第8話 もえあがる憎悪
~ソフィア 7月21日~
「じゃあ、あとはお願いできるかしら」
「はい。大丈夫です」
ソフィアはそう答えると、薬が塗られているガーゼが患者の腕から落ちないように、慎重に包帯を巻き始めた。
最初はその様子を静かに見守っていたアンナだったが、任せて大丈夫と思ったのか、ふっと表情を緩めるとその場を離れ、他の患者のところへ向かった。
ソフィアはそのことを気にするそぶりも見せず、目の前の患者に対して、黙々と包帯を巻くことに集中していた。
ここは詰め所の一室だ。
当初は大広間を病院替わりに使っていたが、患者の数が減ってきたのと、他の地域から応援が来るとのことで、大広間を空けるべく、この場所に移動してきたのだ。
最初、医師であるアルバートは、そんな理由で患者を動かすことに猛烈に異議を唱えていたが、ソフィアを始め、他の人たちは皆、こちらの部屋のほうがよいと口をそろえて言っていた。
以前使っていた大広間はあまりにも広く、空調を調節することが難しかった上、人の出入りも多かったので、ゆっくり体を休めることができなかったのだ。その点、この部屋は最大十人までしか収用することができず、また、ベッドとベッドの間には簡易的な衝立があるので、プライバシーを保つことができる。
部屋の壁はクリーム色で統一されており、演習場に面した窓からは日光が差し込み、部屋に明るさをもたらしている。
消毒液の匂いこそ漂っているが、穏やかで温かい空気が流れていた。
それは、この部屋の環境のおかげでもあったが、生死の境を移ろう重傷な患者がすでにいないことも、大きく関係していたのだ。
「よし、これで大丈夫。薬はしみませんか?」
「少ししみるけど、これくらいなら大丈夫」
「そうですか。もし、我慢できないくらいにしみれば、おっしゃってください」
「ありがとう」
兵士はニコッと笑って、答えた。
ソフィアはその笑顔に頬を少し上気させると、車輪がついたサイドテーブルを押して、少し先のベッドで血圧を測ろうとしているアンナのところへ移動した。
アンナはソフィアの姿を目にすると、にこっと笑った。
「悪いんだけど、変わってもらえるかしら。薬が切れそうだから、倉庫から持ってきたいの」
「私が持ってきます。なんの薬ですか?」
「ううん、いいの。せっかくだから、ソフィアは血圧を測ってもらえる?これも経験だから。それと、血圧を測り終えたら、マルクスの散歩に付き合ってもらえるかしら。外に出たいってうるさいのよ」
「はい、わかりました!」
元気よく答えるソフィアを微笑ましく見つめたアンナは、薬を取りに、部屋から出ていった。
ソフィアは患者の横に移動し、緊張した面持ちで、腕に巻かれた水銀血圧計の腕帯に聴診器の先を差し込み固定した。そして、聴診器の耳当て部を耳穴に入れ、水銀血圧計のコックを開き、バルブを回した。その後、送気球を強く繰り返し握って、腕帯に空気を送り始めた。すると、水銀がするすると上り始めた。その様子を、まばたき一つせずじっと見つめていたソフィアは、あるところまで水銀が上ると、送気球を握るのを止め、深呼吸をした。そして、バルブを緩め、減圧を開始した。
ソフィアは耳を傾けるのに集中した。もうすぐ、血管音が聞こえてくるはずだ。
アルバートとのやりとりから、五日経っていた。
あの時、自分のことしか考えていなかった恥ずかしさと、傷つき倒れている兵士に対してなにもできない無力感とで泣き出しそうになる自分に手を差しのべてくれたアンナから、包帯の巻き方や血圧の測り方といった、看護の基本を習っていた。
取り組んでみると思いの外難しく、最初は悪戦苦闘したが、アンナを始めとする看護師に協力してもらったり、実際患者に対して実践を積むことで、少しずつではあるが、上達するようになってきていた。
今は患者も減り、看護師の手が足りないという事態ではなかったが、ソフィア自身がここでお手伝いをすることを希望したのもあって、そのまま、ここで看護の手伝いをしていたのだ。
それに、皆知っていたのだ。
ソフィアの兄、グスタフの安否が、未だにわからないことを。
じっと耳をすませているソフィアに、血管音が聞こえ始めた。さらにバルブを緩めていくと、血管音が大きくなり、そして、だんだん小さくなって聞こえなくなった。
ソフィアは、血管音の聞こえ始めと終わりの目盛の値をそれぞれ確認すると、管理表に記入した。
「これで終わりです。外しますね」
そう言うと、患者の腕から腕帯を外した。
「今日は一発だったね」
いたずらな笑みを浮かべて話す兵士の腕を軽く叩くと、ソフィアは血圧計を片付けて、マルクスのベッドまで歩いていった。
マルクスは、隣の患者と「ソウクイ」をやっていた。二人は、盤を挟んでそれぞれ腕を組み、じっと盤上をにらみつけている。
「どんなかんじ?」
ひょいと顔を覗かせ尋ねると、腕を組んだまま、二人は答えた。
「どっこいどっこい」
ルールは知っていたが、ソフィアはそんなに「ソウクイ」は強くない。
「マルクス、そろそろ歩行練習の時間ですよ」
「よし、きた。おい、続きは後にしようぜ」
「おう」
そういうと、二人はごそごそと盤を隅に片付け始めた。そんな時だった。
「やっぱり船があるほうがいいなぁ」
と、マルクスがぼそっと呟く声が、背後から聞こえてきた。
その瞬間、ソフィアの体はびくっと硬直した。
「確かにな。スピード感が違うよな」
相手も同意した。
ソフィアは微動だにせず、その二人の会話に集中していた。心の奥底に、どろっとした怒りの感情がむらむらと沸き上がってくるのを感じる。
「ソウクイ」は世界中で人気がある盤上ゲームだが、地域によってルールが違う。
以前、兄のグスタフが休暇で帰ってきた時に、船を使うやり方をやってみせ、それが炭鉱夫たちが使う駒だと言っていたのをソフィアは覚えていた。
そんなソフィアの様子に気づくことなく、マルクスは片付け終えるとソフィアのほうを向いた。
「ソフィア、松葉杖取って」
ソフィアははっと我に返ると、慌てて壁に立て掛けていた松葉杖を取り、マルクスに手渡した。マルクスはそれを受け取ると、両脇に挟み、演習場につながる扉の方へ、一人でずんずん進んでいってしまった。その後を、ソフィアは慌てて追いかけていった。
「俺一人でも行けるから、お前は休んどきなよ」
「いえいえ、そういうわけにはいかないですよ。頼まれたんですから」
「まじめなやつだなぁ。まあ、いいけど」
そういうと、マルクスはまた歩きだした。
その後をソフィアはついて行ったが、その表情は、暗く濁っているように見えた。
夏の陽射しが照りつける演習場は、初めてソフィアが見た時とは全く異なる様子を見せていた。
十日ほど前にイーディスと薬の納品で訪れた時は、ただただ、だだっ広い土地がぽっかりと広がっているだけだったが、今やその面影はどこを探しても見つけることができない。数日前から、そこにはいくつもの大型のテントがところ狭しと設置されるようになっていたのだ。その下には、装備品や武器などが詰めこまれた箱が、うず高く整然と積み上げられている。そのテントとテントの間を、ミァン炭鉱を奪還すべく全国から召集された兵士たちが、乾いた大地に砂ぼこりを巻き上げながら行き交い、彼らの足音や話し声で、あたりは騒然としたものものしい雰囲気に包まれていた。
兵士たちも日に日に数を増しており、その騒然とした雰囲気に、さらに拍車をかけていた。
「ああ、俺も加わりたいよ」
深刻な顔つきで目の前を通りすぎていく兵士たちを羨ましそうに眺めながら、マルクスは言った。彼は、訓練中に足を怪我し、この病院に送還されたのだ。
「じきに加われますよ」
そう力なく答えたソフィアは、なんとも言えない表情を浮かべていた。
兄であるグスタフが軍隊に入隊したのもあって、ソフィアは軍について、当初、悪い印象を持っていなかった。むしろ、軍服姿の兄をかっこいいとさえ、思っていた。
しかし、たくさんの兵士が傷つき、ときには命を落としていく姿を目の当たりにすると、兵士として国のために戦うということがどういうことなのか、ほんの少しながらわかったような気がしていた。以前と同じような、ただ憧れるだけの気持ちとは異なる、別の感情が自分の中に芽生えてきているのに、ソフィアはなんとなく気づいていた。
「……怖くないんですか?」
目の前の騒然とした光景をじっと見つめながら、ソフィアは尋ねた。
「ん?怖い?」
「そう。兵士として戦いにでるのって、怖くないんですか?」
「うーん、怖いかと言われると……。そんなでもないかな。というか、俺、戦場に出たことないし」
あはは、と乾いた笑いをしたマルクスだったが、ソフィアの不安そうな表情に気がつくと、笑うのをやめて、やれやれといったように肩をすくめた。
「まあ、俺んち貧乏だし。家業は兄貴が継ぐし。となると、あんまり選択肢はないんだよな。それに、軍隊だったら食いっぱぐれしないしな。それって、仕事を選ぶ上では重要なことだろ?」
そう答えたマルクスは、ソフィアのほうをちらっと見ると、すぐに視線を戻して話を続けた。
「実際入っちまうと、けっこう訓練とかきついけど嫌いじゃないんだよ。体動かすの好きだし、飯も食えて給料もそこそこだ。
……それにさ、今回みたいに、自分たちのものを奪われて黙っているなんて、俺の性に合わないんだよ。ミァン炭鉱が犯罪者集団の炭鉱夫に占拠されたって聞いて、俺ははらわたが煮えくり返りそうなくらい頭にきたよ。
……なにか大事なものを守るためには、時には力が必要なときもあるんだ。俺は、あんなやつらに好き勝手にさせるつもりはないんでね。お前もそう思うだろ?」
確かに、この状況を引き起こした炭鉱夫たちのことを思うと、小さなマグマのような怒りがふつふつと心の奥底に生まれてくるのを感じる。
その様子を横目で見たマルクスは、話を続けた。
「俺たちの国で犯罪行為をして、それで死刑にならずに炭鉱夫として生かされているのに、その恩を仇で返したりしてさ。そんなやつらには、誰かが制裁を加えなきゃならないんだよ。
確かに、たくさんの兵士が炭鉱夫にやられて、ミァン炭鉱もやつらの手中にあるが、隙をつかれただけだと思うよ、俺は。ここしばらくの間は、そんな動きがなかったもんな……。
でも、今は全国から兵士が集まってきている。
大丈夫、俺らの軍はあんな犯罪者集団には負けないし、お前の兄貴もすぐに救ってやるよ。だから、安心しな」
そう言うと、マルクスはソフィアの頭をぽんぽんと叩いた。
(そうだ。確かに怖いけど、このまま外国の犯罪者たちに好き勝手させるわけにはいかない。兵隊さんだって、このままじゃ、無駄に死んだり怪我したりしただけになっちゃう。そんなの間違ってる。悪いやつらは、ちゃんと罰を受けるべきなんだ。そのために、グスタフを始めとする兵隊さんは、戦うんだ)
ここ数日、ソフィアの心の中に生まれた負の感情、憎悪が、じんわりと、しかし確実に胸の内に広がっていった。
しばらくの間、二人は無言で、慌ただしく準備を進める兵士たちをじっと眺めていた。
医務室に戻ってきたソフィアは、備品を取りに行ったり、兵士の体を拭いてやったりなどの世話を続けた。そして、気がつくと、時計はすでに五時を回っていた。
「ソフィア、もう五時を回ったわ。今日もありがとう。あとはやっておくわ」
薬を片付けていたソフィアは、アンナに話しかけられて、初めてそんな時間になっているのを知った。
「はい、これだけ片付けてから帰ります」
「いいのよ、あとで使うから。そのままにしておいて、もう帰りなさいね」
「そうですか。ではこれで失礼します」
そう言うと、ソフィアはペコリと頭を下げた。
「さようなら。気をつけて帰ってね」
アンナはいつもの柔らかな笑みを浮かべると、くるりと背を向けて患者のほうへ向き直った。アンナは今日も残業らしい。
ソフィアは、医務室の隣にある、だれもいなくてがらんとしている医療従事者たちの休憩室に戻ると、自分のお弁当や水筒がはいった手提げを手に取り、静かに退出し、廊下に出た。
左に行くと、大広間へつながる扉へと続くのだが、ソフィアは倉庫へと続く右の方角へ曲がった。
大広間の方は、演習場と同じようにたくさんの兵士でごった返し、騒々しく殺伐とした空気が立ち込めているが、限られた人しか立ち寄らない倉庫の方は、人通りも少なく、静まり返っていることが多い。ソフィアは、厳しい顔つきをした兵士で溢れている大広間より、静かな倉庫へと続く廊下を通ることにしていたのだ。
かつかつと、ソフィアの靴音が廊下に響き渡る。
誰ともすれ違うことなく倉庫へと続く扉の前まで来たソフィアは、扉を開け、外に出た。
扉の先は建物の外へと続いている。午前中は青空だった空も、この時間には大分雲も出てきて、湿気を含んだ空気がこの後一雨降りそうな気配を漂わせている。
雨が降る前に早く帰ろうと、ソフィアは、倉庫へと続く目の前の道を行き、途中で道を逸れ、倉庫と倉庫の間の道へ入っていった。
倉庫の先には、薬の納品で初めてここを訪れた時にイーディスと一緒にくぐった物資を運搬するための入口があり、今ソフィアが歩いている道は、その入口に通じる近道なのだ。
人が四~五人ほど通れるほどの幅があるその道は、ソフィア以外にも通る人が少なくないのだろう。道の両脇の倉庫の外壁に近いところはたくさんの雑草が生い茂り、中には外壁を這うように伸びている蔦もあるが、道の中央側には雑草もほとんど生えておらず、剥き出しの土が、ここを通る人たちによって固く踏みならされていた。
ここ数日の好天から土埃が舞うほど乾いている道を行き、倉庫の端まで着いた。
物資の運搬口の門番は、毎日行き来するソフィアの顔を覚えてくれているので、ソフィアに気づくと、「お疲れさん」と不愛想ながらも声をかけて、門を開けてくれた。
「ありがとうございます」
ソフィアは会釈をしながらそう言うと、門をくぐり、外に出た。
そして、あの日以来お世話になっている親友のイーディスの家へと歩きだした。
石畳が敷き詰められている通りを歩きながら、ソフィアはいつものように、兄グスタフのことをぼんやり考えていた。
兵士の安否情報が発表された日、ソフィアは薬の納品でイーディスと詰め所に行き、グスタフの安否情報を尋ねた。そこで、衛生兵であるリチャードが、ここに担ぎ込まれた兵士の名簿を確認してくれたのだ。
そこに、グスタフの名前は無かった。
イーディスの母親から事前に諭されていたこともあって、最悪な結果も覚悟していたソフィアだったが、実際その報告を聞く際は、足が震え、のどがカラカラに渇き、胸がばくばくと鳴っていたのを、昨日のように覚えている。
しかし、名簿に名前がないと聞かされた時は状況が理解できず、頭が混乱し、軽く放心状態になった。
その後、まだ全員の安否はわかっておらず確認中だと聞かされたソフィアは、もどかしい気持ちから意識を逸らすかのように、看護の手伝いにのめり込んでいったのだ。
しかし、たまたま患者同士のやりとりを耳にしたことで、名簿に名前がない、ということが何を意味しているのかを知るのだった。
それは、あの時点で名簿に名前がない、ということは、その兵士の死を意味する、ということだったのだ。
暴動が起きてから、すぐさま、街に駐屯していた軍がミァン炭鉱に駆けつけた。そして、激しい火災の中、息がある兵士を優先して街へ運び込んだ。治療が最優先ではあったが、同時に名簿の作成が行われたため、あの時点で名簿に名前がないというのは、死を意味するものだったのだ。
そのことを、アンナと患者の間を行き来している時に偶然耳にしてしまったソフィアは、廊下に駆け出して泣き崩れた。すぐに後を追ってきたアンナが優しく抱きくるめてくれたが、しばらくの間、泣きじゃくるのを止めることができなかった。
その間、アンナは、炭鉱夫に捕まった兵士がいるらしい、という噂を教えてくれた。
国と交渉するにも、人質がいたほうが優位に進められる。そう考えると、可能性は低くはないんじゃないかということだった。
ただ、だれが人質なのかまではわからないので、大きな期待はしないほうがよい。それでも希望はなくさないで。ということを話してくれたのだ。
さすがのソフィアも、グスタフが生きている可能性は限りなく低い、ということを覚り、アンナたちの厚意により、その日は早々にあがらせてもらい、イーディスの家に帰るとそのままベッドにもぐりこみ、頭から布団をかぶって、一日中涙を流していたのだった。
今は、泣きに泣いたからなのか、その時に比べると気持ちもだいぶ落ち着いてきた。そして、今は兄グスタフを心配に思う気持ちに代わって、別の感情がソフィアの心を支配しようとしていた。
それは、暴動を起こした炭鉱夫たちに対する激しい憎悪だった。
罪を犯しながらも、生きることを許された炭鉱夫たち。
それにもかかわらず、兄グスタフはもちろん、たくさんの兵士をつるはしやスコップで殺し、あるいは負傷させるなど残虐な行為を行い、国にとって大事な炭鉱を占拠した。恩をあだで返す卑劣なやり方に、身も震えるほどの激しい怒りを感じたのだ。
そして、その考えは、ソフィアだけではなく、兵士や国民の大多数の考えでもあった。
連日、ぞくぞくとミァン街にはせ参じている兵士は、仲間の敵討ちをとろうという使命感でぴりりとした空気を醸し出しており、街の住民も、暴動が起きた直後は暗くどんよりとした雰囲気をまとっていたが、今は日々増えていく兵士に勇気づけられたのか、憎き炭鉱夫を早々に駆逐しすぐにでも炭鉱を取り戻せるよう、積極的に物資の運搬や看護の任を希望するようになっていたのだ。
ソフィアも、最初こそ、自分の情けなさから、手を差し伸べてくれたアンナにすがるように看護の手伝いをしていたが、今となっては、傷ついた兵士の役に立ちたいという気持ちはもちろん、憎き炭鉱夫を一刻でも早く倒すために今自分ができることはなにか、ということを一生懸命考えた結果でもあると思っていた。
「あいつらを早く倒して、ミァン炭鉱を開放するんだ。そのために、私は私のできることを頑張らなくちゃ」
そう独り言をつぶやきながら、家路へと歩いて行った。
通りは、暴動直後と比べると人通りも多くなっていた。兵士はもちろん、一般市民も多く、中には小さな子供を連れて歩いている人もいる。
しかし、みな表情は険しく、速足で歩き、不要不急な外出を避けているように見えた。暴動前のような、のんびりそぞろ歩きを楽しむ人は、今ではほとんど見られない。
また、お店についても再開したお店も少なくなかったが、相変わらず鎧戸を閉めきっているお店もちらほら見られ、中にはほかの町に荷物をまとめて逃げ出した住民もいる、という話をソフィアは耳にしていた。
刻々と灰色の雲が増してくる中を、空のお弁当を鞄の中でカタカタいわせながら歩いていくと、遠くのほうに、人がぞくぞくと集まってきている家が見えてきた。その様子を見たソフィアはため息をつき、暗澹たる気持ちになった。なぜなら、集まってきている人たちがみな、一様に黒い喪服を着ていたからだ。
(また、誰かの葬儀が行われるんだ……)
毎日のように、どこかでだれかの葬儀が行われていた。ミァン炭鉱のお膝元だけあって、この街出身の兵士が多数ミァン炭鉱に配属されていたからだ。
その家に近づくと、喪中を表す黒い布が、二階の窓から下げられているのが見えた。その家に起きた不幸を悲しむかのように、風が吹く度、どんよりとした雲の下を、黒い布がふわっと揺れる。
家の前まで来たちょうどその時、その家の扉が開かれ、中から同じように黒い喪服を身にまとった人たちが現れた。亡くなった人の親族だろう。
その親族を、家の前に集まっていた人たちがうわっと取り囲み、次々にお悔やみの言葉をかけ始めた。特に、旦那さんらしき人に支えられてなんとか立っている女性に対して、そのお悔やみの言葉が向けられているようだった。
白いレースのハンカチに顔をうずめ、肩を震わせながら弔問客の言葉に頷いている白髪交じりの女性こそ、きっと亡くなった兵士の母親なのだろう。
その光景を立ち止まってぼぉと眺めていたソフィアは、つい、その女性に自分の母親を重ね合わせてしまった。
グスタフが亡くなった、という知らせを受けて泣き崩れる母。
厳しい自然相手に暮らしているためか、どんな事態にも動じず、いつでもドンと構えている母だが、グスタフの入隊には、最後まで反対していた。
その母が、もしグスタフが死んだと聞かされたら、あの女性と同じように泣くだろうと思ったソフィアは、それ以上その光景を直視することができず、その女性に対してさっと頭を下げると、小走りにその場から離れた。
その後も、何人もの黒い喪服を着た人たちが、その家へと弔問に訪れていった。
少し行くと、前のほうから騒がしい声が聞こえてきた。どうやら、通りの先の横道から聞こえてくるようだ。
なんだろうと思った瞬間、横道から歓声が上がり、直後に黒い煙が立ち上るのが見えた。
ソフィアは鞄を持つ手にぎゅっと力を込めると、駆け足で走っていき、その横道に飛び込んだ。
すると、空高く舞い上がる炎を取り囲んで、たくさんの人がこぶしを振り上げ、歓声や怒声を浴びせている光景が目に飛び込んできたのだ。あまりの出来事に一瞬ぽかんとしたソフィアだったが、ふと、炎の中で何かが燃えようとしているのに気が付いた。
目を凝らしてよく見ると、それは手につるはしを持ち、浅黒い肌をした、等身大の人形だった。民衆が怒りのはけ口として、炭鉱夫を模した人形を、炎で焼き尽くそうとしているところだったのだ。
人形は燃え上がり、煤となって空に舞い上がっていく。その光景を前に、群衆の興奮の度合いはさらに増していく。
そんな彼らと一緒にいると、何とも言えない高揚感が体の奥底から突き上げてくるのを感じ、気が付くと、鞄を放り出し、こぶしを高くつき上げ、ほかの群衆に混じって言葉にならないなにかを叫んでいた。
ぽつ、ぽつと、どんよりとした空から雨が降り出してきた。
しかし、ソフィアを始めとするここに集まった群衆の中で、降り始めた雨に気が付いた者はいなかった。
すでに大部分が燃え尽きた真っ黒な残骸を前に、みな、大きく見開いた瞳で、言葉にならない何かを叫び続けていた。
雨足は、刻々と強くなっていった。
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