第2話 紫陽花

 19時27分。某国立大学2年の真霜柊ましもしゅうは焦っていた。ゼミの授業時間延長は考慮に入れていたが、今日に限って想定以上にゼミが延長されたのだ。

「飛び降りたほうが早かったりしてな」

僕は階段を降りるのが得意ではない。最大限の注意を払いながら出せる限りのスピードで階段を下る。C棟の出口を駆け抜ければ待ち合わせ場所はすぐそこだ。いったん呼吸を整え、何事もなかったかのように、冷静に歩みを進める。白のボアを着た女性が僕に気がつく。

「よ」

「悪い、待たせた?」

「全然、それよりどこ行く?」

僕たちが飲みに行くときはいつもこうだ。先に決めるのは集合場所と日時だけ。

お前が行きたいところでいいよ、と言いたい気持ちを抑えながら、僕は冗談めかして、

「そういや、みなみ屋最近行ってないわ~」

「真霜が好きなだけじゃん却下」

「じゃあピラミッドは?」

「私先週行ったし遠い」

そんなにレパートリーないんだが。

「……2丁目の紫陽花は?」

「最近行ってない、決まりだね」


 19時45分。

「真霜が時間ギリギリなんて珍しいよね」

「ゼミが予想よりも延びた」

「乙」

「とりあえず喉渇いた、俺生」

「スクリュードライバー」

「鶏の軟骨は譲れない」

「私あんま好きじゃないんだけど」

「聞こえませんね」

「とりあえずあとこのお刺身の盛り合わせで良くない?」

「賛成」


カウンター席で二人だけの乾杯を済ませると、僕は単刀直入に尋ねた。

「……それで?彼との進展は?」

「え~?ないよ?」

「その話を聞くために呼んだんですが?」

「ほんとむかつくんだよ~~~」

普段は強がりな紗季の声のトーンが一気に上がる。

「専攻が一緒だから今は講義も一緒なんだけど」

視線を逸らして相槌を打つ。

「それで、今度泊りで実習に行くんだけど」

僕は食い気味なリアクションで、

「お、ともに一夜を過ごすチャンス……」

「だと思ってたの!でもあいつの予定と演習の日程が合わなくて、あいつだけ別日程になるかもしれないの!」

「あ~あ~やってますねぇ、まあどちらにしろそいつを誘惑する度胸は」

「「ない」」二人の声が重なる。今日も阿吽の呼吸。

紗季はグラスを半分ほど飲み干すと、涙目で俯いた。

僕がお前はどうしたいんだと尋ねると、を別れさせたいと言う。

「地元の女ね、そう上手くはいかんでしょ」

「だって私のほうがかわいいもん」

「まあお前よりかわいい女のほうが珍しいわ」

僕は紗季に対しては本音でしか話さない。たぶん紗季も同じだ。

「見えない女がいるのが怖いよ、どうして私じゃダメなの?」

「私に言われてもな……そいつは変なところで誠実だな。クズ男ならお前みたいなやつすぐ囲っちゃうと思うんだけど」

「それは嫌なの。都合のいい関係なんて。私だけ見てくれなきゃ嫌。」

「そんなだから未だに未リアなんだろうがよ、本当に欲しいものは奪いに行かないと手に入らんぜ」

「うっさいばか……」再び紗季の目が潤うのが見えた。

「あ~~~ごめんなさい私が悪かったですってば」

正直な本音があだになったか。僕はほとんど衝動的に俯く紗季の頭を軽く撫でた。

沈黙が痛い。紗季との会話に困ったのは初めてだった。

「……とはどうなの?」

「なんも無いよ、今はただの友達」

「ていうか、この前その子に会ったよ。同じ講義とってた」

それは初耳だった。の時間割は把握していたが、紗季の時間割は未だに把握できずにいたのだ。

「私のほうがかわいいけど。なんも無いわけないんでしょ」

「前も言ったけど、私は自分がこうしたい、っていうよりも相手の幸せが最優先だから。相手にとって俺は「いい友達」ならそれでいいし、自分の感情を押し付けることはしたくない」


お勘定はちょうど5000円くらいだった。

「ちょうど2000円ずつだって」

「はーい」疑いもせず野口を2枚渡してきた。

別に見栄を張りたいわけではない。自分なんかのために時間を割いてくれたお礼がしたいだけなのだ。別に男が多く出すべきだとは思わない。

去り際に紗季は真霜は幸せになれよ、と言った。それな、とだけ返した。

帰りの電車内では瞼が重く、意識を保つのが精一杯で、普段なら欠かさない「今日のお礼LINE」を送るのも忘れていた。彼女の投稿に気が付いたのは翌日の朝だった。


>新しい投稿があります

____________

🔒@messia__H 8時間前

決めた、学年変わるまでは引きずってもいいことにする

それまではめんどくさくてもかまちょする それ以降は知らん

____________


心が躍った。






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