3、旅の仲間
甲府市は山に囲まれた盆地だ。市街地に入った時には富士山は山の向こうに頭が覗いていたが、近づくに連れ手前の山がせり上がってきて見えなくなってしまった。
その山を越えるのが最後の難所だ。これを越えれば、優一郎の旅は終わる。
整備された国道を尻目に、白茶けた県道を峠の中へ上っていった。
ぐねぐねときついカーブが続く。今や富士山は斜面の向こうで完全に見えなくなっている。ここを越えさえすればと、これまでの峠越えを思い出して一歩一歩、とにかく足を前に動かした。
途中、上を国道がまたいでいった。あっちの方がうんと距離が少なく目的地に着くだろう。うらやましくもあったが、へとへとに疲れ切る為にこうして歩いているのだ、これでいいんだ、と思った。でも、もし自分が車の免許を取っていたら……とついつい考えてしまった。そうしたら何か少しでも変わっていただろうか? バイトで稼いだお金を、こんなことに使うんじゃなく…………
2時間ほど上り続けて、ようやく最初の峠を越えたようだ。しかし2番目、3番目と、更に高い峠が行く手にそびえたっている。
優一郎はハアハア息をつき、膝を揉んだ。どっちを向いても斜面しか見えず、完全に山の中だ。
どうもこれまでと勝手が違うなと思った。これまで日本の背骨とも言える大山脈を越えてきたのだ、10キロほどの山を越えるなど最後の力を振り絞ればどうってことないと思っていたのだが、どうやら甘い考えだったようだ。思えばこれまでは谷間の町を歩くのがメインで、本当の山道を歩いたのはわずかなものだった。ここまではそうして人が生活している場所や道があったのだが、ここは違う。ここは本当に、ただの山だ。邪魔な通過点に過ぎず、それも、思っていたより遥かに邪魔な、険しい山だ。日本一の富士山が、すぐ向こうにあるはずなのに、全然見えないのだから!
優一郎は砂利の上に座り込んでしまった。
地図を広げてよくよく見てみた。このルートが駄目となると、どこを回ったらいいのだろう?と探したが、ここが駄目なら徒歩で行けそうな山越えのルートなんてどこにも見つからなかった。
優一郎は真っ青になった。これじゃあ、樹海に行けないじゃないか!?
なんでこんな肝心なことを見落としていたのだろう?と自分の馬鹿さ加減に腹が立って、泣きたくなった。単純に歩いて辿り着ける、まっすぐ行ける道を選んで出発したのだ。その時点で間違っていた。富士山なんてうんと遠くからでも見えるのだから、近くに行けば当然うんと高くそそり立って、普通に行けるものだとばかり思い込んでいた。優一郎にとってはそこまで歩いて辿り着けるかどうか、距離だけが問題だったのだ。
今、地図を見て正解のルートは、まずは東京方面に向かって、静岡側から行くのだった。距離はだいぶ長くなるが、最初の山さえ越えてしまえば後はずっと平地を歩いていける。こっちならきっと安全な生活道路もいくらでもあっただろう。
ああ、やっぱり僕は馬鹿だ。けっきょく何一つまともにできやしないんだ! ……死ぬことさえ、まともに…………
優一郎は絶望的な思いで周りを見渡した。来た道を振り返り、考えた。この山を越えたいと思ったら出発点に戻ってバスを探すしかないだろう。けれど、もうそのお金も残っていない。
僕は、馬鹿だ、馬鹿だ! こんな中途半端なところでのたれ死ぬしかないなんて、なんて惨めで、情けないんだろう?
20分くらい座り込んでいただろうか、優一郎は膝に手を当ててのそのそと立ち上がった。道に向き直り、先へ歩き出した。気持ちは惨めな思いでいっぱいだったが、最後のなけなしの意地で、行けるところまで行ってやれ、と思った。首をくくる為の木なら辺りにいくらでもあるんだ、もう1歩だって歩けないという所まで歩いて、進むことに完全に諦めがついたら、そこで首をくくればいい。
(でも、こんなに近くまで来たんだ、せめて富士山の見える所で死にたい)
せめてそれだけを最後の希望に歩き続けた。
となりに国道が走っているので狭くて古い旧道なんて走る車は滅多になかったが、それでもなくはなかった。
追い越していった車の窓に子どもたちの楽しそうな顔が見えて、ああそうかと気づいてみれば、今日は土曜日だった。
優一郎はリュックを背負って、一応登山のスタイルをしている。景色を眺めるふりをして車の後ろ姿から顔を逸らした。特に子どもには顔を見られたくないと思った。こんな、これから死のうとしている人間の顔なんか。自分にもあんな頃があったんだろうと思うと悲しくなった。君たち、絶対僕みたいな親不孝な真似はするなよ、といらぬおせっかいを思った。
歩いても歩いても、次の峠になかなか辿り着けない。これはどっちにしろ山中で野宿するしかなさそうだと思った。せっかくホテルできれいに身支度したのに、がっかりだ。
1台のバンが通り過ぎていった。白い、なんの飾り気もないバンで、なんとはなしに電気工事かなにかの車だろうと思った。
バンは先へ行ってしまって、優一郎も特に気にも留めずに歩き続けた。
だいぶ高い所まで上ってきたが、それでもまだまだ先の見通しは立たなかった。
坂道を前にため息をつき、膝をかばっておっかなびっくり上り出すと、少し先に先ほど追い越していったバンが止まっていた。
こんな所で何してるんだろう、電線も通っていないようだし……と思って、優一郎は嫌な感じがした。こんな所で、と言うなら、自分の方が百倍は怪しい。
どうしようと思って辺りを見ると、バンの止まっている手前に枝道があった。道があるからには先に何かあるんだろうと思い、取りあえずバンをやり過ごす為にそちらに向かった。舗装されてない、砂利がまばらに敷かれているだけの細い道だ。
ガチャッとドアの開く音がして、優一郎の心臓は飛び上がった。
案の定、降りた男性が声をかけてきた。
「こんにちは」
男性はにこやかな笑顔で、
「こんにちは」
と優一郎もおどおどしながら挨拶を返した。
おや? と思った。男性はピンクのシャツに赤いチョッキを着て、ちょっと工事の作業員には見えない。髪をきっちりセットして、鼻ひげを生やして、ちょっと笑える感じだが、それも含めて都会的に洗練されている印象だ。
男性はちょっと不思議そうな様子で枝道の先を見て、優一郎に訊いた。
「どこ行くの?」
「いや、特には……。ちょっと山登りの練習をしているだけです。今度富士山に登ろうと思うんで」
優一郎は、こういう白々しい嘘はスラスラ出てくるんだな、と自分に呆れた。
「そうなんだ。じゃあ、地元の人?」
「いや、そういうわけでも……」
優一郎は怪しまれると思いつつも視線を下へ逸らしてしまった。頼むから自分なんか放っておいて、行っちゃってくれよ、と思った。
「実は僕たち道に迷っちゃったみたいでねえ、よかったら案内してくれないかなあ?」
「迷うも何も、道は一本道ですよ? 迷ったと思うなら引き返すしかありませんよ?」
「そうだねえ、この道を使えば、方向転換できるねえ」
男性は枝道を眺め、視線を優一郎に戻した。
「君は、こっちに行くの?」
「ええ。先に進むのはもういいかなと思うんで」
「この先、何があるの?」
「さあ? 僕も初めてなんで」
「どこにも行けないみたいだよ? 道はこの先で、デッドエンド」
優一郎は意固地に下を向いて、男性の目を見ようとはしなかった。
「そこまで行ったら、君は下に帰るの?」
「ええ。もちろん、帰りますよ」
「そう。なら、いいんだけど」
男性は車に戻るそぶりをして、未練がましく振り返った。
「君が本当に帰ると言うなら、それを止めることは出来ないけれど。
僕たちはこれから青木ヶ原樹海に向かうところでね」
え? と思わず優一郎は男性の顔を見た。男性は嬉しそうに微笑んだ。
「こっちの道を選んだのはできるだけ人に会いたくないからなんだけど、君を見つけてしまってね。どうだろう、君も僕たちと一緒に行かないか?」
「一緒に……」
優一郎は男性の真意を計りかねて困惑した。
待ちかねたのか、また誰かドアを開けて降りてきた。
髪を染めた、ちょっと年は行っているが、なかなか綺麗な女の人だった。
「シゲルちゃん、どう? その子、仲間になってくれる?」
女の人も男性と同じニコニコした顔でやってきた。赤いチェックのシャツに、ベージュのパンツをはいている。
「どうする?」
男性は誘うような笑顔で訊き、女の人も「こんにちは」と親しそうに挨拶した。
優一郎は2人に好感を持ったが、罠かもしれないという警戒感は捨て切れなかった。
「あの、何か勘違いされてるんじゃないですか? 僕は本当にトレーニングしているだけなんで」
優一郎は挨拶に頭を下げて、枝道に入っていこうとした。
女の人が優一郎の手を捕まえて両手で握った。
「そんなこと言わないで、いっしょにいらっしゃいよ?」
「ミラノさん、無理強いはいけませんよ」
「あら、でも」
女の人は綺麗な顔に人懐っこい笑みを咲かせて言った。
「1人なんて寂しいじゃない? ね?」
優一郎は誰かと握手したのなんていったいいつぶりだろう?と思った。女の人の手は細くて固かったけれど、とても温かく感じた。
優一郎は、信じてみようと思った。
「連れて行ってくれますか、富士の樹海へ?」
「ええ、もちろん。ね?」
「うん。よろしく」
2人に挟まれて優一郎はバンへ向かった。
後ろの窓はカーテンが閉められていたが、その端がめくれていて、近づいていくとガラガラとスライドドアが開いた。
中を見て優一郎は驚いた。
男性2人、女性2人が乗っていたが、年齢がバラバラで、中年男性に、大学生風に、女子高生2人、と言った取り合わせで家族には見えなかった。
「やあ、来たか。さ、リュックを寄越しなさい」
優一郎が肩からリュックを降ろすと、中年男性が受け取って後ろに他の荷物と一緒に並べて置いた。中央の床に大きそうな茶色いテントが畳まれてあって、その他キャンプ道具が積まれていた。
「どうぞ」
大学生風がちょっとニヒルに微笑んで、となりに補助席を下ろしてくれた。
「よろしくお願いします」
女子高生2人が、1人は明るく、1人はおどおど挙動不審気味に、挨拶した。
「さあどうぞ、乗って」
シゲルと呼ばれた鼻ひげの男性が優しく促して、
「よろしくお願いします」
と優一郎は乗り込んだ。
ガラガラ、バタン、とスライドドアが閉められ、ミラノというらしい女の人が助手席に乗り、シゲルが運転席に乗り、
「じゃあ出発します」
と、バンを発進させた。
バンはグルッと峠を巡っていった。
後部ルームの窓はカーテンが閉められているし、優一郎は中央に座っているのでフロントガラスからの景色が見やすかった。木々の濃い緑しか目に入ってこない。
乗り馴れない車で、床からゴー、という音が響いてきていたが、勝手に進んでくれる便利さと楽ちんさに、優一郎はまぶたが重くなり、いつしか眠りに落ちてしまった。
「君、君」
肩を揺すられて、ハッと、びっくりして優一郎は目を覚ました。
車はまだ走っている。となりに座った大学生風がちょっと迷惑そうな顔で肩を揺すっていた。
ミラノが助手席から振り返ってニコニコし、シゲルもルームミラー越しに笑った目で見ていた。
優一郎はふと口の周りが汚れているのに気づいて手の甲で拭った。どうやらいびきをかいてすっかり眠ってしまっていたらしい。
シゲルが言った。
「もうすぐだよ。あんまり眠っちゃって後で目が冴えるのも困るからね」
どこら辺まで来たのだろうと思う間もなくトンネルに入った。ゴオオ、と壁にタイヤの音が反響する。オレンジ色のライトがついていて、なかなか抜けない。あの峠道からそのまま続いているのだろうか? トンネルは車2台ギリギリの幅しかなく、こんな所とても歩いていくことはできない。徒歩で山を越えようなんて、改めて無謀なことだったんだなと思った。もしこの人たちに出会わなかったら……と思って、ふと、本当にこの車は樹海に向かっているのだろうか?と思った。やはり自分は騙されて都市部へ連れて行かれようとしているのではないだろうか?……と思っていると、ようやくトンネルを抜けた。
思いがけず緑が明るい。
少し走って林を抜けると、いきなり視界が大きく開けた。
「あ・・・・」
優一郎は思わず声を出した。
青い湖越しに、富士山が、思い描いた通りの姿で、スケールは10倍以上大きく、天へそそり立っていた。
優一郎は思わず前へ精一杯体をかがめて、首を痛くしながらフロントガラスを見上げた。
きれいだな…………
海の広がる静岡側の富士山は青くて、陸の山梨側の富士山は黒いと聞いていたけれど、今湖越しに見上げる富士山は、優一郎には青く光り輝いて見えた。
山と湖に挟まれた三角の土地の、ほんの小さな町だった。
いったん主線からグルッと町中への道路に入り、ドライブインの駐車場に入った。
「向こうに着いたらしばらく歩くことになるだろうからね、軽く腹ごしらえして、トイレに入っておこう。夜は冷えるからね。さ、行こう」
優一郎はみんなと一緒に降りて、改めて富士の姿に感動した。みんなも富士山を眺めて、そろそろ建物へ向かおうとした。
「僕はいいです。後でトイレだけ入っておきます」
優一郎は独り駐車場に残ろうとした。
「ああ、駄目駄目。君のために止まったんだから。君にも準備してもらおうと思ってね。僕らは途中、街のコンビニでそれぞれ自分の夕飯を買ってきたんだ。それぞれ1番の好物をね。こんな所じゃ君のお気に入りがあるかどうか分からないけど、どうやらコンビニもないようだし、ま、我慢して選んでよ」
「でも、僕……」
遠慮する優一郎に、
「いいよ。僕が払うから」
と、男は財布を取りだした。軽く開くと、1万円札が数枚入っていた。男は笑って言った。
「遠慮は無用。もう、いらなくなってしまうものだからね。ね?」
「すみません。……ありがとうございます」
優一郎はお礼を言って、いっしょに建物に入った。
しかし入った途端、
「すみません、トイレ」
と、カウンター脇の通路に入り、トイレに駆け込んだ。
個室に入ると、思い切り下した。食べ物のことを考えただけで胃液が溢れ、腹がグルグル鳴り、肛門が痛んだ。せっかくおごってくれると言うのに、食べられるかどうか心配だ。ここまでの過酷な道のりの疲労と節食で、胃腸がすっかり衰弱しきっていた。何度本当にこのまま死んでしまいそうな苦しみを味わったことか。
個室を出るとシゲルが心配そうに待っていた。いきなり長い時間こもってしまった。
「だいじょうぶ? 君、思った以上にたいへんな思いをしてここまで来たようだね? すごいね」
「いえ、そんな。僕は、馬鹿なだけです」
「そんなことはない。君は、すごい人だよ」
人からそんな風に言ってもらったことはなく、優一郎は嬉しくて、微笑んだ。すごく心が満たされた。
優一郎は皆に申し訳なく思いながら席に着き、ポタージュスープを頼んだ。
料理が来るのを待つ間、簡単に名前だけ自己紹介した。
「僕は滋(しげる)。一応グループのリーダーということで、何かあったらなんでも言ってください」
「ミラノよ。仲間が増えて嬉しいわ」
「真人(まさと)……と呼んでくれ」
「わたしは令二(れいじ)だ。よろしく」
「満里奈(まりな)でーす。よろしくう」
「あずみです。どうも」
最後に優一郎が自己紹介した。
「僕は優一郎です。拾っていただいて助かりました。よろしくお願いします」
コーヒーやジュース、サンドイッチやケーキが届いて、食事会が始まった。
温かいスープをスプーンで一口ずつ、だいじょうぶだいじょうぶ、とお腹に言い聞かせて飲んだ。とてもおいしかった。
このメンバーは、滋とミラノ、満里奈とあずみは元からの知り合いのようだが、それ以外はバラバラの様で、この旅行の目的の為だけに集まったようだ。
みな他人ながら、雰囲気は優しく、居心地が良かった。
仲間になってよかった、と優一郎はしみじみ思った。
帰りに優一郎は滋に売店で菓子パンとスナック菓子を買ってもらった。最後の晩餐にしては貧弱なメニューで、滋はしきりに申し訳なくしていたが、どうせこんな物しか食べられないし、優一郎には十分なごちそうだ。
一行はバンに戻って、湖の先、いよいよ青木ヶ原樹海向かって、発進した。
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