2、20日間

 青木ヶ原樹海への自殺徒歩旅行を決行した青年、咲田優一郎は、20日間をかけてようやく山梨県甲府市に入った。最短で7日間で着ける予定であったその3倍かかっている。

 この20日間で、優一郎は道路というのは自動車のためにあるのだということを身をもって知った。当初新幹線の線路沿いに歩けばいいかと思ったが、それでは中央の山脈越えがあってとても無理だと思い直し、遠回りでも地図の平地を表す緑色の部分が多い在来線沿いの道を歩くことにした。

 しかしその道のりはあまりに遠く、歩き出して1日目、夕方までにようやく都市部を抜け出したが、赤く染まった田圃が広がる景色を見て、今夜いったいどうしよう? と、早くも泣きたい気分になった。夜になっても歩き続け、夜中過ぎ、児童公園の一角にある小さな社……御輿みこしが納められていた……を見つけ、その軒下で寝袋に入って眠った。早朝犬の鳴き声がやかましく目を覚ますと、犬をなだめる老人と目が合って非常に気まずい思いがした。早々に寝袋を畳み、朝食の店を探して歩き出した。昨日は夕方空腹に耐えきれずコンビニで弁当を買って食べた。朝も死にそうに腹が減っていて、喉もひどく痛かった。野宿なんて生まれて初めてした。体中が痛かった。

 それからもけっきょく店……コンビニを見つけるたび、菓子パンを1つ買っては食べた。嘘のように涎が溢れて耐えきれなかった。たった2日目にしてこれで、次の町に入ってビジネスホテルを見つけてしまうと、ぱったり足が止まってしまって、まだまだ明るい中、4時を過ぎると早々にチェックインして、ベッドに倒れ込んでそのまま朝まで眠った。また早朝目を覚ますと、とてつもない不安に襲われた。こんな辛い旅をこの先続けていけるのだろうかと早くも挫折しそうになった。しかしその弱い思いを意地で振り切ってホテルを出発した。自分の目的をもう1度確認した。人生最後に、1度くらい意地を通してみせろと自分を叱咤した。3日目の夜は、道路沿いの林の中で寝袋で寝た。虫の声がうるさくてなかなか寝付けなかった。

 4日目5日目と田舎の平野を歩き、そこで道路とは車のためにあるのだと思い知った。田舎の国道は車がビュンビュンスピードを出して走り、大型のトラックが走ってくると風圧で体が持って行かれそうになり、排気ガスをもろにたっぷり浴びせられた。歩道がないところも多く、非常に危険だった。どうせ死にに行くんだからここでトラックに撥ねられてもと思ったが、それでは青木ヶ原樹海に歩いて向かう意味がない。すれすれに大型車が通っていくと、自分の無惨にひしゃげた死骸を思って身震いした。痛いのはやっぱり嫌だ。それで集落の昔ながらの道を通ると、曲がりくねって、すぐに迷った。どんどん目印の線路から遠ざかって、方向が分からなくなった。疲労ばかりがかさんで、道程はちっとも進まなかった。

 それ以降、歩いているときは今日が何日目なのか、記憶が混乱して分からなくなった。電気店や駅でテレビを見て、コンビニで新聞を見て、今日の日付を思い出すのだった。……優一郎は携帯電話を持っていなかった。これまで必要が全くなかったからだ。まだそんなにしか経っていないのかとも思ったし、もうそんなにも経ってしまったのかとも思った。いずれにしても、計画よりぜんぜん遅れていた。

 市街地に入ると、なるほどネットカフェというのは便利なものだと思った。ホテルに比べれば格安で1晩過ごせる。椅子にもたれて、ぐっすり眠ることが出来た。しかしそうした場所は田舎に行けば行くほどなくなっていった。道路沿いのラブホテルなんて入る勇気はなかった。それさえも、予定を大幅に遅れている現状、高価過ぎる贅沢だった。ホテルに泊まる金は、最後の1日の前に取っておきたかった。食費も、どんどん削っていかなければならない。

 山間部は、本当に辛かった。無人駅なんて見つかれば、そこは天国だった。屋根のある暖かな小屋で寝袋に新聞紙を詰めて眠った。ああ、ありがたいと涙が出た。しかしそうでなければ、無人駅や公衆トイレでも見つからなければ、夜は極北の監獄といっしょだった。とにかく寒く、骨の髄まで冷え込んだ。ああこんなことなら夏のうちに計画を決行するんだったと後悔した。9月の後半だった。テレビなんかによると全国各地でまだうだるような真夏日があるということだったが、優一郎の辿ってきた道は昼間はちょうどいい涼しさだった。しかし夜になると完全に秋の冷え込みだった。毎夜ガチガチ震えながらその夜の寝床を探して歩いた。

 1番やられたのが雨だった。昼間の雨も辛かった。体が重く、だるく、じわじわ節ぶしに痛みを感じ、時間がとてつもなく長かった。その上ろくに距離を歩けない。夜も、結局歩き続けるしかなかった。雨が降れば、身を寄せられる、隠れることのできる場所は格段に減った。幸い激しい豪雨に見舞われることはなかったが、山の中はやはり危険だった。斜面を下るドードーとした雨の流れに恐怖した。集落に出ても、消防団が見回りに出ていると逃げ回った。休める場所はなかった。歩き続け、夢うつつをさまよい続けた。みじめで、涙が出た。

 山間に開けた都市に出たとき、引き返そうかと本気で迷った。道のりはようやく半分に届こうかというところだった。お定まりのネットカフェで久々にまともな睡眠をとった後で、やはり前に進むことに決めた。とにかく早くこの旅を終わらせたいと思った。

 再び深い山に入った。山越えの道は人のための道ではなく、狭いところで運悪く車に出くわせば、ガードレールを跨いでやり過ごした。どういう目で見られているのか、ずっと顔を逸らしていた。いかにも山男が景色を楽しんでいる風を装って。そういえばすっかりひげ面になっていた。

 夜の闇が怖かった。深々として冷たく、密やかだった。何もないのでなく、その奥に、密やかな気配を宿していた。時折聞こえてくる枝のこすれる音や獣か鳥か定かでない生き物らしき声など、聞こえる度ビクリと体をふるわせた。体が弱って、死に近づいて、恐怖に鈍くなるどころか、そうした神経だけ研ぎ澄まされていった。以前よりずっと臆病になっていた。肩を抱き、体を丸め、自分の身を守るようにした。死ぬのが怖いと思った。一方でこの頃になると死ぬのが当然の事のように思えていた。いずれ、もう引き返すことは出来ない。

 長く長く長い、苦しい旅が、ようやくその終着地を見せた。

 富士山が、まだ遠く、その白い頂を見せた。

 なんとありがたい、と、また涙が出た。

 あの麓に至れば、ようやく、自分はこの苦しみから解放されるのだと思った。

 予定通りの心境になれた。

 そう思って、残りの道をただひたすら歩き続けた。

 そうして、20日間が過ぎた。

 甲府市内に入った優一郎はひげを剃り、出来るだけ身なりを整え、やせ細って骨が折れそうになってもそれだけは死守してきた最後の5千円札で泊まれるホテルを探し、1泊した。

 これが、この世の最後の心地よい、人間らしい生活だと思った。

 宿泊費はギリギリで、夕飯を買うお金は残っていなかった。明日の朝と昼、パンかおにぎりを買って、それが最後の食事になるだろう。

 鏡を見て優一郎は笑った。よく泊めてもらえたなと思う。このホテルは事前に販売機でチケットを買う仕組みなので泊めてもらえたのだろう。事務的な手続きで鍵を渡された。ひっどい顔だ。水で剃ったかみそりが引っかかって見事に赤い線が顎に斜めについている。

 最後の風呂に入った。これまで水を見つければ出来るだけ洗濯をして体を拭くようにしてきたが、こすると面白いように垢が浮いた。きっと臭いもひどいだろう。ホテルに泊まるお金を大事にとっておいて正解だったと思う。昔の武士の死に装束でもないが、やはり最期はきれいに迎えたい。

 ああ、僕はもうすぐ死ぬんだなあと、湯船に浸かりながらクリーム色の狭い天井を見上げて思った。体の凍えが湯にしみ出していき、湯の温かさが骨の髄まで柔らかく暖めてくれる。

 思った。

 僕はどうしてこの温かさを素直に受け入れられないんだろう?と。

 少なくとも自分の両親だけは自分を温かく見守り、守ってきてくれていたのに、自分はそのこの世の唯一の温かさまで裏切り、捨て去ろうとしている。両親にはこの旅を「自分を見つめ直して生まれ変わるための自分発見の旅」と言ってきた。バイトで稼いだ貯金を本当よりずっと多く言い、目的地に着いたら帰りは新幹線に乗って帰ってくるよと嘘をついた。二人ともひどく心配して何度もだいじょうぶなのかと言ったが、優一郎は「これだけはやり遂げたいんだ、僕を信じてくれよ」と言い、両親も最後は優一郎の旅立ちを笑顔で見送ってくれた。ひどい嘘つきだ。いつまでも帰ってこない自分の、本当の決意を、いずれ父親が優一郎のパソコンで見つけるだろう。

 ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい、お母さん。

 と思った。天井から水滴が落ちてきて、頬を打った。

 僕はこんなにも弱い人間なんです。でもそんな弱い僕が、ここまで歩いてきました。自分で決めたとおり、頑張って、やり抜きました。お願いですから、最後だけ、褒めてください。


「う………………………」


 優一郎は、泣いた。

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