3


 目を覚ますと寝ゲロしていた。朝から汚いものを片付けなければいけないというのは最悪の気分で、畳に染みが出来てしまったのではないかという気詰まりが僕をなお閉口させた。幸い敷金が帰ってこなくなるようなことはなさそうだったのだが、にしたって何の慰めにもならないのだった。


 まずぶちまけたところに新聞紙を広げた。すわせては捨て、新しいものを用意し、三度ほど繰り返してからバケツがないので殺風景なシンクにハンドタオルを持っていって、ぬらしては絞り、ふき取るのを繰り返す。吐瀉物の始末がこれでいいのかさっぱりわからなかったが、臭いが残ったので帰りに消臭剤を買ってこなければならないと思った。まずはなにより、学校だ。気分が悪かったからかもしれないが早めに目が覚めていて、片づけが済むころにはちょうどいい時間帯だった。


 部屋を出ると、隣室のドアが開いた。


「あ」乙町さんじゃないですか、といいかけて、そういえば自己紹介をしていないことに気づく。突然隣人に名前を把握されていたら不気味ではないだろうか。そんな風に考えてまごついている間に、乙町さんはなにかおびえた風で去ってしまった。


 おびえた風に。


 おかしいな、何もしていないのだけど。それとも知らずに呼びかけてしまったんだろうか。もしくはまだすっぱい臭いが体に染み付いているとか――それならおびえじゃなくて、エンガチョ、といった顔をされるだろうし。


 腑に落ちないまま階段を下りると、今度は緒地につかまる。


「お前、昨日どうしたんだよ」

「どうしたんだって」

「この世の終わりみたいなわめき方だったぜ。お気に入りのAVがお釈迦になった中学生みたいな声だった」

「そんなみっともない声を僕は出さない」


 緒地の世界はAVと一緒に終わるのだろうか。ともかく、緒地がいうには昨日の僕はやたらと部屋の中で騒いでいたそうだった。なんだそりゃ。


「君は知らないかもしれないが、僕は最近とっつきやすくなったんだぞ」

「軽薄になったのは認めるところだ」


 根暗も治ったんじゃないのか? と聞かれて、僕は首を横にふった。


「まだ自分を根暗だと言い張りやがる」

「実際、根暗なんだ。――そろそろこの言い方が的確じゃないのなら、不適格なんだ」

「何に」

「社会」


 本当のところ。


 僕は僕がわめいていたことを、ちゃんと知っているのだ。




 緒地と分かれて学校に行き、僕は一日をふさいで過ごした。





 その日の夜。乙町さんが部屋に来た。


 ノックされたのでドアを開けると、乙村さんが兎を抱えて立っていた。


 僕がどれだけあっけにとられたとか、そういうことはは逐一あげつらってもまるで面白くないだろうから割愛する。


 僕が何から質問すればいいのか迷っているうちに、「ダンボールください」と彼女が言った。僕は頷くことも出来ないまま、部屋にダンボールがないことをどう伝えたものかまるでわからない自分に戸惑った。


 いや、割愛するといっておいてなんだが、僕はこのときあっけにとられた以外のことをやっていないからそれ以外を描写できそうにない。


 その日に得たものといえば、結局ダンボールを緒地の部屋にもらいに行って、珍しく彼の間の抜けた顔を見られたことくらいだ。


 乙町さんはどうやらその兎を飼うつもりらしかった。ダンボールは仮の巣箱にするつもりだったようで、しばらくしてから大きなケージを買ってくるのをみた。アパートがペット禁制なのかどうかさっぱりわからなかったが、僕は特に迷惑しなかったので何も言わずに、むしろ兎と戯れることに熱を上げた。そのあいだ乙町さんと緒地は実に楽しそうに話をするのだった。――緒地は僕にそうしたように、あっという間に乙町さんとも親しくなって、男女の友情、とでも言うべきものを実演して見せるかのように、僕にそれを結ばせようかとでもいうように振舞った。「AVが壊れてもわめかないようにしてやろう」「僕達の人間関係が壊れそうだ」


 緒地と乙町さんとが喋っている時、ケージの中の兎はご主人様に蚊帳の外にされているわけだが、さりとて寂しそうにするでもなく、むしろその声がうっとうしいとでも言うようにしていた。なおさら僕は、兎を構いたくてならなくなった。


 乙町さんは緒地とはずいぶん打ち解けたようだが、いまだに僕には苦手意識を抱いているようで、――どうしても、夜中に突然わめいた人、という意識が抜けないらしい。――あれはなんだったんですか、と聞きたいような、聞きたくないような、そんなそぶりを常々見せていた。さっとそういうことの聞けない、そういう子のようだった。僕にはじめてその話題を持ち出したとき、ようよう聞けた、という態度を隠せないような、素直な子でもあった。


「あの、いつかの、夜中のあれ、なんだったんでしょう」

「AVがお釈迦になってしまったんだ」


 なおさら口を利いてもらえなくなった。


 なるほど、これがジョークを外すというやつか、と僕は納得し、然る後に後悔に身悶えた。


 しばらくしてから、乙町、と呼び捨てできるようになった。

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