第3話 親友の家へ

 ~ソフィア 7月15日~


 教科書や筆記用具、服をトランクにしまいこむ。十分かからないくらいで、すべて終えてしまった。

 荷造りを終えたトランクに腰かけ、両手にあごを乗せながら、ソフィアは部屋を見渡した。部屋は静まりかえっていて、がらんとしている。

「はぁ」

 ため息をついた。

 炭鉱での暴動が起こってから、すでに四日たっている。

 牧場の事務室で炭鉱での暴動の知らせを聞いた後、ソフィアは試験を受けるため教室に向かった。しかし、炭鉱に駐屯している兄グスタフのことが心配で、試験は上の空。もともと勉強はあまりしていなかったこともあり全く手につかず、なにを書いたかさえ覚えていない有様だった。

 朝のうちはまだ一部の生徒しか知らなかった暴動の話も、瞬く間にみんなの知るところとなり、教室や廊下のあちこちで、ぼそぼそと話す生徒たちが目につくようになっていった。中には、ソフィアのように炭鉱になんらかの関係がある生徒も少なくないため、そういった生徒たちの表情は、一様に不安そうだった。

 試験は、翌日も予定通り行われた。

 しかし、暴動の影響を心配した親の中には早々に子供を迎えにくる人もおり、一人、また一人と、試験中に帰宅する生徒が増えていった。教室の中で空き机がぽつぽつと増えていく光景が、残された生徒たちの不安をあおっていった。

 そして、昨日。ついに試験の中止が発表され、生徒の家族宛に中止に至った経緯と迎えの前倒しの依頼の通知が送られたのだった。

 学校内がそのように不安な空気に包まれている中、少しでもグスタフの消息をつかもうと、ソフィアは毎日ノアの所へ通った。ノアがいる牧場には、毎日街から人が仕事で訪れに来るため、なにかしらの情報が入ってくる可能性があったからだ。しかし、グスタフについてはなにも分からず、毎回無駄足に終わった。それでも、兵士や街の中の様子はだいぶ聞くことができた。

 目撃者によると、暴動が起きた日の夜、まるで蛇のような形をした炎が空から舞い降り、炭鉱を囲うように作られた軍の駐屯地を舐めつくしたという。

 異変に気づいた街の人や非番の兵士たちが、火を消そうと炭鉱へ駆けつけたが、猛烈な火の勢いで近づくこともできなかったんだそうだ。

 明け方になってやっと火の勢いも弱まり、水の結晶を大量に投下してなんとか火を消したそうだが、駐屯地にいた兵士は、見分けもつかないほど真っ黒焦げになった姿で多数見つかったんだそうだ。

 さらに、炭鉱自体はすでに炭鉱夫たちの制圧下にあって、橋を渡った先の炭鉱内部の詳しい状況は未だにわからないという。

 一方、街には駐屯地から辛うじて逃げ延びた負傷兵がたくさん担ぎ込まれており、住民はその対応でてんやわんやらしい。また、不安にかられた住民による買いだめの長い行列があちこちで見られ、物価も日に日に上がり続けているそうだ。

 肝心の軍隊は、暴動発生直後に王宮があるソラス王都に一報を送ると同時に、動ける兵士のみで軍を再編し、炭鉱を占拠した炭鉱夫たちとの最悪な事態に備えて準備を急ピッチで進めている、とのことだそうだ。

 兄の安否が分からず、いつも暗い顔をしたソフィアを哀れだと思うのか、行く度に、ノアはソフィアが大好きなアイスクリームを用意してくれた。その気持ちや気遣いがソフィアの心をじんわり温かくしてくれるのだが、すぐにグスタフのことが思い出され、胸がきゅっと痛むのだ。


 そして今、がらんとした部屋で一人迎えを待っている。学校側が通知を送ったのとほぼ同時に、一番上の兄フランシスから「明朝迎えに行く」と電報が届いたのだ。

 電報のため、フランシスの詳しい行動はわからないが、おそらく街に寄ってグスタフの消息を訪ね回っているに違いない。

 しかし、炭鉱での暴動の知らせを聞き、家をでて街に到着するまでにかかる時間を考えると、グスタフの消息を尋ねる時間的余裕はほとんどないと思われた。

 ソフィアは、迎えは急がなくてもいいと伝えようかとも思った。それよりもグスタフの消息をつかむのに専念して、と。しかし、フランシスが迎えに来るのはソフィアだけではない。同じ村の子たちも合わせて引率するのだ。そんな身勝手は許されないだろう。

「はぁ……」

 もう一度、誰もいない部屋で大きなため息をついた。

 一番の親友イーディスは、すでに迎えに来た父親と一緒にミァン街にある家に帰ってしまっている。

 しんとした部屋に一人でいると、次から次へと嫌なことを考えてしまう。寒いわけではないが、ぶるっと背中に震えが走ったソフィアは、腕を抱き抱え、ちょっとの間、体を縮こませた。しばらくその体勢でいたが、反動をつけるようにさっと立ち上がると、トランクを手に部屋を後にした。

 一階の玄関は、到着した何組もの迎えで混みあっていた。人数のわりに静かなのは、こんな状況の中、ミァン炭鉱に近いこの場から早く立ち去ろう、と、会話もそこそこに出発しているんだろうなとソフィアは思った。

 フランシスはどこかなとキョロキョロしていると、ソフィアを呼ぶ声が聞こえた。

 声がする方に視線をやると、少し離れた所でフランシスがこちらを見ながら手を振っているのが見えた。

 身長が二メートル弱ある金髪のフランシスは、人ごみの中でも見つけやすい。

 ソフィアがトランクを引きずりながら進むと、向こうから人をかき分け近づいてきたフランシスに、トランクをひったくるように奪われた。そのトランクを軽々肩に担いだフランシスは、さっと運ぶと荷馬車に積み込んでくれた。一緒に帰る他のこどもたちはすでに全員荷物を積み込み終えているようで、ソフィアが一番最後だった。

「元気だったか、ソフィア」

「……。グスタフは?」

 グスタフについて絶対聞かれるだろうと、フランシスは予想していたに違いない。それでもグスタフの名前を聞いたとたん、一瞬表情を曇らせたのをソフィアは見過ごさなかった。

「実は、昨日の昼には街に着いていたんだ。それで、すぐに軍の詰め所に行ったんだが……。

 グスタフの消息はまだわからなかったよ。ちょうど顔見知りの人が対応してくれたんだけど、まだ情報が錯綜しているみたいなんだ」

 鼻の頭を撫でながらフランシスは話した。

「まあ、怪我人がたくさん運び込まれているそうだが、その一覧表もまだ完成していないんだそうだ。でも、あいつのことだ。きっと無事さ。ほら、以前グスタフが山で行方不明になったって話、したことあったろ。あの時だって、誰もがもうダメだと諦めかけてたのに、三日目に無事に見つかってさ。そういう運を持ってるやつなんだよ、グスタフは」

 フランシスは気づいていない。思ってもいないことを口にするとき、鼻の頭を触る癖があるということを。

「とりあえず、今日はもう一度詰め所に寄って消息を聞いてみるよ。でも、あまり時間は割けないな。今日中にクロッホ村に着いておかなきゃならないから。

 ということで、あまり時間はないんだ。すぐに出発するぞ。早く乗れ」

 そう言うと、フランシスは馭者台にさっと乗り込んだ。

 フランシスの一瞬曇った表情を見た時、ソフィアは心臓をわしづかみにされたような痛みを感じた。

(そうか、死ぬこともあるんだ……)

 可能性の一つとして、そういう結末も当然あるはずだ。だけど、わざと頭の片隅に追いやって見ないふりをしてきた。どこで生き延びているんだろう……と。

 二年前、軍隊に入ると言ったグスタフを、最後は泣きながら反対した母親の気持ちが今ようやくわかったような気がする。

「ソフィア、なにぼーとしているんだ。早くしろ!」

 馭者台から顔を覗かせたフランシスに急かされ、ソフィアは青ざめた顔を隠すよう、うつむきながら荷馬車に乗り込んだ。

 ソフィアが乗り込んだことを確認すると、フランシスは「やっ!」と言いながら手綱を操った。荷馬車はがらがら音を立てて進みだした。

 空は、鈍い鉛色の雲に覆われていた。


 ソフィアたちを乗せた荷馬車は、ミァン街までの十キロの道のりを、今にも雨が降りだしそうな天気の中、がたがた揺れながら進んでいた。荷馬車が通る道の脇の草地ではキンセンカが咲き誇り、その間から、シマリスがひょいと顔をだし、もう一匹とじゃれあうように追いかけっこをしている。

 荷馬車の中には、ソフィアも含めて六人の生徒が乗っている。いつもなら、これからの夏休みをどう過ごすのかみんなでペチャクチャ話し、きゃっきゃっと笑いあうのだが、今日は、会話や視線も交わさずうつむいていたり窓の外を眺めていたりで、一様に、どこか落ち着かない様子だった。

 そんな中、うつむき加減で端の方に座っていたソフィアは、ふと、視線を感じて顔をあげた。

 すると、斜め前に座っていた生徒と、目が合った。

 相手はあわてて目をそらしたが、その振る舞いにソフィアは無性に腹が立ち、きっとにらみつけてしまった。

 一緒に荷馬車に乗っている生徒は、みな、ソフィアの近隣に住んでいる子供たちだ。当然、兄のグスタフが炭鉱に駐屯しているということを耳にしていたとしてもおかしくはない。

 そう思うと、なんだかみんなが自分をちらちら盗み見しているような気がしてきて、不快さがこみあげてきた。

 ソフィアは、その視線を避けようと、窓の横の壁に額をぐっと押しつけて、目をつむった。

 窓の外では、どんよりとした灰色の雲がますます厚みを増していった。


 ミァン街の近くに着いた頃には雨はポツポツと降りだし、地面を濡らし始めていた。雨がしみ込んでいく大地からは、その雨の匂いとともに土や草のムッとする匂いが立ち上ぼり鼻をつく。気温も少し下がったようで、肌寒く感じるくらいだ。

 ソフィアたちを乗せた荷馬車は、街の門まで続く石畳を、ポカッポカッと音を立てて進んでいった。

 ミァン街は、ミァン炭鉱の発展とともに栄えてきた街で、ソラス国の中でも大きな街だ。主要な産業はもちろん石炭の採掘で、国も、重要な基幹産業を担っているこの街に多額の予算や軍隊を割いている。規模からしても、この地方の中心的な役割を果たしており、ソフィアたちが住んでいる村も、ミァン街の行政区に含まれていた。


 街の門をくぐると、ソフィアはすぐに、今まで感じたことがないような異様な空気が街を覆っているのに気づいた。

 いつもはお客を呼ぼうと声を張り上げる商人や、商品を運搬する荷馬車、買い物や散歩で連れだって歩く住民で活気に満ち溢れていた。

 しかし、今では扉を固く閉ざしている商店がぽつぽつと散見され、籠城するつもりなのか、通りには、食料品を備蓄しようと店に並ぶ女こどもの行列がいくつも続いている。以前のように街中を散策している人はほとんど見られず、寒々とした天気の中、ソフィアたちが乗る荷馬車のたてる音が、通りにむなしく響いていた。

 そのような中で目立つのが、険しい顔であたりを見回る兵士たちだ。

 今までも駐屯地がすぐ近くにあることもあり、兵士を見かけることは珍しくもなかったが、みな、街を歩いている時は談笑するなど、楽しそうな雰囲気を身にまとっていた。

 しかし、今は笑顔を見せることはなく、なにか異常はないかとはりつめた空気を漂わせながら見回りをしている。

 通りを進むソフィアたちも、何度となく兵士から厳しい視線を投げ掛けられ、身がすくむような心持ちがしたのだった。

 詰め所に近づくにつれて、人通りが増えてきた。

 みな、ソフィアたちと同じように、家族や知人の消息を尋ねに来ているのだろう。荷馬車も、人混みでなかなか進まなくなってきた。

 馭者台に腰かけていたフランシスがさっと後ろを振り向くと、みなに言った。

「道が混んできたから、俺一人で詰め所に行ってくる。みんな、それまで荷馬車の中で待っていてくれ」

 それを聞いたソフィアは、ここに残ってみんなの視線を浴びるのはごめんだと、心の底から思った。

 急いで窓から身を乗り出すと、フランシスに向かって叫んだ。

「私も行く!」

 フランシスは戸惑ったようにソフィアを見つめたが、あきらめたのか、

「わかった」

 と言うと、馭者台からひらりと飛び降りて、ソフィアが荷馬車から降りるのに手を貸してくれた。

 雨足が強まってきている。

 ソフィアは外套のフードを深くかぶり、フランシスを見失わないよう小走りでついていった。


 詰め所の前の広場には人だかりができており、あたりいったい騒がしかった。

「いったい、どうなってるんだ?暴動から四日もたっているのに、どうしてなにも知らせないんだ!」

「うちの息子は無事なの?」

 怒りや不安、悲痛な面持ちをした人たちが、一刻でも早く自分たちの家族や知人の無事を確かめようと、口々に叫んでいる。

「さっきより、人が増えてるな……」

 隣でぼそっとつぶやいたフランシスを見上げると、苦痛や苛立ちからか、歪んだ顔をしていた。

 ソフィアたちには、時間がほとんどなかった。

 宿泊する予定のクロッホ村に到着するには、昼前にはこの街を出発しないと間に合わない。ソフィアたちはともかく、荷馬車に残っている他の生徒たちは予定通り連れて帰らなければならないため、ここに長居はできないのだ。

 と、その時、後ろから、

「悪いけど、ちょっと通してくれ」

 という声が聞こえてきた。

 振り返ると、小柄ながら大股で颯爽と歩く白髪混じりの男性と、大きな荷物を肩に担ぎ、ひーひー言いながら後からついていくがたいのよい男性が、人をかきわけながら近づいてきた。よく見ると、医療従事者を示す水滴と波紋の印があしらわれた腕章をつけている。

「医師だ!通してやれ!」

 誰かが怒鳴ると、人混みにさぁっと道が開き、さきほどの二人が通っていく。

 その二人に向けられるみんなのすがるような視線が、ソフィアの目に焼き付いた。

 その二人が通りすぎると人混みは元に戻り、彼らが通った跡は消えた。おそらく、詰め所に担ぎ込まれた負傷兵の手当に向かったのだろう。

(医療従事者だと中に入られるんだ……。ん?ちょっと待って。たしか、イーディスが言っていたような……)

 イーディスの実家は、この街で薬局を営んでいる。そして、以前に、軍とも取引があると言っていたような気もする。

 そうであれば、もしかすると、詰め所内に入れてもらうことができるかもしれない。

(グスタフのことも、なにか分かるかもしれない)

 そう思うと少し希望が見えてきたような気がしてきて、ソフィアの頬にぱっと赤みがさした。

 すぐさま隣にいるフランシスの腕をひっぱり、

「ねぇ、以前話したイーディスのこと、覚えてる?あの子のうち、この街で薬局を営んでいるんだけど、たしか、軍とも取り引きがあるって言ってたんだよね。だから、その子の家に聞けば、なにか分かるかもしれないよ」

 と、話しかけた、ちょうどその時だった。

 さぁっと風が吹き、その風に乗って、声が辺り一帯に響き渡った。

「えー。お集まりのみなさん。大変お待たせして申し訳ありません。ただいま、被害状況を確認しておりまして、明日の朝十時から、今までに判明していることと、被害状況、及び死傷者の名前を、この場所にてお伝えしたいと思います。

 ですので、申し訳ありませんが、本日お伝えできることはございません。ご足労おかけいたしますが、一度お帰りいただいて、また明日、お集まり願えればと思います」

 詰め所の入り口に立つ三人の兵士のうち、一人が、風の結晶を使った拡声器でこの場に集まった民衆に呼びかけていたのだ。

 その案内が言い終わらないうちに、人だかりから、不満や怒りを訴える声がうわぁっと沸き起こり、広場を覆いつくした。

「ふざけるな!なんで、明日なんだよ!今、わかってることを、今、この場で言えばいいじゃないか!」

「もう、四日もたってるのよ!いい加減にして!」

 集まった人たちがその兵士たちに詰め寄ろうと、まるで津波のように前へ前へと押し寄せていく。

 ソフィアも後ろの人たちからぐっと押され、一瞬、恐怖を覚えた。

「ソフィア!ここから離れるぞ!」

 フランシスはそう言うと、ソフィアの腕をがっとつかみ、元来た方向へ人の波をかきわけ戻ろうとした。

 きっと睨み付けたりする人もいたが、フランシスはそういった視線をものともせずに、普段移牧で慣らした力で人混みの中をぐいぐいと戻っていく。

「このままだとドミノ倒しに巻き込まれるぞ!圧死しちまう!」

 群衆のあちこちで、悲鳴や罵声が起きている。

「押すな!」

「きゃー!」

 ドミノ倒しが起きるのも時間の問題で、パニックになりかけている人たちと軍への怒りをあらわにしている人たちとで、広場はますます騒然としてきた。


 ソフィアたちは、なんとか人だかりから抜け出した。そしてすぐに、荷馬車を残してきた場所へと足早に向かった。

 通りは、ソフィアたちと同じように詰め所から離れようとする人と、これから詰め所に向かう人たちとで、かなり混雑してきた。

 ソフィアはさっきの話の続きをしようと、

「ねぇ、さっきの話の続きだけど……」

 と話し始めたが、すぐにフランシスに遮られてしまった。

「ソフィア、その話だが、もうこの街をでよう。今すぐグスタフのことがわからなくても、近いうちに必ずわかるよ。今焦ったところで、結果は変わらないわけだし。それに、街のこの雰囲気。長居は避けたほうがいい。みんなも待たせてるしな」

 ソフィアの腕をつかみながらずんずん歩いていくフランシスの背中が、これ以上会話をすることを拒んでいた。

 確かにさっき感じた恐怖は、まだ、ソフィアの心臓をばくばくいわせている。しかしそれ以上に、集まっていた人たちが見せた怒りや悲痛な表情や言葉が、ソフィアの心を捉えて離さなかった。

 いや、ショックだったのかもしれない。

 そして、たくさんの人たちのすがるような視線を浴びながら人をかきわけて進む医療従事者。

 それらの場面が、頭の中を目まぐるしく駆け回っている。

(もう少しここに居たい。それに、明日になれば、グスタフのこともわかるかもしれない。でも、どうすれば……)

 雨でぐっしょり濡れた外套をかぶり、半ば引きずられるように急ぐソフィアだったが、その時、広場からさらに大きな怒声や悲鳴が上がった。

 ソフィアを始め、周囲の人たちも、一斉に同じ方向を見た。だが、すぐには、なにが起きたのかわからなかった。

 しかし、

「兵士がでてきた!」

 という叫び声が聞こえてきた瞬間、あたりは蜂の巣をつついたような混乱に陥った。

 みな、詰め所から離れようと、必死に走って逃げようとしている。

「逃げるぞ、ソフィア!」

 フランシスが叫んだ、その時だった。

 後ろから走ってきた人が、フランシスとソフィアの間を走り抜けようとぶつかってきたのだ。その衝撃で、フランシスは、ソフィアの腕を離してしまった。

 ソフィアは、反射的に(今が、チャンスだ!)と思うと、フランシスに背を向け、逃げ惑う人の群れに飛び込んでいった。

「ソフィア!」

 フランシスの叫び声が、聞こえる。

 しかし、ソフィアは、一度も後ろを振り返らなかった。


 いつもだったら、ソフィアにまかれるなんてことは起こりえない。断然、彼の方が早いのだから。

 しかし、今回は逃げ惑う群衆がソフィアをすぐに覆い隠してしまったために、フランシスはあっという間に見失い、追いかけることができなかった。イーディスの家に向かったのは簡単に想像ついたが、彼はイーディスの家がどこにあるのか知らなかった。それに時間はもう残されていなかった。

 弟グスタフの消息もわからず、さらに妹のソフィアも見失って大いに頭を抱えたフランシスだったが、他の子供たちを無事に送り届ける義務があったので、ソフィアが無事にイーディスの家に辿り着くことを祈りつつ、後ろ髪引かれる思いで街を後にした。


「はぁっ、はぁっ……。もう……大丈夫……」

 フランシスの手が離れたのを機に無我夢中に走り出したソフィアだったが、後ろを振り返ってフランシスをうまく撒いたことを確認すると、近くの壁に片手をついて、はぁはぁと、肩で息をした。

 心臓が、ばくばくいっている。

 その場でしばらく呼吸を整えた後、顔をあげて、あたりを見回した。無我夢中に走ったつもりだったが、無意識のうちに、イーディスの家の近くまで来ていたようだ。

 今や、大粒の雨が降りしきり、石畳の通りの端には、雨水が濁流となって流れている。

 さきほどとはうってかわり、人もまばらな通りを、ぐっしょり濡れた服の冷たさに体の芯から震えながら、イーディスの家を目指して急いだ。


 イーディスの実家は、この街の中でも有数の規模を誇る薬局を営んでいる。ソフィアは昨年の冬休みにイーディスの家へ遊びに行ったことがあるので、街のどこにあるのかわかっているのだ。

 薬局には、外国から取り寄せた珍しいものも含めて、たくさんの珍しい薬や薬草がところ狭しと並べられていて、独特な匂いを醸し出していた。その匂いには最後まで馴染めなかったが、初めて目にするものばかりで、いつまで見ていても全く飽きなかったのを覚えている。


 歩きだしてから五分もしないうちに、イーディスの実家が営む薬局に着いた。しかしお店は開いておらず、扉は固く閉ざされていた。

 外から二階の部屋を窺うと、この天気の悪い中、灯りは一切ついていないようで、どの部屋もカーテンが閉めきられ、だれかがいるようには見えなかった。

 こういう状況を全く想定していなかったので、ソフィアは店を前に、少しの間途方にくれた。

 それでも、今さらフランシスのところに戻るわけにもいかない。また降りしきる雨の中、体も寒さで限界だった。

 ソフィアは、ダメ元で扉のノックを叩いた。ゴツッゴツッというノックの音が、雨がざぁっと降る中、響く。

 少しの間待ってみたが、扉の中からはなんの反応もない。

 もう一度ノックをしようと手を伸ばした時、扉の中から、バタバタとこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。

「ごめんなさい、しばらくの間、通常営業は……。え!ソフィア!」

 扉をわずかに開けて顔を覗かせたのは、イーディスだった。

「どうしたの?ずぶ濡れじゃない!とにかく入って!」

 さっと手を伸ばしてソフィアの肩に手を置くと、ぐっと家の中に招き入れて、扉を閉めた。

「ちょっと、ここで待ってて。今、拭くものを持ってくるから」

 そう言うと、「お母さん!」と大声で呼びながら、廊下をばたばた走っていった。

 廊下は薄暗く、外と同じくらい寒くて、しんとしている。だが、奥で薬の調合をしているのだろう。あのなんともいえない独特な匂いが、この廊下まで漂っていた。

 イーディスが廊下の奥に消えてからすぐ、前掛けで手を拭きながらイーディスの母親が現れた。

「ソフィア!どうしたの?こんなに濡れて。……とにかく、早く乾かさないと。風邪を引いてしまうわ。

 イーディス!早くタオルを!」

 すぐに、大判のタオルを両手で抱えたイーディスが、小走りにこちらへ走ってきた。

 そのタオルをさっと奪うように受けとると、イーディスの母親はソフィアの頭にふわっと被せ、わしわし拭きながら、

「こっちに来なさい、ソフィア。イーディス、なにか着替えを持ってきて」

 と言うと、ソフィアを抱え込むようにして、部屋に案内してくれた。

 通してくれたのは、居間だった。前に遊びに来た時は冬だったこともあり、暖炉には常に暖かな炎がちらちらと揺れていて、穏やかな灯りの下、居心地のよいゆったりとした空気が流れていた。

 でも、今はしばらくの間人がいなかったのか、部屋はひんやりとしていて、薄暗かった。

「すぐに、火をいれるから」

 と灯りをつけながらイーディスの母親は言うと、暖炉に薪や小枝を入れた。そして、暖炉の上に置いてある小箱から火の結晶を一粒取り出すと、ふぅと息を吹き掛けて、小枝の中に放り込んだ。そのあと、椅子を一つ、暖炉の前に運ぶと、ソフィアを座らせ、せっせとタオルで頭を拭きだした。

 そうこうするうちに、イーディスが着替えを持ってきてくれた。

「私のだけど、これを着て」

「ありがとう」

 そう言って着替えを受けとると、イーディスと母親は部屋を出ていった。

 早速濡れた服を脱いで、用意してもらった服に袖を通す。

 ソフィアは太っても痩せてもいない体形だったが、イーディスはほっそりしており、用意してもらった服は、丈は問題なかったが、腰回りが若干、窮屈気味だった。

 それでも濡れてない服は着心地がよく、ほっと一息をつくことができた。タオルで濡れた髪を包み、服は絨毯が汚れないように、そっと暖炉の脇に置いた。

 火が強くなってきたおかげで、広い居間はじわじわと暖まり始めていた。ときおり聞こえる薪のパチッとはぜる音が、あたりに響く。

 その居間にぽつねんと突っ立ち、暖炉で燃える火をじっと見つめていたソフィアは、急に心細くなってしまった。

「なんで、来ちゃったんだろう……」

 今更ながら、自分の向こう見ずな行動に戸惑いを覚えたソフィアだったが、扉をノックする音が聞こえて、顔をあげた。

「はい」

「入っていいかしら?」

 イーディスの母親の声だ。

「はい」

 お盆に湯飲みを乗せて、イーディスの母親が居間に入ってきた。傍には、イーディスもいる。

「ホットミルクよ。はちみつ、たっぷり入れたから」

 優しい笑みを浮かべながら、白い湯気が立ち上る湯飲みを渡してくれた。

「ありがとうございます」

 ソフィアは、両手で抱き抱えるように受けとると、二人の視線を感じながらも、フーフーと息をふきかけて、一口飲んだ。牛乳の濃い風味とはちみつの甘さが口の中に広がり、体の奥からじんわりとした温かさが広がる。

「はぁ……。おいしい」

 そうつぶやきながら、ついついほころんでしまった顔をあげると、心配そうな二人の顔がそこにはあった。

「ソフィア、なにがあったの?」


 今日の朝、フランシスが学校に迎えに来てくれたところから、街の騒ぎに紛れて一人逃げ出したところまで、全てを二人に話した。

 イーディスは、ときおり質問しようと口を開きかけたが、その度に、母親に制止された。それでも、ドミノ倒しに巻き込まれそうになったくだりには、二人とも、手で口を押さえて息を飲んでいた。


 話し終えると、「そういうことだったのね」と、イーディスの母親がつぶやいた。

「ソフィア、まずご両親に、無事に我が家に着いた旨、手紙を書くこと。お兄さんも心配されているはずよ。

 そして、グスタフさんについてだけど……。

 ソフィア、申し訳ないんだけど、私たちはあくまで薬を調合して軍に納めているだけだから、どの兵隊さんが無事なのかといったような情報までは持っていないのよ。ごめんなさいね。

 ……ただ、明日の朝八時に調合し終わった薬を納入する予定だから、その時に、一緒に詰め所に行くことならできるわ。広場に直接行くのは、今日みたいなことが起きる可能性もあるし、危険よ」

 イーディスの家に来ればなにかわかるかもしれない、という希望が萎み、ソフィアは肩を落としてうつむいた。両手の中にあるホットミルクは、すでにぬるくなっている。

「ソフィア、力になれなくてごめんなさいね。

 ……さあ、朝からいろいろあって疲れたでしょう。とりあえず、お昼にしましょう。イーディス。ここで、ソフィアについていてあげなさい。食事ができたら声をかけるわね」

 イーディスの母親は、憐みの色を浮かべた瞳でソフィアを見つめると、暖炉の脇に置かれた濡れた服をさっと拾い、部屋を出ていった。


「……」

「……」

 薪がはぜる音以外、なにも聞こえない。

 その静寂を最初に破ったのは、イーディスだった。

「……お兄さんの消息、まだ、わからないんだね」

「……うん」

「……」

 お互い、どちらも口を利かなかった。

 そんな中、ふと、ソフィアは今日見かけた医師たちのことを思い出した。

「ねぇ、イーディス。今日広場にいた時、医師が詰め所に向かうのを見たんだけど、彼らは怪我した兵隊さんを見に行ったのかな?」

「うん、そうだよ。炭鉱で暴動が起きた時、大規模な火災が起きたのは知ってるよね?それでたくさんの兵隊さんたちが怪我したから、その人たちの手当てをしてるんだよ。たぶん、かなりの数の医師が詰め所に召集されてるんじゃないかな。近所の医師も、普段は街の人たちを診るだけなんだけど、今回は召集がかかったっていう話を聞いたよ」

 気まずい沈黙が続いたからか、イーディスは饒舌にいろいろと話してくれた。

「今日、人で混雑している中、医師が通ろうとしたんだけど、みんな、なんとか通そうと押し合い圧し合いしてたんだよね。それに、すがるような目で医師のことをじっと見てたんだ……」

「……うん。そうだね。その医師が自分の家族や友だちを治してくれるかもしれないと思うと、神様のように見えたりするんだと思う。すがりたくなったりするんだと思う。

 ……お店によく来るお客様でね。おばあさんなんだけど、この薬を飲み始めてから本当に楽になったの、ありがとうね、て言って買っていかれる人がいるんだ。しかも、街でたまたま会った時にも感謝されるんだよ。

 本当に医療の助けを必要としている人たちにとっては、医師は、きっと神様そのものなんだと思う」

「……うん。そうだね。その人が自分の大切な家族を救ってくれるかもしれないんだよね。……そっかぁ。考えたことなかった」

 ソフィアは七人家族だが、みんな健康で、大きな病気や怪我を患ったりしたことがなかった。ありがたいことに、医師にかかるということがほとんどなかったのだ。

 でも、兄グスタフが、今まさに医師の手当てを受けているかもしれないと考えると、さきほど集まっている人たちから感じた医師にすがりたいという気持ちが、ソフィアにも理解できた。

「イーディス!ソフィア!お昼ができたわよー!」

 イーディスの母親の呼ぶ声が、聞こえてきた。

「行こう、ソフィア。たぶん、今日もサンドイッチだけど」

 イーディスと二人、居間をでて、母親の呼ぶ声がした台所へと向かった。


 台所に入ると、テーブルの上の大皿にサンドイッチが並べられていた。

「ごめんね、簡単で。今、薬の調合に追われていて、さっと作れて食べられるものばかりなの。みんな手が空いた時にさっと来て食べて、すぐに仕事に戻るのよ。

 ということで、私は仕事に戻るから、二人はここでお昼をすませてね。イーディス、ポットに紅茶が入っているから、ソフィアに入れてあげて。ソフィア、慌ただしくて申し訳ないけど、今日はうちでゆっくり過ごしてね」

 エプロンをはずし、手を洗いながらイーディスの母親はそう言うと、仕事に戻ってしまった。

「じゃあ、食べよう、ソフィア」

「うん」

 二人で席について、サンドイッチに手を伸ばす。朝からばたばたしたせいか、チーズや冷肉、トマトやレタスに卵がはさまれているサンドイッチを見ると、急にお腹が空いてきて、ソフィアはただ黙々と口に運んでいった。

 食べ終わった後、熱々の紅茶を二人で飲んだ。以前イーディスの家で紅茶を頂くまで、ソフィアは紅茶を口にしたことがなかった。いつも、家では水か牛乳、ハーブティーだ。始めてここで紅茶を飲んだ時、こんなにおいしい飲み物があるなんて、と感動したのを今でもはっきり覚えている。今日も、ふわっと漂う豊かな香りをかぎながら口にする紅茶は本当においしくて、少し元気がでてきたような気がしてきた。

 その時、ふと、今日は薬局が閉められていたことを思い出した。確か、前に遊びに来た時は、日曜日以外は開いていて、お客さんも頻繁に出入りしていたはずだ。

「そういえば、ここに来た時お店が閉まっていたけど、それって軍に薬を持っていくからなの?」

「うん、そうなの。最初、お父さんはお店を閉めるのには反対だったんだけど、かなりの量の納入を要請されたから、そうでもしないと対応できないんだよね。でも、持病とかで普段からうちで薬を処方している人には調合して渡してるんだ。じゃないと、お客様困っちゃうから。だから、新規のお客様だけお断りさせていただいてるの」

「そっかぁ。イーディスも調合したりしてるの?」

「ううん、私はしてない、というかできないの。調合は資格を持ってないとしちゃいけないことになっているから。だから私がしてるのは、調合した薬の封詰めとか、薬の原料の買い付け、後は料理とか掃除、洗濯みたいな家事かな。今、従業員のみんなだけじゃなくて、お母さんもずっと仕事をしているから、そういったことは私がやっているんだ」

「大変だね……。

 そう言えば、イーディスは、将来薬師になってお店の跡を継ぐんだっけ?」

「うん、そうだね。私一人っ子だから、そう親から言われてきたっていうのもあるけど。でも、自分自身薬師に興味があるんだ。小さい頃から薬の調合を間近で見てきたから身近に感じるし、責任はあって大変だとは思うけど、とてもやりがいがあると思うの。それに、薬師ってどちらかというとこつこつと地道な作業をこなすことが苦にならない人が向いているんだけど、私そういうの嫌いじゃないんだよね」

「うん、イーディスは向いていそうだね。きっと薬師になれるよ」

「ありがとう。

 ……先の話だけど、ソフィアは将来進みたい道は、まだ考え中なんだよね?」

「うん……。そうね……」

 そう答えるソフィアの頭の中に、今日見た医師の姿がぼんやりと浮かんだ。



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