5、それぞれの事情
とにかく平らな地面がないのでテントを張る場所に苦労するかと思ったら、滋は手慣れたもので、木の幹や根を利用して大きな四角のテントを上手に張った。余った機材を重石にして布の下も押さえて、隙間もなくなった。
場所の準備は整った。
方法は。
滋が持ってきたクーラーボックスを開けると、中にビールとジュースが詰まっていた。驚く優一郎に滋はいたずらっぽくウインクして言った。
「これから最期の晩餐だよ、ワインがなくちゃ締まらないじゃないか? だいじょうぶ、炭なら令二さんが持っているよ」
令二はニッコリ笑って黒い埃がしみ出した布袋から練炭を取りだし、まだ外で、プランター型の大きな火鉢に火を入れ始めた。
「子供たちが小さい頃にはこうしてバーベキューしたものだがなあ……」
と感慨深く言って。
内部で赤い炎のチラチラ燃える暖かな火鉢を囲んで、優一郎たちは最後の晩餐の、まず乾杯をした。
「僕たちの出会いと、別れに、乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
「乾杯」
皆口々に言って、隣同士、腕を伸ばしてお向かいさんと、缶をぶつけ合って、あおった。
優一郎は生まれて初めてお酒を飲んだ。どっちがいい?と訊かれて、せっかくなのでビールをもらった。空きっ腹に強烈な刺激が染み渡っていった。苦い、けれど、旨い!と思った。またお尻の方が心配だけれど。
優一郎は菓子パンとスナックを、皆はそれぞれのお弁当やおにぎりを、食べ出した。
「おいしい」
冷めたオムライスを食べながらあずみが言い、
「なんか楽しいね」
とスパゲティーナポリタンを食べながら満里奈が嬉しそうに言った。
「わたしこんなに楽しいの生まれて初めてだよ!……」
言ってからうつむいて食べるのに集中し、みんな無口に食べ続けた。
優一郎はポツリと言った。
「分かるよ。僕も、こんなに楽しいの、生まれて初めてだ」
満里奈が顔を上げて、優一郎と目を合わせて、2人でニッコリ笑った。
優しく悲しい目で眺めていた滋が、思い悩む風にして、皆に言った。
「クスリを配ろうか。効いてくるのは個人差もあるだろうけれど飲んでからだいたい30分くらいだ。強力なものだから、1度眠ったらぐっすり眠って……、朝まで目が覚めない。どのタイミングで飲むかはそれぞれに任せる。ただ、飲むのはここで、皆の見ている前でしてもらいたい。飲んだら、すぐにテントに入ってもいいし、眠くなってきてから行ってもいい。最後の1人が飲んで、10分後に僕も飲んで、最後の1人がテントに入ったら、5分後に僕も火鉢を持ってテントに入り、入り口をふさぐ。僕が眠ったら、いつか誰かに発見されるまで、僕たちは目覚めない」
みんな説明の間、食べるのをやめて真剣に聞き入った。
「それじゃ、配るよ」
滋は薬ビンを取りだし、ふたを開けると、立ち上がり、1人1人に錠剤を手渡しして回った。優一郎も受け取った。丸いタブレットが4錠、1つ1つに誤飲防止のための青いHマークが印刷されていた。
滋は自分の席に戻ってくると、優一郎を見て言った。
「ところで、僕たちは飛び入りのゲストを迎えた。優一郎君だ。他のみんなはネットで知り合ってだいたいの事情は察しがついているが……それもお互い推察し合っているに過ぎない。それで、どうだろう? もし良かったら、最期を共にする仲間として、それぞれの事情を話してみないか? もちろん、嫌なら話さなくてもいいけれど」
皆、躊躇した様子でお互いの顔を伺ったりうつむいたりした。
令二が、よし、といった調子で話し出した。
「じゃあわたしから話させてもらおうかな。すっかり世をすねたつもりになっていたが、やっぱり、分かる人には分かってもらいたい気持ちがあるからなあ。
わたしは見たとおりもうおじさんで、そんなおじさんが死にたい気持ちというのは、もうすっかり何もかもに疲れ切ってしまったんだよ……。
会社でも、家庭でもねえ……。
わたしはいわゆる中間管理職で、お定まりの立場だよ、上からは業績の悪いのを責められ、下からはろくに仕事もできない若造ども、馬鹿OLどもに口うるさいだけのクソジジイ扱いされて、俺がいったいどれだけおまえらの尻拭いしてやってきたと思ってるんだ、どいつもこいつも、人を馬鹿にしやがって、おまえはどうなんだ……、おっと、こんなおじさんの愚痴はごめんだな、すまんすまん。
とにかくだ、会社では上からも下からも馬鹿にされて、我慢して仕事して、ストレス溜めてくたくたになって帰ってきて、ただいまって帰っても誰も迎えにも来やしない。妻は面白くもないテレビを見てるし、娘たちは部屋にこもって携帯電話にいつまでも夢中になってるし。わたしが何を話しかけても答えやしない。1人で旨くもない酒飲んで、冷めた飯食って、風呂入って、お父さんの洗濯物は一緒にしないでってそんな文句ばっかり言いやがって、また朝早い出勤時間に合わせてさっさと布団に入って、毎日毎日面白いことなんて1つもありゃしない。俺はいったい何のために頑張って仕事してるんだ、って、むなしくなるよ。
ああ、もし俺がいなくなったら、家族は、会社の奴らは、どれだけ困るだろう? どれだけ俺に世話になってるか思い知るだろうか?
そんな風に考えてね。帰り道の渋滞を外れて、このままふらっと蒸発してやろうか、なーんて思ったりしてね……。
でも、わたしがいなくなっても、きっと、誰も何とも思わないんだろう。きっと、また文句を言うだけ言って、それで、俺のことなんて、どうでもよくて……、すぐに、忘れちまうんだろう……、そう思ったら、たまらなく……、寂しくってねえ……………、涙が…………出てきちまってねえ…………、もう、たまらなく、寂しくってねえ…………」
令二は泣き出し、大きな両手で大きな四角の顔を覆って、声を漏らして顎をブルブル震えさせ続けた。優一郎はひどく気の毒になって言った。
「お父さんは、みんな頑張ってるんですね。僕も親不孝者で、すごく申し訳なく思ってます。親不孝者で、ごめんなさい」
令二は泣きながらうんうんとうなずき、いやいやと首を振った。鼻をすすり上げながらやっとの思いで言った。
「ああーー……、すまない……。わたしは会社人間をやめて、夫をやめて、父親をやめて、自分になりたくてここに来たんだ。君たちには、こんなおじさんといっしょに居てくれて、感謝しているよ。ありがとう。君たちにも、ここに居る事情があるんだよねえ?」
すっかりしんみりしたお通夜のような雰囲気になってしまった。
「それじゃあ、あたしたち。じゃあまず、あたしから」
満里奈があずみに「いいよね?」と了解を求め、あずみもうんとうなずいた。
「あたしの理由は、これ」
とピンクのジャンパーの袖をまくって、手首の内側を見せた。優一郎はギョッとした。
白い手首に、何本も、縦にざっくりと切った跡が浮き上がっていた。
どの傷跡も、かなり深く切ったようだ。
「あたしは自殺未遂の常習者なわけ。親ももう慣れっこで、あたしの血だらけの手を見ても、ああまたね、ってな感じで、怒るのよ、医者行くの!? ガーゼグルグル巻きにしときゃいいの!? どっちよ?さっさとして!、ってね。あたしが死ぬなんて全然思ってないの。人の気を引きたくてまたやったなって、うんざりしてんのよ。もうぜーんぜん心配なんてしないわけ。ひたすら迷惑なのよ、あたしみたいなキモいみっともない娘。絶対、ああ生むんじゃなかったわ、って思ってるわよ。だからね、死んでやるんだ、ざまあみろ、本当に死んじゃったわよ、って。ちょっとはびっくりするかしらね? きっと、ああ、せいせいした、って、すっきりするわね。アハハハハハハ」
満里奈はオレンジジュースを飲んでいるが、まるでたちの悪い酔っぱらいOLみたいに押し付けがましい笑い声を上げた。痛々しさに皆、視線をうつむかせた。
満里奈は細い顔に目が大きい。明るい顔をしていればそれなりにかわいいと思うのだが、大きな目玉をギョロリギョロリと動かす癖があって、気味が悪い。唇が薄く、下唇の右だけぷっくりふくらんでいる。唇をゆがめながら噛む癖があるようだ。栄養失調みたいで顎がひどく細い。よく見れば、目玉を動かすたび周りにカサカサした小じわが目立って、年の割にずいぶん老けている。ずうっと不健康な生活を続けてきているのだろう。
自殺しようなんて思う人間は多かれ少なかれ精神に壊れたところがあるのが普通で、そういう意味では満里奈はごく普通の「自殺志願の女の子」だったが、やっぱり座はますます重い空気に沈んだ。
「わたしもキモイって言われる」
ぼそりとあずみが言った。
あずみは下膨れだ。ぷよぷよと青白い肌をして、常にふてくされたような小さな目と唇をしている。鼻も扁平で、どう贔屓目に見てもかわいいとは言い難い。
きっと「キモイ」という言葉が呪いになって、こういう顔にしてしまったのだろうと優一郎は思った。
あずみは日頃の不満が堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「みんな汚いわ。美人にばっかりちやほやして、美人の人もかっこいい男の子も、みんな心は真っ黒だわ。人をバカにして、蔑んで、そんな心の方がずっと醜くて汚いのに、そんなことも気がつかないで、バカみたいに笑って、そんな人たちばっかり世間はちやほやして、本当に心のきれいな者たちをバカにしてあざ笑って、なんて醜い、なんて汚い、何が面白いのよ?バカじゃない?バカだわ。みんなバカで、心が汚くて、最悪よ。この世界は汚れきっていて、神に見捨てられて、悪魔の手に落ちたのよ。この世界にもう救いはないわ。この世界はもう地獄なのよ。だからバカや心の醜い者がちやほやされて、本当に美しい者がバカにされて蔑まれて、イジメられて、それはこの世界そのものが醜いからなのよ、汚れているからなのよ。ここは本当に美しい者の住むべき場所ではないわ。本当に美しい者はこの世界では醜いのよ。本当に美しい者にとってはこの世界はかりそめの偽物の世界なのよ。本当に美しい者は本当の美しい世界があるのだから、そこに行かなくてはならないのだわ。ここに居てはダメ、早くこんな世界から抜け出さなくてはならないのだわ。こんな世界の囚われ人になっていてはダメ、早く自由になって、美しい世界で美しい姿に、本当の姿に戻らなくてはならないのだわ」
早口にぶつぶつつぶやくあずみに、皆は呆気にとられた。
彼女はきっと文学少女なのだろうが、愛読書はある種の分野にひどく偏っているに違いないと思われた。
滋が「んっ、んんっ」と咳払いし、
「僕らにはみんなそれぞれの思いがあって、でもそれを世間に理解されず、誤解されて、絶望してここに居るんだよね? それはよく分かるよ」
そうだよね?と言うようにあずみを見て、あずみはしゃべるのをやめると、下を向いてうなずいた。
「じゃあ次は僕が行こうか」
あっけらかんとした調子で言ったのは真人だった。
彼は実際は25歳くらいだろうか? 学生的な雰囲気が残っていて、社会的にすれた感じがあまりない。
彼は具のたっぷり詰まったおしゃれなサンドイッチを食べている。飲んでいるのは黒ビールだ。もぐもぐ食べて、ビールを味わって、のんびりと話した。
「僕は世の中っていうのがすっかりつまらなくなっちゃってね。生きていても面白くないし、生きているのも面倒だし。どうもね、若いうちに一生懸命勉強し過ぎちゃったようだなあ。なんだかもう、なんでもかんでも分かり切ったような気になっちゃって。もちろんそれが自分程度の才能には単なる勘違いの思い違いだっていうのは分かるんだけど、でも、面白くないものは面白くないんだなあ。感動が、まるっきりないんだよね。
僕はね、大学病院に勤めているんだが、現在休職中。ちょっと拙いミスをやっちゃってね。手術中、ちょっとしゃれにならないへまをね。でもさあ、あの時思ってたんだよね、患者を助けるよりも、殺してしまいたい、ってね。拙いよね?そんな医者がメスを握っちゃ。
もう病院に戻ることはないだろうって思ったら、もうね、何もかも面倒になってしまった。
なんでそんな風に思ったんだろうね?
僕がこのグループに参加することになったきっかけは、ここ、樹海のことを調べていてだ。樹海には心引かれるものがあってね、是非1度訪れてみようと思っていたら、君らの計画を知ってしまってね、……そうだな、それもいいか、って、思っちゃったんだよね。
フーム……、ま、そんなところかな?」
真人は考えていたより更に1つ2つ年が上かもしれない。
医者というエリート人生を歩みながら、ふざけた態度で逸脱した真人を、苦労人の令二は腹立たしい目で睨んでいた。
優一郎は真人の告白を言葉通りには思わなかった。人の命を託された現場で、神経をすり減らして、ノイローゼになってしまっていたのだろう。気の毒な人だと思った。
真人の話はこれで終わりのようで、また沈黙が降りた。
滋が話し出した。
「えーと、僕がここに居る理由は、彼女。僕の最愛の人さ」
となりのミラノ……本名ではないだろうと思うが、が嬉しそうになまめかしく微笑んだ。
「実は僕自身に積極的に死ぬ理由はないんだけど、彼女がそうしたいって言うから、僕もそうするんだ。僕にとってはそれで十分積極的な理由さ。
……ミラノさんの理由は……、どうしよう?」
「いいわよ。聞かせてあげる。でもつまんないわよ?
あたしは見ての通り、夜の女よ」
「街でナンバー1だったんだぜ?」
「いやーねー。昔の話よ、もう何年も前のね。
そう、その頃は羽振り良かったわね。滋ちゃんもボーヤ扱いで、ずいぶん辛く当たったわね?」
「いやあ、そんなこと。ああ、僕は高校中退してミラノさんがいた店に雇ってもらってね」
「昔話よね。まるで夢見てたみたい。やたらギラギラしちゃって、上へ、もっと上へって、突っ張って、ずいぶん無茶な毎日を送っていたわ。
それで体壊して、長期入院する羽目になっちゃって。ああここまでかって、ずいぶん世をはかなんだわ。そこで知り合った若いお医者さんと恋に落ちて、その人と、世間並みの幸せな暮らしをしていけたらって夢見たわ。でも彼、いいところのお坊ちゃんでね、家族親戚、みんなから反対されて、それでも彼はわたしと結婚したいって言ってくれたけど、こっちから断ったわ、煩わしいのは嫌よって。泣いたわねえ、あの夜は……。わたし、お腹の中の彼の赤ちゃんおろしたのよ。
夜の街に戻ったけれど、もうすっかり世代交代しちゃっていてね。わたしはもうくたびれた過去の女。それでも昔の常連さんに囲ってもらって、贅沢な生活をさせてもらっていたわ。昔の女王様時代には毛嫌いしていた男の愛人になってね。男はわたしを物にするともうすっかり満足したみたいで、たまにマンションに通ってきて、10分間で済ませて、おしまいよ。さっさと自分の家に帰っていくわ、奥さんと娘さんのいる家にね。
これも全部自業自得、何不自由なく生きていられるだけ幸せだわ、と、そう思っていたとき、滋ちゃんと再会したのよね?」
痛ましく顔をうつむかせていた滋がミラノの視線を受けて優しく笑った。
「僕は今はバーのバーテンダーをしてるんだ。いや、してたんだ」
「滋ちゃんはわたしを懐かしがって、なにかと優しくしてくれたわね?」
「僕は……」
滋は子供のようにはにかんで言った。
「ミラノさんを一目見たときからなんて綺麗な人だろうって、ずーっと憧れていたから。あれからたくさんの女を見たけれど、ミラノさんが間違いなく僕のナンバー1だ」
ミラノはとても優しく、哀れむような眼差しで滋を見た。
「あなたはなんて天使みたいな子かしらね? こんな汚れきった女を、そんな綺麗な瞳で見てくれて……。
わたし、あなたが好きよ。あなたがかわいくてならないわ。あなたの物になってあげたい。でも、天使のようなあなたに、わたしは汚れすぎているわ。だから、
わたしは綺麗になりたいの。汚れきった体を捨てて、綺麗に、純粋にあなたを愛する裸の魂になりたい。
この世に生き続けて、天使のようなあなたをこれ以上傷つけて、汚してしまいたくないの」
じいっと熱っぽい目で見つめられて、滋が後を継いだ。
「汚れているなんてとんでもない。僕の目にミラノさんはいつも眩しく光り輝いている。でも、ミラノさんがそんなに辛い思いでいるなら、遠く逃げて二人で暮らすより、いっそ二人で死んでしまってもいいかと思ったんだ。ミラノさんがそれを望むなら、僕は喜んでいっしょに居たいって、そう思ってね。それで、こうしてここに居る。
二人きりで死ぬのもいいけれど、やっぱり二人だけじゃミラノさんも寂しいだろうと思ってね。僕たちが本当に望んでいるのは、ふつうに幸せに暮らすことなんだ。死ぬときにも、死んだ後にもね」
そう言ってみんなを見渡した。
「なんだかんだ言って、みんなも本当はそうだよね? 最初から不幸を望んでいるわけじゃない、望んでも、世間は答えてくれないから、仕方なくここに居るんだよね?」
滋の問いかけに対するみんなの反応はそれぞれだが、敢えてここで積極的に反論しようとする者もいなかった。それで十分満足して滋は微笑んだ。
「じゃあ、後は、君だね?」
皆の視線が優一郎に集中した。
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