第6話 決意
~セルマン 7月18日~
「よし、いただき!」
「え!ちょっ、ちょっと待って!」
「待ったなしに決まってるだろ」
「そんな……」
夏の夕暮れ時。まだまだ気温は高いが、東の空からうっすらと濃い藍色が広がり始め、夜が近づいてきているのがわかる。
そんな時間に、さっと吹きわたる乾いた風に乗って、チャンドラのなさけない声が通りに響いた。
近くをそぞろ歩きしていた炭鉱夫が三人、声が聞こえたほうを振り返ったが、人垣ができているのを目にすると、納得したかのように前をむいて、歩いていってしまった。
ここは、ミァン炭鉱内にある、炭鉱夫がよく集う馬蹄亭の店先だ。店内の混雑を少しでも緩和しようと、どこから持ってきたのか、店の外の通りにまでテーブルと椅子が並べられている。そこに、暇をもてあそぶ炭鉱夫が集い、以前よりも店は喧騒に包まれ、繁盛していた。
「それにしても、働かなくてもいいってほんといいもんだな」
チャンドラの向かいに座っている、まさに働き盛りといった三十代くらいの筋骨隆々の炭鉱夫が、うーんと体を伸ばしながら言った。
「だな。もう、二度とあんなきつい仕事はしたくねぇよ。
な、兄ちゃんもそう思うだろ?」
チャンドラたちのテーブルを取り囲んでいる炭鉱夫の一人が、チャンドラに話しかけた。当人のチャンドラは、話しかけられたことにさえ気づかず、頭を抱えてぶつくさとなにかを呟きながら、テーブルの上に置かれている盤上にじっと視線を注いでいた。
チャンドラたちがやっているのは、「ソウクイ」という盤上ゲームだ。
二人で対戦するゲームで、9×9のマス目に、乗り物や動物の駒を向かい合わせに並べ、その上に様々な職業の人の駒を乗せて戦わせるというものだ。それぞれ王様がいて、相手の王様をとったら勝ちとなる。乗り物や動物を表している下の駒で、進めるマス目数や方向が変わり、上の様々な職業の駒で、相手を攻撃したり寝返らせたりするゲームで、地域によって独自の駒、ルールがあったりするが、世界中に広く普及しており、愛好家も多いゲームだった。
盤上では、チャンドラの守りの要である海軍将校が相手側に寝返ってしまい、形勢にほぼ決着が着いたといってもよい状況になっていた。
「おーい、降参か?」
勝ちを確信した相手が、細い目をさらに細めながら、にやにやした顔つきでチャンドラに話しかける。
「いや、まだだ」
もう状況は絶望的といっていいのに、まだ頭を抱えて考え込んでいるチャンドラ。朝っぱらからここで盤上ゲームをやる生活を送るようになってから、早一週間がたとうとしていた。
炭鉱で決起が起きたのは、今から一週間前。
その翌日に、決起を起こしたリーダーが演説を行った。
内容は、決起は成功で、ミァン炭鉱は炭鉱夫の支配下に置かれたこと。また、労働環境の確実な改善を図るべく、代表団を結成して王宮に派遣する。そして、そこで芳しい回答が得られるまでは炭坑での労働は中止とする、といったようなものだった。
労働環境の改善とは、今の二交代制から三交代制に変えることや、最低賃金の引き上げ、街への外出許可等々。
いまだ、闘いの興奮冷めやらぬという状態だった炭鉱夫たちは、大歓声でその演説を受け入れた。
結果、坑内での労働は休止となり、今まで持つことが許されなかった自由な時間が、突然、炭鉱夫たちの上に舞い降りたのだ。
しかし、あれほど憧れていた自由な時間も、今まで休みなく働いていた炭鉱夫たちにはどう過ごしていいのかわからず、結局、朝から酒を飲んだり、賭け事をしたりなど、無為に過ごす姿が炭鉱内のあちこちで散見されるのだった。
セルマンはというと、他の炭鉱夫と同様、決起が成功したことについては素直に喜んだが、どうしても決起当日、あの少年(後にリーダーだと判明)から感じた寒気、薄気味悪さが頭から離れないでいた。
あの興奮のるつぼの真っ只中にいたにも関わらず、急に冷や水をひっかけられたかのようなあの感覚。一週間たった今でも、ふと思い出す度に、背筋に冷たいものが走るのだ。それに、いまだにどこの坑内を担当していた人物なのか誰に聞いてもわからないのも、不気味さを助長していた。
「一体、あいつは何者なんだ?」
そう一人呟いた時だった。
店の中から、黒い豊かな口ひげを生やしたビール腹の男がぬっと現れた。ソースや油の汚れがところどころに飛び散っている前掛けを、そのビール腹の下にぐっと締めているこの男が、この店のマスターだった。
彼は、よく通る声で(うるさい店内では必須のスキルだった)呼び掛けた。
「おい!飯ができたぞ!今日の当番は、だれだ!」
「当番って?」
人垣の中の誰かが尋ねた。
「捕虜の兵士に飯を持ってく当番に決まってんだろ。もうできたから、冷めないうちにとっとと持ってってもらいたいんだよ」
あの日、炭坑を囲うように広がる軍隊の駐屯地を焼きつくした炎や、つるはしなどの道具を手にした炭鉱夫たちによって、たくさんの兵士が傷つき、命を落とした。
その兵士の幾人かを捕虜として懲罰部屋に監禁している、という噂をセルマンも聞いたことがあったが、どうやら本当だったようだ。
「別に、持ってかなくてもいいんじゃね?一食くらい食わなくたって死にゃしないよ。そもそも部屋にずっといるだけで、働いてるわけじゃないんだしよ」
だれかがそう言うと、周りにいた炭鉱夫たちはうわっと盛り上がった。多かれ少なかれ、兵士に対して抱き続けていた負の感情が、今ここにきて、あちこちで発散されているのだ。
セルマンも、ほかの炭鉱夫と同様に、その言葉を聞いてくすっと笑った。
しかし、いらいらしながら当番を探しているマスターや、まだ頭を抱えているチャンドラ、その周りで笑っている仲間たちを見ていると、なぜだかわからないがその当番を引き受けてもいい、という気持ちが沸き上がったのだ。
それは、ただの気まぐれに過ぎなかったのかもしれない。
手持ち無沙汰だったこともあり、捕虜として監禁されている兵士の面でも拝んでやろう、という軽い気持ちがあったのは、否定できなかった。
それでも、その行為が、今後のセルマンの運命を大きく変えるきっかけとなったのは事実であり、結局のところ、彼はまるで運命に導かれるかのように、その役目を引き受けると口にしていたのだ。
「マスター、俺が持ってくよ」
手を上げてそう言うと、マスターはセルマンのほうを見て、少しほっとするような表情を見せた。
「本当か?助かるよ」
そう言うと、マスターの足元にある大きな二つのかごの内、一つをセルマンの手にぐいと押し付けた。まるで、気が変わってもらったら困る、と言わんばかりの素早さだった。そのかごのあまりの重さに、セルマンは思わず落としそうになった。
「十六人分だから、けっこう重いぞ。と言っても、あんたら炭鉱夫たちには大したことないだろうがな。中身は、ベーコンポテトとパンと水だ。こぼさないように気をつけな。
で、あともう一人、食器のかごを持っていってもらいたいんだが、誰かいないか?そもそも、担当はどこにいるんだ?」
マスターは、通りによく響くような大声で、がなり立てた。
それでも、その場に居合わせた炭鉱夫たちは、肩をすくめたりお互い別の話を始めたりで、だれ一人として兵士に食事を持っていく役を担おうとはしない。
「全くしょうがねぇなぁ。また、うちのチビに行かせるか。
前はこういう時でも軍に言えば、対応してくれたんだがなぁ。あの決起隊に言っても、なんもしてくれねぇんだよ」
頭をぼりぼり掻きながらそう言うと、後ろを振り返り、店内に向かって怒鳴った。
「おい!えーと、エリオット!悪いが、食器が入ってるかごを懲罰部屋に持ってってくれ!また、担当がいねぇんだよ!」
店内に呼び掛けるマスターの後ろ姿を見つめていたセルマンだが、ふと話しかけるような声に気づき、その方向を向いた。
「おい、お前。なんでそれを持ってくんだよ。当番じゃないんだろ、ひっく」
そこには、過酷な労働の跡が幾筋もの深いしわとなって額に刻まれている、小柄な五十代くらいの男が立っていた。くたびれたシャツの裾がズボンからだらしなくはみ出していて、顔も赤く、目もとろんとしたその男は、はたから見ても相当酔っているのがわかる。
「おい、聞いてんのか?ひっく。なんで持ってくんだよ」
ろれつが回らないほど酔ってはいるが、その瞳の奥には狂気にも似た危険な光が宿っているのをセルマンは見逃さなかった。ここはまともに相手にしないほうが賢明だぞ、と、セルマンは直感し、
「散々俺たちを痛めつけてきた奴らがぶちこまれてる様を見る機会なんて、そうそうないだろ。面白そうじゃないか」と、軽口をたたいた。
セルマンの回答は酔っぱらいのお気に召したようで、その男は手を叩いて喜んだ。
「ぎゃはは!そりゃ、面白そうだ!ひっく。俺も見てみてぇな!」
酒臭い息を吐きながらその男は言うと、足元が覚束ないのも意に介さず、ふらふらしながらセルマンに近づいてくる。
その様子に、恐怖より嫌悪感を覚えたセルマンは、
「いや、人はもう足りてるんだ。それより、俺が戻ってくるまで、ここで一杯やってけよ。なんなら一杯奢るぞ?決起が成功したお祝いだ。」と言って、店の奥に向かって怒鳴っていたマスターへ向き直った。
「マスター、この人に一杯やってくれ。決起成功の祝いだ。」
そう言うと、セルマンはコインを放り投げた。
マスターは振り返って、放り投げられたコインをぱっと片手で受けとった。そして手を開き、今しがた握りしめたコインに目をやり、セルマンをちらと見た。セルマンはあごで酔っぱらいを示したのでマスターはその男に視線を向けたが、その瞬間、眉を上げて意外そうな顔をした。だが、すぐにコインをエプロンのポケットに押し込むと、ぐいと親指で店の中を指差した。
「入んな」
酔っぱらいの男はただ酒が飲めるうれしさで頭がいっぱいになったのか、セルマンには目もくれず、千鳥足でふらふらしながら、にやけただらしのない表情を浮かべて店の中に消えていった。
その男と立ち替わるように店から飛び出してきたのは、十才くらいの男の子だった。手足が長くやせぎすで、一目でお下がりだとわかるだぼだぼの大きな服を着ているのが、余計にやせているのを強調しているように見えた。しかし、黒々とよく日焼けしているその姿は、ひたすら外で駆けずり回って遊んでいる、この炭鉱内でよく見かけるこどもの姿でもあった。
唇を尖らし、ふてくされた表情を浮かべ、片足をぶらぶらしながら突っ立ってる男の子に、マスターは残ったかごをぐいと無理やり押し付けて、にらみをきかせながら言った。
「この人についていけよ、エリオット。早く戻ってくるんだぞ。遊びに行ったら、承知しねえぞ」
「わかってるよ」
鼻をふんと言わせながら答えると、エリオットは全身を使って大きなかごを肩に担ぎ、セルマンの傍に寄ってきた。
セルマンは、ふと、チャンドラの方に目をやった。
さすがにもう頭は抱えていなかったが、形勢が悪いときに無意識にしてしまう、下唇を噛む癖を見せながら、盤上に手を伸ばしていた。
(また、金を巻き上げられるんだろうな)
小さなこどもを抱えながらやりくりしているチャンドラの奥さんのことを思うと、やるせない気持ちがこみあげてきて、はぁとため息をついた。
それでも腕に抱えているかごをちらと見ると、「よいしょっ!」と、肩の上まで担ぎ上げた。
「じゃあ、行こうか、エリオット」
そう声をかけると、うなだれだしたチャンドラを尻目に、懲罰部屋がある事務所へと歩きだした。その後ろを、ずり落ちてくるかごを何度も背負い直しながら、エリオットがついていった。
通りは、両側に連なる居酒屋に詰めかけた炭鉱夫の騒々しさで賑やかだった。
どこの店も店先まで客で溢れ、あちらこちらでグラスがぶつかり合う音や男のがなりたてる声、女の甲高い笑い声が飛び交っている。
突然、うわっとたくさんの人の歓声が聞こえて、セルマンは思わず声のした方に目をやった。すると、左斜め前にある店の前に置かれたテーブルに人だかりができているのが見えた。興奮している歓声の中からときおり聞き取れる内容によると、どうやらここではトランプのポーカーをやっているようで、今まさに決着がつき、掛け金の精算をしているところだった。
悲喜こもごもの様子を見ていると、うんざりしてきた。
すると、今度はしこたま酒を飲んだのであろう、真っ赤な顔で肩を組み、大声で歌いわめきながら通りを左右にふらついている炭鉱夫が二人、前から歩いてくるのが見えた。その彼らの腕の中には、乱れた服をそのままに、キャーキャーと嬌声をあげながら千鳥足で歩く化粧の濃い女が二人いた。
セルマンは、そのふらついている四人の横を足早に通りすぎた。
すれ違い様にむわっと鼻につく酒の匂いに、身震いするほどの嫌悪感が走る。思わず、食事が入っているかごを持つ手に力が入った。
セルマンは、酒が大嫌いだった。
チャンドラと一緒に居酒屋に行っても、全く口をつけなかった。それは、大酒飲みが多い炭鉱夫の中で、極めて珍しいことだった。
その理由は、幼少期の体験にあった。
セルマンはセガラ連邦で生まれ、漁で生計をたてている家庭で育った。
父親は、普段は優しい人で仕事も真面目にこなしていたが、ひとたび酒を飲むと前後不覚になるまで飲み続け、母相手に暴れるなど手がつけられない人だった。
母は、酒を飲んでいる父を相手にしないようにしていたが、ろれつの回らない口調で執拗に相手の神経を逆なでる発言を繰り返す父に堪忍袋の緒が切れることもしばしばで、喧嘩をしない日のほうが却って珍しいくらいだった。
セルマンは、そんな家庭に嫌気がさして、家をでたのだ。
その時、誓った。酒は飲まないと。自分は、父のようにはならないと。
それは、兄弟の中で一番父親の面影を色濃く受け継いだ自分に対する不安の裏返しでもあったのだ。
黙々とうつむきながら早足で歩くセルマンは、後ろから誰かを呼ぶ声が聞こえてくるのに気が付くと、足を止めて後ろを振り返った。そこには、かごを背中に担ぎ小走りでついてくる、エリオットの姿があった。
「ごめん、早かったか」
「少し」
息を切らせながら答えると、エリオットは背中に担いでいたかごをよいしょと担ぎ直した。そして、通りの先に見えてきている事務所をちらと見やった。
その瞳に不安の色を認めたセルマンは、おや?と思った。
「どうした?」
セルマンの問いかけに一度はちらと目を向けたが、すぐにまた不安そうな表情を浮かべると、事務所の方に視線を移した。そして、ぽつりとつぶやいた。
「……やだなぁ」
「ん?なにか言ったか?」
あまりに小さな声だったので、思わず聞き返したが、エリオットは事務所の方を見つめたままだった。それでも、さきほどよりは声量を上げて、ぼそっとしゃべった。
「いやだなぁて言ったんだ。事務所に行きたくないんだよ」
「……なにかあったのか?」
エリオットの様子に、なにか心がざわつくような、不穏で嫌な予感をセルマンは感じた。
エリオットは、どうせ相手にされないだろうと思っていたので、セルマンの態度に驚き、もごもごと口ごもってしまった。しかし、自分をじっと見つめるセルマンの視線に勇気づけられるように、ぽつぽつと話し始めた。
「あそこ、気味悪いよ。近づくと寒気っていうか、変な感じがするんだ。それに、橋の袂に立つ見張りの人たち。あれって化け物みたいでさ。だから、俺ら、あそこに近づかないようにしてるんだ」
「化け物?」
「うん!」
いつも忙しく働きづくめの両親にあまり構ってもらったことがないエリオットは、自分の話を真剣に聞いてくれる大人の存在がうれしくて、顔を上気させ、饒舌に話しだした。
「俺たち仲間の中で、炭坑からでたことがないからここからでてみよう、街に行ってみようて話になって、仲間と一緒に橋まで行ったんだけど、あいつらが通してくれなくてさ。通せないの一点張りで、何を言ってもその言葉ばっかり繰り返すんだ。
……なんというか、そもそも不気味でさ。近づくと、胸がざわつくような、反吐が出そうな、何とも言えない嫌な気持ちになるんだ。
で、仲間が一人、やつらを無視して橋を渡ろうとしたら、そいつ、急に立ち止まったんだ。後で聞いたら、足が地面に吸い付いたような感じになったんだって。で、その後、急にばたん!て倒れたんだ。俺たちびっくりしてさ。慌てて駆け寄ると、そいつ真っ青な顔して気失ってんの。で、大丈夫かって揺さぶったりしてたんだけど、あいつらが後ろにやってきて、また、通せないって繰り返すんだ。
その時の俺らを見下ろす目がさ。なんというか……。
そう、ガラスでできた目みたいで、生きてる人間の目じゃないような感じがしたんだよな。俺、ぞくぞくって鳥肌が立って、倒れたそいつを担いでそこを離れたんだ。とにかく不気味だったんだよ」
身ぶり手ぶりを使ったエリオットの熱心な話を、セルマンはじっと終いまで聞いていた。自分と同じように、彼らに対して不気味な感情を抱いている人が他にもいることの意味を考えていたのだ。
エリオットは、最後まで口を挟まずに聞いてくれる人を得て興奮気味であったが、話し終えても一言も言わず、考え事をしているセルマンを見ると、なにかとちっちまったかなと決まり悪さを覚えた。興奮していた気持ちもしぼみ、気まずさをごまかそうと、下を向いてつま先で地面をほじったりしていたが、声が聞こえたような気がして顔を上げた。
「俺も、あいつらはなにか不気味な気がするよ。
……話してくれてありがとな」
セルマンは、エリオットが彼らに対して感じた不気味さについて考えたが、皆目見当もつかなかった。ふと、エリオットに視線をやると、気まずそうに立ち尽くしていたので、もう話はおしまいにしようと声をかけたのだ。
エリオットも、労いの言葉をかけられると根は単純なので気まずい気持ちがぱっと吹き飛び、どこかくすぐったいような、照れくさいような気持ちになって、もじもじしながらさらに顔を上気させた。
「もう、ここで戻っていいよって言ってやりたいけど、一人でこの荷物全部持つのは無理だから、悪いけど手伝ってもらうよ。ただ、懲罰部屋に着いて食事を配ったら、空のかごを持って先に帰っていいぞ。食器は俺が持って帰るから。」
「うん!」
懲罰部屋がある事務所に長くいなくていいと言われたエリオットは、先ほどとはうってかわって、弾けるような笑顔を見せた。
その笑顔を見届けると、刻一刻と辺りが暗くなってくる夕闇の中を、セルマンはかごを担ぎ直し歩きだした。その後を、重い荷物もなんのその、得意気な笑顔を浮かべてついてくるエリオットがいる。
しかし、そのエリオットの明るい顔とは対照的に、前を行くセルマンの顔には、暗い影が落ちているように見えた。
そのまま少し進むと、外へと続く唯一の道である橋の近くまで来た。
陽は西に沈み、あたりはだいぶ暗くなっていた。
橋の方を見ると、威勢よく燃える炎が灯されている大きな松明が二つ、薄闇の中で、煌々と存在感を放っていた。そのすぐ傍に見える二メートルはあろうと思われるがたいのよい人影が、見張りたちだろう。ゆらゆらとうごめく炎に照らされていても、微動だにしないのがよくわかる。
セルマンは、視線を、その人影から橋の対岸へと移した。
そこには、あの決起の日に発生した火災で焼きつくされた建物の残骸が散らばっていた。片付けられることもなく、崩れ落ちた屋根もそのままに放置されているのを見ていると、あの夜の光景が生々しく脳裏によみがえってくる。
あの時感じた頬をなでるような熱風や、まるで地鳴りのような人々の叫び声。
目を閉じると、あたかもその場に身を置いているような気がしてきて、軽い興奮に包まれるのだった。
その時だった。
背後から、すっと冷たい風がセルマンのうなじを撫で、対岸へと吹き抜けていった。その冷たい風は、この暑い中、重たい荷物を背負って歩くセルマンの体に流れていた汗だけでなく、にわかに興奮していた気持ちもいずこかへ運び去ってしまうかのようだった。
セルマンは思わず身震いをすると、風が吹いてきた方角を向いた。
そこには、坑内へと続く鉱山の大きな入り口がぽっかりと開いていた。それは、セルマンを始め、炭鉱夫たちが地下に広がる坑内へと出入りする時に毎回通る入り口だった。
いつもであれば、これから地下に降りる炭鉱夫と地上に上がってきた炭鉱夫が入り乱れる、雑然とした光景が展開されているはずだが、今は人っこ一人おらず、しんと静まり返っていた。
セルマンは、この場所がこんなに静寂に包まれているのを初めて見た。
あらためて見てみると、大きく開いた入り口の中は真っ暗で、どんなものでも吸い込んでしまいそうな雰囲気を漂わせていた。幼い時から毎日のように出入りしてきたにも関わらず、今日は、その黒々とした大きな入り口の先には自分の見知らぬ世界が待ち構えているようで、胸がざわつき、気が付くと肌が粟立っていた。
「どうしたの?」
エリオットの声に、はっと我に返った。
「いや、なんでもない。早く行こう」
そう言うと、セルマンは目と鼻の先にある事務所へと歩きだした。
かごを担いでいるセルマンたちは、目の前にある二階建ての建物を見上げていた。
それは、赤茶けたレンガ造りの建物で、その壁一面が石炭の粉塵で黒く薄汚れてる事務所のいくつかの窓からは煌々とした明かりが漏れていたが、ほとんどは真っ暗で、人がいる気配はなかった。
入り口には橋と同じように見張りが立っていて、セルマンたちをじっと睨んでいた。一人は橋の袂にいた見張りと同じように二メートルを超えるようながたいのよい男だったが、もう一人は炭鉱夫には珍しくひょろっとした細身の男で、腕もつるはしなどを振りかぶれるのか疑問に思えるほど、頼りなさげに見えた。
その見張りは、まるでセルマンたちが敵だと言わんばかりに、青い目で睨み付けていた。その敵意を抱いているような瞳が、今までこの場を支配していた兵士の瞳と重なり、無性にセルマンの神経を逆なでるのだった。
「兵士たちの食事を持ってきたよ」
ぶっきらぼうにそう言うと、セルマンは担いでいたかごをバシバシと叩いてみせた。
「中身を確認する」
ひょろっとした見張りはそう言うと、セルマンを睨みつけたまま、近づいてきた。セルマンは担いでいたかごをがたっと乱暴な音をたてて降ろすと、蓋を開けた。
入り口脇にある灯りに照らされて見えたのは、水が入っていると思われる小さい樽と、いくつもの太い黒パン、寸胴鍋の中で転がっているゆでたじゃがいもと、いくつかのベーコンの小さな固まりだけだった。
見張りはそれを立ったままじっと見下ろすと、今度はエリオットに視線を移し、ぶっきらぼうに言った。
「そっちは」
「食器だ」
セルマンはそう答えると、緊張して身を縮こませているエリオットからかごを受けとり、蓋を開いて見張りに見せた。そこには、皿やフォークが乱雑に重なりあっていた。
見張りは一瞥すると、もういいというように手をひらひらさせて、元の場所に戻っていった。
セルマンは、かごに蓋をして担ぎ直した。
「通れ」
見張りは投げやりにそう言うと、前に向き直り、直立不動の姿勢に戻った。
同じ炭鉱夫のはずだが、大きな荷物を持っているセルマンたちのために戸を開いてやることもなく、ねぎらいの言葉もない。いくら、あの決起で中心的な役割を担ったからといって、こんな見下すような態度をとる権利なんかないんじゃないかと、セルマンは黒々とうずまく嵐のような怒りが胸の内に吹き荒れてくるのを感じずにはいられなかった。
怒りそのままに一言言ってやろうと思ったその時、ふと、もう一人の見張りが視界の片隅に入り、自然とそちらに目がいった。
その男は、細身の見張りとは対照的に、肩幅ががっしりとした、いささか腕が長めで猫背な大柄な男だった。たった今目の前で行われたやり取りには一切関心がない、と言わんばかりに、ただじっと前だけを見つめて、身動き一つせずに立っている。
その微動だにしない姿は、精巧ではあるが、まるで生命力を感じさせない石像のようにも見えた。
その男の岩のような大きな顔には、豆粒くらいのガラス玉のような小さな瞳が埋もれていた。
その生気の感じられない瞳から、セルマンは、なぜか目を逸らすことができなかった。見たくなかったにも拘わらず、だ。
すると、急速に怒りが萎み、気持ちが萎えてきたのだ。と、同時に、ひゅっと体が縮こまるような悪寒が走った。
それは、冷たく不快な気分だった。
本能が、ここから早く離れろ、と警告するのを感じたセルマンは、頭がくらくらしてくる中、しっかり意識を保とうと唇をぎゅっと噛み締め、重たいかごを担ぎながら見張りたちの脇をさっと通り過ぎ、肩でかごを支えたまま戸を開いた。
すると、待ってました、とばかりにエリオットが脇を走り抜けて中に飛び込んでいった。それを見届けたセルマンは、一度も後ろを振り返ることなく、中に足を踏み入れ、後ろ手で戸を閉めた。
そこには、二階まで吹き抜けになっているちょっとした広さの玄関ホールが、わずかな明かりに照らされて広がっていた。ここは、坑内から上がってきた時に採掘した石炭の量が記入されている伝票をもらう場所として、セルマンにとっては馴染みのある場所だった。
いつもはこの玄関ホールの中心に机が置かれており、そこに腰かけている兵士から伝票を受けとるのだが、普段はそんな汗臭い炭鉱夫で溢れてかえっている玄関ホールも、今日はひとっこ一人おらず、しんと静まり返っていた。
確か、地下にある懲罰部屋へと続く扉が右の奥の方にあったはずだ、とセルマンは思いだし、その方角に視線を向けた。すると、壁に掛けられた灯りが放つわずかな光に照らされて、ぼんやりとたたずむ扉がうっすらと見えた。見覚えのある、木製の重たそうな扉だ。
その時ふいに、セルマンは腕になにか生暖かいものが触れたのを感じた。
思わず悲鳴をあげそうになるのをなんとか飲み込み、ぱっと目をやると、なにかに怯え、身を小さくしているエリオットが腕を掴んでいた。
「……なんか怖いよ。暗くってさ」
エリオットは消え入りそうな小さな声で言うと、セルマンの腕をつかむ手に、ぐっと力を入れた。恐怖からか、手のひらがじっとりと湿っているのが伝わってくる。
「大丈夫だよ。俺の後ろについてこい」
元気づけようと、肌が粟立っている腕でエリオットの背中をぽんぽんと叩くと、奥の方でゆらめく光に照らされている扉へと歩きだした。
エリオットは、さきほどの炭鉱夫にすっかり怖じ気づいたのだろう。セルマンから離れないよう、ぴたっと張りつくようについていった。
そして、セルマンは扉の前に立った。木製の扉はかなり年季が入っており、あちこちに無数の傷がついている。
(重たそうだな)
そう思ったセルマンは、抱えていたかごを一度下ろすと、今まで数え切れないほど多くの人が触り、もはや黒光りしている扉の鉄製の取っ手に手をおくと、ぐっと力をこめて押した。
扉は、ぎぃーという音をたてながら、ゆっくりと開いた。
扉の先は、真っ暗闇だった。それでも、扉の横の壁にかけてある灯りからこぼれる光が、扉の先に広がる下り階段をうっすらと浮かび上がらせていた。
「この先に行くの?」
セルマンの背中から首だけを覗かせたエリオットが、不安そうな声で尋ねた。
「そうだ。この階段を下った先に、懲罰部屋はあるんだ。
……大丈夫、俺は行ったことがあるし、そこに灯りもある」
そう言うと、扉の横の壁にかけてある灯りを指差した。灯りは、炎の結晶によって、ちらちらとたゆたう光を放っていた。
その光が、不安そうなエリオットの顔に陰影をつけていた。
そんなエリオットをちらと一瞥すると、床に置いたかごを「ふんっ!」と息を吐きながら担ぎ上げ、壁にかけてある灯りを手に取って、言った。
「行くぞ。ここからは下り階段だから、足下には気を付けろよ」
(相変わらず、じとっとしていて、かび臭いな……)
片手に灯りを、もう一方の手で肩に担いでいるかごを支えながら、セルマンは思った。かび臭さなのか土臭さなのか、なにか鼻につんとくるような匂いが湿り気とともに周囲に絡みつく。
チャンドラを始めとする他の炭鉱夫と同様に、セルマンも、懲罰部屋には何度か監禁されたことがあった。
懲罰部屋とは、炭鉱夫が仕事を怠けていた時、あるいは喧嘩沙汰を起こした時、または兵士に対して反抗的な態度を見せた時(これが一番多い)に、罰として監禁する部屋のことで、この事務所の地下にあるのだ。部屋はいくつあるのかセルマンは知らなかったが、一人部屋から多人数が入れる部屋までいくつかあるのは知っていた。
以前、チャンドラの喧嘩に加担して、この懲罰部屋に閉じ込められたことがあった。後ろ手に縛られ、背後から兵士に蹴倒されそうになりながら階段を降りていったのを、今でも覚えている。確か、あたりにはかび臭い匂いが漂っていて、湿って淀んだ空気が滞っていたはずだ。
その時、体全体で感じた空気が、今でもこの空間に漂っている。
その、以前と変わらない匂いや感触が昔の苦い記憶をふと思い起こさせ、セルマンの心の奥底にしまわれていた怒りの感情を、刺激し始めたのだ。
(くそっ!なんで俺は、こんなところに舞い戻っちまったんだ!しかも、やつらの食事をわざわざ担いで……!)
どろっとした怒りが頭をもたげ、気づかぬ内に、階段を降りるのが早くなっていった。
「待ってよ!早すぎる!」
エリオットの悲鳴に近い叫び声で、セルマンははっと我に返った。
「ごめん、悪かった」
後ろを振り返り、光の加減なのか青白く見えるエリオットに謝ると、灯りを下にかざし、足下を照らした。そうして、また一段一段とゆっくり下へ降りていった。
足下がきちんと見えるよう灯りをかざすことに集中しているうちに、自然と気持ちも落ち着いていき、あたりの状況に目が行くようになった。
(前に来たときも、こんなに暗かったっけ?……いや、明るいとまでは言えなかったが、確か、壁沿いに灯りが灯されていたはず……。
……それにしても、こんなに寒かったか?)
さきほどから、下に降りれば降りるほど、ひんやりとした空気が地下から這い上がってくるのを感じる。汗で張り付いた肌着も徐々に冷え、寒さから、鳥肌が立ちっぱなしだった。
エリオットも同じように感じているのか、後ろから「ックシュ!」というくしゃみが聞こえてきた。
「大丈夫か?あと、もう少しだ」
そう声をかけると、寒さで一瞬ぶるっと身震いしながら、また一歩ずつ下に降りていった。
「灯りだ!」
ちょうど階段の踊り場から下へ降りようとした時に、背後からエリオットの弾んだ声が耳に飛び込んできた。
足下を照らすことに集中していたので、その声を耳にしたセルマンはぱっと顔をあげ、視線を先に向けた。
すると、階段を降りきったところの両壁に灯りがかけられているのが目に入った。
不揃いな石で雑に作られた壁の湿気で黒光りしている様が、灯りが放つ鈍い光の中
ぼんやりと見ることができる。
その小さな光にほっとしたセルマンは、エリオットの方に笑顔で振り返り、
「よし、もうすぐだよ」
と声をかけた。
そして、灯りに導かれるように、階段を下りていった。
一番下に到着した。
両側の壁の灯りは暖かそうなオレンジ色の光を放っている。しかし、その柔らかい光に反して、あたりの気温はより一層低くなったように感じられた。
セルマンたちの正面には、鉄製の重厚な扉がそびえたっていた。
その扉を開くため、手に持っていた灯りを足下に置くと、取っ手に手をかけぐっと引いた。扉は見た目ほど重くなく、意外なほどすっと開いた。
(この先に、懲罰部屋があったはずだな)
そう思いながら、扉の先に広がる薄明かりがたゆたう空間へ顔を覗かせた。
その瞬間、予想だにしていなかったものにセルマンは襲われた。
それは、扉の先に漂っていた真冬かと見紛うほどの冷気と、鼻がひん曲がるような臭いで、扉を開けた勢いに乗って、セルマンのところへどばっと押し寄せてきたのだ。
不意打ちを食らったセルマンは思わず後ずさりをして、鼻と口を手で覆った。
その臭いは、今まで嗅いだことがないほど強烈なものだった。獣臭さや糞尿、そして血のような臭い、そういった臭いが混じりあったような、とにかく吐き気を催すような臭さで、そのあまりに刺激的な臭いのために、目にうっすら涙が溢れてくるほどだった。
「くっさ!」
すぐ後ろにいるエリオットのところにもこの強烈な臭いが届いたようで、大きな声をあげた。
「懲罰部屋は、この先にあるんだ。……にしても、ほんとに臭いな。なんなんだ、この臭いは。しかも、やけに寒いぞ」
二人は、その場で立ち尽くした。
扉の先に進まなくてはならない、ということはわかっている。
それでも、本能がこの先に進むことを拒んでいるのだ。
それは、あまりに強烈な臭いや冬かと見紛う寒さのためだけではなかった。なにか、足を踏み入れてはいけない領域に踏み込もうとしているような、そんな感覚に襲われるからだったのだ。
「もうさ、帰ろうよ。おれ、怖い……」
エリオットは、すでに半べそをかいている。
(そう言うのも、無理ないな)
と、セルマンは思った。
しかし、どんな理由があるにせよ、一度引き受けた仕事を放り出すことは、セルマンにはできなかった。それに、今自分が担いでいる荷物を運ぶのに精いっぱいで、怖気づいているエリオットの分まで持つのは、不可能だった。
「俺が一人で持ってってやれればいいんだが、この量じゃ、それも無理だ。俺が先に行くから、また後ろからついてきてくれ、な?」
「……」
返事はなかったが、そのまま足元に置いた灯りを手にすると、刺すような臭いに顔をしかめながらも、セルマンは扉の先に一歩踏み出した。
後ろを振り向くと、鼻と口を手で覆いながらすがるような眼差しで見つめるエリオットがいる。
そんなエリオットに、セルマンはあごをあげ、ついてくるよう促した。
一度はその場で抵抗の意思を見せたエリオットだったが、それも無駄だと覚ったのか、のろのろとではあるが歩き出した。
その様子を見届けたセルマンは、前に向き直り、歩を進めた。
扉の先には、天井が低く幅の狭い廊下が延びていた。
その両壁には、先ほどと同じオレンジ色の穏やかな光を放つ灯りが等間隔でかけられている。そのかすんだ明かりの奥に、うっすらと鉄格子らしきものがあるのが見えた。
「行くぞ」
ふてくされた表情を浮かべながらも、傍までやってきたエリオットをちらと見たセルマンは、またかごを担ぎ直すと、前に進んだ。
(それにしても、ここは臭いし冷えるな。前に連れてこられた時は、こんなんじゃなかったはずだが……。いったい、どうしたっていうんだ?)
進めば進むほど、臭いは増していき、あたりの気温も下がってくる。
靴音や食器の擦れあう音が響く中、二人は無言で進んでいった。
いよいよ、鉄格子の近くまでやってきた。その先に、懲罰部屋があるはずだ。
目的地が見えてきたことで、自然と足取りも軽く、歩みも早くなっていった。エリオットも同じく、セルマンの後ろを遅れずについてきている。
(あと、もう少し……)
そう胸のなかでつぶやきながら、鉄格子のほんの手前まで近づいたその時、右手側から、今まで以上の強烈な臭気と氷のような冷気が津波のようにどっと押し寄せてきたのだ。
ぶわっと、右半身に鳥肌が立った。
思わず灯りを持つ手を放してしまったセルマンは、反射的に左側に飛びずさると、その異様な空気が押し寄せてきた方角を身を屈めながらきっと睨んだ。
すると、ちょうど灯りが放つ光の死角になっている暗闇から、これまた二メートル近くはありそうな大男がぬっと現れたのだ。
と同時に、なにか腐敗したような臭いがぐっと強くなり、喉元を何かがせりあがってくるのを感じた。
と同時に、なにか腐敗したような臭いがぐっと強くなり、喉元を何かがせりあがってくる。
「ギャー!」
突然、大きな悲鳴とともに、ものが散乱する音が廊下全体に響き渡った。
直後に、ばたばたと走っていく音が遠ざかっていくのが聞こえる。
ちらと視線をやると、こちらに背を向けて一目散に逃げていくエリオットの姿が見えた。かごはすぐ近くに投げ出されており、いくつかの食器が廊下に散乱している。
(おい!)
心の中で悪態をつきながらも、正面から感じる異様な空気から目が離せないでいた。
目の前に立ちはだかるように立つ大男は、体の大きさに反して、豆粒くらいの小さな金色の瞳でセルマンを見下ろしていた。その感情が一切読み取れない瞳から、セルマンはなぜか目を逸らせないでいたのだ。
頭のどこかで、「あいつの瞳を見てはいけない!」という警鐘が鳴り響いていた。
しかし、その時にはもう、その瞳に心も体も吸い付けられたかのように、セルマンの体は自由が利かなくなっていたのだ。
ふっと、全身の力がぬけた。
そして、すーと気が遠くなっていった。
(倒れる……)
そう思った時だった。
「誰かいるのか?」
遠のいていく意識の中、その声は、はっきりとセルマンの耳に届いた。
はっと我に返ったセルマンは、声がした方角を見た。どうやら、鉄格子の中から聞こえてきたらしい。
「あ……。食事を持ってきたんだ」
「そうか、それはありがたい」
ほっとしたような声が、返ってきた。
一瞬、気が遠くなりかけたセルマンだったが、意識がしっかりし、体に力が戻ってくるのを感じた。地面を踏みしめて立っているのを、足の裏で確かに感じることができる。
ただ、相変わらず目の前に立つ男から感じる不快な気持ちがなくなることはなかった。
セルマンは、一刻も早くこの男から離れようと、急いで鉄格子に手をかけ、開けようとした。しかし、というよりは案の定というべきか、鉄格子には鍵がかかっていて、開けることができない。
焦りから、この寒さの中、玉のような汗が額に噴き出してきた。
すると、その様子を黙って見ていた大男が、すっと音もたてずに近づいてきたのだ。
一瞬身構えたセルマンだったが、無言で近づいてきたその男は、いつの間にか手にしていた鍵の束から一本の鍵を選ぶと、その場から身を引いたセルマンに代わって、鉄格子をがちゃがちゃいわせ始めた。
すると、すぐに、カチャ!という音が鳴った。そして、ギーという重々しい音と共に、鉄格子が開いたのだ。
その様子を黙って見守っていたセルマンは、その大男をちらと見やった。大男は、何事もなかったかのように灯りの光が届かない死角まですっと戻ると、直立不動の姿勢をとった。暗闇の中で、金色の瞳だけが爛々とした光を放っている。
セルマンはぶるっと一つ身震いをすると、素早くかごを担ぎなおして足早にその場を離れ、鉄格子の中に入っていった。
鉄格子をまたいでまず最初に感じたのは、臭気を伴うむわっとした湿った生暖かい空気だった。
鉄格子一つまたいだだけなのに、中は明らかに気温が高く、湿度も高かった。
不思議なことに、先程まで感じていた正体不明の吐き気は収まり、代わりに、汚物や体臭が混ざりあったような臭いがこの空間を占めていた。
懲罰部屋には、個室と大部屋の二種類がある。通常は個室が使われるが、暴動が発生した時など大人数を収監する必要がある場合のみ、大部屋が使われる。
セルマンの記憶では、部屋の中はトイレ代わりのおまるがあるだけで、他はベッドも含めてなにもない。寝る時は床に直接寝転がるしかなく、寒くなる冬の時だけ、おそらく洗濯など一度もしたことがない色あせてところどころ虫食いの跡がある擦りきれた薄手の毛布が、渡されるだけだった。
しかし、セルマンを始め、炭鉱夫がみな口をそろえて言うには、明りがない真っ暗闇の中をどれだけ時間がたったかも知らされず一人過ごすこと以上に辛いことはない、ということだった。
そう、懲罰部屋には明かりがないのだ。常に暗闇に包まれていて、看守がわりの兵士が見回りの時に使うのぞき窓と、食事の出し入れをするのに使う受け渡し口が開かれた時にのみ、真っ暗な部屋にわずかな光がもたらされるのだ。
「十六人だろ。大部屋か?」
エリオットがいなくなった今、セルマンは一人呟きながら奥に進んでいった。手前には個室が並んでおり、大部屋は、その先にある。
かつんかつんと靴音を響かせて進むにつれ、臭いも強さを増し、耐え難いほどになっていった。
「ぶ~ん」
ハエが、セルマンの耳元を飛び過ぎていく。
(こんな地下に、ハエ?)
そう思いながら進んでいくと、二匹、三匹と、ハエが増えていくのにセルマンは気づいた。
そして、ある二つの大部屋の前で立ち止まったのだ。
その扉には、何百匹ものハエが群がっていた。先程から漂う異臭は、この付近で一段と濃くなっている。
セルマンは、大部屋の前に立ち尽くした。
そして、ここに収監されている兵士たちを哀れに思った。
以前、セルマンたちが懲罰部屋に収監されていた時は、日に一回、汚物の回収が行われていた。しかし、この強烈な臭いや群がるハエを見る限り、汚物の回収が行われていないのは明らかだ。おそらく、懲罰部屋の中は目を背けたくなるような凄惨な光景が広がっているのだろう。
「おーい。この中にいるんだが、わかるか?」
ハエが群がっている大部屋から、先ほどと同じ人の声が聞こえてきた。
「大丈夫、わかる。十六人と聞いたが、二つの部屋に分かれているのか?」
セルマンは尋ねた。
「……いや、十五人だ」
「そうか。
食事はここに持ってきているが、食器が入ったかごを鉄格子の前に置きっぱなしにしてしまったから、今から取りに行ってくる。少し、待っていてくれ」
「わかった」
セルマンは担いでいたかごを下ろすと、先ほど鉄格子の前でエリオットがぶちまけたかごを取りに戻った。
鉄格子の前は、やはり懲罰部屋があるあたりとは比べ物にならないほど寒く、汚物等の臭いはそれほどではないにしても、吐き気がするような感覚に襲われるのは相変わらずだった。セルマンは、あの大男を見ないようにしながら散乱した食器をかごに戻すと、足早に懲罰部屋へと戻った。
懲罰部屋の前では、炒めたじゃがいもやパンの匂いを敏感に感じ取ったハエが、食事が入っているかごに群がっていた。
セルマンは抱えていたかごから食器を取り出すと、懲罰部屋の中にいる兵士に尋ねた。
「どっちの部屋が、一人、人数が少ないんだ?」
「向かって右側だ」
「分かった」
かごに群がるハエを手で払いながら鍋を取りだし、素早く料理を皿によそい始めた。
汚物や体臭に、炒めたじゃがいもの匂いが混じりあう。
もはや吐き気をもよおすようなひどい臭いがあたりに漂い始め、その臭いにつられたハエが、料理に群がろうとする。
セルマンは、腕を振って必死にハエを払い除けようとした。しかし、あまりの多さにきりがなかった。
ハエを追い払うより素早く料理を提供する方へ気持ちを切り替えると、額に汗がじわじわと浮き上がってくるのをよそに、せっせと料理を皿によそい始めた。
全てよそい終わると、それにスプーンと黒パンを添えて、群がるハエを何度も手で払い除けながら、懲罰部屋の受け渡し口から手渡した。
全員分を渡し終えると、かごの中から小さな樽を取りだし、人数分のコップに水を注ぎ、それも受け渡し口から手渡していった。
スプーンが皿にこすれる音や料理を咀嚼する音、のどをゴクゴク鳴らしながら水を飲む音……。
ハエがブンブンとうるさく飛び交う中、夢中で食事をかきこんでいる音があたりに響いている。
その間、セルマンは懲罰部屋と通路を隔てた向かいの壁に背を預け、じっと懲罰部屋を眺めながら座っていた。
相変わらずハエが飛び交い、強烈な臭いがあたりを覆っている。
しばらくの間、セルマンは両手にあごを乗せながら座っていたが、おもむろに口を開いた。
「排泄の清掃は、入っていないのか?」
それまであたりに響いていた食事をとる音が、ぴたりと止んだ。
「臭いも強烈だし、ハエの数も半端じゃなく多い。この一週間、清掃が入っていないんじゃないか?」
「……」
しばらくの間、誰も口を開かなかったが、先ほど、鉄格子の所で耳にしたのと同じ声が、懲罰部屋から聞こえてきた。
「そうだ。ここに入れられてから、一度も清掃が入っていない。
最初のうちは、食事が差し入れられる都度清掃をしてもらえないか頼んでいたが、結局のところ、一度も清掃に来てもらえていないんだ。
……それに、さっきは十五人と答えたが、ほんの少し前までは、十六人だったんだ」
「グスタフ!」
「おい!」
「いや、伝えるべきだ。ダヒのためにも」
その発言を耳にした瞬間、それがなにを意味するのか、すぐにぴんときた。
すっと、背筋が冷えるのを感じた。
「ここに監禁されてからというもの、一人、ずっと体調がすぐれないやつがいたんだ。あの日に負傷したんだが、ろくな治療も受けられずに放り込まれたからな……。
今まで、何度も、こいつだけは治療を受けさせてやってもらえないだろうか、と頼んだんだが、聞き入れてもらえなかった。
……俺たちにできることと言えば、励ましてやるくらいだった。
そして、今日の早朝だったと思うが……。時間がわからないからな。
冷たくなっていたんだ……」
話の結末は想像していた通りだったが、実際それを耳にすると、あまりのむごたらしさにセルマンは戦慄した。
今、この正面の部屋の中に、遺体が横たわっている。
懲罰部屋の中は暗いので、その光景は仲間にも見えないはずだ。しかし、このハエの数や湿度からして、遺体は悲惨な状態になっているに違いなかった。
「だから、清掃はもちろんのこと、ダヒも弔ってやりたいんだ」
声を荒げることもなく、また、涙ながらの訴えでもなかった。終始、静かで淡々とした語り口だった。
そのことが、逆にセルマンの琴線に触れた。
亡くなった仲間を弔いたい。
今まで、幾人もの炭鉱夫仲間を亡くした経験のあるセルマンには、その気持ちが痛いほどわかった。
セルマンは、彼ら兵士が全く人間扱いされていないことに強い憤りを覚えた。家畜でさえも、もっとまともな環境下にいるはずだ、と。
その、人を人と思わない扱いは、まるで今までセルマンたちが味わわされてきた扱いと同じ、いや、それ以上にひどいもので、これではまともな待遇を求めての正当な抗議ではなくただの報復でしかない、と感じたのだ。
セルマンの心の中は、先ほどまで抱いていた兵士たちに対する哀れみから、劣悪な状況下に平気で人を置いておけるやつらに対する怒りに、じわじわと取って代わっていった。
「わかった。戻ったら、すぐに対応しよう。
……そのダヒという人に、お悔やみを申し上げるよ」
沸き上がってくる怒りからか、のどがカラカラに渇き、かすれた声しか出てこなかった。
「ありがとう……。
……あと、もう一つ、聞いていいか?ずっと尋ねたいと思っていたことがあるんだ」
「ん?なんだ?」
一瞬、とまどったかのような間が訪れた。
「……単刀直入に聞こう。君たちは、いつからあんな化け物たちと結託するようになったんだ?」
「グスタフ!」
「やめとけ!」
「なんで、やめなきゃならないんだ。お前らだって言ってただろ?あの橋の出入りは厳重にやってたはずだって。なのに、どこからかあの化け物みたいなやつらが入り込んできてさ……」
「化け物?」
セルマンは、無意識に呟いていた。
「そうだ、化け物だ。あれを化け物と呼ばないんなら、なにを化け物と言うんだ?あんな人じゃないやつらと、いつ、どこで手を組んだんだ?」
なにがなんだか、わけがわからなかった。
(化け物?なにを言ってるんだ?)
返事がなかったからだろう。仲間からグスタフと呼ばれた兵士が、話を続けた。
「話せないというわけか。いや、それとも気づいていないだけなのか?
どちらにしろあんな化け物と手を組むなんて、お前たちも無事じゃすまないだろうな」
「化け物とはなんのことを言ってるんだ?話がよくわからないが……」
そう話すセルマンの心臓が、ドクドクと強く鼓動を打ち始めた。この先の話の展開が、わからないようでわかるような、そんな気がして落ち着かないのだ。
額ににじみ出た汗が、顔の横をつたって流れ落ちていく。
「知らないのか。まあ、一部の炭鉱夫しか知らないということもありうるだろうな」
そう言うと、グスタフは一呼吸置いて、話し始めた。
「あの日、俺は、橋の袂で歩哨として見張りについていたんだ。すると、空から龍の形をした炎が降ってきて、駐屯地一帯を焼き尽くした……」
炎の龍については、セルマンも仲間から聞いていた。突然空から舞い降りて、駐屯地をはい回るように焼き尽くしたという。それとほぼ同時刻に、炭鉱夫の中で抗議の声をあげるべく立ち上がった者たちがいて、それが勝利へと繋がったのだ。
兵士の話によると、燃え盛る炎を消そうと橋を渡ろうとしたが、対岸から吹き付ける熱風のあまりの熱さに、近寄ることができなかったとのこと。
そんな最中、炭鉱が騒がしくなっているのに気づいたんだそうだ。
「仲間たちが焼け死んでいくのを、どうすることもできずに、ただ指をくわえて見ていることしかできなかったんだが、そうこうしているうちに、後ろの方が騒がしくなってきてな。見ると、暴徒化した炭鉱夫たちが、それぞれつるはしやスコップを手に、仲間たちを次々に襲っている光景が目に飛び込んできたんだ。
……唖然としたよ。知っての通り、武器になりうる工具は、炭鉱から上がってきた時に回収して、炭鉱夫たちの手元に残させないようにしていたからな。それなのに、やつら、それぞれつるはしなんかを手にもって、俺たちの仲間の頭上に振り下ろしているんだ。それを見た途端、頭にカァーッと血が昇って、気づくと橋の袂の松明から火がついた木を一本奪って、大声をあげながら仲間の元へ駆けつけていたんだ。もう、無我夢中でさ。松明を振り回していたよ。
……でも、今考えると、あの炭鉱夫たちはどうも変だった。俺はそこまでこの炭鉱に長くいるわけじゃないが、それでも炭鉱夫の顔は、わりと覚えていたほうだよ。
でも、あんなやつらは見たことがなかった。どいつも二メートル近くある背丈で、腕なんか猪の胴回りくらいの太さがあるんだよ。そんなやつらが長い腕でつるはしを振り回していてさ。次々と仲間が倒されていったんだ……」
二メートル近くと聞いて、あの橋の袂や事務所の前、そして鉄格子の前に立っていた炭鉱夫たちの姿が、ぱっと頭に浮かぶ。
小さい頃からこの炭鉱で働いているので、炭鉱夫たちの顔はほぼ全員覚えており、しかもだれが坑内のどの区画を受け持っているかということさえも把握していた。しかし、この兵士が言うように、彼らのことは、セルマンでさえも知らなかった。
「そんな時、仲間の一人が隙を見て、やつらの一人に躍りかかったんだ。そして、手に持っていた剣を、腹にぐっと突き刺したんだ。
俺も含め、周囲にいた仲間たちはうわっと歓声をあげた。俺は嬉しくて、持っていた松明を高々と掲げたよ。
……普通、それで死んだと思うだろ?腹に剣が突き刺さっているんだぜ?
それが違ったんだ……。
刺さった瞬間、やつの動きは確かに止まった。でも、俺たちが喜んでいる最中に急に動きだして、その動きに気づいていない、まだ剣に手を添えたままだった仲間をがっと両手で掴んだんだ。そして、そいつを高々と、まるで赤子を持ち上げるように軽々と持ち上げると、次の瞬間、地面に叩きつけたんだ。そして、そいつの頭を……、頭蓋骨を……、足で踏み砕いたんだ……。
仲間が目の前で殺されて、しかも、あんな殺され方……。
俺はどうしていいかわからず、でも無我夢中で、手に持っていた松明を、やつめがけて投げつけたんだ。
すると、なぜか、やつが炎に包まれたんだ。ぼわっと炎が燃え上がってさ。一瞬の出来事だった。
やつは、炎に包まれて悶え苦しんでいた。炎を消そうとしているのか、しきりに腕を振り回していたが、そんなことで消えるわけもなく、ついにその場でうずくまって動かなくなってしまった。その間、俺たちは呆然とその様子を見つめていたんだ。
すると、やつがぱっと顔をあげたんだ。その顔が……」
そこで話し声が止まった。話に引き込まれていたセルマンは、ふっと顔をあげると、扉一つ隔てた、こちらからは見えない語り手に対して先を促した。
「その顔が……?」
「……その顔が。
……うーん、どう表現したらいいのか……。
とにかく、この世の者じゃない顔つきをしていたんだ。目がつりあがっていて、口も耳元まで裂けていた。歯も尖っていて……、あ!そうそう、狼みたいな口元だったかな。
そいつが、苦しそうに首もとを引っ掻くようにして天を仰ぎ見ると、なにか黒い影がその体からさあっと離れて空中に消えていったんだ。すると、体が燃え落ちて、後には炭のような真っ黒な色をした土のようなものが残されていたんだ。まだ熱かったんだろうな。その土みたいなものから、白い煙が何本か立ち上っていたよ。
周りでは、まだ戦いが続いていた。あいつが何者だったのか考える間もなく、俺たちは他の仲間を助けるべく、剣を抜いて加勢に向かったんだ。あ、あの松明は、やつと一緒に燃え落ちてしまったからな。
まあ、戦いの結果は、見ての通りなわけだが……。
でも、少なくとも俺が言いたいのは、炭鉱夫の中に、この世の者でない、なにか不気味な存在が混じっているということなんだ」
気が付くと、黒くて短い髪がぐっしょりするほどの汗をかいていた。心臓も早鐘を打ち、今にも口から飛び出しそうだった。
(やっぱり、あいつら人じゃない。俺の感覚は、間違っていなかったんだ。
……じゃあ、やつらはいったい何者なんだ?)
ハエのうなる音だけが、あたりに響いている。
また、兵士が口を開いた。
「……やっぱり、お前は知らないようだな。まあ、全員が知っていたとは思えないし……。
……それにしても、犯罪者の考えることは、俺にはわからないよ。あんな化け物と手を組むなんて。いや、そもそもあいつらは何者なんだろうな……」
最後の一言は、セルマンの耳には届いていなかった。
「犯罪者……?」
またしてもなにを言っているのかわからず、つい独り言のように聞き返した。
セルマンは気づいていなかったが、胸の奥底に、いつもの黒々としたものが渦を巻き始めた。
「ん?あぁ、だってそうだろ?炭鉱夫なんかみんな犯罪者じゃないか。だから、ここで重労働に従事しているんだろ?」
「グスタフ、それは……」
「だってそうだろ?全員罪を犯したやつらだって、みんな知ってる話じゃないか。それで、ここに連れられてきたんだろ?やっぱり普通じゃないんだよ」
ドン!という大きな音とともに、震動があたりに響く。セルマンが立ち上がり、壁を拳で叩いた音だった。
驚いたハエたちが、羽音を強くうならせながら、忙しなく飛び回り始める。
「だれが、犯罪者だと?ふざけたことを言いやがって……!
俺らは、奴隷商人に騙されて連れてこられたんだよ!てめえらの国の重罪人と一緒にするな!」
最初は怒りを押し殺したような声だったが、話しているうちに、腹の奥底で大人しくしていた積年の怒りが、蛇のようにむくっと頭をもたげ始め、最後は叫ぶように怒鳴っていた。
「奴隷商人?なに言ってるんだよ。この国では、人身売買を禁止してるんだぜ?」
「人身売買を禁止してるなんて、表面的な話に決まってるだろ!よく、そんな話を真に受けてるな。
ここで働かされている炭鉱夫に聞いてみろ!みんな、売られたり騙されたりして連れてこられたか、その子孫たちだ!」
今や、セルマンの顔は、怒りでどす黒くなっていた。壁を殴った拳にはうっすらと血がにじみ、壁に小さな黒いシミを作っている。
「……そんなはずは。俺が聞いていた話とは違う……」
「いや、グスタフ。それが事実だ」
もう一つの懲罰部屋から、別の人の声が聞こえてきた。
「俺もここに配属された時に、お前と同様炭鉱夫は重罪人だと聞かされたが、どうやら実態は違うらしい。
そもそもここで働いている炭鉱夫たちは、南方の顔立ちをしている人がほとんどだ。この国の人じゃない。そんな国の重罪人が、どうして我が国の炭鉱で働いているんだ?」
「……沿岸の街に船で乗り付けて略奪行為をしているやつらを、重罪人として働かせている、と聞いたけど」
「沿岸の街って、どの街だ?」
「ええと、それは……。よく知らねぇが……」
「王都があるソラス、国内最大の炭鉱を抱えるミァン、他にフォリーシュやギャータ。大きな街は全て、海岸から離れているところにあるのは分かるな?
それに、我が国の海岸は切り立った崖が多いから、船で乗り付けられるところは少なく、あまり街は発展していないんだよ。あっても、国ががっちり監視する中、輸出入を管理、運搬している人たちだけが住むような街しかないんだ。そんなところへ、略奪をするためにわざわざ南方から船でやってくるやつなんているか?」
「それは……」
「炭鉱の仕事は重労働だし、人手も多く必要とする。そのきつい仕事を希望する人はいないし、そもそもうちの国はあまり人口が多くない。だから、人が多くて流動的に生活の拠点をかえる南方の人たちを、半ばだますように連れてきて働かせている、というのが実態なんだそうだ」
「……」
返事はなかった。しかし、セルマンにはそんなやり取りは耳に入っていなかった。
(犯罪者……?この俺が……?
……くそみたいな環境で、泥水をすするような辛いことがあっても真面目に耐えてきた俺が、犯罪者だと?)
「……おい……、おい、聞いているかい?」
自分が話しかけられていると気づき、はっと我に返った。
「……なんだ?」
「すまなかったな。俺たち兵士は、最初に炭鉱夫は犯罪者だと教え込まれるんだ。
グスタフみたいに、若くて日の浅い連中だとその話をまともに信じるんだが、俺みたいに長年務めていると、そうではない本当の真実というものが見えてくるんだよ。
……ただ、グスタフが言うように、炭鉱夫の中にただならぬ者が混じっている、という話は真実だ。俺も、この目で見たからな。
それと、空から忽然と現れた炎の龍。あれは、魔法かなにかじゃないかと思っている。あんなのは自然現象とは思えないし、炭鉱夫たちが起こせるものでもないと思うからな。なにか、異質な力を感じさせるものだった」
暗い表情のままだったが、いつの間にか、セルマンはこの兵士の話に耳を傾けていた。
「その後、時を経ずして暴動が起きただろ。これらの手際のよさは、正直際立っていた。そういったことを考えると、この一連の出来事は、予め計画されていたものなんじゃないかと思うんだ。あの異質な奴らに……。
だが、目的がわからない……。国内最大の炭鉱であるミァン炭鉱を抑えようとしているのかもしれないが、それでも、体勢を立て直した我が国の軍隊が攻めこんでくるのは容易に想像できるわけだし、仮にそれを跳ね返せたとしても、産出した石炭の輸送ルートを彼らだけで確保するのは、不可能に近いんじゃないかと思うんだ」
じっと耳を傾けていたセルマンの心に、ざわざわとしたさざ波がたち始める。
もちろん、自分があの大柄の炭鉱夫から感じた異質なものを兵士も感じていたということについては、自分の感覚は間違っていなかったという、なにか心強さのようなものを感じたが、それ以上に、この劣悪な環境に監禁されている兵士たちが、自分も含めた炭鉱夫よりも現状を冷静に分析していることに、不安や焦りを覚えたのだ。
この一週間、大半の炭鉱夫が無為に日々をすごしてきたのを、セルマンは見てきたのだ。
「俺は、いったいどうすれば……」
「……ん?どうした?」
無意識に呟いた言葉が、兵士の耳にまで届いたようだ。
セルマンは、一瞬、戸惑った。
彼らは懲罰部屋に監禁されているとは言え、今まで散々自分たちを惨めな待遇で処してきた兵士たちだ。その人たちに話を聞いてもらうことに、抵抗を感じなかったわけではない。
しかし、決起当日、あの華奢な少年から感じたみぞおちがきゅっと縮こまるような不安な感覚。今日、ここに来るまでに見かけた大柄の炭鉱夫から感じる、背筋に冷たいものが走るような嫌な寒気と吐き気。そして、そんなことに気づきもせず、日々酒を飲みながらだらだらと過ごしている仲間たち。
それらが頭に思い浮かぶと、傾けた注ぎ口から水が流れ落ちるように、自然と口から言葉がこぼれ落ちたのだった。
「……俺は、いったいどうすればいいんだ?」
しっかりと前を見据えながら、さきほどよりもはっきりとした口調で、セルマンは言った。
少しの間をおいて、先ほどの兵士の声が聞こえてきた。
「……俺は、軍と炭鉱夫たちが手を組んで、暴動の首謀者たちに対抗すべきだと思っている。
それには、街に駐屯している軍の本部に連絡をとって、実情を説明しなければならない。
……そこで、君にお願いがあるんだが、ここにいる兵士を、一人だけで構わないんだが、ここから街に行く算段をつけてもらえないだろうか?そうすれば、暴動を起こしたのは炭鉱夫たちではなく、炭鉱夫に扮したこの世の者ではないやつだと話がつけられると思うんだ」
その話を聞いたセルマンの表情は曇った。素直に同意するわけにはいかないと感じたからだ。
「……お前らのだれか一人をここから逃がしたとして、今話した通りのことをそいつが正しく伝えてくれるという保証はどこにあるんだ?単純に炭鉱夫全てが悪いと伝えて、結局俺たち全員を掃討しにかかってくるかもしれないじゃないか」
「そうか、確かにそう思われてもしょうがないな……。
……あ、そうだ!それなら、君が一緒に街まで行くっていうのはどうだ?そうすれば、君の懸念も解決するだろ?」
思ってもみない提案だった。
(ここから出られるってことなのか?)
ずっと以前から、ここを出たいと思い続けていた。こどもの時は、よく橋の袂から対岸を眺め、外に広がる世界で自由に歩き回る自分を想像しながら、現実との乖離にがっくり肩を落とすことも少なくなかった。
それが、まさかこんな形で実現するかもしれないなんて。
胸が高鳴り始めた。
未知なる世界に踏み出せるかもしれないと思うと、急に目の前が開けたような、世界がたくさんの色彩に満ち溢れているかのような気持ちになった。
さきほどまで胸の内でとぐろを巻いていた怒りが、すっと小さくなったことにさえ、気が付かないほどだった。
「わかった。俺も一緒に行くよ」
「よし、決まりだな!
……で、ここから脱け出すなにかいい方法はないかな?」
「うーん……」
難しいことだった。鉄格子の外で番をしている炭鉱夫は、おそらくこの世の者ではないだろう。そこを突破する方法なんて、果たしてあるのだろうか。仮に突破できたとしても、外の世界との唯一の接点であるあの橋を渡る方法なんて、ないように思えた。
「あの橋以外に、街へ行ける道はないのか?」
セルマンは尋ねた。
「いや、ない。あの橋だけが、外部へと続く唯一の道だよ。
今、外はどんな状況だい?」
セルマンは、あの大柄な男たちが橋を見張っていて、炭鉱夫を通してくれないこと。決起の首謀者は、あの日以来この建物に閉じこもっていて、皆の前に現れることがないこと。そして、大多数の炭鉱夫が日々をのんびりと(さすがに無為にとは、言えなかった)過ごしていること、などを話した。
「うーん。橋を通してはもらえないのか……。石炭の運搬もないだろうし……。
あ!そういえば、食料はどうしてるんだい?毎週、街から納品してもらっているはずだけど」
「食料は、決起前に納入された分でやりくりしているんだ。以前は、毎週納入があったらしいんだけど、今は途絶えているらしい」
あのマスターの話を思い出しながら、セルマンは苦い顔を浮かべて答えた。
「うーん、困ったなぁ……。なにか他にいい方法はないものかなぁ……」
セルマンは、必死に知恵を振り絞って考えた。その時、ふと、走り去っていったエリオットの姿が頭の中に浮かんだ。
「食料を運んできた炭鉱夫と入れ替われば、ここから出られるかもしれないな……」
独り言のように呟いた言葉が、懲罰部屋にいる兵士にも届いた。
「ん?今なんて言ったんだい?」
「い、いや。何でもないよ」
口に出したことにさえ気づかなかったセルマンは、兵士の問いかけに慌てたように手を振ると、口をつぐんだ。
「出られるかも?って聞こえたんだが、こちらにも聞こえるように話してもらえないか?些細なことでも構わないんだ、大事なことだよ」
そう言われると、話さない理由が見当たらない。
幼稚な考えだ、と一笑に付される可能性を考えると気が引けたが、それでも、ぽつぽつと自分の考えを口にしていった。
「……今みたいに、食料や食器を懲罰部屋へ二人で届けに来た際に、どちらか一方とすりかわるっていうのはどうだろう。そうすれば、少なくともこの建物からは脱出することができると思うんだが……」
話し終えると、しんとした静寂が訪れた。
思い付きの考えに呆れているんじゃないか、という思いがむくむくと沸き上がり、セルマンはほほを赤く染め、恥ずかしそうに俯いた。しかし、その静寂を破ったのは、兵士の真剣な声だった。
「……三点、確認させてくれ。一点目は、その身代わりの役目を引き受けてくれるあてはあるのか?二点目は、この懲罰部屋の鍵を開けることができるのか?そして、最後の三点目だけど、橋の袂の見張りを引き付けることはできるのか?」
「見張りたちを引き付ける?」
セルマンは顔を上げた。
「そうだ。荷物の搬入があるのなら、それに紛れて街まで行くことも可能なんじゃないかと思ったけど、全くないとなると、見張りの目を盗んでということになるわけだ。しかし、それは不可能だと思う。
……でも、もし見張りがその場を離れなければならない事態が起きたとしたら?……その隙に、橋を渡れるかもしれない」
「でも、それは……」
セルマンの問いは、兵士の声で制された。
「君の言いたいことはわかるよ。それは、なにか危険なことなんじゃないかっていうことだよね。
うん、見張りを動かすには、なにか騒ぎを起こすしかないんじゃないかと思う。そして、それは危険を伴うものでもある。相手が相手だからね。
でも、街に行くには橋を渡る以外に方法はなく、且つ、そこで見張りの任についているやつらの目を欺くのが難しいとなると、他にいい方法なんてないんじゃないかと思うんだ」
セルマンは、少しの間うつむきながら考えた。
(見張りに持ち場を離れさせるほどの騒ぎというのは、相当なものだ。そんな大きな騒ぎを起こせるほどの人手を集めることなんて、果たしてできるんだろうか?)
そう思った瞬間、この一週間、炭鉱夫仲間が過ごしてきた生活の様子が頭の中に浮かんだ。どの炭鉱夫も先の事は考えず、毎日をただ自堕落に、酒を飲んだり賭事をしたりして、無為に過ごしているだけだった。
セルマンは、うつむきながら頭を左右に振った。
「騒ぎを起こすには人手が必要だ。でも、大きな騒ぎを起こせるほどのたくさんの人を集めるなんて、不可能だと思う。正直、炭鉱夫は今の辛い労働から解放された状況を喜んで受け入れている。だから、決起を起こしたやつらにたてつこうとするやつなんて、いないんだよ」
「……」
すぐには、返事はなかった。
セルマンの胸の高鳴りは、急速に消え失せていった。
どろっとした嫌な空気がこの場を覆い始めたその時、さきほどグスタフと呼ばれた兵士の朗々とした大きな声が、懲罰部屋から聞こえた。
「だから、無理って言いたいわけか。
結局、あんたも他の炭鉱夫となんら変わらないっていうことなんだな」
「なにを……」
「だって、そうだろ。今まさに街に駐屯している軍隊が、ここに攻めいる勢いで準備を進めているに違いないんだ。その前になにか手をうたなきゃ手遅れになるんだよ。なのに、あんたときたら、炭鉱夫は今の状況に満足している、とか言ってさ。自分でその状況を打破しようとは思わないのか?」
かっと頭に血が昇ったセルマンは、考える間もなく、怒鳴り返していた。
「勝手なことを言うな!軍隊が攻めこんでくるのに、とか言ってるが、お前らの仲間だろ!俺に、仲間の炭鉱夫たちをどうにかしろと言う前に、自分たちの仲間をなんとかしろよ!」
「それをなんとかするために、街に行こうとしているんじゃないか。それにはあんたたちの協力が必要なんだよ」
「協力?俺たちに騒ぎを起こさせて、やばいやつらと正面から対峙しろってことだろ!
……お前たちは、いつだってそうだ!危険なことは、他人にやらせようとする……!」
「ちょっと待ってくれ!」
さきほどグスタフを諌めた兵士の声が聞こえてきたが、激昂しているセルマンにはもはや耳障りでしかなかった。
「うるさい!黙ってろ!」
はぁはぁと肩で呼吸すると、ごくんと一つ、のどを鳴らしながらつばを飲み込んだ。
「……俺は、もう戻る。お前らの話に関心を持ったのが、間違いだったんだ。
……早く食器を出してくれ。片付けちまうから」
「話を聞いてくれないか?」
「何度も言わせんな!早くしろ!その食器を出さない限り、次の飯はないと思え!
……そのダヒってやつの埋葬は、戻ったら手配しておく」
「……」
誰も、なにも言わなかった。
少しすると、食器がぶつかり合う音がしだし、受け渡し口に返却され始めた。
食べかすがこびりついている皿に群がろうとするハエを手で払い除けながら、セルマンは無言で食器を回収し、小さいかごの中に乱暴に放り投げていく。
全員分を回収し終わると、食器が入っている小さなかごを大きなかごにしまった。そして、ふんっと大きく息を吐くと、立ち上がりながらそのかごを肩までぐっと担ぎ上げた。食器のぶつかり合う音が、あたりに響いた。
セルマンは、懲罰部屋には目もくれず、わざと大きな足音をたてて鉄格子へと歩きだした。その背中を突き刺すように、背後から言葉が投げ掛けられた。
「できる、できないじゃない。やるか、やらないか、なんだ」
一瞬足を止めたセルマンだったが、すぐにまたドスドスと歩き出して、その場から離れていった。
足音が遠くなると、今にも泣き出しそうな声が、いくつも懲罰部屋から上がった。
「グスタフ、なんであんなこと言っちまったんだよ……。せっかくの機会だったじゃないかよ……」
それに応えるかのように、グスタフを諌めたあの兵士の声が聞こえてきた。
「いや、たぶん、これでよかったんだ。彼は動いてくれる、きっと……」
セルマンは、頭をかっかさせながらドスドスと歩いていた。
鉄格子をくぐり、周りの気温がひゅんと下がったのにも気づかず、あの大柄な男がガラス玉のような見ているようでなにも見ていないような目をして突っ立っているのにも目もくれず、歩いていた。床に転がっていた灯りを憂さを晴らすかのように思い切り蹴飛ばすセルマンの顔は、怒りで真っ赤だった。
そのまま進むと、階段へと続く扉が開けっぱなしになっているのが見えた。エリオットが逃げる時に、開けっぱなしにしたんだろう。
セルマンは、この重たいかごを一人で背負わなくてはならない理由を思い出し、さらにむらむらとした怒りが沸き上がってくるのを感じた。そしてその扉をくぐると、後ろ手に力一杯閉めた。
びりっと空気が震えるような轟音をたてて、扉は閉まった。
その瞬間、あたりは濃い闇に包まれた。
(しまった!灯りがないと、なにも見えなかったんだ)
セルマンは、真っ暗闇の中後ろを振り返り、灯りを取りに戻るか一瞬迷った。しかし、不愉快な気分で歩いてきた今の道を戻る気にはなれなかった。
セルマンは、手を横に広げて壁の位置を探ると、上へと続いているはずの階段の一段目を爪先で探った。その爪先が、なにか硬いものに触れた。その上に確かに足を置くことができたのを感じたセルマンは、一段一段と、慎重に上へと登っていった。
こつこつという規則的な足音と、その足音に合わせるかのようにかちゃかちゃ鳴る食器の音。
真っ暗闇の中、それらの音を響かせながら、ふぅふぅと呼吸も荒くセルマンは階段を登っていた。目の前にかざした手さえも全く見えない漆黒の闇の中を、一段一段集中しながら足下を確かめて登っていると、自然と神経がぴんと研ぎ澄まされていくのを感じた。と同時に、頭に昇っていた血がすっと下がり、気が付くと、さきほどの兵士とのやり取りを冷静に振り返られるくらいまで、気持ちも落ち着いていた。
(あいつらは、この世の者じゃない)
そう感じた自分の感覚は間違っていないと、セルマンははっきりと確信した。
たとえ、こどもの時から恨みつらみを募らせる対象だった兵士であっても、自分と同じ考えを秘めていたことを知ると、心強く思う気持ちに気づかないふりをすることはできなかった。しかし、そんな気持ちに水を差すような問題が、セルマンの前に立ちはだかっているのもまた、事実だった。
今一度、あの兵士が言っていた言葉が脳裏によみがえる。
「橋の袂の見張りを引き付けることはできるのか?」
物の行き来がなされていない今、騒動を起こす以外で見張りを引き付けておく方法が、全く頭に浮かんでこない。そして、それにはたくさんの人手を必要とする。
正直、セルマンは、自分にその力がないことを認めざるを得なかった。誰かの助けが必要だ。
そう思ったセルマンの脳裏に浮かんだのは、二人の人物だった。しかし、一人については、すぐに頭の中から消した。
(今のチャンドラには頼めない)
一番の親友で、今までどんなことでも相談してきた相手だ。ただ、今日の夕方の様子を見る限り、この重大な相談をもちかける相手に相応しいとは思えなかった。
そうなると、残りは一人。自分にとって父親のような存在、プラトだ。
以前、決起隊に対して不気味な感じがすると打ち明けた時も、じっと耳を傾けてくれた。あの時は邪魔が入ったので、それ以上話を続けることはできなかったが。
「おやじを探そう」
セルマンの心は決まった。
気がつくと、いつの間にか周りの気温が上がっている。汗がしたたり始め、胸や背中にシャツがびっちりと貼り付いている。来た時は、下に降りていくにつれ寒くなっていったことを思い出すと、出口はもうすぐだ。
その通り、少し上がると、木製の扉があるのが手探りでわかった。
セルマンは取っ手を探って掴むと、かごを肩と顔の間に乗せ替えて、ぐっと力を入れて引いた。
「ギィー!」
来た時と同じような大きな音をたてて、扉は開いた。
そこには、相変わらずしんとした空気の中、わずかばかりの灯りに照らされた大広間が広がっていた。今までなに一つ見えない暗闇の中を進んできたので、うっすらとした明るさを目にするだけで、なにか生き返ったような心持ちになった。
(おやじを探さなきゃだな)
そう心の中でつぶやくと、セルマンは外へと続く扉へ一直線に向かった。そして、扉に手をかけると、手前にぐっと引いた。
さきほどの扉を開けるのと同じくらいの力で引いたので、扉は勢いよく開いた。
大きく開いた扉を通り過ぎ、外に出ると、懲罰部屋へと続く階段や廊下で感じた、足下から立ち上るような冷気とは全く異なる心地よい風が、全身をふわっとなでていった。
セルマンは、扉の両脇に立っている見張りのねばっこい視線を無視して、すでにどっぷりと日が沈み、夜のとばりが降りている闇の中へと飛び込んでいった。
「おーい、随分前に、ちっちゃながきが、真っ青な顔して飛び出していったぞー。なにか怖いものでも見たかのようだったが、なにかあったのか?それとも、びびってちびっちまったのか?ははは!」
体が細くて、青い目をした見張りだろう。からかう声が後ろから飛んできた。
しかし、セルマンは相手にすることなく、歩調を緩めずにずんずん歩いていった。
(おやじは、どこにいるんだろう)
足早に歩きながら、セルマンはプラトを探した。
そんな時、母がよく口にしていた言葉が、ふと頭に浮かんだ。
「会いたい人がいるのなら、心の中でその人を強く思い描きながら名前を口にしてごらんなさい。そうすれば、ひょんな時に会えるものなのよ」
口癖のように、よくその言葉を口にしていた母。
母は、漁をするため海を渡り歩いている民の出身だった。魚を追いかけて、日々海上を移動する毎日。そんな生活を送っていたので、あちこちで様々な人と出会い、そして別れを繰り返していたんだそうだ。
そんな生活を送っていた母たちの間には、だれかに会いたいと思った時には、心の中でその人を強く思いながら名前を口にする、という習慣があったと言っていた。
「不思議なことに、そうすると、魚を追いかけている最中にばったり出くわしたり、船の修理にその人がいる島に立ち寄ったりするものなのよ。もちろん、毎回会えるというわけじゃないんだけど」
その言葉を思い出したセルマンは、久しぶりに母に会いたいという気持ちが湧き水のように沸き上がってくるのを感じた。懐かしさに、胸がきゅっと痛んだ。
ふと、空を見上げると、夜空には満月が煌々と輝き、無数の星ぼしが宝石を散りばめたように煌めいていた。久しぶりに見上げた夜空だった。
母と過ごしていた時は、よく空を見上げていたが、ここに連れてこられてからというもの、下ばかり向いて上を見上げることがほとんどなくなっていたのを、今更ながら思い出したのだ。
セルマンは立ち止まって、その満月を見上げながら、母とプラトのことを強く思った。
「母さん。おやじ……」
月は、変わらず漆黒の空に白銀の光を放ち、星は瞬いていた。
セルマンは、しばし空を見上げたままでいた。そして前を向くと、炭鉱夫たちがいる住居へと歩きだした。
(おやじは、どこにいるんだろう)
居住区に向かいながら、思いつく限りのプラトの居場所を考えている。
プラトは、特定の人とつるむということはしない。だからといって、一匹狼というわけでもなかった。毎回違う人と、いろいろな所で飲んでいるのだ。
「おやじ、おやじ……」
さっと吹き抜けていく風を背中に感じながら、母の言葉通り、会いたい人の名前を口にして、夜の闇の中を、遠くに見える居住区内のいくつもの眩い灯りを目指して、進んでいった。
灯りが大きく、そして近くなるにつれ、嬌声がちらほらと聞こえるようになってきた。これから夜が更けていくと、飲み屋はさらに賑わいをみせてくるだろう。
なにも知らずに浮かれ騒いでいる連中に苛立ちを募らせながら、プラトに早く会いたい気持ちから、セルマンは自然と早足になっていった。
店が軒を連ねる区画へとさしかかった。
セルマンは、プラトの姿が見つかりはしないかと、通りの両側にまばらに点在している店を見回しながら歩いていると、右側から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「おーい、セルマン。そんな大きなかごを一人で担いで、大丈夫かー?」
声がした方を向くと、そこには、店の外の階段に腰掛けながらパイプをゆっくりと吹かしている、小柄な人の姿があった。
彼こそがセルマンが探している人物、プラトだった。
セルマンの顔に、ぱっと明るい笑顔が浮かんだ。
そして、重たいかごを担いでいるようには思えない速さで、プラトの所へ走り寄った。
「おやじ!こんなところにいたのか!探してたんだぞ」
プラトは、からだのすみずみまで煙草の煙を染み渡らせるかのようにゆっくりとパイプを吸うと、ふぅと煙を長く吐き出した。そして、セルマンの顔を見上げると、にかっと笑った。
「おぉ、知ってるぞ。俺に用があるみたいだな。なんなのか、話してみな?」
今日のプラトには、連れがいないようだった。
しかし、あたりには、しこたま酒を飲もうと店に出入りする人たちや、呂律の回らない声で上機嫌でくっちゃべっている人たちで、人の行き来が途切れることはなかった。自分たちに注意を向けてそうな人はいそうにないが、これから話す話をプラト以外に聞かれたくはなかったので、セルマンは一瞬ためらうように辺りを見回した。
その視線にすぐさま気づいたプラトは、パイプを手にむっくり立ち上がると、階段を降りて、セルマンの背中にぽんと優しく手をやった。そして、人通りが多く、いくつもの灯りが照らす明るい通りとは逆の、暗闇が広がる店の裏側をあごで指し示した。
「ちょっと、酔いでもさまそうか」
今まで一緒に飲んでいました、と言わんばかりにそう言うと、セルマンの背中をぽんぽんと軽く叩き、店の裏側へとすっと歩いていった。
セルマンもあたりを見回して、誰も自分たちに注意を向けていないことを確認すると、店の裏側へと足を進めた。
二人の姿は、暗闇に溶け込んでいった。
空気が悪いからか、あるいは土が汚染されているからなのか、このあたりは草木があまり生えない。
灯りも届かない真っ暗闇の中、でこぼこしている剥き出しの地面に足をとられないよう気を付けながら、店の裏側へと二人は歩いていった。
「この辺でいいか。
……ちょっと匂うな。まあ、いいか。よっこらしょ」
プラトはそう言うと、地面に座りこんだ。
そこは、炭鉱を取り囲むように造られた濠の縁だった。今までであれば、煌々とした明りが灯る軍の駐屯地が対岸一帯から威圧するかのような姿を見せつけていたが、今はただの暗闇が広がるだけで、なにも見えない。
「探してたって言ってただろ?なにがあったのか、話してみ?」
しかし、その暗闇にちらほらと見え隠れするいくつもの明かりにセルマンは気がついた。
「あれはなんだ?」
セルマンは対岸に見える灯りに目を凝らしながら、隣にいるプラトに尋ねた。
「あぁ、あれは軍のやつらよ。ああやって、こっちの状況を見張ったりしてるみたいだぞ。何日も前から、昼夜問わずこっちを見張ってるみたいだ。ご苦労なこったよ、まったく」
その話を聞いて、セルマンは唖然とした。あの決起から、一週間。考えてみれば、すでに軍隊が動き出していてもおかしくはなかったが、そのことに、今の今まで全く気づかなかったのだ。
自分のあまりの鈍感さに情けなくなり、自己嫌悪から、手に顔をうずめるようにうつむいた。
暗闇の中でもその様子を敏感に感じ取ったプラトは、満月が放つ白くて淡いかすかな明かりしかない闇夜の中でも、違わずセルマンの肩に手をやった。
「……。どうした、セルマン?」
セルマンはうつむいたままだったが、しばらくすると、ぼそぼそと小さな声で、さきほどの兵士とのやりとりを話し始めた。プラトは、その間、口を挟まずにじっと最後まで耳を傾けていた。
「……というわけで、なんとか橋にいる見張りたちを引き付けたいんだけど、なにかいい方法はないかな」
セルマンが話し終えても、プラトはしばらくの間、口を開かなかった。無精ひげをなでているのか、ジョリジョリという音が聞こえてくる。
「機が熟したのかねぇ……」
感慨深そうなプラトの声が、小さく聞こえた。しかし、すぐにいつものプラトの声に戻った。
「あの見張りたちは、ちょっとやそっとのことじゃ動かねぇ。確かに、なにか騒ぎでも起こすしかねえだろうな。
……なあに、大丈夫よ。やつらに不満を持ってるやつは、案外いるもんだよ」
「騒ぎって?」
「そうさな、炭鉱夫の中には、ここから出れねぇことを不満に思ってるやつが多い。それに、ここ一週間、物資の運搬がねぇから、店の食事事情も悪くなってきてる。そのあたりを焚き付けば、事務所に籠ってなんの音沙汰もねえやつらに、それなりの人数が押しかけに動くんじゃねぇかと思うぞ」
「その隙に、橋を渡るのか……。
おやじ、見張りたちは橋から離れると思うか?」
不安を覗かせた声でセルマンは尋ねた。あの異様な見張りたちが任務から離れる姿を、どうしても想像することが出来ないのだ。
「さあ、どうかな。やってみんと、わからんだろうな」
さぁっと対岸から風が吹く。
少し冷たい夜の風で、セルマンは思わず首をすくめた。その風に重なるかのように、プラトの声が聞こえた。
「……それとも、確信が持てなきゃ、やんねぇってことかい?」
心臓が、どきっと鳴った。心の奥底を、見透かれているようだった。
「いや、そんなことは……。
ただちょっと、不安になっただけだよ……」
最後は消え入りそうな声で、ぼそぼそ呟いた。
そんなセルマンを、プラトはじっと見つめていた。明かりもない暗闇の中だったが、あたかも見えているかのように。
「頭の中で考えるってぇのは大切だ。
でもよ、それを行動に移さなけれゃ、考えなかったもおんなじなんだよ。うまくいくかどうか。それはやってみねぇことにはわからねぇんだ、そうじゃないか?」
プラトの言う通りであることは、充分わかっていた。
「傍観者でいるな、セルマン。腹を決めろ」
その言葉がずしんと響いた。
体の中心を、何かが貫いたかのような感覚に襲われた。
ぶるっと体が震えたが、それは寒気からくるものではなかった。
セルマンは自然と深く息を吸い、ふーっと長く吐き出した。
「おやじ、俺はやるよ。協力してくれるか?」
「もちろんだ!」
暗闇で見えなかったが、セルマンの方を見つめるプラトの瞳には、深い愛情が湛えられていた。
その後、二人は計画を練った。そして、決行は、三日後に決まった。
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