8、目覚め

 朝、冷気に顔を撫でられて目覚めた優一郎は、上を見て、ぶら下がる真人の首吊り死体にわっと驚き飛び起きた。

 昨夜見たのはやはり夢ではなかったのだ。

 寒さでガチガチ震えた。腕時計を見ると8時。すっかり朝になっている。どのくらい眠っていたのだろう? 昨夜、最後に時計を見たのは薬を飲んだとき、10時30分くらいだっただろうか? 薬は30分くらいで効くということだったから、眠ったのは11時ちょうどくらいだろうか?

 優一郎は少し離れて真人の死体を観察した。

 ひどいものだと顔をしかめた。真人は細身で、さらりとした長髪の、涼やかなイケメンの青年だったが、それが見る影もない。顔が弾けそうに膨張し、紫に変色し、腫れ上がった唇から飛び出した舌もまるで人間のものでないように丸く巨大に膨れて黒ずんでいる。首が2倍くらいに伸びて、手足に力はなく、ズボンの股間が膨らんで濡れていた。その臭いに早くもハエがブンブン飛び回っている。

 なんて醜悪な。

 優一郎は顔を背けた。人は死ぬとこうなってしまうのだ。

 しかし、

 いったい誰の仕業だろう?

 真人の首をくくり上げたロープは、枝に掛かり、ずーっと伸びて幹の下の方にグルグル巻き止められている。

 そう、真人の死体は宙に浮かんでいる。それもかなり高く、足が優一郎の頭1つ上の高さにあり、ロープの掛かる枝は4メートルくらい上にある。ふつう首をくくるにはあまりに高すぎないだろうか?

 そう思って辺りを見回すと、ロープを掛けて首をくくるのにちょうどいい横に伸びた太い枝のある木がなかなかないのに気がついた。みんなひょろ長く、枝は一番上に集中して、葉に日光を浴びようと漏斗のように上に開いている。

 真人がぶら下がっている木は、幹が突然L字型に折れて横に伸び、また折れて上に伸びている。雷のような形をしているが、実際雷に打たれてこうなったのかも知れない。横に伸びた幹といっしょに一本だけ太い枝が横に伸びて、そこに真人はぶら下がっている。

 もしこれが自殺なら、真人は木登りをして、輪っかを首に掛け、ダイブして、ぶら下がったと言うことになるだろう。

 しかしそれはない。真人はもう薬が効いて眠り込んでいた。

 何者かにくくり上げられたのだ。

 単純にロープをあそこまで投げ上げて引っかけるだけでも大したもので、それはよじ上って出来ないこともないだろうが、しかしこの高さまで、細いとはいえ大人の男を引っ張り上げるのは、かなりの力がいるだろう。

 犯人は男だろう。

 すると、犯人は1人しか考えられない。

 令二だ。

 直前で自殺を思いとどまり、優一郎にやめようと言い、携帯電話で連絡を試み、真人に殴られて気絶した中年男。

 彼が目覚め、真人に復讐したとしか思えない。

 しかし彼は薬を飲んだはずだ。ガブガブと大量のビールで飲み下していた。

 かえってそれが幸いしたのか?

 殴られて気絶し、横になって、薬が消化される前に吐き出したのかも知れない。

 テントの中を調べると、はたして、臭いのきついシミが毛布に見つかった。断言は出来ないが、自分の推理通りだろう。

 犯人は令二だ。

 すると、消えた他の2人、あずみとミラノも令二がいずこかへ連れ去ったのだろうか?

 いったい何のために? どこへ?

 どこへ?と考えて優一郎は周りを見渡し、そもそも自分はどこに居るんだ?と思った。

 遊歩道ははるかに遠く離れ、位置も分からず、方角も分からず、どこかへ帰るすべもない。

 どうしようもないなと優一郎は座り込んだ。

 令二はどうする気だろうと思った。自殺は思いとどまったようだが、しかし、こうして殺人を犯してしまっている。自ら外へ助けを呼べる立場にはないだろう。

 あのロープはどこから……と考えてハッとした。リュックを調べてみれば、なんのことはない、あれは自分が持ってきたロープだ。優一郎はロープで首をくくって死ぬつもりでいたのだから。

 他にもなくなった物がないか捜した。優一郎のリュックからはナイフと小型のノコギリがなくなっていた。いずれも首をつるのに必要になるかも知れないと用意してきた物だ。かさばる寝袋はバンに置いてきた。もう必要ない……はずだったのだ。他に滋の持っていた睡眠薬のビンもなかった。滋も小さなリュックを背負ってそこから薬ビンを取りだしていたが、そのリュックごとない。リュックに他に何が入っていたか知らない。

 みんな令二が持っていったのだろう。


 カラスが1羽飛んできた。

 真人のぶら下がる枝に止まり、しきりに首を動かして下を覗いている。嫌な予感がした。カラスは枝から飛び立つと、バサバサ羽を羽ばたかせ、宙で向きを変え、真人の肩に着地した。ロープにぶら下がった体がゆらゆら揺れる。カラスは斜めになりながらしっかり鋭い爪を真人の肩に食い込ませ、半分開いた翼でバランスを取りながら真人の顔の方を向くと、くちばしでつついた。頬の辺りをついばみ、ブッツリと、目玉のきわにくちばしを突き刺した。ブルブルやって、赤い筋を引っ張り出した。顔を前後に振ってガツガツと飲み込む。口をパクパクやって邪魔なカスを落とすと、赤く開いた傷口に、ブスリ、とくちばしを深く突き入れ、グリグリやって、内部で大きく口を開けると、がっちり目当ての物をくわえて、グイグイと引っ張った。

 目玉が、神経を引きずってえぐり出された。

 カラスは神経の束をくわえて、ブルンと目玉を上に放り、パクリとくわえた。目玉がミシリと歪み、かみ切られた。ドロリと中身がとろけ出した。カラスはこぼさないように真人のこめかみに目玉を押しつけ、ガツガツと食った。また翼でバランスを取りながらどこを食おうか思案し、やっぱり赤い肉の覗く眼窩にくちばしを突き入れた。旺盛な食欲でガツガツと赤い肉を食っていく。

 ごちそうに他のカラスもやってきた。

 反対の肩に乗ると、体は大きく揺れて、2羽ともいったん飛び上がった。しかしすぐに戻ってきて、両方で器用にバランスを取ると、ガツガツと、真人の顔を食いだした。

 真人の顔は見る見るうちに赤く剥かれていった。


 優一郎はぼーっと、野生動物によって人体が分解されていく様を見ていた。動物にとっては、死んだ人間など、動かなくなった肉に過ぎない。

 そういえば優一郎は腹が減っているのに気づいた。

 腹が減ったなあと思いながらカラスの所行を眺めている自分に気づいた。

 なんてことだろう、考えてみれば昨夜から今朝にかけて、久しぶりの夕飯をたっぷり食べて、ぐっすり眠って、それだけだ。なんて健康的なんだろう!

 腹がギュルギュル鳴った。下すサインではなく、何か食わせろと催促している。

 優一郎は涎があふれてきて、何か残ってないかと火鉢の周りを漁った。自分の食べたスナック菓子にカスが残っているのと、あとは弁当のプラスチックのからに食べ残しがこびりついているだけだ。優一郎はスナックのカスを袋をあおって口に入れ、溢れる涎に我慢ならず、からの食べ残しをべろべろ舐めた。喉が渇いて、ジュースとビールの缶を1本1本あおった。ろくに残ってなかった。クーラーボックスにかなりたくさん入っていたと思ったが、クーラーボックスごとなくなっていた。ちくしょうと令二を呪った。

 なまじまともな食事をしてしまったので飢餓感はどうしようもなくイライラと募り、心を凶暴にさせた。

 最初のカラスは満足して去り、別のカラスが次の食事にありつき、ご馳走の臭いに続々集まってきたカラスたちが自分の番を待って枝に止まっていった。

 旨そうに食事をするカラスに腹が立って、近くの石を投げつけた。カラスは飛び立ち、その隙に待っていた別の奴が場所を取った。喜んでがっつく。真人の顔は、白い骸骨が露出し、その上に載ったカツラのような頭皮がしわになってずれていた。もう片方の目玉もとうにない。

「あんたはいいなあ」

 優一郎は真人に話しかけた。

 1人で先に死んで、こんなの見せられたら死ぬのが嫌になってしまうじゃないか。


 ボキッと、枝を踏む音がした。

 令二か、それともキツネかクマかと、優一郎はギョッと振り向いた。

 及び腰になってどこだ?と捜して、

 岩に貼り付いている根の上に白い顔が上半分覗いているのを見つけて、優一郎は「ヒッ……」と腰が抜けそうに驚いた。

 しかし相手も優一郎に見つかって驚き、恐怖したようだ。

 隠れて覗いていた体勢から立ち上がり、奥に向かって駆けだした。

「お、おい、……

 あずみちゃん!! ま、待ってくれー!!!」

 逃げていくあずみの後ろ姿を、優一郎は必死に追いかけた。

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