第9話 明るみになる真実、炭鉱からの脱出へ

 ~セルマン 7月21日~


 夕方から降り出した雨は、夜には、本降りの雨へと変わった。

 懲罰部屋に監禁されていた兵士とのやり取りの後、セルマンは、プラトに背中を押される形で、街への脱出計画を実行する決断をしていた。

「協力してくれる人なら、何人か心当たりがある。まあ、そっちの方は、俺に任せておけ」

 プラトはそういうと、彼独自の情報網を使って、現状に不満を持っている人たちを探しだし、協力者を集めた。

 セルマンは、もう一度懲罰部屋に食事を運び、彼らと話す機会を設けた。

 そして、今日の夜、脱出計画を実行に移すことに決まったのだ。

 方法は、まず、セルマンともう一人が食事を懲罰部屋に運ぶ。そして、そのもう一人と兵士一人が入れ替わり、セルマンと共に外に出る。その間、協力者には居酒屋で出来上がっている炭鉱夫相手に演説をかましてもらい、彼らを焚き付けて、大勢で橋の袂まで押し掛け、そこにいる見張りを動かす、という、なんとも心許ないものだった。

「橋を通る一瞬でいいんだ。その間だけ、引き付けていてくれれば」

 そう兵士は言った。

 騒ぎを起こした炭鉱夫たちが危ない目にあうのでは、という懸念もでたが、いちおう同じ炭鉱夫仲間に対して、暴挙に出る可能性は低いのではないか、という意見に与する形で、最終的にその方法を取ることになったのだ。


「助かるよ。誰もやろうとしないんでな。

 ちょっと待ってな。もうすぐ準備が終わるから」

 今日もたくさんの炭鉱夫でひしめき合っている飲み屋のカウンターでマスターは言うと、厨房を振り返り、早く準備しろと怒鳴った。そして、他の酔っぱらいの相手をするために、その場から離れていった。

 その間、セルマンは、カウンターを背にしながら店内を見回した。

 そこには、決起前とは明らかに違う空気が漂っていた。

 以前は、過酷な労働に対する不満をぶちまけながらも、全体としては活気に満ちた明るい雰囲気が大勢を占めていた。しかし、今ではあちこちでひそひそ話をする炭鉱夫の姿が見られ、なにやら不穏な空気があたりを覆っているのだ。

 決起が起きてから、十日が経過した。

 その間、食料が街から運ばれることはなく、少しずつではあるが、食料事情が悪くなっていった。生鮮食品はすでに姿を消し、最近では、肉がメインのメニューが姿を消した。また、ゴミの回収もなくなったので、あちこちに生ゴミが散乱するようになり、夏の暑さと相まって異臭を放ち、ハエも多く飛び回るようになっていた。

 しかし、なによりも炭鉱夫たちが不満に思っているのは、橋一本隔てられた外の世界への自由な往来を制限されていることだった。

 そのことについて、決起の中心メンバーに直談判しようと、一部の炭鉱夫が彼らのいる事務所を訪れたことがあった。しかし鼻であしらわれ、その話が炭鉱夫の間に広まり、不穏な空気を生み出しているのだ。

「わくわくしてくるな」

 セルマンの隣で、同じくカウンターを背に立っている小柄な炭鉱夫が言った。帽子を目深にかぶるその姿からは、表情を窺うことはできない。

「そうか?」

 セルマンが答えると、その男は水が入ったグラスを手に持ち、ぐいっと飲み干すと、音を立てて乱暴にカウンターの上に置いた。

「ああ。だってあの気にくわないやつらの鼻をあかそうとするんだろ。愉快じゃねえか」

 口ひげについた水滴を袖で拭きながらその男は言うと、くっくと笑った。

 彼の名はヨギといった。セルマンと同じセガラ連邦出身で、薄茶の髪に褐色肌、年は二十代後半くらいに見えた。身長はセルマンとほぼ同じだが、猫背のため、実際の身長より小さく見える。大きくはあるがギョロっと光る三白眼が、どんなことでも見逃さないと言っているようで、セルマンはあまり良い印象を持っていなかった。

「で、準備はばっちりなんだろうな?」

 セルマンもグラスを手に取り、一口飲むと尋ねた。

「準備なんか、この針金一本あれば十分よ」

 そういうと、ヨギは煤で汚れたままのズボンのポケットに手を突っ込み、ごそごそまさぐると、さっと一本の針金を取り出した。

 彼が言うには、ここに来る前は錠前師として生計を立てていたんだそうだが、プラトは「あいつは、盗人だ。だが、錠前の腕は確かだ」と言っており、それが真実なのだろうとセルマンも考えていた。

 今回は懲罰部屋を開錠しなければならないため、どうしても開錠の技術を持っている人材が必要だ。そういった技術を身に着けている炭鉱夫は、プラト曰く、何人かいるらしいが、うまく誘いに乗ってくれたのが、ヨギだったのだ。ただで手を貸してくれるタイプには見えないので、なにか交換条件をプラトが用意しているのだろう。

「おいっしょ。あぁ重い。待たせたな、これが飯だ」

 カウンターの奥から、大きな腹を左右に揺らしながらかごを持ったマスターが出てきた。その後ろを、うつむき加減で歩くエリオットが、かごを携え付いてきている。

 自分だけ走って逃げだしたのがいまだにきまり悪いのか、エリオットはカウンターの上にかごを投げ出すように置くと、一目散に裏へと走り去っていった。

「今日は、香草入りマッシュポテトとパンだ。まあ、食べられるだけでも、感謝してもらわないとな。

 ……それにしても参るよ。ほんとどうするつもりなんだろうな。食料事情はどんどん悪くなってるっていうのに、外から調達しようとしないなんて……。それに、捕虜たちには食料を用意してやってんのに、あの事務所に詰めているやつらはいらないんだと。いや、俺は構わねえけど、あんな巨体をまかなうくらいの食料を、いつ、どこで手に入れてるっていうんだろうな」

「さあな。

 じゃあ、これで全部だな」

 カウンターの上に置かれたかごに手を置くと、セルマンは言った。

「あぁ、そうだ。頼んだぞ。それにしてもいつまで持つのやら……」

 そう言うと、マスターはぶつくさ言いながら、ほかの酔っぱらいの相手をしにいった。

 その様子を見届けたセルマンは、ふっと一つ息を吐くと、隣に立っているヨギのほうを向いた。

「さぁ、行くぞ」


 外に出ると、夕方から降りしきる雨のおかげか、あたりはひんやりとしていた。

 飲み屋をはしごする炭鉱夫が二人、小走りに通りを横切ったが、他にあたりをほっつき歩いている人は一人もいなかった。いつもなら、酔っ払った炭鉱夫たちが通りをふらついているのだが、さすがにこの雨の中、みな飲み屋に収まっているのだろう。

 セルマンはかごを担ぎ、ヨギと連れだって事務所を目指し、黙々と歩いて行った。この悪天候のためか、あるいはこれからの企みに対する緊張からか、二人はほとんど言葉を交わすことはなかった。

 足元は雨でぬかるみ泥地となって、ほうぼうに水たまりができている。そんな悪路を、泥をはね上げ水たまりに足を突っ込みながら、二人は進んでいった。


 少し行くと、ある飲み屋の前に差し掛かった。あまり大きくはなく、通りに面した柵は一部壊れていたが、とにかく強い酒をそろえていることで評判の飲み屋で、酒の力で嫌なことを忘れたい炭鉱夫には人気のある飲み屋だ。

 その入り口のすぐ横に、一人の男が腕組みをして立っている姿が、明りに照らされ浮かび上がっていた。プラトだ。

 彼はセルマンたちに気が付くと、ニヤッと笑い親指を立てた。その瞬間、飲み屋の中からうわっという歓声が沸き上がった。飲み屋に集まった炭鉱夫をうまく橋まで誘導する準備は、着々と進んでいるようだ。

 セルマンはプラトへかすかにうなずくと、歩を進めた。

「あちらさんも順調のようだな」

 そう話すヨギも、後から続いた。


 事務所のすぐ近く、橋の袂付近まで来た。

 橋のほうに視線をやると、この雨の中でも消えずに燃え続ける松明に照らされて、二人の大柄な見張りが微動だにしない姿が見えた。セルマンは、先ほどから少しずつ高まりつつある緊張をさらに強く感じながらも、自分のなすべきことをするため、その場を通りすぎ、事務所の扉の前まで進んだ。

 門番は、あの大柄な兵士一人のみだった。近づくにつれて、なんとも言えない不快な吐き気がこみあげてくる。

「捕虜に食事を持ってきた」

 吐き気を押し殺しながら言うと、口をつぐみ、相手の反応を待った。しかし、目の前の大柄な男は反応を見せない。

 雨がざぁと降る音が、あたりを包んでいる。

(聞こえなかったのか?)と思い、セルマンはもう一度同じ言葉を口にした。しかし、反応はない。

「おい、構やしねえよ。先に行こうぜ」

 ヨギはそう言うと、階段を駆け上がり、大柄な男には見向きもせずに扉に手をかけた。

 セルマンもすぐに後を追いかけ階段を駆け上がったが、扉の隣に立つ男は、こちらに視線を向けることなく、あたかも石像のように立ち尽くすだけであった。

 そのままヨギが開けた扉に飛び込んで、さっと閉めた。


 中は相変わらず暗く、ひんやりとしている。

 ヨギは、髪から滴るしずくもそのままに、かごを担いだままはぁはぁと荒い息を吐き、今来た扉のほうを振り返った。

「なんだ、あいつ。気持ち悪い奴だなぁ」

 彼は、決起が起きてからここに来るのは初めてだった。

「気にするな。いつもはもう一人いるんだが、今日はいないみたいだな」

 そう答えながら、セルマンは懲罰部屋へと続く扉のほうを見て、そこに明かりが灯されているのを確認した。

「よし、行くぞ」

 そういうと、セルマンは歩き出した。ヨギもそのあとに続いた。

 雨は、相変わらず降り続いていた。


 地下へと続く暗い階段を、セルマンが手に持つ灯りを頼りに降りていく。

 相変わらずかび臭く、湿気のある淀んだ空気があたりを覆っていた。

「嫌な空気だな。気分が悪くなる。

 ……それにしても、なんか寒いな。こんなだったか?」

 ヨギの独り言のような呟きが、セルマンの耳に届いた。

「いや、前はそうじゃなかったように思う。あいつらが来てから、なにかが変わったんだ」

「……」

 ヨギからは、何の返事も聞こえなかった。

 セルマンは、これからの流れについて考えていた。ヨギと懲罰部屋まで行き、そこで鍵を開け、兵士の一人と入れ替わる。そして、その兵士と一緒にかごを担いで、この事務所からでて、騒ぎで見張りが離れているはずの橋を通過し、街まで向かう、というものであった。

 しかし、そもそも懲罰部屋のカギを開けることができるのか(ヨギは自信がありそうだが)、また入れ替わった兵士を見破られることなく、事務所の外へ連れ出すことができるのか、そしてなにより一番心配だったのが、プラト達は橋の見張りをその場から引き離すことができるのか、ということであった。先ほど飲み屋で会ったプラトの様子だと、炭鉱夫たちを扇動するのにはうまくいってそうだった。しかし、その炭鉱夫たちをもってしても、あの見張りを動かせるほどの騒ぎを起こすことはできるのか、セルマンには不安だったのだ。

 一段一段下がるにつれて、ひんやりとした冷気が這い上がってくる。それでも、額から嫌な汗がじわっと滲みだしてくるのを、止めることができなかった。

 ほんの少しの間だけでもいい、奴らを引き付けてくれさえすれば、そう心の中で唱えながら、セルマンは先へと進んでいった。


 階段の一番下まで着いた。両側の壁にかけられている明りに照らされて、その先へと続く扉が目の前にそびえたっているのが見える。

「うぅ、さみ。この先だよな」

 寒さからか、小刻みに震えながら縮こまっているヨギが口を開く。

「そうだ。

 ……伝えるのを忘れていたが、ここから先は異臭がするかもしれない。ちょっと前まで、衛生面がよくなかったからな」

 懲罰部屋への道筋や見張りについてはあらかじめ伝えておいていたが、兵士との身代わりをためらうような情報は、ヨギには伝えていなかった。

「は?まじかよ。聞いてねえよ、そんなの」

 セルマンの話を聞いて、明らかに苛立ったようだ。

「そうか、悪かったな。だが、きれいにしたから、もう大丈夫だ。

 じゃあ、行くぞ」

 もう一言文句を言いたそうなヨギの言葉を遮ろうと、セルマンはさっさと扉の取っ手に手をかけて、鉄製の扉を引いた。扉は音もなく、すっと開いた。

 セルマンは、その扉の先へ一歩踏み出した。


「……くせぇ。それになんなんだ、この寒さは。今は冬か?」

「これでも、匂いはましになったんだ。寒さはよくわからんが、懲罰部屋があるあたりはそこまで寒くもないんだよ」

「……おい、こんな中で、俺は兵士の身代わりをしなきゃなんねえのか」

「……プラトとどんな約束をしたかは知らないが、そのためだと思えば我慢もできるだろ?それに、懲罰部屋に行くっていうのに、きれいなベッドとうまい飯が待っているのかと思ったのか?」

「……くそ、あのじいさん。割に合わねえぜ……」

 ヨギの気が変わるのを恐れたセルマンは、速足で先に進んだ。ヨギはぶつくさ言いながらも、プラトとの約束がよほど魅力的なのだろう。後ろから、しっかりとついてきていた。

 食器をカチャカチャ鳴らしながら、ぼんやりとした光が照らす廊下を、二人は進んだ。

 少し行くと、懲罰部屋へと続く鉄格子が見えてきた。それを確認したセルマンは、ヨギの耳元に口を寄せてささやいた。

「あの鉄格子の手前の右側の窪んだあたりに、見張りが一人いる」

 ヨギは無言でうなずくと、帽子をぐっと深く被り直して、下を向くように歩いた。帽子は、入れ替わったときに気づかれにくくするための変装の一種であった。それは、雨が降った際に傘代わりに炭鉱夫がよくかぶるものだった。

 そのまま二人連れだって、あの鉄格子の手前、見張りの前まで来た。

 心構えをしていたが、あの見張りの前に来た途端、案の定、強烈な寒気と吐き気に襲われた。必死で平静を保とうと、セルマンは思わず体全身に力を込めた。

 しかし、ヨギにはこの見張りから感じる異様さについて事前になにも知らせていなかったため、不意を突かれ、バランスを崩した。そして、かごをひっくり返しながら、自身は転倒してしまった。

 この展開を予想していたセルマンは、すぐさま自分が抱えているかごを、見張りからヨギが見えないよう盾のように置くと、ヨギを抱え起こそうとした。と同時に、見張りに告げた。

「鉄格子を開けてくれ」

 背中を向けていたので見えなかったが、見張りが、あの冷気と腐敗臭を発しながら鉄格子のほうへ進むのを感じた。

 セルマンはヨギに向き直った。

 すると、衝撃のあまり口をぽかんと開き、こぼれ落ちそうになるくらい、大きく瞳を見開いたヨギの姿に気が付いた。その瞳は、あたかも吸いつけられているかのように、見張りに向けられている。その両肩に手を置くと、小刻みな震えが伝わってきた。

「おい、しっかりしろ。気をしっかり保て」

 見張りに聞こえないよう小声で諭しながら、軽くヨギを揺さぶる。それでもヨギには届いていないようで、その瞳からは生気を感じられず、まるでガラス玉のように何も見えていないようだった。

「おい、しっかりしてくれよ!」

 軽い苛立ちを感じたセルマンは、ヨギのほほを、思いっきりぎゅっとつねった。

「っつ!なんだよ!」

 痛みから顔をくしゃっとゆがめたヨギは、驚いたような怒ったような表情を浮かべ、つねられたほほを撫でながら、セルマンを睨んだ。

 その瞳に正気が戻ったことを感じたセルマンはほっとすると、ヨギの腕を支え、立ち上がるのに手を貸した。

「がちゃ」

 鉄格子の鍵が開けられ、見張りがのそりとこちらを向いた。

 その瞬間、冷気と腐敗臭がどっと押し寄せてくるのを感じた。

 隣に立つヨギののどから「ごくり」というつばを飲み込む音が聞こえる。

 見張りは、見ているようで見ていないような小さな金色の目をちらとこちらに向けると、またのそりと歩き出した。そして、自分の持ち場に戻ると、微動だにしない姿勢をとった。

 不快な気分から吐き気がこみあげてくるのを必死で押し殺しながら、セルマンは長居は無用と言わんばかりにヨギの腕をつかむと、さっと鉄格子を開き、中へ入った。


 中に入ると、先ほどの冷気と腐敗臭は収まり、代わりにむわっとした少し湿ったような温かい空気が辺りを包んでいた。以前来たときに漂っていた汚物や体臭の匂いは、あの後入った清掃のため、大分ましになっている。それに、先ほど見張りから放たれていた腐敗臭に比べれば、むしろ清浄な空気とも思えるほどだった。

 早く先へ進もうと奥へ歩き出したセルマンだったが、ヨギが付いてこないことに気が付いて、後ろを振り返った。ヨギは、その目を大きく開き、蒼白した面持ちで立っていた。

「行くぞ。この奥の懲罰部屋に、監禁されているんだ」

 逸る気持ちを抑えながらそう言うと、ヨギの様子には知らん顔で、彼の腕をとり、先へ促そうとした。しかし、ヨギはその腕を振り払った。

「……なんなんだよ、あいつ。まるで、化け物みたいじゃねえか」

 恐怖で凍り付いた表情を浮かべながら立ち尽くすヨギに、セルマンは心の中で舌打ちをした。焦りから、額にうっすら汗が浮かび上がってくる。

「先へ進もう。あいつは鉄格子の先へ入ることはないそうだ。兵士の奴らも、あいつに会ったことはないらしい、気にするな」

「気にするなと言われてもな……」

「早く行くぞ。ぼそぼそとしゃべっていると、却ってやつに怪しまれるかもしれない」

 その言葉が効いたのか、不安そうな眼付きでセルマンに視線をやったヨギは、観念したようにかごを担ぎ直すと、とぼとぼとセルマンの後からついてきた。その様子を見たセルマンは、気づかれぬよう安堵のため息をつくと、奥へと進んでいった。

 鉄格子から少し離れた所で、セルマンはヨギに小声で囁いた。

「確かに、奴は化け物なのかもしれない。さっきの事務所に立っていた見張りも、同じかもしれないな。でも、だからこそ、俺たちは今ここにいて、この作戦を遂行しているんだ。じゃないと、このままこの状況が続けば、俺たち炭鉱夫自身がどうなるかわからないだろ。決起を起こした連中は、どうやら俺たち炭鉱夫の仲間ではないみたいだからな」

「……。確かに、そうプラトから聞いてたんだが。でも、なんでこんなことになっちまったんだろうな」

「……」

 それは、セルマンにもわからなかった。

 彼らがこの世の者ではないということに対して、セルマンはすでに確証にも似た気持ちを持っていたが、なんのためにこのようなことをしたのかということについては、からっきしわからなかった。兵士やあのプラトさえも、首を横に振って、ただ分からないと言うだけだった。

「とにかく、先に進もう」

 そう言って、セルマンはさらに奥へと歩き出した。ヨギも大人しくセルマンに従った。


 少し行くと、兵士たちが監禁されている懲罰部屋の前へ到着した。排泄物の臭いや体臭が、少し濃く立ち込めている。

「ここだ。

 ……おい、俺だ。食事を持ってきたぞ」

 セルマンはそういうと、かごを下ろしながら、目配せでヨギに合図を送った。ヨギも同じくかごを下ろしたが、すぐに手をズボンのポケットに突っ込み、針金を引っ張り出した。

 そして、懲罰部屋の扉にすっと近づくと、しゃがんで鍵穴に針金を突っ込み、扉に耳を当てながら、かちゃかちゃ鳴らし始めた。

 手早く皿に食事をよそいながらも、セルマンは、ちらちらとその様子を窺っていた。

 すると、かちゃりという音が扉から聞こえてきた。

 その瞬間、あたりのすべての動きが止まったかのように感じられた。

 ぴんと張った糸のような緊張感が漂う中、ヨギがゆっくりと取っ手を回して、扉を引いた。すると、キーという音を立てながら、扉は開いた。

 鍵が解けたのだ。腕は確かなようだ。

「すぐに扉を閉めてくれ。見張りに見つかったら面倒だ」

 歓声を上げたい気持ちをぐっとこらえながら、セルマンは小声でささやいた。

「わかった」

 ヨギはそう答えると、音を立てないように気を使いながら、すぐに扉を閉じた。

「見事だ。……少々複雑な気持ちにさせられるけどね」

 懲罰部屋の中から声がした。

 今回の作戦に関して、今までやり取りをしていた兵士の声だった。名は、ライアンという。

「悪いが、もう一つの部屋も頼む」

「言われなくてもわかってら」

 ヨギはそう答えると、先ほどよりも自信を漂わせながら隣の懲罰部屋へと向かった。

 セルマンは後ろを振り返り、見張りがいないことを確認すると、せっせと食事を取り分けていった。今度は先ほどよりも早く、ヨギは鍵を開けることに成功した。


 セルマンとヨギは、食事がよそわれた皿を次々と懲罰部屋の受け渡し口から手渡していった。中の様子は二人にはわからなかったが、なんとなく明るい雰囲気が満ちているのを感じ取っていた。

 しばらくの間、あたりでは、飲み食いする音や食器がぶつかり合う音だけが響いていた。

 そのあと少しして、次々と空になった皿が、受け渡し口から返されてきた。

「そろそろだな。よし、ヨギと入れ替わる兵士は、どっちの部屋にいるんだ?」

 そうセルマンが尋ねると、ライアンが答えた。

「君たちから見て、向かって右側の部屋だ」

 返事が返ってくるのとほぼ同時に、右の部屋の扉がわずかに開き、その隙間から一人の若い男が身を滑り込ませるようにして出てきた。年は二十歳前後で、事前にヨギの体形を伝えていたためか、背格好はヨギに似て中くらいの身長であったが、髪は漆黒で、日焼けからか肌も浅黒いところは、むしろセルマンに似ていると言えた。

 真っ暗な中で長い間過ごしたからだろう。

 あまり明るいとは言えないこの廊下でも、手をかざし眩しそうに眼を細めながらあたりをキョロキョロ見回している。その顔が、心なしか強張っているように見えるのは、セルマンの気のせいだろうか。

「セルマンだ。隣にいるのがヨギ。すぐに、ヨギと服を交換してくれ」

 きょろきょろあたりを見回していた顔は、セルマンに向けられた。

「わかった、すぐ着替えるよ。

 ……俺の名は、グスタフだ」

 セルマンの表情が強張った。

 それを予想していたのだろう。グスタフの顔も、やはり強張っていたが、すぐに服を脱ぎ始めた。

 もう一つの懲罰部屋から、ライアンの声が聞こえてきた。

「……すまない。みんなで話し合ったんだが、グスタフが最適だということになったんだ。事前に聞いていた錠前師と体形も似ているし、瞳や髪も黒いから、炭鉱夫として外を歩いていても違和感ないんじゃないかと思う。それに、グスタフも含めたここにいるみんなは、多かれ少なかれ怪我を負っている。軽傷なのはそんなにいないんだよ。

 ……ただ一つ。セルマン、君との相性だけは、心配なんだけどね」

 苦い感情が、セルマンの胸の中を、じわっと広がっていく。自分たち炭鉱夫を犯罪者呼ばわりしたことは、今でも脳裏に生々しく残っている。

(こんな奴と、一緒に行くのか……)

 暗くどろっとした感情が頭をもたげてくるのを、抑えることができなかった。

 その間も、グスタフやヨギは素早く服を交換、着替え終わった。

「臭えな。何日この服着てるんだよ」

「風呂に入れないからな。まあ、我慢してくれよ。あんたの服も、大概だぜ」

「ほっとけ。じゃあ、きれいな服を支給しろよ」

「無駄口叩いでないで、さっさとしろ。気づかれるぞ」

 ライアンの声で、二人は直ちに黙った。

 兵士の服装に着替えたヨギは、セルマンのほうをうんざりした顔で見たが、あきらめたように軽くため息をつくと、肩をすくめ、グスタフが通り抜けた扉の隙間に体を滑り込ませ、暗闇に消えていった。

「くっせえなー、もう」

 中からぶつくさ言うヨギの声がしたが、セルマンの耳には届いていなかった。自分の隣で炭鉱夫の服装をして立っているグスタフしか、頭になかったからだ。

 その敵意に満ちた視線を、グスタフは真正面から受け止めた。そして、口を開いた。

「先日は、犯罪者呼ばわりして悪かった。あのあと、ライアンからいろいろ聞いたよ。小さい頃から炭鉱夫についていろいろ聞かされていたから、なかなかすぐには信じられなかったけど。

 ……というか、今でも正直よくわからん、なにが本当なのか。でも、聞いたことをそのままうのみにするんじゃなくて、自分の目で確かめることが大切なんだ、っていうふうに、今は思っている。

 わだかまりの気持ちをお前が持つのもわからんでもないが、今は協力すべき時だ。よろしくな」

 グスタフはそういうと、強張った表情のまま、右手を差し出した。

 セルマンは、思いもかけない言葉に内心動揺した。

 小さい頃から炭鉱で働かされてきたが、兵士に謝ることはあっても、謝られることなど、今までなかった。それに、特にこの腹立たしい兵士から開口一番謝罪の言葉が出るなんて、まったく思いもしていなかったからだ。

「犯罪者」と言われたことについては、今でも思い出す度に言いしれない怒りが湧き上がってくるのだが、それでも相手に対して正面から謝罪することは、なかなかできることではないということを、セルマンはわかっていた。

 彼の心の奥底でぼっと燃えだした暗い炎は、この謝罪のために、少し小さくなったようだ。

 セルマンは、その差し出された手をしばし見つめると、すっと右手を差し出して、その手を握り返した。

 その瞬間、グスタフの表情の強張りは解け、ぱっと明るい人懐こい笑みが顔に広がった。

 その表情を見たセルマンの胸の内で、彼自身気づかないうちにあの暗い炎が音を立てずに消えていった。

「さあ、早く行くんだ。グスタフ、セルマン、頼んだぞ」

 ライアンの声が聞こえてきた。

「大丈夫だ、任せてくれ」

 グスタフがそう答えると、それぞれの懲罰部屋から、小さい声ではあるが二人への応援がいくつも上がった。

 その声を背中に受けながら二人はかごを肩に担ぐと、懲罰部屋を後にした。


「鉄格子の外に見張りが立っているから、そいつに気をつけろ。おそらく、この世の者ではない」

「大丈夫だ、わかってる」

 セルマンの小さな声に押し殺した声で答えながら、グスタフは帽子をぐっと目深に被り直した。その様子を見ていたセルマンは、グスタフの浅黒い肌が炭鉱夫として違和感を感じさせない、と感じた。それでも、これから迎える第一の関門を前に、心臓が早鐘を打つのを、抑えることができなかった。

 鉄格子の前まで来た。

 セルマンは、何気なさを装いながらその場をさっと通過した。その後を、グスタフが気配を消すようにさっと通り過ぎる。

 その瞬間、冷気と鼻が曲がりそうな強烈な腐敗臭が、グスタフを襲った。

(これが、聞いていたやつか……)

 眩暈がするのをなんとか堪え、気持ちを奮い立たせながら、グスタフは平常心を保った。そのまま、セルマンに続いてその場を離れていった。

 逸る気持ちを抑えながら、速度と平静さを保とうとしていたセルマンだったが、心の中は焦りでいっぱいで、額には玉のような汗をかいていた。目は前を向きながらも、気持ちは後方、ただ一点のみに集中していた。

 しかし、あのガラス玉のような目を持つ大柄な見張りは、気づかなかったのだろう。がちゃという鍵をかけた音が聞こえたと思うと、鍵をじゃらじゃら鳴らしながら歩く足音が聞こえてきて、そのあと静かになった。

 セルマンはちらっと後ろを振り返ったが、おそらく持ち場に戻ったのか、見張りの姿はどこにも見えなかった。

 ほっと安心してすぐ後ろを歩くグスタフに目をやると、ばちっと視線が合った。グスタフはセルマンを見てにやっと笑うと、小声で「第一関門通過だ」と囁き、親指を立てた。

 セルマンは無言でうなずくと、流れ続ける汗を腕で拭きながら、前を向いて歩き続けた。


 たった一つの明かりを頼りに、あのじとっとした空気がまとわりつく真っ暗な階段を、かごを担ぎながらも足早に登っていた。

「それにしても、さっきはずいぶん寒かったな」

 半分駆け上がるようにしながら、グスタフは言った。

「あぁ。なんでかはわからないが、あいつのそばに近寄ると、妙な寒気が襲ってくるんだ」

 少し息を弾ませながら、答えた。

「事務所の外には、いつも見張りが二人いる。一人はいつも同じ大柄な男。もう一人は日によって変わる。今日は、大柄な男一人で見張りについていたが、そいつも同じようにうまく騙せられればいいんだが……」

「大丈夫。あの調子だと、どうせ入れ替わったって気づきはしないよ。

 それより、騒ぎはうまく起こせてるのかなあ」

「どうだろう……」

 第一の関門を突破した今、次に気がかりなのは、うまく橋の袂の見張りを引き付けられるのかということだった。先ほどの見張りの様子を見る限り、グスタフと同じく、セルマンも事務所の入り口にいる見張りをだますのは可能だと感じていた。それでも、橋の袂の見張りを引き付けられない限り、今回の作戦はすべて水の泡となる。仲間を扇動するのにはうまくいきそうではあったが、そこから先については、セルマンも心許なく感じているのだ。


 そうこうしているうちに、階段を上り終えた。その時、セルマンはふと、玄関ホールへと続く扉の隙間から、白い一筋の光が差し込んでいることに気が付いた。

「この先に誰かいるかもしれない。用心しろ」

 そう囁くと、目の前の扉の取っ手に手をかけ、ぐっと引いた。

 扉はギーという音を立てて、ゆっくりと開いた。

 そこには、たくさんの眩い明かりに照らされた玄関ホールが広がっていた。

「眩しい……」

「大丈夫か?俺につかまれ。そうすれば、目をつむっていても歩ける」

「すまない」

 グスタフは手探りでセルマンの腕を探すと、その腕に軽く手を添えた。

 セルマンはグスタフが腕に触れたのを感じると、目を細めながら、明るい光に満ちた玄関ホールへと足を踏み入れた。

 たくさんの明かりがついていたにも拘らず、そこには人っ子一人いなかった。目に映るのは、労働後に必ず来ることになっていた、あくまで見慣れた玄関ホールだった。

 しかし、なにか様子がおかしい。

 ふと、建物の外が騒がしいのに気が付いた。たくさんの群衆の声、しかも罵声のような声が、聞こえてくるのだ。

「どうなっているんだ?」

 目が明るさに慣れていないため、ほとんど目を閉じた状態でグスタフは尋ねた。

「ここに人はいない。でも、外からたくさんの人の声が聞こえてくる。たぶん仲間たちを扇動するのには、うまくいったんだと思うが……」

「よし、それなら早くここを出よう」

 セルマンは、どうか見張りが一時的にでも持ち場を離れてくれるように、と願いながら、急いで入口へ向かうと、その扉を開けた。

 そこには、セルマンが思っていたよりもたくさんの炭鉱夫が、灯りを手にして詰めかけていた。

 先程降っていた雨は、もう止んでいた。そんな中、ここに集まった炭鉱夫がみな、口々に何かを訴えている。

 その集団をよく見ると、赤い顔で目もとろんとしたいかにも酔っぱらいという輩や、へらへら笑いながら冷やかしにきたような男たちもいたが、大多数がしらふで、日頃の不満をぶちまけに来たように見えたのだ。

 そんな彼らの前に、三人の金髪の男が、困惑顔で立っていた。

 その容姿に見覚えはなかったが、おそらく、あの決起の中心的役割を担った男たちなのだろう。ちらちらと事務所のほうに視線をやって、あたかも援軍を待っているかのようだった。

「今がチャンスだ、早く行こう」

 そうグスタフの耳元にささやくと、彼の腕をとりながら、階段を小走りで駆け下り、集まった仲間の群れの中に飛び込んだ。

 大きなかごを担いだセルマンたちは明らかに邪魔だったようで、迷惑そうな視線を投げかけられたり、時には舌打ちをされて肩で押し返されたりしたが、なんとか人をかき分け、橋の袂のほうへと近づいていった。

 そこは、事務所から少し距離もあったためか、人がほとんどいなかった。

 到着したセルマンは、見張りがいるか確認しようと橋に目をやった。

 そこには宵闇の中、煌々とゆらめく巨大な炎に照らされた大柄な二人の男が、相も変わらず、微動だにしないで持ち場についているのが確認できた。

「二人いるな。あいつらを、あの場から離さないと……」

 この暗闇の中で目が慣れてきたのか、グスタフが小声でささやく。

「そうだな、そのために、仲間を扇動したんだが……」

 そう言った瞬間、セルマンは腕をポンとたたかれたのに気がついた。

 見ると、いつのまにか横にプラトが立っていた。

「すまねえ、みんなをたきつけるのにはうまくいったんだが、橋の見張りたちは一切動かねえ。仲間の注意を橋に向けることもできるだろうが、そうすると、お前たちが通りにくくなっちまうもんなぁ。どうしたもんだか……」

 手にした灯りに照らされたプラトの横顔は、珍しく苦々しげであった。

「……」

 セルマンもグスタフも必死で頭を働かせたが、良案は思いつかない。

「やっぱり、一度、橋にみんなの注意を引き付けるしかないかぁ……。ちょっと危険だが……。

 よし、俺は、一度仲間のほうに戻るわ。お前たちは、この辺りで闇の中に溶け込んでおけ。

 あ、これを渡すのを忘れてた。街の人たちが着るような服だ。その恰好じゃすぐに炭鉱夫だとばれて、街にいる兵士に会うまでに捕まっちまう。

 それと、そのかごはどこか端のほうに置いちまいな。俺らが後で回収するから」

 そう言い残すと、服が入った袋を二つ、セルマンの腕の中に押し付けた。

 そして、安心しろと言わんばかりに腕をポンとたたくと、プラトは人ごみの中に消えていった。

 その背を見つめながら、セルマンは暗澹たる気持ちを抱えていた。

 グスタフと人気がない所へかごを置きに行ったが、明かりも届かない真っ暗闇の中、下ろしたかごの上に座りながら、目の前の光景を苦虫を噛み潰したような面持ちで眺めていた。

 たくさんの明かりが揺れる中、こぶしを振り上げ事務所へ詰め寄っている仲間たち。

 どうやらあの金髪の男たちに応援が来たようで、先ほどは見かけなかった大柄な男が何人か、入口へと続く階段の上に、あたかも盾のように仁王立ちしている姿が見えた。

 橋に視線を移すと、あの見張りたちが先ほどと変わらずそこに立っている。

 なんとかあそこを通り抜けたいと焦るセルマンだったが、事態は好転することなく、時間ばかりが過ぎていった。


「もう、難しいかもしれない。守りが固くなってくる一方だ。この橋を通って、街まで真相を伝えに行かなきゃならないのに……」

 どれくらい時間がたっただろうか。

 延々と進捗しない光景を見つめながら、グスタフはぼそっとつぶやいた。

 俯いていたセルマンはグスタフの声に顔をあげ、再び橋に目をやり、彼らがそこにいることを確認すると、忸怩たる気持ちでため息をついた。

 その瞬間、何かが足元をよぎった感触がした。

 思いかけない出来事に、セルマンは思わず叫んでしまった。

「うわっ!」

 その瞬間、足元から声が聞こえてきた。

「……なにが、うわっだ、まったく」

「ほんとよね、みっともないったらありゃしない」

 あまりの驚きから声も出せずに固まっていたセルマンとグスタフだが、その時、空を覆っていた厚い雲が風に払われ、その向こうに隠れていた月がすっと顔をのぞかせた。それはほんのわずかな淡い光であったが、暗闇に目が慣れ切っていた二人にとって、物を見るのに十分な明るさだった。

 そこには、セルマンたちの腰の高さくらいまでしかない小さな人のような者が三人、立っていた。

 顔は灰色で背丈に比べて大きく、しわだらけの顔に浮かぶ大きな口と鷲鼻、ぎょろっとした目が、月明かりの中で爛爛と光っている。ぼろぼろに擦り切れたようなフードをかぶり、三人のうち二人はそこから三つ編みをのぞかせて、そのうち一人は地面に届くくらい長い白髪のあごひげを蓄え、これまたぼろぼろの布をマントのように羽織っていた。薄汚れた半そでからは、筋骨隆々のたくましい太い腕が伸びており、長ズボンの上に巻かれた皮ベルトは、一目で重たいものだとわかる。足には、つま先のほうが異様に膨れ上がっているドタ靴を履いていた。

 そんなみすぼらしい姿の三人であったが、淡い月明かりにきらきらと輝く、驚くほど繊細で美しい装飾品を身にまとい、セルマンやグスタフの瞳をじっと見つめて立っていた。

「レプラコーン……?」

 グスタフが呟いた瞬間、三人のうち二人の表情がさっと変わった。

「ふざけんな!あんなとんまと一緒にするな!」

 金の柄に、青いサファイアのような宝石がはめられたナイフを皮ベルトに挟み、腕には、ツタの模様が施され、黒真珠のような大きな漆黒の珠がいくつもちりばめられた重厚な金のブレスレットをした、少し眠た気で不機嫌そうな小人が、青筋を立てながら怒鳴った。

「そうよ、あんな下等な奴らと一緒にするなんて!そもそも、こんな細やかな造りのネックレスが、奴らに作れるわけがないでしょ!」

 そう言って、同じく黒真珠の指輪をいくつもはめた無骨な指で目の前に突き付けたネックレスは、触ると壊れそうなくらい細い金の鎖に、小さなエメラルドがまぶされたとても繊細な造りで、どの角度から見ても美しく煌めいていた。

「すごい、きれいだ……。こんなの初めて見た……」

 セルマンがつぶやくと、ネックレスを突き出しているその三つ編み頭の小人は気をよくしたのか、ただでさえしわが多い顔にさらにしわを増やすように、ニヤッと笑った。そして鼻でフフンと笑うと、優越感に満ちたような表情を浮かべながら手を引っ込め、セルマンの瞳をじっと見つめた。

「レプラコーンじゃないんだったら、君たちは、一体何者なんだ……?」

 驚きのあまり、目を大きく見開いたグスタフが尋ねると、三人の真ん中に立っている、一番背が低いが顎髭を生やし、片手だけではとても持てそうもない巨大な鎚を背中に背負っている小人が、口を開いた。

「俺たちは、ドワーフだ。お前たちに手を貸してやろう」

 金でできた葉のモチーフに、ダイヤモンドやエメラルドがこれでもかとちりばめられた美しいマントの留め金に目を奪われていたセルマンは、我に返って、ドワーフを見つめた。

「手を貸してやるとは、どういうことだ?」

 そう口にするグスタフの表情からは、驚きの色が消え去り、警戒するような顔つきに代わっていた。

「話は分かっている。お前たちは、今から街に行って事の真相を話し、国の力を借りることで、事態の打開を図ろうとしているんだろう。しかし、外と唯一つながっていると考えられている橋は、あの土人形によって塞がれている。それで、ここで立ち往生しているというわけだ、そうだろう?」

 沈黙が続く。

 なんでこちらの事情を知っているのか、また、そもそもドワーフとは何者なのか、という問いが、セルマンの頭の中を駆け巡る。

 二人して言葉を発せずにいると、再びこのドワーフが口を開いた。

「この作戦は、絶対うまくいかない。あの土人形どもは、何が起きてもあそこから動くことはないからな。

 ……実は、外に通ずる道は、この橋以外にもある。そこへ俺たちが案内して、お前らを外に逃がしてやろうと言っているんだ」

「なんでだ。なんのために、そんなことを言い出すんだ。それに、そもそもどうやって、俺たちがここにいる理由を知りえたんだ」

「生意気なやつね。上から目線ってやつよ」

「ほんとだな、いらつく奴だ。はぁ、めんどくせえ」

 両端に立っているドワーフが、腹が立つと言わんばかりに顔をしかめて声を荒げた。

 真ん中に立っているドワーフは、顎鬚に手をやりながらじっとグスタフのほうを見つめている。そして、その目を離さないまま、先ほどよりはいくぶん低く、棘があるような声で話した。

「案内してもらいたいのかそうじゃないのか、それだけ答えろ。余計なことは、詮索するな」

 その瞬間、うわっという歓声や怒鳴り声が聞こえた。

 ぱっと声がした方に目をやると、事務所の前でにらみ合いをしていた仲間と、決起の中心メンバーがついに衝突したようで、そこに加勢しようと、さらに多くの仲間が押し合いへし合いしようとしているのが見えた。

「時間はそんなにないんだ。教えてもらいたければ、ついてこい」

 ドワーフはそういうと、さっと事務所の裏へと歩いていった。

 ほかの二人のドワーフも、セルマンたちをじろっとにらむと、それに続いた。

 セルマンは、橋の袂に目をやった。

 小競り合いが起きている今でさえ、あの見張りたちに動きは見られない。

 セルマンとグスタフは、お互い顔を見合わせた。

 相手の瞳から、どうやら同じ考えを持っているようだと感じとった二人は、それぞれ頷くと、闇の中に消えていこうとするドワーフの後を、追いかけていった。


 ドワーフは、小競り合いが起きているところを尻目に、事務所の裏へとずんずん進んでいく。

 そこは、騒がしく明かりも溢れている表とは対照的な、静かな空間が広がっていた。表の騒がしさも、ここまで来ると、虫の音が聞こえられるほど遠くにしか聞こえず、明りも一切ない。

 それでも、ドワーフたちが身に着けている装飾品が天に煌めく月の光に照らされ、ほんのわずかではあったが道しるべになるような淡い輝きを放ち、セルマンたちを導いてくれる灯火となってくれた。

 セルマンやドワーフたちは足音を極力たてないよう注意しながら、足早に事務所の裏を通り過ぎていった。


 事務所の裏を通り抜けた先には、地下奥深く続いている坑道への入り口が、大きな口をぽっかり広げて待っていた。

「まさか、この坑道の中を降りていくっていうんじゃないだろうな?リフトを使わないと降りられないが、それには操作する人が必要だし、そもそも轟音が響くから周りに気づかれるぞ」

 険しい顔をしたグスタフが言うと、あのネックレスを見せびらかしたドワーフが、振り向きざまに金切り声を上げた。

「誰がそんなこと言ったのよ!こんな変なものに、乗るわけないでしょ!

 ああ、嫌だ。ほんとにもう!」

「以前使っていた古い穴から降りていくんだ。……確かこっちだな」

 顎鬚のドワーフはそう言うと、坑道の左側のほうへ向かっていく。

 眠たそうなドワーフは、セルマンたちの瞳をしばし見つめたかと思うと、横を向きざまにチッと舌打ちをして、顎鬚のドワーフのあとに続いた。

 セルマンは、ぶつくさ言っているグスタフの腕を引っ張りながら、そのあとに続いた。


 少し行くと、先ほどの入口よりは大分小さい、今はもう使われていない、古い坑道へと続く小さな穴の前へ出た。板で入口が塞がれていたが、すでに腐食して、ところどころ欠けており、そこから真っ暗な坑道が覗いている。

「ここだ」

 顎鬚のドワーフは、その入口を指さしながらセルマンたちのほうを振り向いた。

「ここって……。ここは、相当昔に使われていた坑道で、少なくとも俺が連れてこられた時には、すでに廃坑になっていたぞ」

 廃坑には決して入ってはいけないという、子供の時にプラトに言われた言葉をセルマンは思い出していた。

「そうだ。ずいぶん昔に人が放棄した坑道だ。ここから入っていく」

 それを聞いたセルマンとグスタフの顔が、さっと青ざめた。

「ちょっと待ってくれ!ここは、ずいぶん長い間使ってこなかった坑道だ。修繕もしていない。そんなところ、危なっかしくて通れるか!」

「じゃあ、好きにすればいい。さっきからぐだぐだうるせえんだよ」

 眠たそうなドワーフが、口を開く。

 その顔は、怒りのためか、灰色から赤黒い色へと変わっていた。

「もういいじゃねえか。めんどくせえんだよ、こんな奴らに手を貸すのがよ」

「でも、そうなるとあれが……」

「黙ってろ、お前ら!」

 顎鬚のドワーフの鶴の一声で、ほかのドワーフは黙り込んだ。

 それでも、ネックレスをしたドワーフは、セルマンやグスタフの瞳を覗き込むようにちらちらと視線を送っている。

(なんなんだ?)

 と、訝しく思ったセルマンだったが、その疑問を口にする前に、グスタフが話を始めた。

「俺たちは、君がさっき言った通り、今回の暴動の真相を伝えに街へ行こうとしている。それで橋を通ろうとしていたところを君たちに会って、ここまで案内されて来た。もちろん、ここから街に行くことができるのであれば、喜んで通るよ。だけど、セルマンが言ってた通り、ここは随分前に廃坑となったところで長いこと修繕されていないし、ガスが漏れだしている可能性も考えられる。そこを本当に通ることができるのか、不安なんだ」

 相手の反応を窺うように、グスタフがゆっくりと話している間、顎鬚のドワーフは自分の顎鬚を触りながら、じっとグスタフを見つめていた。

 グスタフが話し終えると、顎鬚のドワーフはグスタフから視線を離さないまま、話し始めた。

「この坑道は崩れないしガスも出ていない。地下鉱脈を発掘することに長けている俺たちが言うんだから、信用しろ。……お前たちに協力するのは、あの土人形がこの土地を我が物顔で歩いているのが気に食わないからだ。ここは、俺たち「金」に属する者が暮らす場だ」

「そうそう。それにあいつら、すごく臭いしね」

 ネックレスのドワーフが、相変わらず蔑むような顔で同調する。

「それって、どういう意味……?」

 セルマンの問いを無視した顎鬚のドワーフは、さっと入口に向き直った。

「話は十分だ。さぁ行くぞ」

 そう言い残すと、顎鬚のドワーフは、打ち付けられた板のうち、壊れてやっとドワーフ一人が通り抜けられるほどの隙間をくぐって、真っ暗闇へと続く坑道へ消えていった。

 ほかの二人のドワーフは、入口の脇に立ちながら、セルマンとグスタフに中へ入るよう促した。

「さぁ、早くしなさい。もたもたしている時間はないのよ」

 ネックレスのドワーフがじれったそうに叫ぶ。

 それでも、セルマンとグスタフは中に入ろうとしなかった。

 この得体のしれないドワーフに、前後を挟まれるのがなんとなく嫌だったからだ。

「君たちが先に入ってくれよ。俺たちは、その後についていく」

 グスタフがそう言うと、眠たそうなドワーフがいら立つように地団駄を踏み、吐き捨てるように言った。

「中は真っ暗なのに、お前らをしんがりに置いとけないだろ!はぐれちまったら、どうするつもりなんだよ!」

「そうよ!早く行きなさいよ!」

 金切り声で叫ぶネックレスのドワーフの声が、あたりに響く。

 それでも渋るセルマンとグスタフに、今にも殴りかかりそうな勢いで、眠たそうなドワーフが声を荒げた。

「お前ら、なんでここまで着いてきたんだ!ここから出たいんじゃなかったのか?なら、さっさと入っちまえ!」

 これ以上怒らせると案内してもらえないのでは、という気持ちがセルマンの頭をかすめた。それはグスタフも同じだったようで、やれやれ、といったように肩をすくめる姿が目の端に見えた。

「わかったよ、先に行けばいいんだろ。

 ……それにしても、俺、狭いところ苦手なんだよな……」

 グスタフはそう言うと、打ち付けられている板を、思いっきり蹴り落した。

 相当傷んでいたのか、たった一撃で板は破損し、人が一人通れるほどの隙間ができた。

「よし、行くぞ」

 グスタフはセルマンに言うと、ぽっかりと口を広げている真っ暗な坑道へと姿を消した。

 セルマンは、ちらとドワーフたちの方を見た。

 二人のドワーフは、その後に続けとあごでぞんざいに示した。

 セルマンは坑道に向き直り、二人には聞こえないよう静かにため息を吐くと、その坑道へと踏み出していった。

 残されたドワーフは、お互いを見つめると、にやっと笑った。その笑みには、なにか不吉な影が差しているようであった。

 二人はその笑みを湛えたまま、坑道へと入っていった。

 事務所の前では乱闘騒ぎが始まったようで、こぶしを振り上げ取っ組み合いをしている連中の姿が、ゆらゆらと揺らめく松明の明かりに照らされ、浮き上がっている。

 暗い坑道へと消えていったセルマンたちに気づく者は、誰一人としていなかった。


 真っ暗な坑道へ入った瞬間、かび臭くて湿っぽい淀んだ空気が、体中にどろんとまとわりつくのを感じた。坑道は狭く、人がすれ違えるくらいの幅しかない。

 今と違い、昔は石炭を掘り出した後すべて人の手で地上まで運んでいたため、機械を通せるほどの広さの坑道を作る必要がなかったからだ。

 坑道は、地下深くへとなだらかな傾斜を描いていた。どこからか水が漏れだしているようで、ところどころにできた水たまりに足を踏み入れる度に、パシャという音が坑道内へ響き渡る。

 初め、セルマンは灯りもない中何を頼りに進めばいいんだろうと思っていたが、不思議なことに、彼らが通ると、その周辺の壁や天井、床がうっすらと光を放つことに気が付いた。通り過ぎると、それらはまた、元の光らない状態に戻る。

 そのおかげで、灯りがない中でも壁から生じるわずかな光を頼りに進むことができるのだった。

「機械が導入されたのが、今から二十年くらい前だったはず……。ここは、それより古い坑道だろうな……」

 歩きながら、グスタフがぼそっとつぶやいた。

 セルマンは、ふと、先ほどドワーフが、この坑道の中は真っ暗闇だ、と言ったことを思い出した。しかし、この坑道は歩くと壁や天井がうっすらとした光を放つので、はぐれる心配はないように思える。

 話に矛盾を感じたセルマンは、そのことについて尋ねてみようと後ろを振り返ろうとした。

 その時、グスタフの声が耳に聞こえた。

「……ドワーフって、子供の時に昔話で聞いたことはあったけど、本当にいたんだな」

「あったり前じゃないの!あんたたちが存在する前から、私たちはいたのよ!」

 そのやり取りを聞いたセルマンの頭から先ほど抱いた疑問は消え失せ、逆にドワーフについての疑問が浮かんだ。

「……そういえば、ドワーフってなんなんだ?」

「はあ?あんた知らないの?類まれな工芸技術を持つ、このドワーフ様たちを?」

 振り向いたネックレスのドワーフの顔には、信じられないといった表情が浮かんでいた。

「……こいつは、別のところから連れてこられた奴だろ。この場所のことはよく知らねんだよ、きっと」

 そのドワーフを横目に、眠たそうなドワーフがめんどくさそうに答えた。

「ふーん、確かにあんな黒光りするきれいな瞳は、この地域の人には見られないわね」

 そう言いながら、セルマンの瞳をじっと見つめるドワーフの視線に、セルマンは背筋がゾクっとするのを感じ、身が縮こまるような感覚に襲われた。

 そのドワーフは、視線をグスタフに移した。

「そういえば、あんたも黒い瞳をしているのね。あんたも別のところから連れてこられたの?」

「いや、俺はエール地方出身だ。こいつみたいに南方の国の出身じゃないけど、瞳は黒いんだ。俺の親父も黒いよ」

「へえ、そうなんだ。この「金」の地で、そこまで黒い瞳も珍しいわね」

 そう言うと、そのネックレスのドワーフは、セルマンたち二人を物欲しそうな瞳でじっと見つめてきた。

 その視線にただならない気配を感じたセルマンは、なにか心を許してはいけない気持ちにさせられ、ぐっと全身に力を入れた。すぐそばにいたグスタフは、その気味の悪い視線に嫌悪感を隠そうともしない。

「ドワーフっていうのは、今、話にあったように、金属や宝石の加工に長けたと言われている種族のことだ。普段は人との接触を嫌って地中深くに自分たちの生活拠点を作って生活している、と言われているが、なんせ人前に姿を現すことがめったにないからな。俺も昔話でしか聞いたことはないし、実際、この目で見るのは初めてだよ」

「当然だ。あんたらみたいな下等な生き物には、俺たちは随分まばゆく見えるだろうからな。ふふふ……」

 そう言って、眠たそうなドワーフは瞳を一度ぐっと大きく開いたかと思うと、にかっと大きな口を横に開いて、のどの奥で声にならない声をたてながら笑った。

 そのあまりの不気味さに、セルマンたちは一歩後ずさりをした。

 しかし、セルマンは気を取り直すと、彼らが身に着けているネックレスやナイフに視線を移した。

「それらは、自分たちで作ったのか?」

「これ?そうよ。身に着ける宝飾品は、自分で作るのよ。それが一人前の証なの」

 そう言うと、軽蔑の表情を浮かべながら、黒真珠のようなものがついた指輪をはめた太い指で見せびらかすようにネックレスをもてあそび始めた。

 このドワーフに似合っているとは到底思えなかったが、その繊細で巧みな作りには高度な技術を要するのが、セルマンにも分かる。

「その宝石のカットはどうやるんだ?俺も詳しいわけじゃないけど、そこまでまばゆく輝く宝石は見たことがない。宝石って、カットの技術が重要なんだろ?」

 グスタフが尋ねた。

 カット技術を褒められたことに気をよくしたのか、ネックレスのドワーフは鼻の穴を広げ、紅潮した顔でべらべらと話し始めた。

「人でもこの美しさはわかるのね!そう、宝石の美しさは、カットで決まるのよ。もちろん、その宝石の質にも左右されるんだけどね。で、そのカットの技術については……。もちろん、教えてあげない!これは、太古からドワーフに受け継がれる門外不出の秘儀なのよ。ま、もしあんたたち人がその秘儀を知ったとしても、真似はできないでしょうけどね!」

「そうだな。こんな下等な生き物には、到底できはしないだろう」

 眠たそうなドワーフが、振り向きざまに言い放った。

 セルマンは、そのドワーフの腕に光るブレスレットに散りばめられたいくつもの黒真珠に視線を移した。

「それは黒真珠のように見えるが……。黒真珠って、海でしか取れないんじゃないのか?」

 それを聞いた瞬間、二人のドワーフはセルマンを見てニヤッと笑った。そのあまりに醜い容貌に、セルマンは思わず立ち止まった。

「ふふふ、これが黒真珠だと?ずいぶんお目が高いじゃねえか」

「ほんと!この黒光りするさま。……なんて美しいの!」

 二人はうっとりした様子で、自分が身に着けている黒い珠に目を細めた。

 その時、指輪につけられた黒い珠を恍惚とした表情で見つめていたネックレスのドワーフは、ふと、セルマンの方を向いた。そのセルマンを見つめる瞳は、今やぎょろっと大きく見開かれ、欲望のようなものがほとばしる、異様な輝きを放っていた。あまりの異様さに、セルマンは目を逸らすことができなかった。

「これはね、黒真珠のように見えるけど、ほんとは違うの。これは……」

「やめろ!その辺にしとけ。……まだ早い」

 先頭を行っていた顎鬚のドワーフが、いつの間にかこちらを向いて険しい表情で立っていた。

「……」

 二人のドワーフは、瞬時に我に返ったように大人しくなった。

 その様子をぎろっとした瞳で睨みつけている顎鬚のドワーフは、しばらくそのまま睨み続けていたが、これ以上口を開くことはないと確信したようで、また前に向き直って進みだした。二人のドワーフも、大人しくそれに従った。

 セルマンは、グスタフと目を合わせた。グスタフは、さあと言わんばかりに首をかしげると、ドワーフに続いた。セルマンもそのあとを追って、さらに奥へと向かった。


 少し進んだ時のことだった。

 ふと、頭の上になにかがぱらっと落ちてくるのにセルマンは気がついた。

 何が起きようとしているのか一瞬で覚ったセルマンは、反射的にグスタフの腕を引いて後ろに飛びのくと、腹の底から声を振り絞って叫んだ。

「天井が落ちるぞ!」

 そして、その場で頭を抱え込むようにしゃがむと、体を固くして身構えた。

 グスタフやドワーフたちも、慌ててしゃがみこんだ。

 しかし、何も起こらなかった。

 わずかな土が剥がれただけで、天井自体が落ちてくることはなかったのだ。

「なんだよ、びっくりさせるなよ」

 グスタフはそう言うと、迷惑そうな表情を浮かべて立ち上がった。ドワーフたちも同様に、ぶつくさ文句を言いながら立ち上がる。

「すまん。土が落ちてきたものだから、つい……」

 セルマンはふぅと安堵のため息をつきながら立ち上がると、頭に落ちた土を払った。

 その瞬間、セルマンはぴたっと動きを止めた。そして、頭の上の土をつまむと、目の前に持ってきた。

「……土」

 セルマンははっとした表情で顔を上げ、先頭を行く顎鬚のドワーフに向かって尋ねた。

「そういえば、何度か土人形って言ってたな。どういう意味なんだ?」

 その瞬間、顎鬚のドワーフの動きがピタッと止まった。

 ほかの二人のドワーフも、動きを止める。

 瞬時に、辺りの空気がぴんと張り詰めた空気に変わった。

 その空気に触れて、セルマンは鼓動がどくどくと早まっていくのを感じた。

 顎鬚のドワーフは、少しの間、その場で動かないでいたが、その後、ゆっくり後ろを振り返った。

 そしてセルマンをじっと見つめると、口を開いた。

「土人形というのは、あの橋の袂や、少し前まで兵隊どもが使っていた建物の前に立っている、大きなでくの坊たちのことだ。お前らもうすうす気づいているかもしれないが、あいつらは、人ではない」

 出会って間もない、というよりは、ドワーフという存在すら知らなかったセルマンにとって、この言葉を頭ごなしに信用していいかどうかはわからなかった。

 それでも、体の中心を雷が走ったかのような衝撃を、感じずにはいられなかった。

 顎鬚のドワーフは、その様子を無表情で見届けると、また前へ向き直り、進みだした。

 セルマンも、慌てて後に続いた。

「あいつらは、土の魔法によって生み出された人形だ。時折現れる、強力な精霊の加護を手にした人によって生み出されたものだ。奴らは生き物ではないから、実際近づくと、何とも言えない気持ち悪さを感じなかったか?」

 その通りだった。

 奴らに近づく度に、言いしれない不快感がこみあげてきたことが生々しく思い出された。

「土の魔法って、イギ国の奴らがミァン炭鉱にいるってことか?」

 グスタフが、口をはさむ。

 イギ国とは、このソラス王国の隣に位置する魔法に長けた国だ、とプラトが言っていたことを、セルマンは思い出した。

「そうよ。ふふ、そんなことにも気づかないなんて、本当に低能よね、人って」

 ネックレスのドワーフが、せせら笑うような声で言った。

「だから下等だと言ってるんだ、めんどくせえ……」

 眠たそうなドワーフの言葉にグスタフはむっとした顔をして反論しようとしたが、それより先に、顎鬚のドワーフが話を続けた。

「そうだ。お前たちでいうイギ国の人が、この地に降り立ち、土の精霊の加護の下に、力を駆使しているのだ。それなのに……」

 話が終わっていないにも拘らず、グスタフはこぶしを振り上げると大声で叫んだ。

「くっそー!イギ国の奴ら、俺たちの国で好き勝手しやがって!ぜってい、許さねえ!

 ……おい、早く俺たちを案内してくれ!」

 話しかけられた顎鬚のドワーフは、無表情でその場で立っていた。

 怒りに顔をゆがめていたグスタフは、何かを感じ取ったのか、その様子を見て、ふっと真顔になった。

 セルマンも、なにかおかしいと感じて、顎鬚のドワーフから意識を逸らさないようにしつつも、後ろにいる二人のドワーフにちらと視線を送った。

 すると、そのドワーフたちも、静かにその場で立っていた。

 妙な圧迫感を前後から感じる。

 すっと、冷や汗が背中を流れ落ちていく。

「……悲しいかな、中途半端な生き物よ。

 ……やはり、お前たちは役には立ちそうもない……」

 顎鬚のドワーフはそう言うと、背中に手を回し、装備していた重たそうな斧を軽々と右手に持った。そして、一歩また一歩と、セルマンたちの方へとゆっくり近づき、間合いを詰め始めた。

 思わず後ずさりしたセルマンとグスタフの後ろから、甲高い声が飛んでくる。

「ふふふ。でも、あれは商品価値があるわよ!……ねぇ?」

 首だけを後ろに向けたセルマンとグスタフは、他の二人のドワーフも同じように手に武器を取って、じりじりと間合いを詰めてくるのを確認した。

「まあ、そうだな。そのためにここまでこの二人を案内してきたんだ。こんな漆黒のものなんて、なかなか手に入らないぞ。しかも、それが四つだ」

 眠たそうなドワーフが、今では目を大きく見開き爛々と輝かせながら近づいてくる。

 何が何だか分からないが、絶体絶命の危機にさらされているということは本能で感じ取った。

 何とかこの場を切り抜けられないかと、少しでも時間を稼ぐためにセルマンは口を開いた。

「商品価値とはいったい何のことだ?しかも、四つって……?」

 ふふふ、という笑いが、ネックレスのドワーフの口元から漏れる。

 そのドワーフを見ると、「これよ」と言いながら、その太い指にはめている指輪をセルマンたちによく見えるよう前に突き出した。そこには、あの黒真珠のようなものが鈍い輝きを放っている。

「これが、一体何だって言うんだ?」

 なにかあったらすぐさま反応しようと、神経を集中させながらグスタフが尋ねた。

「これは、黒晶といってね。ドワーフの秘儀を使って作られるものなの。

 ……その原石となるのが、あんたたち、人の瞳なのよ」

 楽しそうに笑うドワーフを前にして、セルマンとグスタフは衝撃に見舞われた。

(人の瞳だって……!)

 そんな二人にお構いなく、ネックレスのドワーフは、その太い指にはめられた指輪の黒晶を恍惚とした表情で見つめながら、話を続けた。

「これは、もともと瞳晶といって、人の瞳でできているものなのよ。その人の瞳の色によってさまざまな色合いのものができるんだけど、その中でも漆黒のものはとても価値があるとされているのよ」

 ひきつった表情を浮かべているセルマンとグスタフを、眠たそうなドワーフが目を細めて睨みつける。

「というわけで、ここまでお前さんらを連れてきてやったのは、その漆黒の輝きを放つ瞳をもらい受けるためってことなんだよ。ここから連れ出してやるっていうのは、その口実のためだ」

 そう言うと、眠たそうなドワーフは体を低くして、すっと構えた。

「ちょ、ちょっと待て!じゃあ、土人形うんたらっていうのは、嘘の話だったっていうのか?」

 グスタフが慌てて尋ねると、顎鬚のドワーフが妙に落ち着き払った声で答えた。

「いや、その話は本当だ。しかし、お前たちに何かできるとは思っていない。それがお前たちと同じ、人によって生み出されたものだとしてもな」

 そう話す顎鬚のドワーフとの距離は、だいぶ縮まってきている。

「あ、あと、まだ聞きたいことが……!」

 グスタフが何かを言おうとしたその瞬間、「黙れ!」という声を上げたかと思うと、三人のドワーフが一斉にセルマンとグスタフに飛び掛かってきた。

 セルマンは咄嗟に壁側に避けようとした。だが、なにかに躓いて体勢を崩し、地面に派手に転がってしまう。その頭上を、顎鬚のドワーフの斧がひゅんと空を切り裂いた。

 セルマンはなんとか起き上がると、ぱっと足元を見た。

 そこには、子供のころから大事に身に着けていたお守りが転がっていた。

 それは母からもらったもので、なめした豚の皮でできた袋にビーズが縫い付けられただけの、長い年月を経て薄汚れた安物だった。

 島を後にするとき、母が

「なにか困ったことになったら、この袋を開けて中に入っているものを出しなさい。きっとあなたを助けてくれるから」

 と言って、手渡してくれたものだったのだ。

 そのことを思い出したセルマンは、急いでそれを手にすると、糸がほつれかかった箇所に指をねじ込み、中身をほじくりだして手に取った。

 それは、珍しい青い色をした珊瑚のかけらだった。

 幼い時に海に潜ったりして珊瑚を目にすることはあったが、青い珊瑚というものは今まで目にしたことがなかった。

 しかし、この緊迫した状況の中、どう扱えばいいのか皆目見当がつかない。目の端に、顎鬚のドワーフが第二の攻撃を加えようとこちらに向かってくるのが見えた。

 セルマンは、半ばやけくそ気味に、ドワーフに向かってその青い珊瑚を投げつけた。

 すると、その青い珊瑚から、見る見るうちに大量の水があふれだしたのだ。

「あっ!」と声を上げる間もなく、その水は一気に膝丈まで上昇し、しかも大きな渦を生み出していく。

 あまりに急に増水し、かつ流れも速かったため、その場にいた三人のドワーフだけでなく、セルマンやグスタフもその渦に引き込まれていく。

「うっぷ!……い、息が……!」

 渦に巻かれ呼吸も覚束ない中、一瞬死を覚悟したセルマンだったが、すぐに顔が水の上に出たのに気が付く。

「ぷはっ!……げほっ、げほ!」

 むせながらも目を拭って開くと、三人のドワーフが、上下左右なく無造作に水に転がされながら元来た道の方へ押し流されていくのが目に入った。三人は必死にもがこうとしているようだが、大量の水の力の前には無力に等しい。

 と同時に、セルマンは、隣でおぼれかけているグスタフと一緒に、ドワーフたちとは逆の、坑道の奥へと押し流されているのに気が付いた。

「うっ!……た、助けて……!」

 隣で必死になってもがこうとしているグスタフを助けようと力任せに泳ごうとしたが、足もつかないほどの大量の水の力に押し流されて、なすすべがない。

 右手にしっかりとお守りの袋を握りしめたまま、二人は坑道のさらに奥深くへと押し流されていった。


 水の勢いは、収まる気配を見せない。

 セルマンは、自分の体がむちゃくちゃに転がりながら、急速に下へと下っていくのを感じた。何とか腕を伸ばすことで体勢を保ち直すことはできたが、まるで滑り台を滑り落ちていくかのように、坑道を流れる水に足元を掬われながら、速度を上げて滑り落ちていく。

「うわっ!止まらない!」

 後ろから、グスタフの叫び声が聞こえる。

 どうやら、二人で一列になって、猛スピードで下っているようだ。

 なんとか速度を抑えようと足で踏ん張ろうとするのだが、急勾配な上に地面がデコボコだったので、まったく役に立たない。

 ますます速度を上げながら、二人は下へと落ちていった。


 急に、体がふわっと浮かんだ。

 その瞬間、時が止まったようにセルマンには感じられた。

 しかしすぐに、体が真っ逆さまに落下していく。

 セルマンは「ひっ!」と叫び声にもならない声をあげると、瞬時に死を覚悟して、全身にぐっと力を入れて身を小さくした。

 頭の中には、島で家族と暮らしていた時や、この炭鉱での生活の光景が、足早に流れていく。懐かしい母や家族、親友のチャンドラやプラトの姿もそこにはあった。

(あ。死ぬんだ……)

 そう思った瞬間、「ドッボン!」という大きな音とともに、体が水の中に飛び込んだのを全身で感じた。

 小さい頃は毎日のように海に飛び込んでいたセルマンの体は、力を抜けば水面へと上昇することをどうやら覚えていたらしい。

 すぐに体の力が抜けると、上昇し、顔を水面からだすことができた。

「ぷはっ!……はぁ、はぁっ!」

 苦しそうに息を継いでいると、すぐ隣に「ドッボーン!」という大きな音を立てて、なにかが落ちてきた。

 すぐさまそれがグスタフだと気が付いたセルマンは、大きく息を吸い込むと、再度水の中に潜った。

 グスタフは、水中でもがいていた。

 セルマンはすっと背後に回ると、脇の下に手を差し入れてがっと抱え込み、水面へと蹴りあがっていった。

「ぷはっ!」

 水面へ出ても、グスタフは力を抜こうとせず、足をバタバタさせてもがこうとしている。

「おい!グスタフ!力を抜け!」

 無我夢中だったのか、最初はセルマンの声も耳に届いていないようだったが、少しすると落ち着いてきたようで、力を抜くようになった。

「暴れると余計に溺れるぞ。力を抜くんだ」

 セルマンに後ろから支えられながら、グスタフは荒い息で答えた。

「はぁっ、はぁっ。おい、君は、泳げる、のか?」

 なんとか聞き取れた質問に、セルマンは思わず「え?」と声を上げてしまう。

「俺は、泳げ、ないんだ。……そんな、必要も、なかった、からな」

 セルマンは心底驚いた。

 海を生活の糧としていた民として、泳げない者が存在することなど考えられなかったからだ。

 しかし、よくよく考えてみると、この炭鉱に連れてこられてから泳いだことは一度もない。水に触れると言えば、せいぜい共同風呂に浸かる時だけで、そこもたくさんの人が狭い浴槽にぎゅうぎゅうになって浸かっているので、そんなことができるはずもなかったのだ。

「……とにかく、ここから出よう。……どこに行けばいいんだ?」

 そう言って辺りをきょろきょろ見回したセルマンは、この空間がうっすらと明るい光で包まれているのに気が付いた。

 よく見ると、この空間の壁や天井が、先ほどセルマンたちが通ってきた坑道よりもほんの少し明るい光を放っていたのだ。その光のおかげで、ここが広い地下空洞になっていて、水が大量に湛えられていることがわかった。

 上を見上げると、セルマンたちが落ちてきたと思われる穴から、まだ大量の水が降り注いでいる。

 それをぼんやり見ていると、もう長い間会っていない母からもらった青い珊瑚のおかげで、死の淵から救われたんだ、という事実が思い出され、胸にジーンと熱いものがこみあげてくるのを感じた。

 セルマンの瞳から、一筋の涙がこぼれた。

 幸い、グスタフは自分に背を向けていたので、その涙に気づかれることはなかった。

 セルマンはささっと涙を腕でぬぐうと、鼻を一度すすり、辺りをもう一度よく見回した。

 すると、少し先の方に這いあがれそうな地面があるのに気が付いた。

「あそこに、上れそうなところがある。……行けるか?」

 グスタフからの返事はない。

「どうした?難しいか?」

「……泳げないっていうのに、どうやってあそこまで行けばいいんだ……」

 ふぅと軽くため息をついたセルマンは、諭すように話しかけた。

「いいか。まず、ゆっくりとあお向けになるんだ、力を抜いてな。そして、足で水を蹴りだせ。そうすれば、自然と頭が向いている方に進んでいく」

 それを聞いたグスタフは、激しく首を横に振った。

「無理だ、あおむけなんて!溺れちまうよ!」

 セルマンは少しイラっとした。そんなこと、物覚えがつくかつかないかくらいの小さな子供でもできることだったからだ。

「いいか。大の大人の男を一人抱えながら泳ぐなんて、不可能だ。

 ……俺が手で背中を支えてやるから、一度、水面であおむけになってみろ。体に力は入れるなよ、沈むから。力は常に抜いているんだ。そうすれば、人は必ず浮く」

 そういうと、少しの間をおいて、グスタフからため息が聞こえてきた。

「はぁ……。わかったよ。……でも、絶対背中から手を離すなよ!溺れちまう」

「大丈夫、絶対離さない」

 そう言うと、グスタフはもぞもぞ動き出し、足を水面に近づけてあおむけの姿勢を取ろうとした。すかさず、セルマンが両手をグスタフの背中と腰の下に入れて、水面下から支えてやった。

「拳に力を入れない!それに、腕は軽く横に開いておくんだ。……そう、そうだ」

 セルマンに支えられながらも、グスタフは水面であおむけの姿勢をとることに成功した。

「……あれ?浮いた?……俺、浮いてるのか?」

「よし、それじゃあ、足で水を蹴りだしてみろ。支えておいてやるから」

 絶対手を離すなよ、と心配そうに言いながら、グスタフは足を蹴りだした。すると、頭を向けている方向へと進みだしたのだ。

「うわっ!進んだ!すげぇ!」

 興奮して叫ぶグスタフの進みに合わせて、セルマンも支えの手が離れないようについていく。

「よし、そこで止まってくれ」

 そう言うと、グスタフは水を蹴りだすのをやめた。

「この泳ぎ方なら、息継ぎが必要ないからな。楽に進めるだろう。

 よし、俺が先導するから、その横をついてきてくれ。支えの手は離すぞ」

 手を離すことに、少しの間渋っていたグスタフだったが、最終的には了承した。

 セルマンがゆっくりと手を離すと、こわごわとした表情ではあったが、しっかりと浮いている姿勢を保つことができた。

「よし、行くぞ」

 そう言うと、セルマンはゆっくりと泳ぎ始めた。


 そんなに距離があったわけではなかったが、グスタフに合わせてゆっくりと泳いでいたので、思っていた以上の時間を要した。

「はぁ、はぁ……。よし、もう足が下に着くところまで来たぞ……」

 それを聞いたグスタフは、くるっとひっくり返ると地面に足をつけて立った。

 その顔には、満面の笑みが広がっている。

「すげぇ!俺、泳いだよ!生まれて初めて泳いだよ!」

(泳げたというほど泳げてないけどな。それに、そんなに喜ぶことなのか……?)

 息を整えながら、少しあきれ顔で見つめていたセルマンに、グスタフがくるっと向き直った。

「こんな時になんだけど、すごい気持ちよかったよ!泳ぐのって楽しいな!

 ……あ、そうだ!今度、泳ぎ方を教えてくれよ!」

「あ、あぁ……。構わないけど……」

 セルマンの返事に喜びを爆発させているグスタフを、最初はあきれ顔で見つめていたのだが、兵士である彼が自分になにか教えを乞うてきたことを、驚きの気持ちとともに、なにかうれしさといった感情がこみあげてくるのを感じた。今まで兵士からは、教育だ、と言って殴られたり罰を食らったりすることはあっても、なにかの教えを求められたことはなかったからだ。

 セルマンの心の中で、パチッと音を立てて明るい炎が光を放ち始めた。


 水から這い上がった二人は、辺りを調べ回り、一つの穴があることを発見した。

 ほかに選択肢もない二人は、どこに通じているかもわからないその穴の中へ入っていくことにした。この穴は、先ほどドワーフたちと通った坑道のように、通ると壁や天井が明るい光を放ち足元を照らしてくれた。

 二人はぼたぼたと水滴を垂らしながら、奥へと進んでいった。


 どれだけ歩いてきたのだろうか。

 二人が入っていった穴は一本道で、少し進むとすぐに緩やかな上り坂へと変わった。最初はずぶぬれで全身にびたっとまとわりついて気持ち悪かった服も、今は生乾きくらいまでには乾いている。

 二人はかなりの疲労を感じていた。

 この穴がどこに通じているのかもわからず、たとえ通じていたとしても、それが正しい道なのかもわからない。また、時計を持っていなかったので、どれだけ時間が経過したのか分からない、という状況も、二人の疲れに拍車をかけていた。

 二人は「はぁ、はぁ……」と荒い息を吐きながら、無言で前進を続けていた。

 そんな時だった。

 セルマンの鼻先を、ひゅんと冷たい風が吹き抜けていったのだ。

 それは、湿り気を帯びながらも清涼で、みずみずしい緑の香りと雨の後に立ち上る土の匂いを孕んだものだった。明らかに、外から吹きこんだ風だとわかるものだった。

 セルマンははっとなってグスタフを見た。

 そのグスタフの顔にも、驚きの表情が浮かんでいる。

「もうすぐ出口だ!」

 二人はそう叫ぶと、疲れなんて吹っ飛んだかのように猛然と走り出した。

 穴の先はどんどん明るさを増していき、土や緑の香りもきつくなっていく。

 穴の先は大きく左に曲がっており、そこを走り抜けた二人の目の前に現れたのは、なだらかな上り勾配の先にある、地上へとぽっかりと口を開けた出口だった。

 そこから差し込む決して強いとは言えない陽の光に、何時間も暗い所を通ってきたセルマンたちは思わず手をかざして目を細めた。それでも、少しずつ目が明るさに慣れるにつれ、周囲の景色が見えてくるようになっていった。

 地上の出口へと続く緩やかな坂には、大小様々な岩や石がごろごろ転がっており、その先の出口を取り巻く辺りには、植物や木がたくさん生えていた。

「どこに、通じてるんだ?」

「コラナン森だ!」

 グスタフはセルマンの呟きに意気揚々と答えると、早速、岩や石で足場が悪い中を、時にはつまずきそうになりながらも、素早く駆け上っていく。

 セルマンも、急いでそのあとについて行った。

 外に出ると、そこはグスタフが言っていた通り、たくさんの木や植物が生い茂る緑溢れる森の中だった。

 昨夜の雨の影響か、湿ってひんやりとした空気が漂う中、しっとり濡れた草木や土から立ち上る濃厚な匂いが、セルマンの鼻腔を刺激する。朝早いようで、ひょろ長い木の枝の隙間からこぼれ落ちる木漏れ日に照らされ白い朝もやがちらちらと輝く様は、なんともいえない幻想的な光景を生み出していた。

 高い枝に停まっているのか、姿こそ見えないがあちらこちらで鳴き交わす鳥のさえずりや、朝もやに姿を溶けこませた小動物が、これ幸いと地面に落ちた枯葉の上をかさこそと走り回る音。そういった様々な匂いや音を孕み、強い生命力が満ち満ちているこの森に、セルマンは、貧しくとも毎日自然と向き合いながら逞しく生きていたセガラ連邦の暮らしを思いだし、しばし呆然となった。

 それは、ミァン炭鉱で毎日嗅いでいた、石炭で汚れて乾ききった空気とは全く対照的であった。

「……セルマン、……セルマン!」

 肩を揺さぶられたセルマンは、はっと我に返った。

「なに、ぼーっとしているんだよ」

「すまん、ちょっといろいろ刺激的で……」

「だからって、そんな間の抜けた顔して突っ立ってなくてもいいだろ」

 グスタフはニヤッと笑うと、肘で軽く小突いた。しかし、すぐに真顔に戻った。

「で、さっきも言ったが、俺たちはコラナン森にいる。コラナン森って知ってるか?」

「いや、知らない」

「そうか。コラナン森は、ミァン炭鉱から南西に十キロくらいいったところにある、東西に長い三日月型の森だ。俺たちが今その森のどのあたりにいるかはわからないが、森の東端からミァン街までは、確か十キロもなかったはず。今は……」

 そう言いかけると、グスタフは空を見上げて太陽の位置を探った。

 セルマンも見上げて、だいたい朝の六~七時くらいだと見当をつける。

「朝の七時前ってとこかな。森は、幅十五キロくらいだったはずだから……、夕方前にはミァン街に着けるぞ!」

 ここまで来た目的をはっきり思い出したセルマンは、ぐっと希望が湧き上がるのと同時に、力がみなぎってくるのを感じた。

 プラトをはじめ、協力してくれたみんなのためにも、最後までやり遂げなければならない。

 それに、この自然溢れる森を歩いて行ける喜び。

「よし、なんとか責任は果たせそうだな」

「そうだな、一時はどうなるかと思ったけどな」

 そう言うと、二人は顔を見合わせた。

 そして、噴き出すようにどっと笑った。どちらも屈託のない笑顔だった。

 そして、腰にぶら下げていた皮袋に手を突っ込むと、プラトが用意してくれた服を取り出し、それに着替えた。

 着替え終わると、連れだって、東にあるミァン街へと出発した。

 木漏れ日が、二人の背中に暖かな光を投げかけていた。

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