スローモーションに見えるあの能力は、脳を加速させて処理能力を一時的に高速化させているようなのだ。それで相対的に遅く見えるだけで、実際に時間の流れを遅くしているわけではない。だから脳の負担が大きく、疲れるのだ。

 甘いものが欲しい……それよりもはやく休みたい……


(ねむい……)


 もう、まともにものを考えられない。まぶたが鉛のように重い。やり遂げた達成感と緊張からの解放感で気が抜けていく。もうどうにでもなれという心境だ。

 少女のかたちをしたおっさんは、先ほどまで死闘を演じていた敵であるクマのベッドに身をゆだね静かに眠りについた。

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