第7話 私的執務室にて

 ~ガーネット 7月19日~


 音を立てずに扉は閉まった。

「ふぅ……」

 女官が出ていき、誰もいなくなった執務室で机に向かっていたガーネットは、大きなため息をついた。

 ここは、ガーネットの寝室に隣り合う私的な執務室だ。公務をするための公的な執務室は別にあり、ここは私的な手紙を書いたり、息子・娘家族を呼び寄せたりする際に使用している。

 部屋の中心には、ゆったりとしたいくつものソファと背の低いテーブルが置かれ、その脇にはユリやエニシダといった花ばなが部屋に彩りを添えている。部屋の隅には、最高級の黒檀で作られた光沢の美しい文机があり、背もたれに流線形の美しい金細工が施されている椅子もあった。

 絨毯やカーテンははちみつ色をしており、決して広い部屋ではないが、家具や壁も含めてよく調和がとれている、居心地のよい空間だった。


 ガーネットは、机の上の書類から顔をあげ、窓の外に目をやった。

 ビロードのカーテンが開かれた大きな窓の外にはどんよりとした雲が広がっており、しとしとと小雨が降っていた。ここ数日、天気はよかったが、今日は朝から雨が降っており、午後になっても止む気配はない。その影響で、今日は肌寒かった。

 ガーネットは、肩にかけたストールをぐっと引き寄せると、机の上に置かれた紅茶に手を伸ばした。紅茶は、瑞穂帝国から贈られた、白磁に藍色で蔦の模様が描かれているガーネットのお気に入りのカップに入れられていた。そのカップから、愛飲しているディエンの芳醇な薫りがふわっと立ち上っている。

 いつもなら、その紅茶の薫りをかぐだけでほっと心が和み緊張がほぐれるのだが、今日はそうもいかないようだ。

(本当に、これでよかったのかしら……)


 ミァン炭鉱の暴動が報告されて以来、連日将校と会議を重ねてきた。最初は様々な意見が交わされたが、ミァン炭鉱の被害の状況が明らかになるにつれ、ミァン炭鉱へ派兵し武力を用いても制圧、という強硬派の声が強くなっていった。

 それを決定的なものとしたのは、炭鉱夫の代表団との話し合いの決裂という結果であった。すでに、話し合いが決裂する以前から、主に北部地方に配置されている軍隊にミァン炭鉱への派兵準備を指示していたが、決裂を機に、ついに派兵の指令が下されたのだ。

 ガーネットの前にある文机の上には、ミァン炭鉱から遠く離れているギャータから最後の三千兵が出兵した、という報告書が置かれている。

 いつもなら、こういった報告書は公的な執務室で目を通すのだが、連日の夜通しの会議や心労から隠しきれない疲労が顔に滲みでてしまい、周りから少し休むよう言われてしまったのだ。また、派兵が決定してからというもの、参謀長が戦況を把握して指示をだすのに対し、ガーネットはその報告を受ける立場になったというのも、この執務室で過ごす時間を増やすことができた要因の一つであった。


 ガーネットは、おもむろに引き出しから手鏡を取り出すと、自分の顔を眺めた。

 この国を統治することが生まれた時から決まっていたガーネットは、幼い頃から帝王学を施され、国を統治する者としての心得を父である先王から教え込まれた。

 その中に「余裕がない時こそ、鷹揚に構えよ」というのがあったことを、最近思い出した。上に立つ者がいつもと変わらず堂々としているだけで、下についてくる者たちは安心する、という言葉なのだが、今鏡に写っているのは、目の下に隈がある、やつれた六十代の女性だった。

 ガーネットは手鏡をぱたっと伏せると、ひじをついて、両手の上にあごを乗せた。


 ちょうど昨日だった。王宮に出入りしている商人がたまたまもたらした噂が、ガーネットの耳に入ったのは。

 内容は、イギ国と国境を接しているソラス王国北部のエール地方で、暴動が起きた時間とほぼ同時刻に動物が騒ぎだした、というものであった。他にも、イギ国との国境線であるアロー山脈より目に見えない風圧のようなものを受けた、と話している民もいるとのこと。

 暴動との関連性はわからないが、タイミングからして、これまでのことは全てイギ国が裏で仕組んだことではないか、という疑念が、ガーネットを始め家臣たちの脳裏に浮かんだ。

 しかし、時すでに遅し、で、その噂を聞いた時には、すでに国境警備隊も含め、派兵の指令をだした後だったのだ。

 もちろん、すぐさま将校に招集をかけ、イギ国の関与の有無について議論をした。

 しかし、そこででてきたのは、圧倒的に反対意見ばかりであった。例えば、そこまで強力な魔法をイギ国の魔法部隊が発動したのを見たことがないとか、イギ国に属しているシャモル自治州が、現在、瑞穂帝国と交戦中の最中に、ソラス王国とも交戦するなんて考えにくいとか、ミァン炭鉱を迅速かつ確実に取り戻すには、それくらいの軍事力が必要だなどといったものだ。

 しかし、一番の理由は他にあることを、ガーネットは見抜いていた。

 それは、一度発令した命令を取り消すのは恥だ、という、以前から軍内部に蝕んでいる悪癖からくるものだったのだ。

 もっともらしいことを恥も外聞もなくのたまう将校たち。ガーネットは、その姿を心底うんざりしながら眺めていた。

 それでも結局のところ、ガーネットは将校たちの意見を受け入れ、命令を変更することは行わなかった。

 それは、街で流布している噂だけで、軍の命令を簡単に変更するというのは好ましくないということと、ミァン炭鉱の暴動の話を聞き付けた他の炭鉱の一部の者たちが、反抗的な態度を取り始めているという報告があり、国として、ミァン炭鉱の炭鉱夫に対して断固とした姿勢を示す必要があったからだ。

 また、国民の間でも動揺が広がっており、特にミァン街の住民の中には他の街に避難をし始めている者もいる、ということで、軍隊を派遣し、早期に鎮圧することで、国民の不安をすぐさま解消する、ということも、大切なことと考えたからだった。


「それにしても……」

 ため息交じりに、ガーネットは呟いた。

 父である前王が急死してから早二十年。今まで様々な困難があったが、こんなにも頭を悩ませる出来事は、他に思い当たらなかった。

 ガーネットは生来、楽天家であったが、それでもここ十日ほどの間に一気に十歳ほど老け込んだように見えた。それほど苦悩を募らせていたのだ。

 窓の外から、さぁーという雨の降る音が聞こえてきた。少しずつ雨足が強くなってきているようだ。それに呼応するかのように、頭痛がひどくなってきている。

 ガーネットは痛みで顔をしかめると、こめかみに指を軽く押し当ててマッサージを始めた。しかし、効果はなく、むしろずきずきと痛みは増していくのだった。

 目の前にある文机の端に、小さなダイヤモンドがいくつも散りばめられている小箱が置いてある。ガーネットはその箱に手を伸ばすと、中から白い薬包紙に包まれた散薬を一つ取り出した。以前、医者から処方され、結局服用しなかった頭痛薬だ。ガーネットは、これら余った薬を、秘かにこの小箱に隠し持っていたのだ。

 この薬を処方された時に、医者からは、一度服用したら次に服用するまで少なくとも六時間以上空けるように、と言われていたが、あの暴動が起こってからは、絶えず襲ってくる頭痛を抑えようと、三~四時間おきに服用するようになっていた。

 ガーネットは、その薬包紙を開き、茶色の粉末を口に含んだ。そして、文机の上に置かれている紅茶で流し込んだ。

(近いうちに、もっと強い薬をもらわなくてはいけないわね……)

 ガーネットは、そう心の中で呟いた。

 頭痛薬と冷めきった紅茶とが混じりあった、なんとも言えない苦味が、口の中に広がっていった。

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