第4話 ソフィア、己の無神経さを知る
~ソフィア 7月16日~
「……ドン……」
遠くで大きな音がするのを夢うつつで聞いていたソフィアは、「うーん……」と、寝ぼけながら寝返りをうった。
窓の外からはざぁっという音が聞こえてきて、ときおり、ひんやりした風が、布団からはみだしている足の裏をくすぐるようになでていく。
(今日も雨かぁ……) と、ぼんやりした頭で思ったその瞬間、
「いけない!」
と、叫んで飛び起きた。
同時に、また「ドン」という音が聞こえてきた。階下からだ。
ソフィアはベッドから飛び起きて、寝間着のまま靴をつっかけると、部屋を飛び出し、階段を駈け降りていった。
下の居間では、調合し終わった薬を、従業員総出で箱に封詰めしている作業中だった。さきほど上まで聞こえてきた「ドン」という音は、封詰めした箱を、壁の前に積み重ねる時の音だったのだ。
(寝坊した……)
と、居間の扉のあたりにポカンとした顔で立ち尽くすソフィアに気づいたイーディスの母親は、疲れた顔に笑顔を浮かべながら、声をかけた。
「おはよう、ソフィア。夕べは、よく眠れたかしら」
「おはようございます。ごめんなさい!ずっと寝ていて……」
ソフィアは慌ててそう言うと、深く頭を下げた。
「いいのよ、疲れてるんだし。今、納入する薬の梱包中でね。すぐに、朝食にするわね」
そう言いながら台所に向かうイーディスの母親の背中に、
「あ、あの!お構い無く!」
と声をかけると、ソフィアは、梱包作業をしている人たちの方に視線を向けた。
なんの薬かはよくわからないが、塗り薬らしきものや、瓶に入った液体の薬もあり、それらが従業員によって次々と包装され、緩衝材と一緒に箱に封詰めされていく。
作業をしている人の中にイーディスがいるのに気づくと、ソフィアは他の人の邪魔にならないようにしながら、イーディスにそっと近づいていった。
「おはよう、イーディス。寝坊しちゃってごめんね」
「あ、ソフィア、おはよう。今日も雨よ。うんざりしちゃう」
箱に詰められた薬の種類と個数を紙に記載していたイーディスは、ソフィアの声に気づいて、顔をあげた。
「ねぇ、私になにか手伝えることない?」
家族や従業員総出で忙しく働いている中、のんびり寝過ごす自分が本当に恥ずかしく思えて、顔から火がでそうだった。
ソフィアの実家では家族みんなが力を合わせて、それぞれが畑を耕したり、牧畜を行っている。忙しい時は朝早くから夜遅くまで働き詰めで、その大変さは身をもって経験していたはずなのに。
「そうねぇ……」
そう言いながら、イーディスは、ソフィアを上から下までじろじろ眺めると、
「まあ、まずは服に着替えて顔を洗うことかな。そうそう、その寝癖もなんとかしなさいな」
と言って、居間の壁にかけられている鏡を指差しながら、いたずらそうににやっと笑った。
ソフィアは慌てて頭に手をやって、イーディスが指差した鏡の前に走り寄り、鏡を覗きこんだ。そこには、大胆な寝癖が頭にぴょこんとついた、寝間着姿のだらしない少女の姿が写っている。
「ちょっと、着替えてくる!」
そう言って、これ以上ないくらいの真っ赤な顔で走り去って行くソフィアの後ろ姿を、イーディスを始め、近くにいた従業員もくすくす笑った。
身仕度を終えたソフィアは、イーディスたちと一緒に、薬の梱包作業をしていた。
そこに、朝食ができあがったと、イーディスの母親が伝えにきた。
梱包作業はまだ終わっていなかったが、このあと、ソフィアとイーディス、それに男性の従業員二人、計四人で、軍隊の詰め所に薬を届けに行くことになっていたため、ソフィアとイーディスは、先に食事をとることになった。
「お腹空いたね」
「うん」
台所に向かう廊下で一緒に連れ添って歩くイーディスに話しかけられ、相づちをうつソフィアのお腹は、さきほどからグーグー鳴りっぱなしだった。梱包作業をしている居間においしそうなシチューの香りが流れ込んでくると、もうどうしようもできなかったのだ。
台所に入ると、すでにシチューはお皿によそわれ、テーブルの上に置かれていた。シ
チューからは熱々な湯気が昇り、おいしそうな匂いが台所を満たしている。
「じゃあ、私は梱包作業を手伝ってくるわ。ささっと食べちゃってね。八時までに薬を届けてもらわないとならないから」
イーディスの母親は、焼きたてのパンがどっさり入ったかごをテーブルの上に置くと、ソフィアににこっと笑顔を向けた。
なんとなく、ソフィアもにこっと笑顔を返して席についたが、すぐにイーディスの母親に声をかけられ、顔をあげた。
「ソフィア」
見ると、さきほどまで浮かんでいた笑みは消え去り、心配そうな表情にとって代わっていた。
「食事が終わったら、話があるの。そんなに時間はとらないから……。
居間まで来てくれるかしら?」
「……はい」
「終わったらでいいからね」
そう言い残すと、イーディスの母親はさっと台所を後にして、立ち去っていった。
なんの話だろうと思いながら横にいるイーディスの顔をちらと覗き見ると、一瞬目があったが、すぐに視線をそらしたのに気づいた。
(なにか知ってる……)
それでも、なにか聞いてはいけないような気がして、出発の時間を気にしながら、熱々のシチューを黙々と口にかきこんだ。
「ごちそうさまでした」
ソフィアはそう言って立ち上がり、食器を洗おうと流しに向かった。
「ソフィア、私がやるからいいよ」
後ろを振り返ると、最後までただ一人残って食べているイーディスが、こちらを見ていた。
「ソフィアは、先にお母さんの所に行って」
そう言うイーディスの顔には、心配そうな、でもどこか励ましてくれようとしている表情が浮かんでいる。
「イーディスは、お母さんの話の内容知ってるの?」
ソフィアがふと尋ねると、イーディスの顔が強ばった。
少しの間、沈黙が流れた。屋根から、ときおりぽつぽつと落ちる雨音が、台所の中まで聞こえてくる。
「……うん、知ってる。昨日、お母さんと少し話したの」
イーディスが強ばった顔のままで口を開いた。
しかし、ソフィアの不安そうな表情を目にすると、慌てて先を続けた。
「と言っても、お兄さんの消息がわかったとかじゃないんだよ?なんというか……、これから詰め所に行く前に心づもりができているのか、とか……。そういったことかな」
暴動が起きてから、自分なりに兄グスタフの消息を知ろうと努力してきた。フランシスを振り切りイーディスの家に駆け込んだのも、そのためだった。
心づもりはできている。……そう思っていた。
ますます不安そうなソフィアを心配したイーディスは、自分も母親との話に同席すると言ってくれたが、それも気が引けたので、居間で作業中のイーディスの母親のところへ、一人向かった。
母親は、すぐに手を止めると、ソフィアを連れて廊下をでて、調合室に入っていった。
すでに調合し終わった薬は全て運び出され、調合台の上はきれいに片付けられていた。部屋には誰もいなくがらんとしていたが、あの独特な匂いはまだ部屋の中にたちこめており、ソフィアは思わず鼻をしかめた。
その様子を見たイーディスの母親はくすっと笑いながらも、椅子を二つ持ってきて向かい合わせに置くと、ソフィアに座るよう促し、自分ももう一つの椅子に腰かけた。
「話があるなんて、びっくりしたでしょ?ごめんなさいね、いきなり呼び出したりして」
ソフィアは緊張で身を小さくし少し顔を赤らめながらも、うつむき加減で首を横に振った。
その様子に、イーディスの母親は、優しそうな、でも、どこか悲しそうな笑みを浮かべた。
「昨日の夜、主人とも話したのだけれど、詰め所に行く前に、あなたに伝えておいたほうがいいと思って」
ソフィアは顔をあげて、イーディスの母親を見つめた。
「お兄さん、グスタフさんって言ったわね。そのお兄さんの消息について、これから詰め所に行って聞く予定だと思うけど……。消息がわかるかわからないかは、まだなんとも言えないのだけれど、ただ、もしかしたら、もしかしたらよ?……最悪な結果を聞く可能性があるわけで、その覚悟が、ソフィア、あなたにできているのか心配しているの」
そうゆっくりと話すイーディスの母親の表情は暗く、寝不足で目の下にできている隈が、それを助長していた。
「……できています……と、思います……」
さきほどのイーディスとのやりとりで話の内容がなんとなくわかっていたソフィアは、小さな声でそう答えると、俯いた。
そんなソフィアをイーディスの母親は少しの間見つめると、膝の上で固く握りしめられているソフィアの両手に軽く手を添えて、小さなささやくような声で、耳元に話しかけた。
「そうならないように、祈ってはいるのだけれど、最悪な結果、つまり……。
お兄さんが亡くなっている、という知らせを聞く覚悟は、あるのね?」
亡くなっている、という言葉を聞いた瞬間、ソフィアの体がびくんと震えた。
すぐさま、ソフィアの手を握るイーディスの母親の手に、ぎゅっと力がこめられた。
「本当に、ごめんなさい。こんなことを聞いたりして……。
でも、きれいごとでは済まないから……。もしかしたら、これから詰め所でそう聞かされる可能性もゼロじゃないと思うと、あなたが心配で……」
ソフィアは、頭を殴られたかのような衝撃を感じていた。
今まで、グスタフについて、なんとなく生きているという前提で消息を尋ね回っていたが、すでに亡くなっている可能性もあるということを、初めて正面から突きつけられたからだ。
悲しみと恐怖で泣き出したい気持ちにかられたが、イーディスの母親の手のぬくもりが、少しずつ、不安な気持ちを落ち着かせてくれた。
「おばさん、大丈夫です……。不安がないと言ったら、嘘になるけど……。
でも、私、ここまで来たなら、ちゃんと知りたいです、本当のことを。そして、お父さんやお母さん、家族のみんなに、知らせなくっちゃ……」
ぼそぼそと話すソフィアを慈愛に満ちた瞳でじっと見つめていたイーディスの母親は、話を聞き終わると、ソフィアの手を握りしめていた力をそっと緩めた。
「わかったわ、ソフィア。強い子ね……」
そう言うと、イーディスの母親は優しく微笑んだ。
しかし、その瞳には、隠しきれない悲しみが滲み出ていた。
一緒に行こうか?と心配するイーディスの母親を後に残して、ソフィアとイーディスたちは、詰め所に薬を納入しに出発した。
さきほどより雨足が弱まってきたが、空には鈍い灰色の雲が垂れ込め、昨日からの雨で、ひんやりと肌寒い。
ソフィアは昨日のうちにしっかり乾いた外套を着てフードを頭からすっぽりかぶり、薬が乗せられている荷車を、後ろから押しながら歩いていた。
イーディスも同じく荷車を押しながら歩いているが、お互い会話を交わすことなく、無言で歩き続けた。
詰め所までの通りは、天気が悪いのもあって、人がまばらで閑散としていた。開いてるお店もわずかにしかなく、たまたま開いていたパン屋から漂う焼きたての芳ばしい香りが、鼻孔をくすぐる。
その匂いをかぎながらも、ソフィアはグスタフの消息を知る時間が刻一刻と迫っていることを思い、緊張で喉の乾きを覚え、胸がドキドキしてくるのを感じた。不安な気持ちをなんとか押し殺そうと、知らず知らずのうちに、荷車を押す手にぎゅっと力が入るのだった。
詰詰め所までは、十分足らずの道のりだった。
荷車は、昨日、フランシスと行った広場に面した正面口ではなく、詰め所の周囲をぐるりと囲む壁沿いにある、正面口から比べると若干見劣りする門の前で止まった。
従業員の一人が、門の前で微動だにせず起立している兵士に声をかけた。
「ダウニー薬局より、ご注文の品をお届けに上がりました」
背筋をぴんと真っ直ぐに伸ばし不動のまま起立していた兵士は、目だけぎろっと動かし、口を開いた従業員を始め、ソフィアたちをじろっと見回した。
「荷物を確かめさせてもらう」
そう言うと、荷車の上に固定されている防水布をかぶせられた箱を一つ開けて、中を覗きこんだ。
少しの間、中身を確かめるように手にとっていたが、確認できたのか、箱を閉じ防水布を被せ直すと、その場で回転するように後ろへ向き直り、きびきびと門まで歩いていき、二回戸を叩いた。中から覗き窓がさっと開けられると、「ダウニー薬局だ。開けてくれ」と伝えているのが聞こえてきた。
少ししてから門が開けられ、ソフィアたちは荷車を押して中に入った。
いつも、グスタフと会う時は街のカフェだったので、ソフィアは詰め所の中に入るのは初めてだ。
そこには、倉庫と思われるレンガ造りの平屋の建物が三棟並んでいた。
右側に目をやると、遠くの方に正面口が見え、その前にはどうやら広い敷地が広がっているようだが、平屋の建物が邪魔ではっきりとはわからない。
「ソフィア、行くよ」
イーディスに話しかけられたソフィアは荷車が先へと進んでいることに気づき、その後ろを慌てて追いかけていった。
荷車は、三棟のうち一番右側の建物の前で止まった。
「ここに納入するんだよ」
イーディスが教えてくれている間、従業員の一人が倉庫の前に立っている兵士に話しかけた。どうやら顔馴染みのようで、兵士はにこっと笑顔を見せると、すぐに扉を開けてくれた。
早速、従業員を始め、ソフィアたちも雨に濡れないように気を配りながら、薬が入っている箱を次々と中に運びいれた。
「これが納品書です」
「よし、確認させてもらう」
さきほどの兵士は納品書を受け取ると、倉庫内に置いていた書類と納入された薬とを従業員と一緒に突き合わせ始めた。
その間、ソフィアは倉庫の中をぐるっと見回した。
中は縦長で、天井が高い造りとなっていた。その割りに広く感じないのは、所狭しと並べられた棚のせいだろう。人が二人やっとすれ違えるくらいの幅に背の高い棚が詰め込まれ、いくつもの薬が入った箱が上の方までぎっしりと置かれている。
あたりには、消毒液やら煎じた薬やら、なんともいえない匂いがたちこめており、ソフィアは思わず顔をしかめた。
「これ、全部薬なの?」
小声でイーディスに尋ねると、イーディスは顔を近づけ、ソフィアの耳元で囁いた。
「薬だけじゃなくて、治療に必要なもの、例えばガーゼや包帯なんかも、ここに置いているはずだよ」
そうなんだと思いながら、ふと、昨日見かけた医療従事者の姿を思い出した。
腕に水滴波紋が描かれた腕章をつけ、群衆のすがるような目を一身に受けながら歩く姿。
(あの人も、ここにいるのかな)
と、ぼんやり思っていると、どうやら確認は終わったようで、兵士がなにかの書類にささっと書き込むと、その書類を従業員に渡して、また、倉庫の外に戻っていった。
「さあ、これから納品した薬を棚にしまっていくよ」
外套を脱ぎながら、イーディスは言った。
「ド……ド……。あ、あった、ここだ」
そう言って、ソフィアは持っている薬を棚に置いた。
棚には、五十音順に文字が振られている。
イーディスに、手にしている薬名の頭文字を探して該当する棚にしまうよう言われたソフィアは、薬と灯りを持ち、棚から棚へとうろうろ歩き回っていた。
イーディスを含め、他の従業員たちは棚の場所を覚えているのだろう。すいすいと棚にしまっている。
「今度は……。モルフィン、かぁ」
箱から取り出した薬の名前を見て、ソフィアは一人呟いた。
(モの棚は、左にあったなぁ)
と思いながら、目の前に並んでいる棚を見上げた。そして、薬を手にのっそり立ち上がり、足元に置いてあった灯りをひったくるようにして持ち、左奥の棚を目指して進んでいった。
倉庫内には明かり取りの窓がいくつも並んでいるが、今日は天気がよくないので、光が弱く薄暗い。そして、相変わらずなんともいえない匂いが充満していた。しかし、黙々と作業に取りかかっていると、さほど気にならなくなっていった。
モの棚を見つけたソフィアは、モルフィンがしまってある場所を灯りをかざして目を凝らしながら探している、その時だった。
急に「バーン!」という大きな音が、倉庫中に響き渡ったのだ。
突然の大きな音に危うく薬を落としそうになったソフィアだったが、なんとかお腹に抱え込むように受けとめると、音がした倉庫の奥の方に灯りを向けた。
すると、だれかが小走りで走る足音が聞こえてきたのだ。
さらに目を凝らして奥の方を見つめると、棚の影から人影が見えて、しかもゆっくりこちらに近づいてくるのが見えた。
ソフィアはなんとなく息を潜めてその姿を見つめていた、と、その時、雲が晴れたのか、急に窓から光が差し込み、その人影を陽の下に照らした。
それは、衛生兵だった。
ソフィアより三、四才くらい年上だろうか。亜麻色の巻き髪に薄茶の瞳が眼鏡の奥に光る、どこか気の優しそうな青年が、額に汗をかきながら棚から棚へときょろきょろ視線をさ迷わせて、なにかを探していた。
じっと見つめるソフィアの視線に気が付いたのか、あるいは、ソフィアが手にしている灯りに気が付いたのか、その衛生兵はソフィアに視線を向けた。
「うわっ!びっくりした。人がいるなんて、思わなかったから」
「ご、ごめんなさい!私……」
なぜか慌ててしまったソフィアは、屈んでいた体勢から飛び起きた。
そのソフィアの様子を見ていた衛生兵は、ソフィアが軍服を着てないことに気付くと、瞬時に険しい表情を顔に浮かべた。
「君は誰だ?どこから入ってきた?」
慌てていた上に詰問口調で問い詰められたソフィアは、余計にどぎまぎしてしまい、言葉が口からでてこなかった。
そこに、異変に気づいたイーディスが駆けつけて来てくれた。
「どうしたんですか?」
ソフィアと衛生兵を驚いたような表情でそれぞれ交互に見ながら、イーディスが尋ねた。
「民間人の女の子がここにいるんだ。で、君は?」
衛生兵が尋ねると、
「私はダウニー薬局の者です。薬を納入し、今、棚にしまっているところです。彼女も私たちの薬局の者で、一緒に薬を棚にしまっているところです」
と、落ち着き払って答えてくれた。
衛生兵は納得したのか、険しい表情を緩ませると、ほっとした表情を浮かべた。
「なんだ、そういうことか。びっくりしたよ」
そう言うと、ソフィアの方を向いて、
「さっきはごめんね。きつい口調で問い詰めちゃって」
と、頬を少し赤らめて、申し訳なさそうに首をすくめた。
「いいえ、大丈夫です」
ソフィアは小声で答えた。
そして、ふと、この衛生兵がなにかを探しながら歩いている姿を思い出した。
「あ、あの。何か、お探しだったんですか?」
それを聞くとはっとした表情を浮かべた衛生兵は、早口で話し始めた。
「そうだった!アルバート先生に頼まれたんだった!
君、包帯ってどの棚に置いてあるんだっけ?至急持ってくるよう言われたんだけど、ここに配属されてからまだ日が浅くて、どの棚にどの薬が置いてあるか、まだよく覚えてないんだよ」
それを聞いたイーディスが答えた。
「包帯は二つ隣の棚にあります。よければ、私が持っていきましょうか?」
「ほんと!助かるよ、ありがとう!四号の包帯を持てる限り持ってきてくれるかな?
僕は、リチャード。じゃあ、先に病棟に戻ってるから。あ、仮設の方ね」
そう言うと、リチャードはくるりと背を向けて、来た方向にたったと小走りで走り去っていった。
走り去っていくリチャードの姿が見えなくなると、イーディスはソフィアに向き直った。その顔がうっすらと青ざめているのに、ソフィアは気づいた。
「じゃあ、私、包帯探して持ってくね」
そう言って、ソフィアに背を向けその場を立ち去ろうとするイーディスに、反射的に叫んだ。
「待って!」
びっくりした顔で振り向いたイーディスだったが、ソフィアも自分が思っていた以上の大きな声がでたことに、少し動揺した。
それでも、すぐに気を取り直して、言葉を続けた。
「あ、あの、さっきから思ってたんだけど、私、イーディスみたいにどの棚にどの薬が置いてあるのか頭に入ってないから、薬を片付けるのに時間がかかるんだよね。だから、私が届けたほうがいいんじゃないかと思って」
「うーん、でも……」
「あ、さっきの兵隊さんが戻った場所って、分かりにくいところ?」
「ううん、そんなことないよ。あの人がでてきた扉をでて、そのまま道なりに行けばいいんだけど……」
戸惑いを見せるイーディス。顔色もますます蒼白になってきて、ソフィアは今にもイーディスが倒れるんじゃないかと心配になってきた。
思わずイーディスの顔を覗き込むと、ソフィアは尋ねた。
「イーディス?顔色悪いけど、大丈夫?」
口を開きかけたイーディスだったが、すぐに口を閉ざすと視線を横にそらし、青白い顔で少し考えているような顔つきになった。
そして、一度ソフィアをちらと見ると、意を決したのか、ソフィアの方に向き直り、その鳶色の瞳をまっすぐ見つめて話し始めた。
「ソフィア。今の人、仮設にいるって言ってたよね?
……仮設ってね、敷地の中央にある本部の大広間を、今回の暴動で怪我した兵隊さんのために臨時病棟として開放したところを指すんだ。でね、暴動が起こった翌日、お父さんが、家にあるだけの薬を持って、仮設まで届けに行ったんだけど……」
「行ったんだけど?」
「……地獄絵図だったって、言ってた……」
「……地獄絵図って、どういうこと?」
「……普段は広々としている大広間に、これでもかというくらいベッドが詰め込まれて、そこに、全身火傷を負っている人とか、頭から血を流している人とかが横たわっていて、薬品や血の匂いがぷんぷん漂っている中を、医師や看護師たちがかけずり回っていたんだって。そのベッドも数が足りなくて、廊下の床にも怪我人が溢れていたらしいよ。
……そういった光景の中でも、一番印象に残っているのが、その場で生死の堺をさ迷っている兵隊さんたちのうめき声だったって言ってた」
「うめき声?」
「うん。……うわごとっていうのかな。言葉にならないようなことを口にしたり、もう殺してくれ!て喚いたり、すすり泣いていたり……。そういった声が広間のあちこちから聞こえてきて、もう耳を塞ぎたかったって言ってた。その日は、そういった声が耳から離れなくって、夜一睡もできなかったらしいよ……」
その話を聞いて、ソフィアは、兄グスタフの悶え苦しむ姿を見たような気がした。
「……。その中に、もしかしたらグスタフもいたのかもしれない」
「……!ごめんね、ソフィア」
独り言のように呟いたソフィアに、はっとなったイーディスが慌てて謝ったが、その様子にソフィアは逆に我に返った。
「あ!ううん、大丈夫……。
……とりあえず、そこに行けばグスタフのことがわかるかもしれない。そのために、ここに来たんだし……」
そう言うと、ソフィアは不安そうな顔をしつつも、手に持っていた薬の箱をイーディスに手渡した。
「ちょっと怖いけど、包帯は私が持っていくよ。……いいかな?」
手渡された薬の箱を見下ろして抱き抱えるようにぎゅっとすると、イーディスは口を開いた。
「うん、わかった。でも、私も行くよ」
「ありがとう、イーディス。でも、私一人で大丈夫だよ。まだ、棚に納めなきゃいけない薬がたくさんあるし」
「……でも」
「今日の朝、イーディスのお母さんと話した時からある程度は覚悟していたから……。大丈夫。ありがとう」
包帯が入っている箱を両手にいっぱい抱えながら、倉庫の奥へと歩いていく。
通路には棚に入りきらない薬箱がところどころ置いてあるので、足元に気を付けながら、慎重にでもなるべく早足で歩いていった。
ソフィアは、これから行く仮設の病院に想いを巡らせていた。イーディスにはああ言ったが、そういった光景が待ち受けているかもしれないと思うと、恐怖で身がすくみそうだった。
それでも、グスタフのため、そして、昨日からときおり頭に浮かぶあの医療従事者たちの姿が、足が止まりがちなソフィアの背中をふっと押してくれるのだった。
倉庫の奥にある扉の前に着いた。木製の重そうな扉だった。
ソフィアは両手に抱えている包帯の箱を扉の脇に置くと、取っ手に手をかけて、ぐいと引っ張った。
扉は思いの外軽かったようで、ぱっと勢いよく開いた。
その瞬間、ソフィアはあまりの眩しさに目をぎゅっとつぶった。
そこには、仮設の病院が設置されている本館に続く外廊下が伸びていた。
すでに雨は止み、あちこちにできている水溜まりには真っ青な空とそこにぽつぽつと広がる雲が写し出されていた。ここ何日も続いた雨の中をじっと大人しく待っていたのだろう。待ってましたとばかりに、つぐみたちがピーピーさえずりながら飛び回っている。
眩しさに目を細目ながら右手を見ると、本館の前に広がる敷地が見えて、その先の方に、正面口の門があるのが見える。
左手を見ると、別の二棟の倉庫から本館へと続く外廊下がソフィアの前に敷かれている外廊下と並列しているのが見えて、そのさらに向こう側には、広い敷地が広がっていた。
「ここが、前にグスタフが言っていた演習場かぁ」
以前、グスタフが、詰め所内に演習場があってそこで兵士としての鍛練を積んでいる、と言っていたのを思い出し、ソフィアは一人呟いた。
今は雨が上がったばかりだからか、あるいは訓練を積んでいる状況じゃないということか、ひとっこ一人いない。
ほんの少しの間その演習場をじっと見つめたソフィアは、下に置いておいた包帯の包みを抱き抱えると、次第に目が慣れてきた明るい外廊下に足を一歩踏み出した。
三十メートルほど進むと、本館の扉の前に到着した。
いよいよ来たんだと思うと体がぶるっと震え、心臓がどくんどくんと高鳴るのを感じる。
本館は重厚な石造りの建物で、近くで見ると、威圧されそうになる。扉も倉庫とは異なり、鉄製となっていた。
イーディスが言っていたことを思い出し、中から兵士のうめき声や叫び声が聞こえないか、とソフィアは恐る恐る扉に耳を押し当てた。しかし、中からはなにも聞こえず、しんと静まりかえっているようだった。
そのまま耳を押し当てていたが、なにも聞こえてこなかったので、扉から体を離すと、持っていた包帯の包みを脇に置いた。
そして、一つ大きく深呼吸をすると、扉をぐっと押し開けた。
扉は、ギィーと音をたてて開いた。
ソフィアが中を覗きこんだところ、そこは大広間ではなく、殺風景な廊下が続いていた。てっきり大広間へと通じる扉だと思っていたのでソフィアは拍子抜けしてしまったが、すぐに気を取り直すと、包帯の包みを抱き抱え、目の前に続く廊下を進んでいった。
「たしか、イーディスは道なりに進めばわかるって言っていたよね」
誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやくと、ソフィアは辺りをきょろきょろ見回しながら進んでいった。きちんと清掃されているが、床や壁には長い年月を経て消せなくなった汚れがところどころに黒いシミとなっていた。
廊下の両側にはいくつもの扉が並んでいるが、窓がないので中の様子を窺い知ることはできない。
あえて扉を開けて確かめるほどの度胸もなく、そのまま道なりに沿って歩いていた、その時だった。
急に「バン!」と左前の扉が開いたと思うと、兵士が一人、さっと出てきたのだ。
突然のことにソフィアは驚き、軽く息をのんで立ち止まった。それに気づいた兵士は、ほんの少しの間ソフィアに視線を寄越したが、すぐにふいと顔をそらすと廊下を進み、突き当たりにある扉の向こうへと消えてしまった。その腕には医療従事者を示す腕章がつけられていたのを見逃さなかったソフィアは、(この先に大広間がある)と確信して、兵士が通った扉まで急いだ。
「……地獄絵図だったって、言ってた……」
イーディスが言っていた言葉が頭の中に響く。
それでも、その言葉を振り払うかのように頭を振ると、恐る恐る扉の取っ手に手をかけて、引いた。
そして取っ手に手をかけて引いた。
まず、ソフィアの目に飛び込んできたのは、太くて大きな柱と、その横に曲線を描きながらそびえ立つ壁だった。
(大広間じゃない?)
と、思いながらも、もう少し周りをよく確認しようと、二、三歩足を進めていった。
そして、すぐにここが本館の正面玄関ホールだということに気がついたのだ。
ソフィアの右手側には、深緑の絨毯が敷かれている、天井が高く吹き抜けとなっている玄関ホールが広がっていた。壁に沿って並ぶ台の上には、古めかしい、でもよく磨かれた甲冑がいくつも置かれており、訪問者を見下ろしている。その甲冑をきらめかせようと、間口の広い立派な正面口の上にある幅の広い窓からは眩しいほどの明るさをもつ陽の光が射し込んでいた。ソフィアが最初、曲線の壁だと思っていたものは二階へと続く二つの階段の内の一つで、その両端には、ゼラニウムの花や植物が大きな壺のような花瓶にどっしりと生けられていた。
左手には、壁と、これもまた間口の広い、なにか装飾が施されている立派な木の扉があり、その扉の前で、医療従事者を示す腕章をつけた男女がなにやらひそひそ話をしていた。
話しこんでいた女性の医療従事者がソフィアの視線に気づくと、近寄ってきた。
「どうかされましたか?」
肩に届くか届かないくらいの焦げ茶の髪で丸顔の女性は、微笑みを浮かべながら、見た目通りの優しい声でソフィアに声をかけた。
「あ、あの……。頼まれた包帯を、持ってきたんです。リチャードさんに頼まれて……。病院の場所をご存じないですか?私、薬局の者で、ちょうど薬の納品に倉庫へ来たところを、持ってくるよう頼まれたんです」
頬を赤らめながら話すソフィアの話に合点がいったのか、その女性の表情がぱっと明るくなった。
「あぁ!リッキーに頼まれたのね。彼ならこの扉の向こうよ。ここが、今は仮設の病院なの」
そう言いながら、彼女は、後ろの立派な木の扉を指さした。
ソフィアは礼を言うと、包帯の包みを抱える手に無意識に力を入れて扉に向かおうとした。女性は、両手いっぱい包帯を抱えているソフィアのために扉をそっと開けてくれた。
再度、礼を言ったソフィアは、心臓の音が周囲に聞かれるのではと心配するくらいどきどきしながら、扉の向こうに一歩、足を踏み入れた。
そこは、大広間というだけはある、とても広い空間が広がっていた。玄関ホールのように天井は高く吹き抜けとなっていて、正面の壁には、この国を統治するガーネット女王の大きな肖像画が大広間を見守るかのように飾られていた。
その大広間の左右には大きな窓があり、薄手のカーテンが引かれてはいるが、そこから漏れる陽の光のために、大広間は充分明るい光で満ちていた。
そんな中、整然としかし所狭しと簡易ベッドが置かれている光景は、なんとも奇妙なものだった。
イーディスが言っていたような光景を想像していたソフィアは、思わず拍子抜けしてしまった。確かに消毒液のような匂いは漂っているが、それ以外の匂いは感じられず、また、医師たちがかけずり回っていることもなく、むしろ明るい病棟という印象を受けたからだ。
ソフィアはイーディスにからかわれたんじゃないかと思い、内心むっとした。
「ねぇ、ねぇ」
後ろから声が聞こえてきたので思わず振り返ると、先程の女性が扉から顔を覗かせていた。
「リッキーは、あそこ。左手奥にいるわよ」
その指差す方を見ると、確かに見覚えのある亜麻色の巻き髪をした兵士がベッドに横たわる兵士の顔を覗きこんでいるのが、遠くの方に見えた。
ソフィアは女性に礼を言うと、ベッドの間をぬうように、リチャードの方へとゆっくりと歩いていった。
仮設の病棟は、ときおり聞こえてくる咳払いやいびき、医療従事者の歩く靴音や、兵士が新聞をめくる音以外は静かだった。
明るい陽射しの下、ゆったりとした時間が流れているように見える。
辺りを見回すと、上半身を起こして本を読んでいる人や、看護師に包帯を取り替えてもらっている人、医師の診断を受けている人たちが見られたが、横になって寝ている人も多く、ほぼ全員が多かれ少なかれ包帯を巻いていた。
(地獄絵図なんて嘘ばっかり。全然、穏やかじゃない。
……それにしても、グスタフはどこにいるんだろう)
そう思いながら、ベッドの横を通りすぎさま、兵士たちの顔をちらっと覗き回った。
しかし、グスタフらしき人は見つからない。
中には、口と鼻以外は包帯で巻かれている人たちも何人かいたが、ソフィアは直視することができず、その人たちのベッドの横を通るときは、なるべくそちらを見ないように足音をたてずに急いで通りすぎた。
そうやってベッドの間を通り抜け、リチャードのところまでやってきた。彼は、こちらに背を向けながら、ベッドに横たわる兵士の顔をタオルで丁寧に拭いているところだった。そんなリチャードに声をかけていいものか躊躇ったが、手が止まったところを見計らって、声をかけた。
「あ、あの」
そう呼び掛けると、リチャードの肩がびくんと動き、さっとこちらを振り向いた。急に話しかけられたためか、驚きの表情を浮かべていたリチャードだったが、その両目は赤く、溢れた涙が今にもこぼれそうになっていた。
まさかそんな表情をしているとは思ってもみなかったソフィアは、気が動転して、その後に続く言葉がでてこず、その場に立ち尽くしてしまった。
泣いているところを見られて一瞬慌てたリチャードだったが、すぐに立ち上がるとソフィアの方を見ないでさっと涙を拭き、作り笑顔を浮かべた。
「包帯だね、ありがとう」
そう言うと、リチャードは包帯を受け取ろうと手を伸ばした。
「あ……、あの、どうぞ」
包帯を手渡されたリチャードは、先程泣いていたところを見られた気恥ずかしさからか、やけに饒舌に話し始めた。
「ありがとう、運びにくかったでしょ。見ての通り、火傷を負った負傷兵が多くて、すぐ包帯が足りなくなっちゃうんだ。切らさないようにしていたつもりなんだけど、うっかりしててさ。だから、ほんとにありがとう」
そう言うと、リチャードは包帯の包みを壁の前に置こうとした。その様子を見ていたソフィアは、ふと、この人にグスタフのことを尋ねてみようと思い立った。
「あ、あの……。ちょっと、教えてもらいたいことがあるんですけど……」
不思議そうな表情で振り返ったリチャードを見つめたまま、ソフィアは話を続けた。
「実は、兄の行方を探してるんです。ここに駐屯している軍に所属していて……。あの暴動が起きてから、消息不明なんです。名前をグスタフ。グスタフ・コリンズと言います。ご存じないですか?」
なんの話だろうと最初はぽかんとしていたリチャードだったが、すぐに真剣な面持ちに変わった。
そして、話を聞き終えると立ち上がり、腕組みをしながら少し考え始めた。
その様子を両手を握りしめて見守っていたが、少しして、リチャードは組んでいた腕をほどき、不安そうなソフィアを向いて口を開いた。その表情は硬いままだった
「グスタフ・コリンズ……。いや、ごめん。僕は知らない。暴動が起きてからというものたくさんの負傷兵が運び込まれてきたけど、僕が知る限りでは、そういった名前の人はいなかったなぁ……。あ、もちろん、運び込まれてきた人たち全てを僕が把握しているわけではないんだけど」
最初は心配そうな表情を浮かべていたソフィアがみるみる内に落胆していく様を目の当たりにしたリチャードは、慌ててその場を取り繕うとした。
「今回の暴動で、ここに担ぎ込まれた人のリストがあるんだ。それを見れば分かるかもしれないよ。貸出してくれるかは分からないけど、持ち出すのが無理なら、僕が見てきてあげる。だから、元気をだして」
一生懸命励まそうとしてくれているリチャードの声に応えるかのように、ソフィアは顔をあげた。
しかし、ソフィアは、リチャードが自分を見ているのではなく、自分の後ろに目が吸い付けられているのに気が付いた。
(なんだろう?)
そう思ったソフィアは、リチャードの視線の先を見ようと後ろを振り返った。
すると、小柄で白髪混じりの男性がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
ソフィアは、すぐにその男性が、昨日広場で目撃した医療従事者だということに気がついた。と、同時に、リチャードが「アルバート先生!」と、叫んだのが聞こえた。
アルバートという医師は、ベッドに横たわっている患者に素早く視線を巡らしながら、ずんずんこちらに向かってくる。眉間にシワを寄せて仏頂面で歩いてくる姿になんとなく恐れを感じたソフィアは、その姿から目を逸らせないでいると、アルバートと視線がぱちっと合った。
「包帯は?」
「ここにあります!」
しわがれた声でリチャードに尋ねながらも、その灰色の瞳は、じっとソフィアに注がれていた。
そのことに気がついたリチャードは、説明をし始めた。
「彼女は、ダウニー薬局の……。ええと……」
「ソフィアです」
「そうそう!ソフィアです。ちょうど倉庫に薬を納品しに来ていて、ついでに包帯をここまで持ってきてくれたんです」
「……そうか」
相変わらず仏頂面で、目を細めてじっと睨み付けてくるアルバートに軽く動揺したソフィアは、つい、下を向いてしまった。
その時、リチャードが口を開いた。
「アルバート先生、お願いがあります」
アルバートが、ソフィアから視線をリチャードに移した。
「なんだ?」
「ソフィアは、お兄さんのグスタフ・コリンズの消息を尋ねに来たんです。兵士として炭鉱での任務についていたそうなのですが、行方がわからないそうで……。
つきましては、負傷者リストで確認しようと思うのですが、少しの間、この場を離れてもよろしいでしょうか?」
ソフィアはぱっと顔を上げると、リチャードを見た。会ったばかりのソフィアのために親切な申し出をしてくれたことが、本当にありがたかったのだ。
そんな中、しわがれた声が後ろから聞こえてきた。
「今日の十時から、広場で安否情報の提供が始まる。それを聞けばよいのでは?あと一時間ほどで始まるぞ。知らなかったのか?」
ふと、自分が話しかけられていることに気づいたソフィアは、さっと後ろを振り返った。そこには、相変わらず目を細めてじっと自分を見つめてくるアルバートがいた。
ソフィアは医師の視線に怯え、すぐに目をそらした。そのため、アルバートの灰色の瞳には、さきほどとは違ってうっすらと憐れみの色が浮かんでいることに気がつかなかった。
ソフィアは医師の鋭い眼差しにますます頭の中が混乱し、のどがからからに乾いてくるのを感じた。
それでもつばを飲み込んでなんとか落ち着こうとした。
「知っています……。昨日、兄と……。あ、兄といっても、別の兄ですが。その兄と、広場に行って、聞きました。でも、友達のお母さんに、危ないから行かないほうがよいと言われて。昨日、広場で、兵隊さんと、町の人たちが、衝突しましたし……」
「うむ。……まあ、確かにそうだな」
顎に生えている無精髭をなでながら、アルバートは言った。
そして、ソフィアの後ろに立つリチャードを背伸びしながら見て、言った。
「よし、離れていいぞ」
リチャードはかかとを鳴らし、敬礼の姿勢をとった。
「ありがとうございます。
……あと、ダニエルなんですが」
「ん?ダニエルがどうした?」
リチャードの声が暗く沈んだ声色に変わったのに、ソフィアも気がついた。
アルバートは、すぐさまソフィアの横のベッドに急ぐと、横たわる兵士をのぞきこんだ。そして、リチャードと、なにが起きたのかわからずぽかんとしているソフィアが見つめる中、その兵士を調べ始めた。
まず、兵士の口近くに耳を近づけ、呼吸の確認をする。その後、首の両脇の脈を触った。そして、心臓の音を聴くために、胸に耳を当てながら腕の脈を確かめる。最後に、近くにあった灯りを手に取り、横になっている兵士のまぶたを開いて、ランプを近づけたり離したりを何度か繰り返した。
ふと、だれかがソフィアの隣に来た。見ると、先ほどの女性医療従事者だった。
その表情を見ると、さきほどとはうってかわった険しい表情でアルバートを見つめている。リチャードに視線を移すと、同じく険しい表情で唇を噛みしめ、こぶしを握りしめて立っていた。
窓からさしこむ陽の光が、大広間に明るさをもたらしていた。
しかし、ソフィアたちがいる一角は、まるでとばりが降りたかのように、暗く静まり返っていた。
どのくらいの時間がたったのだろう。それでも、恐らくわずかな時間だったに違いない。
身を屈めていたアルバートは起き直り、体を後ろに軽く反らして伸びをした。そして元に戻ると、顔を上から下にひと撫でして、ふぅと深いため息をついた。
「やっと楽になれたんだ……。苦痛から解放されたんだ……」
そう言うと、横たわっている兵士に向かって、静かに頭を下げた。
瞬時に、血の気が引いた。
何か起きたのかを、理解したのだ。
ソフィアの隣では、アルバートと一緒に、あの女性が深々と頭を下げている。リチャードはうつむいているので表情までは分からなかったが、肩が小刻みに震えているのが見えた。
ソフィアは、ベッドで横たわっている兵士から目をそらすことができなかった。人の死を間近で見届けたことなど、今までなかったのだ。あまりの衝撃で、ぼそっとつぶやいたことにさえ気づかなかった。
「なんで……?」
「腹をやられたんだ。腕や足ならまだしも、内蔵をやられると、まず助からん」
アルバートが、疲れを滲ませた声でソフィアの問いに答えた。
それを聞いたソフィアは、青白い顔で大広間を見回した。
先ほど入ってきた時には気づかなかったが、よく見ると、静かに横になっている兵士が圧倒的に多いのに気がつく。座って新聞を読んでいたり、雑談しているのは、ほんの一握りだった。
もしかすると、この中に、誰にも看取られず息を引き取った人がいるのかもしれない。
そう思うと、体の芯から冷えるような寒さを覚え、体がガタガタと震え始めた。
それは、イーディスが言っていた光景とは異なるものだったが、地獄そのものだと、ソフィアには感じられた。
「アンナ、ダニエルのことは頼んだぞ。リチャード、名簿を見に行くんじゃなかったのか?」
アルバートのしわがれた声で、みな、我に返った。
リチャードは相変わらずうつむいていたが、鼻をすすり眼鏡の横から涙をささっと拭くと、顔をあげた。目は赤く、涙がこんもり溜まっていたが、ソフィアの視線に気がつくと、無理に笑顔を作った。
「じゃあ、見てくるからね。ここで、待ってて」
そう言うと、また鼻をすすりながら足早に歩いていった。
「じゃあ、ええと……、ソフィアと言ったかな?リチャードが君の兄の消息を調べに行ったのだから、当然手伝ってくれるな?」
そう言うと、アルバートは、亡くなった兵士の隣のベッドに寝ている、鼻と口以外は包帯で巻かれている兵士のところまで行き、その包帯を外し始めた。ソフィアは何も考えられず、アルバートが包帯を外していく様を、ただただぼーと見つめていた。
すると、頭に巻いていた包帯が外れ、右半分にひどい火傷を負っている顔が突然現れたのだ。
「ひっ……!」
ソフィアは息を飲み手で口を覆うと、慌てて顔を背けた。
「タクゴを顔全体に塗って、その後、ガーゼで押さえて……。
おい!聞いているのか!」
火傷の状態を確かめながら説明していたアルバートは、ソフィアが顔を背けているのに気がつくと、声を荒げた。
その大声に飛び上がりそうなくらい驚いたソフィアは、ぱっとアルバートに向き直り、背筋をぴんと伸ばした。それでも、血の気が引いた顔に脂汗を滲ませながらも、一向に兵士の方を見ようとしないソフィアの態度にアルバートは苛立ちを募らせ、詰問口調で問い詰め始めた。
「お前は薬局の者だろう?それなのに、火傷の痕を見て怯んだりするのか?簡単な処置くらいはできるはずだぞ」
「すみません、わたし……」
薬局の者じゃないんです、と、さすがにこの状況で口にするのは躊躇われた。
すると、先ほどアルバート医師にアンナと呼ばれた女性が、すかさず助け船をだしてくれた。
「先生、私がやりますわ。いくら薬局の子だと言っても、まだ子どもですし……。
さ、ハンス、薬を塗りますよ」
そう言うと、瓶に入っているクチナシ色の軟膏をすくい、塗り始めた。
その様子を何もできずにじっと立ち尽くして見つめていたソフィアに、青筋をたてているアルバートがすっと近づいた。
「お前は、自分の家族の消息さえわかれば、後はどうでもいいんだな。衛生兵の仕事を中断して、お前の兄の消息を調べに行ったあいつの代わりを務めよう、とは思わないわけだ」
低いしわがれた声でそうつぶやくと、もう一歩近づき、小さな声でささやいた。
「これが自分の兄でも同じ態度をとるのか?彼は、これから、この姿で生きていかなくてはならないんだぞ」
そう吐き捨てると、さっとその場から離れていった。
ずんずんと歩いて遠ざかっていくアルバートの後ろ姿を、ただ、見つめることしかできなかった。
視線を移すと、アンナが優しい声をかけながら、兵士の顔に軟膏を塗っている姿が目に留まった。
生々しい火傷が広がる肌に触れられるのが痛いのだろう。兵士は苦痛に顔を歪めながらも、ぐっと歯をくいしばって耐えている。
顔の火傷はひどく、おそらく痕に残るだろうことはソフィアにもよくわかった。それでも、彼はその外形を抱えながら生きていくしかないのだ。
そのことを思うと、さきほどの自分の態度は絶対許されるものではない、ということが、今更ながら強く感じられた。
ソフィアは、今まで自分がいかに身勝手だったかということを痛感せずにはいられなかった。
自分の兄の消息を知りたい。
その一心で、徹夜で薬の調合をしている友達の家に押し掛けたり、そこで聞いた仮説の病院の壮絶な光景に無神経にも怯えたり。
そこで苦しんだり頑張ったりしている人たちへ思いを寄せることがなかった自分を、心底恥ずかしいと思ったのだ。
「はい、塗り終わりましたよ。新しい包帯を巻きますね」
アンナの優しく温かい声が聞こえてきて、我に返った。
薬瓶に蓋をしながら、ソフィアが持ってきた新しい包帯の包みにちらっと視線をやったのに気づいたソフィアは、さっと棚まで行くと包帯をいくつか手にとって、アンナに手渡した。
「あら、ありがとう。助かるわ」
そう言うと、アンナはソフィアに顔を近づけて、ささやくような声で話しかけた。
「さっきのは気にしなくてもいいのよ。アルバート先生は、気難しいところがある方だから」
にこっとソフィアに笑顔を向けると、アンナは兵士に向き直り、ガーゼを当てて、包帯を巻き始めた。
その様子を、ソフィアはじっと見つめていた。
兵士の火傷の痕は生々しかったが、ソフィアはひたすらアンナの手元を見つめ、包帯の巻き方について、見よう見まねに手を動かしながら、食いつくように見つめていた。
その視線に気づいたのか、アンナは手を止めると、ソフィアの方を向いた。
最初はきょとんとした表情を浮かべていたアンナだったが、すぐに理解したのかさっと笑顔を浮かべると、ソフィアに話しかけた。
「やってみる?教えてあげるから」
ソフィアは気持ちが高ぶり、頬がぽっと赤くなるのを感じた。
そして、無言で首を思いっきり縦に振った。
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