第1話:キミの暖かい手に包まれた・キミの細い指が撫でてくれた

夕暮れ。ざわざわと丈の低い草が靡いている。

少女は拾った棒切れを振り回して小高い丘の上を歩く。

雲の流れが速い。



「ねぇ、トーケン。あの石はキレイだったよね。でも、とても危険な石らしいよ。」



棒切れを振り回す今年十七歳になる少女が言う。

軽いステップを踏むようにくるくると廻りながら。

日暮れに向かう冷たい風を切る音を、細く長い棒が響かせる。

両手に持った枝を剣に見立てて、剣舞のように舞う。

歩きながら踊っているように身軽さを誇示するように時折カカトを叩き鳴らし、乾いた音を響かせる。

彼女は、ひどくご機嫌だった。



「でもさ、あの石、そのまま素手で触ったら、細胞が壊死するって言うんだ、怖いよねぇ」





そんな話をしていたけれど、トーケンは紫煙鉱石の煌めきには興味がなくて、あのマーキュリーという男にマベリアがどんな感想を持ったのか…知りたい気分と知りたくない気分とがあわさって、いまだに心の中が落ち着かずにいた。マベリアの機嫌の良さがマーキュリーという貴族の男によるものじゃなきゃいいけど…とそればかり考えていた。



マベリアは、振り返り、閃くような圧力をもった眼でそんなトーケンをじっと眺め、小さな口を尖らせながら、両手に持った細身のよくしなる枝の片方をトーケンへ向けてぶっきらぼうに突き出した。



「トーケン、おまえも帯刀しろ」

もちろん実際の剣ではない。細身のよくしなる生木の枝を握りしめてトーケンへグイと!差し出す。

引き結んだ広角の端が片方だけ悪戯っぽく弧を描いている。


トーケンと呼ばれた少年は、渋々それを受け取り、彼女は満足げに、所在なさげに立っているトーケンをしげしげと眺めて、馬を御するような高い声で一瞬だけ笑った。


その笑い声で勢いをつけたように、いくぞ、進軍だ!ぜんたーい、進めー!いっちに、いちに!と掛け声をかけ始めた。


たった二人の軍隊の先頭をいく少女は、トーケンがとぼとぼと歩をすすめてついてきているのを信じ切っていて、振り返りもしない。


右!左!右!左!と、掛け声をかけながら、棒を振り回す。


そのうち、大きな声で歌い出す。


臭いがきついあの子は成り上がり。化粧を覚えたての処女のよう。蛇や蝎の冷たい心臓を持った、故郷をなくした踊りが上手なサルを飼っている。

そんな歌を歌いながら、彼女は大きな歩幅で先を歩く。


成り上がりを揶揄する自分で作った歌らしい。

彼女は言う。



「なぁ、トーケン、腹立つと思わない?秩序は私たち貴族が、代々命がけで守って来たんだよ。それを、たった今、ほんのいま一瞬、何かの成果を上げたからって、どうして、私たちと席を一緒にできるの?全然、品性なんかあるわけないじゃない?国を守るという思いなんかないでしょ?」


そう、一気に話すと、トーケンを振り返り口の端を悪ぶるように吊り上げて笑ってつづけた。

「一代限りの成り上がりで、輝かしい徳とか、キラキラしてる歴史とかそんなもんが無いから、あいつらは、下衆に、のこのこと私たちの敷地にやってきて、自分たちだけのおこぼれにあやかろうとするんだよ。浅ましい。」


「だから、国が乱れないように、私たちが監視監督してないと、この国が終わってしまうんだ。」


トーケンは、マーキュリーに対する自分の嫉妬が見透かされている気がして、戸惑いながら答えた。

「成り上がりですか…国ですか…。」

と、虚な返事を返す。

トーケンには、この国の在り方は、よくわからなかったから。


この少女は、名前をマベリアという。

この国、フィコという国王の妃だ。

文書には、妃(きさき)と書くが、むしろ呼び名は『ひめ』と呼ばれていた。

若干、十三歳にして、むしろ母親との方が近しい年齢の王の妃となった。そして、妃となって三年。まだ子供のように野原を駆け回っていた。


トーケンには、その貴族のしきたりもわからなかったし、王妃が毎日こうやって自分のような軍事の奴隷を連れて、子供のように遊びまわっている事でさえ不思議に思えた。


奴隷を飼えるのは、貴族だけ。最高級品のアクセサリーにも例えられるような貴族の持ち物だ。マベリアはフィコの王に嫁入りしてトーケンという奴隷を飼うことを許された。その頃のトーケンは、ある程度の軍事訓練を施され、重騎兵の扱いもゼロレンジコンバットと言われる護身術も身に付けていた。

幼少期から、フィコへ売られてきた、どこの利害関係とも繋がらない…ただ、マベリアというマスターとしか縁を結べない少年だ。

その、トーケンと呼ばれる少年には、マベリアしか保護者たるものはいない。

彼にとって、マベリアはとても良いマスターだった。

いつも、訓練をサボらされて連れ回される以外は…。


だからといって、トーケンは、連れ回されるのは嫌いではない。

連れ回された後には、独自で訓練もつづけていたし、その方が性に合っていた。

合同訓練など、意外に苦痛でしかない部類の奴隷だったから。


マベリア妃は、まるで武人に憧れる五歳くらいの少年のようだったし、いつもハラハラさせられていたけれど、彼女が冒険しよう!と言う時には、いつも楽しいことが待っていた。


流れの急な川下りや、山岳探検。

山の奥のクレバスを飛び越えたり、屋根から駆け下りてみたり。

それを救うのはいつもトーケンの役目だった。


とても楽しい毎日が続いていたが、ある日、ひどく彼女に殴られたことがある。


とある、鉱山の廃坑あとに住み着いた野犬の群れに出会ったときのことだ。

犬はその習性上、群れを作る傾向が強く、集団で狩りを行う。このため一度大集団が出来上がると、人間ですら襲われる危険が高まる。


一度、野犬の群れに囲まれ、大きな野犬に襲われたマベリアを助けようとして、その犬の集団を傷つけたことがあった。その大きなリーダーの役割を担った野犬を、もしかしたら、殺してしまったかもしれないとトーケンは思い出す。


その時だけは、そのエリアから離脱した後、マベリアは烈火のように怒り、トーケンを激しい口調で罵った。妃を守るために仕方なかったと言うと、口ごたえをするなと、さらに怒鳴られて、力任せに初めて殴られた。

小さな拳だったけれど女の子の力ではない叩き付け方。

トーケンは激しい勢いで鼻血を吹き出した。


「私は誰かを殺すために冒険をするわけじゃないんだ、そのために誰かが死ぬのなら、私が死ぬ」とマベリアは言った。


トーケンは、それに対して「妃が死んだら、私も生きていられません。マベリアは、私の主人なのですから。私は、なにを破壊しても、あなたを守る義務があるんです」と、殴られながら若干恨みがましい感情が入った声で応えた。


マベリアは、その言葉を聞くと、ショックを受けたように急に動きを止め、振りかぶっていた拳を、しぶしぶと下ろした。

その大きな目には涙を溜めていた。

怒りを抱えながらも悲しそうな戸惑った顔で両の拳をどうしたらいいか戸惑った顔をして、マベリア自身の喉元から小さな獣が唸るような震えるような声を絞り出したが、がっくりと頭を落とし、そのあと押し黙って、俯き加減にとぼとぼと無言で城へ戻って行った。


それから、唐突にマベリアとの外出は、冒険という名前だけの散歩に変わった。以前のように嬉々として、危険を犯すことはなくなった。


もしかしたら…。とトーケンは思った。

冒険は、マベリア妃の自己破壊、いわゆる自殺願望だったのかもしれない。


「死にたくてしょうがない王妃…」


自分が、何かからか開放されるのは死しかなく、トーケンと遊びながら死ぬことができる。それだけが心躍る一つだけの希望だったのかもしれない…。

しかし、マベリアが思い込んでいた、『自分一人が死ねば』という考えが、期せずして、自分が所有しているトーケンも巻き込んでしまうということに、今更のように気付き、怖気づいてしまったんだと彼は理解した。


トーケンは、あの時に何を言ってしまったんだろう…と激しい後悔をその日から抱いている。


「僕は共に、命を断てば良かっただけなのに…。

自分も、生きているということに執着はなかったから。」


歌い疲れたマベリアは、丘の上で唐突に膝を抱えるようにして座り込んだ。

「トーケンはここ」と隣を掌で叩く。

言われるがままに、座った。

二人で座り込んだ丘の上。

沈む夕日を眺めながら、言葉もなく、マベリアは一つあくびをして、よいしょと言いながら脚を投げ出し、さらに寛ぐ体勢をとった。

肩を落として、また夜になるねぇ、その後は、また朝が来るねぇ。

そういった。


「明日もまた、冒険に出かけますか?」とトーケンは聞いた。


「明日の事はわかんないよね。同じ日は、一日たりとも無いから」と言いながら、軽く息を吐くような笑い方をした。


そのあと、続けて「また明日が来るのなら冒険するかなぁ。でも、私も忙しいからなぁ…」と勿体ぶった言い方をする。


心の中で、「自分の用事にあわせてしまうくせに。全部」と思ったが、マベリアの手前、無表情を演じた。


それからは、無言。


トーケンは、マベリアの長い睫毛と、光を吸い込むような透明な瞳の水晶体を、人という生き物ではないような思いで盗み見た。

すぐに目を逸らしたが、隣にいる彼女の一瞬の顔を忘れないように、目を瞑ってもう一度その顔を思い出せるか、確かめてみた。


寒くなってきたねと、マベリアが呟いた。

その唐突な声に、慌ててかすれた声で、はい…とだけ応えた。



トーケンは、我々は、死んだ後は、空に帰るのかな。と、もう一度マベリアの夕陽に照らされた顔を盗み見る。


視線を落とし、腕の白く光っている産毛を確認しながら、キラキラしているな…と陶然とした思いで眺めた。


二人とも死んだら、きっと貴族と奴隷は同じ所には行かないんだろうな。そもそも、僕は生まれながらのフィコの国の神の信者ではないから。

フィコの国の信者の人たちを助けるために雇われた奴隷だから。



この国に来て連れてこられて、まだ、十年しか経っていないし、やっぱり、マベリアは死んだ後でも手が届かないし、見ることもできないような高いところに行ってしまうだろう。


だったら、死んでも忘れないように、この、今のマベリアの姿を声を匂いを全部覚えておかなければ。と、義務感のようにそう思った。

死んだ後でも、マベリアの思い出と一緒に暮らしていけるように。


そう虚な目をして考えていたトーケンに、マベリアは遠くを見ながら「帰るよ」と、一言だけ呟き、腰のあたりを掌ではたき草を落とし立ち上がった。


トーケンは、ここには二人しかいないけれど、その言葉は、単なる記号で、自分に向かって言われた言葉ではないとわかっていた。

マベリアは自分自身に対して、帰らなければという義務感で急かすように言葉を発しただけなのだ。


空は、紫色に変わり、闇をもうすぐ宿し始める。


丘の上を流れる風が強くなってきた。


日が暮れ始めた。


連れて帰ろう。


大事な妃を。


無骨な空を飛ぶテスト飛行用の重騎兵という機械で。




今日という日、トーケンは単座の重騎兵の簡易シートを据付けてマベリアを連れ出した。いや、マベリアが強引に紫煙鉱石を見に行きたいと言ったから…。


そう…どちらかと言えば連れ出されたのはトーケンだった。

今日の紫煙鉱石を見ることができてよかったと胸を撫で下ろした。


(きれいだったな…)と、心の中で、さっきマベリアの言った言葉を繰り返した。



トーケンはパイロット用のヘッドセットに備え付けられているモニタで、外の景色は見えるものの、マベリアにとっては閉塞感しかない乗り心地。

意味もわからない計器の瞬きしか見ることはできない。

暗い計器が明滅するコクピットは、王妃マベリアにとっては何も興味を惹くものではなかった。



気のみきのまま出てきてしまったのは、唐突なマベリアの提案だったから。

耐圧スーツもなし。簡易シートを据付けて…。

乗り心地は最悪のはず。

マベリア王妃は細い顎を引き気味に詰襟の中に埋めて、上目遣いに唇を噛んでいた。



「マベリア王妃…唇を噛まないでください、衝撃で唇を噛み切ってしまいます」

「ん…あぁ」



マベリアは、上昇する機体の中で、そう応えるのがやっとらしい。

「歯は食いしばっていてください、少なくとも離陸直後は…マウスピースもありますから…」

「ひゅぅ…」と押し付けられた上昇圧力に声を尖らせた口から絞り出されるような返事をした。



ふわりと、機体の中の上昇圧力が三十秒後に緩むと、マベリアは細い喉で空気を貪るように吸い込んだ。

機体の中は、機密性が高い。気圧の低下ではなく肺を押しつぶすような上昇の圧力で呼吸ができていなかったのだ。



一息つきトーケンは革製の肉厚なフライトジャケットを手渡した。



「十秒でこれを着てください」

そう言うと、マベリア王妃は上がった呼吸を整えながらそれに袖を通した。

「気圧マスクも装着をお願いします」



テストフライト並の慣らし運転のような飛行では、気圧マスクは着用義務はないが、マベリア王妃に外の景色を見せてあげたかった。夕焼けと夜の際に心を蝕まれる虚無に満たされる時間から守ってやりたかった。



薄暗い機体の中でマベリアの大きな瞳の輝きが疑問に満たされこちらを見ている。

「キャノピーを上昇頂点で一旦開きます、フィコの上空から夕焼けの空を一緒に観ましょう」



トーケンがそう言うと、マベリアは大きな笑顔を見せて声を出さずに笑った。

そして、キャノピーが大きく開く。



テスト飛行用の重騎兵が放物線の頂点でゆっくりとくるくると両手を広げて舞う。

空の豊潤な色彩をバラ撒き散らす夕暮れだ。

たなびく雲は風に吹き上がって流れギラギラとした大きな恒星の光に包まれる。

空は深い青が降りてきた闇に溶け込みながら深い神秘を漂わせていた。


「ふぁあああぁ!」


マベリアは言葉にならない声を出し、トーケンはインカム越しにそれを微笑みながら聴いた。彼女はバックシートから、身を乗り出しながら、シートベルトの拘束を解こうとしている。


「!」トーケンは、マベリアのその行動に息を飲んだ。


トーケンは小さなマベリアの手が、安全ベルトから解放されようとしている行動に、心臓を掴まれるほどの衝撃を受け、キャノピーを閉じる操作をしながらマベリアを強く抱き寄せた。



「な、なにしてるんですか?!落ちます!」


きつく抱きしめられながら、惚けたような顔をしてトーケンを見つめたマベリアは、言った。

「キレイだったんだもん…飛べるような気がした…」

そう言いながら一筋の涙を落とした。



美しいものをみた時に、訳もわからず涙を流す時がある。

日常で、酷い深い痛みに囚われている者にとって、この世ならざる美しさに一瞬でも魂を奪われた時、その鋼のような体を引きちぎるようなしがらみが失せ解き放たれる。


美しさは、生き続ける枷からのほんの一瞬だけの開放なのだ。

その一瞬が、誰かの人生を変えることもあるのかもしれない。


トーケンは、不思議な気持ちでそれを言葉にもできずにいた。

マベリア様を王様の元へ送り届けなきゃ…。

それだけが、トーケンの胸の中で痛みを伴い明滅していた。


地上への落下。

地上への帰還。

現世への…。

痛みに満ちた。


機体が管制塔を過ぎて、滑走路へランディングした。

エンジンから気が抜けたような音がして、周囲が沈黙した。

マベリアは、コクピットから細い身体をふわりと重力を無視したような跳躍で身軽に飛び降りて、今日は、よく眠れそうと言った。



「今日はため息ばかりだった!」

そう叫ぶように笑顔で言うと、細く長い枝を振り回しながら、くるりと一度舞って、かかとの乾いた音を響かせて切なそうに笑って首を傾げてみせた。



トーケンは切なくなり、膝を折りマベリアの右手をとり、小さな冷たい手を包み込むようにした。

奴隷軍人であるトーケンには貴婦人への手の甲へのキスさえ認められていない。

「トーケンの手は暖かいね…」

うわずった声で、マベリアは言う。



膝をついて王妃の手を戴く。

それだけが、トーケンに許された忠誠の表現だった。

トーケンの頭にマベリアは手を乗せ、彼を祝福するように「ありがと…ぅ…」と、喉がひきつるような声でお礼を言った。



トーケンは、まともにマベリアの顔を見ることができなかった。

喉が乾き「王がお待ちです…お戻りください」と伝えるのがやっとだった。



「そういう言い方は、嫌だなぁ」と、マベリアは、己の手を引き剥がすように自分のもとに取り戻し、くるりと、踵を返して背中を向けたまま、ひらひらと手を振った。



そして、腰に差していた棒切れを取り出して空気を裂くように一度だけ振り、壁に向かってステップを踏むようにして叩きつけへし折り、その場に捨てた。



「トーケンまた明日な!またね!」と、男の子のような笑顔で振り向くと手を思いっきり振って貴族の居住区へ駆け上がって行った。



茫然自失としていたトーケンは、姿が見えなくなりそうなマベリア王妃に追いすがるように

「はい!明日っ!お待ちしてます!」と叫んだけれど、それがマベリアに伝わったかどうかはわからなかった。





マベリアは、駆け上がりながら誰も待っていないところへ、どうして駆けて帰ってるんだろうと思っていた。心を躍らすものなど何もないのに、走っているのは向かう先にそれがあるのではなく、今いた場所から逃れたいから走ってるのかもしれないと気づいて、駆けていた歩をゆるめ、そこに立ち尽くした。



私は多分、何か自分を変えてしまいそうな怖いものから逃げるために走ったんだと気づいたから。



「じゃ、何が怖かったんだろう…」

それは、今は考えてはいけないことのように思って壁に寄りかかりながら、今日はただひたすら眠ることだけを考えようと、そう思った。

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