7、混乱

「わっ」

 テントのふたを開いた優一郎は驚いて飛び退いた。

「え、どうしたの?」

 滋とミラノもびっくりしてテントを見た。

 中からふたをめくって、

 満里奈が出てきた。

「ま、満里奈ちゃん、ど、どうしたんだい?」

 滋の問いかけに答えず、満里奈は半分目の閉じたぼーっとした顔で立ち上がり、歩き出した。

「おい、おい、しっかり……っていうか、どうしたんだ? 戻って眠ってくれよ?」

 滋に肩を押さえられると、満里奈はうつろな表情の中に怒りを表し、滋の手をうるさそうに払いのけ、歩いていこうとした。

「お……おい……」

 テントから今度は真人が這い出してきた。

「い、今……、女の子の1人が出て……いった……ぞ………」

 這いずり、大あくびをし、頭を振って自分を奮い立たせた。無理やり自分の膝を立たせる。

「えい、くそっ、どいつもこいつも、なんだってんだよ」

 フラフラしながら、なんとか立ち上がった。

「どうすんだ? 放っておくのか?」

 満里奈は根の山を越えて灯りの届かない闇へ、入っていってしまった。

 いったい何が起こったのだろう? まさか、樹海をさまよう死者の霊に取り憑かれて……

 優一郎はぞっとして、思わず霊魂の漂っていそうな木々の枝を見上げたが。

「夢遊病だろうか? どこか異常な感じのする子だと思っていたが……」

 滋はつい本音を漏らし、

「連れ戻す……か?」

 と優一郎と真人に訊いた。

「くそ、あの子がどうなろうと知ったことじゃないが、俺は出来るだけ長く放っておかれたいんだ。この場所でだいじょうぶとは思うが……朝になって大騒ぎなんてされちゃたまらんぞ……」

 言いながら真人は大あくびを連発した。

「くそ、俺は……もう……保たないぞ…… 連れ戻す気があるなら、あんたら……、はや…く……なんとか…………」

 こらえきれずによろけると、しゃがみ込み、横に倒れてとうとうグーグーいびきをかき始めた。

「優一郎君、どうしよう?」

 滋が決めあぐねて訊いた。

「行きます……か…………」

 優一郎もどっちつかずの答え方をした。ここまで来て満里奈を1人取り残すのもかわいそうだが、この森の中に入られては、見つけだせるかどうか分からない。

「じゃ、とりあえず追うか。無理と思ったら、諦めよう」

 よし!と滋は決心した。

「滋ちゃん」

 ミラノが心配そうに呼びかけた。滋は笑顔を作って答えた。

「無理はしないから。とにかく急がなくちゃ。いずれにしてもすぐに帰ってくるよ」

「うん。きっとよ。急いでね?」

 滋はうなずき、優一郎に行こうと誘った。

 とりあえず満里奈が越えた根の山を越えて先を歩きながら懐中電灯で探した。あちらでもこちらでも隆起した黒い岩肌をうねうねと根が這い回り、奇怪な模様を作っている。

「どっちに行きましょう?」

 滋に尋ねて、滋はあちこち照らして、その手を止め、下に下ろした。

「無理だ…… これ以上行ったら、僕らも帰れなくなる……」

 優一郎もその意見に賛成だった。

「諦めましょう。帰りましょう、ミラノさんの所へ」

「そうだね。帰ろう。心配して心細くしているだろうから」

 振り返った優一郎は一瞬ギョッとした。もう既にテントの灯りが見えない。しかし懐中電灯を下に向けるとミラノが振る懐中電灯の光の筋を木々の向こうに見ることが出来た。

 ほっとして歩き出すと、


 ……ヒイッ……


 背後の、そう遠くないところから女の子の悲鳴のような声が聞こえた。

「満里奈ちゃん!」

 滋は大声で呼びかけてもう走り出していた。根を飛び越え、優一郎は一瞬姿を見失って慌てて追った。

 滋が立ち止まり、

「満里奈ちゃん! どこだ!?」

 と呼びかけていた。

「満里奈ちゃん!」

 優一郎も呼びかけた。

 悲鳴はあの1回きりで、なんだかそれも空耳だったような気がしてきた。

「駄目だ……、帰りましょう、滋さん!」

 どこを見渡しても同じ木々の根のうねりばかり。優一郎はもう自分が来た方向に自信がない。もうミラノの懐中電灯の光も見えない。たしかこっちだったと思う。でも、闇の中で、どんどん自信がなくなっていく。思考が鈍って考えるのが億劫になっている。いけない、自分にも薬が回ってきた……、もしこのまま眠ってしまうようなことになったら…………

「あっ」

 滋が驚いた声を上げた。

「優一郎君! あそこだ!!」

 懐中電灯で地面を照らす。真っ黒な影が大きな凸凹に映って何がなんだか分からない。白い根が浮き上がって、

「あそこだ!」

 と言われて目を凝らすと、白いうねうね曲がりくねった根の中に、地面から2つの手が、手首から上を出して、手錠でつながれたみたいにくっついてじたばた動いていた。

 優一郎はどうなっているのか分からなかったが、

「まずい! 穴に落ちたんだ!」

 駆け出す滋が言って、ああ、そうか、溶岩の地面の縦穴に落ちたのか、と回転の鈍い頭でようやく理解できた。

「満里奈ちゃん! 掴まれ! 引っ張り上げるぞ!」

 縦穴は数メートルの深さがある物がざらにあるそうで、とりあえず手が上に残った満里奈はまだ運が良かっただろう。滋がしっかり握り、

「そーれ!」

 引っ張り上げようとすると、

「わっ!」

 逆に強い力で引っ張られた。恐怖に駆られた滋の声が穴に向かって呼びかける。

「満里奈ちゃん! 暴れないで! 引っ張り上げるから、力を抜いて!」

 しかしまた「わっ」と滋は声を上げた。腰をかがめ、曲がったひざを踏ん張っている。

「ゆ、優一郎君! た、助けてくれ!」

 優一郎は滋の後ろから腰を抱えたが、「わっ」と、滋はさらに引き込まれ、優一郎は滋の脇の下を持って必死に踏ん張った。しかし、眠気が体に充満してまるで踏ん張れない。どうやら優一郎の眠気は睡眠薬のせいばかりでなく、生まれて初めてのアルコールのせいでもあるようだ。

「ゆ、優一郎君!」

 滋の声がさらに恐怖する。腕が肘まで穴に没し、顔がもはや地面すれすれにある。

「滋さん、駄目だ、手を放すんだ!」

「優一郎君んん……」

 滋が泣きそうな声で呼びかけた。

「も、もう……遅い…………」

 わあっと、滋の体が前につんのめった。優一郎はその勢いでつい手を離してしまった。優一郎ももう体がだるくて立っているのもやっとだ。一瞬意識が遠のき、気がつけば、滋は腰まで地面に没し、逆さに立った脚をじたばたさせていた。

「し、滋さん!……」

 優一郎は力を振り絞ってその脚を押さえて引っ張り上げようとしたが、必死に暴れる足に顔面を強打された。

「あっ……」

 目に火花が散り、鼻の奥がツーンとして、優一郎は手を放して後ろによろめいた。

「………………………」

 気がついたとき、そこに滋の姿はなかった。

「滋さん……滋さん!!!」

 優一郎は大声で呼んで姿を探したが、滋の返事はなく、脱げた靴が片方だけ転がっていた。

「滋さん!」

 優一郎は地面に落とした懐中電灯を拾い上げて2人の落ちた穴を捜した。それさえ苦労して見つけると、それは人がくぐり抜けられるギリギリの大きさしかなく、中を照らしても真っ黒で何も見えなかった。

「滋さん!満里奈ちゃん!」

 呼びかけても返事はない。

「た、たいへんだあ……」

 気持ちが焦って、どうしたらよいか分からない。優一郎自身のタイムリミットも刻一刻近づいている。

「ミラノさん……」

 彼女になんと言おうと考えて、重い責任に心が滅入った。ああ、なんでこんなことになってしまった? 眠っていたはずの満里奈がなんだって起きあがり、テントをさまよい出たのか?

 優一郎は泣きたい気分で必死に元来た道を探した。なんとしてもたどり着いて、ミラノさんに滋さんのことを伝えなければ。それがこんなに親切にしてくれた二人への最低限の義務だ。このまま終わってしまったら、ここまで頑張って歩いてきた自分の勲章も、すべて台無しになってしまう。

 くそお、がんばれ、眠るなあ……

 優一郎は混濁していく思考の中で必死にテント目指して歩き続けた。これまでの苦労苦しみを思い出せ!この程度の眠気がなんだ!たどり着いたら、死ぬまで眠っていいんだぞ!!

「!」

 突然茶色い布の屋根が見えて、優一郎はびっくりした。半分意識が眠ってしまっていたらしい。なんとかテントまで帰ってくることは出来た。しかし、

「ミラノさん?」

 火鉢のところで待っているはずのミラノの姿がなかった。自分たちの帰りが遅いのでしびれを切らせて捜しに行ってしまったのか?

「ミラノさん?」

 テントの中を覗いて、優一郎は驚き、思考が止まってしまった。

 テントの中は、毛布が散乱しているだけで、誰もいなかった。

 あずみも、令二も、真人も、ミラノも、

 誰も、いなかった。

 優一郎は呆然とし、キツネにつままれたような気になった。

 いったいどういうことなのか?

 みんな消えてしまった。

 みんな、死者の森、青木ヶ原樹海の見せた幻だったのだろうか?

 しかし、火鉢の周りにはみんなが食べた弁当や空き缶が残され、人だけが幻だったなどととても考えられない。

 どこへ行ってしまったのだ、

 自分一人置いて!?

 優一郎は目を怒らせて必死に眠気に耐えて考えた。

 まさかすべてお芝居だったとでも言うのだろうか?

 自殺志願者の自分を惑わし、笑い物にする?

 まさかまさか、

 あの狂気が、後悔が、この世で報われぬ愛が、

 全部お芝居だったなんて考えられない!

 では、では、

 本当にみんなどこに行ってしまったのだ!?

 優一郎は立ち尽くし、原始の森の中で孤独に心を震わせた。

 やっぱり最後はこれか?

 こうしてまた自分は一人きり、誰にも相手にされずに一人死ななくてはならないのか?

 泣きたい気持ちで、重い瞼にフラフラクラクラし、もう駄目だ、もはや死ぬ力もない、と思ったとき、ふと、近くの木を見た。

 上から何かがぶら下がっていた。

 靴……いや、靴を履いた足……ズボン……

 ビチャビチャと滴っている物……

 腰に、だらんと下がった手に……

 ジャケットに…………


 優一郎は驚く元気もなくそれを見上げた。


 顔が、優一郎を見下ろしていた。

 顎の下にめり込んだロープで上からぶら下がっている。

 作り物のような舌が飛び出ている。


 ものすごい顔をした、それは、真人の首吊り死体だった。

 それを確認して、優一郎はその場に眠りこけてしまった。

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