第2話 娘の変化

 夜中、

「うう……うっ………、ううっ!?」

 と、何か悪い夢にうなされて淳之は目を覚ました。

 となりの布団で妻がうるさそうに寝返りを打った。

 淳之は妻を起こさないようにそっと立ち上がると廊下に出た。

 台所で水を飲もうと思ったが、頭が鈍く重い痛みを発していた。居間の薬箱に頭痛薬が入っている。どうも神経質なところがある淳之は以前睡眠薬を常用していたが、かえって良くないのではないかと妻に言われ寝室には置かないことにした。

 勝手知ったる家の中、淳之は真っ暗な居間に入っていき、手探りして電灯の紐を引っ張った。

 パカパカッと白い光が瞬くと、すぐ側に娘由香が突っ立っていた。

 淳之は我が子ながら暗闇から突然の出現に「わっ」とびっくりして腰が引けた。

 由香はぼんやりした目で淳之を眺め、「フッ」と息をつくと、

「驚いた?」

 ニヤニヤ笑いながら淳之の横をすり抜け、廊下に出ると、2階の自分の部屋へ階段を上がっていった。

 淳之は心臓をドキドキさせながら娘の後ろ姿を見送り、

「こんな真っ暗なところで何してたんだ? 寝惚けてんのか?」

 といぶかしく思った。


 翌朝、由香はふつうに起きてきて家族で食卓に向かい、いつものように淳之が先に家を出た。由香に変わったところのないのを見て淳之はなぜかひどくほっとしていた。

 しかし、淳之の方に異変があった。


 通勤のホームで、満員電車の中で、オフィス街の通りで、会社の中で、自分のオフィスで、ずうっと、絶えず、誰かに見られているような気がした。

 それとなく辺りをうかがっても視線を送る相手は見あたらなかった。淳之は至極当然に自分の気のせいだと思った。

 原因は、敢えて考えなかった。

 淳之を見つめる視線は一向に消えず、帰りの電車の中までずうっとついてきた。駅から商店街を抜けて住宅地に入り、自分の家の通りに入った途端に視線の気配はピタリと止んだ。

 それがかえって不気味に感じられた。


 そんなことが数日続いた。


 ある日帰ってきて「ただいま」と玄関の戸を開けると、パジャマ姿で頭にバスタオルを乗っけた由香が階段を上がろうとしているところで、「お帰り」と挨拶を返し2階へ上がっていった。

 「お帰りなさい」と妻が迎えに出てきて、階段の方を気にする風に声を潜めて「あなた、ちょっと」と手招いた。手招きながらさっさと奥に入っていく。淳之が追うように寝室に入ると妻が言った。

「由香の様子が変なのよ」

「由香が?」

 さっきの様子を思い出す。別にどこも変わったところはなかったが? のんびりした淳之の様子に苛立ったように妻は言った。

「変に明るいのよ。いかにも空元気って感じで。何か隠しているっていうか、悩んでいるっていうか」

「年頃なんだし、気になる男子でもいるんじゃないか?」

 下世話に軽く考える夫に妻は苛々して怖い顔で言った。

「そんなんじゃないわよ。そういうことなら母親のわたしに分かるわよ。そういうことじゃないのよ!」

 妻の真剣な様子に淳之もまじめに向き合った。

「いつからだ?」

「今週になってからよ。そう、月曜から。あら?って思ったのよ。その時はちょっと気にかかっただけだったけど、日増しに、変だ、って強く感じるようになって」

 淳之は背広をハンガーに掛け、ネクタイをゆるめ、黙々と日常の動作を続けて、部屋着に着替え終えると黙って見守っていた妻に言った。

「まあしばらく様子を見よう」

 妻は不満げで、言おうか言うまいか迷っていたことを言った。

「あなた、あたしもしかしたらあの子、学校でイジメに遭ってるんじゃないかって心配なんだけど……」

 淳之は真剣にしかし冷静に妻に訊いた。

「そんな様子があるのか?」

 妻は悩ましく頭を振った。

「分からない。でも、なんとなくそんな風に思えてしまうのよ」

 淳之は妻の肩をポンと叩いた。

「今どきの子供の親はみんなその心配をするさ」

「でも……。あの子あなたに似て変に正義感の強いところがあるでしょ?」

「そうかな?」

「それで悪い友だちに目を付けられたりしてるんじゃないかしら?」

「うん。しかし、やはり様子を見よう。まあ待て。由香を信用して、しばらく様子を見よう。由香が何か言いたくなったら素直に言えるように、俺たちはオープンに構えていよう。な?」

「ええ……」

 妻は一応自分を納得させて淳之の夕飯の支度に台所へ入っていった。

 淳之はトイレに入った。

 ふたを開け、立って用を足す。思わずはあー……と緊張の抜けたところへ、突然、強烈にあの視線が突き刺さってきた。

 淳之はギクリと正面を見た。ちょうど目の高さにある小窓、その真っ黒なガラスの向こうに、


 あの男が立っているような気がしてならなかった。


 唇を気味悪く歪め、ニヤニヤ淳之を嘲笑っている。

 淳之はブルリと震え、ファスナーを引っ張り上げるとカギを開け小窓に手をかけた。

 ソロリと開ける。

 夜の暗がりに換気の筒と隣家の壁がぼうっと浮かんでいる。首を伸ばして辺りを見渡しても誰の姿もなかった。

 馬鹿馬鹿しいと窓を閉める。

 そんなわけはない。

 まさか、

 あいつのわけはない……、と…………。



 翌週の月曜日、朝。由香が起きてこなかった。

 淳之は寝不足の不機嫌でふやけた顔でトーストを頬張りながら、妻の娘を呼ぶ声を聞いていた。妻がやってきて言う。

「ねえ、ちょっとお。由香が、起きたくないって……」

 困惑顔の妻に淳之はついブスッと言った。

「起きたくないって、遅刻しちまうだろう?」

 妻はますますどうしたらいいか分からないように言う。

「だからあ、起きたくないってえ……」

 淳之はチラッと苛ついた目で妻を睨んで言った。

「起こせよ。そんな我がまま許せるか」

 立ち尽くす妻に淳之もため息をついて訊いた。

「なんだ? 由香、どうかしたのか?」

「きのうね……」

 妻の言うにはきのう日曜日、由香は友だちと待ち合わせてどこかに遊びに行って、7時を過ぎて帰ってきた。厳しくは言っていないが一応門限は6時と決めている。夕飯も食べてきたそうで、そのまま部屋に入ってしまった。その後風呂に入ったりするのにチラチラ姿は見たが、今朝までまともに顔を合わせて話していなかった。

 淳之はきのうは会社でトラブルがあって休日出勤し、帰宅は深夜だった。

「……俺が話してくる」

 むっつり立ち上がった淳之に妻が慌てたように言う。

「あなた、由香にあんまり……」

「分かってる」

 淳之はハア、と一息吐いて娘の部屋に向かった。


 ノックして呼びかける。返事はなく、「開けるぞ」とドアを開いた。カーテンが閉めきったままで薄暗かった。由香はベッドの上で布団を頭からかぶって寝ていた。

「由香。時間だよ。起きなさい」

 無言。

「学校に遅れるぞ。学校、行かないのか?

 ………………………

 由香」

「行かない」

 ボソリと答えた。

「…………由香…………」

 待ってもそれきり答える気はないらしい。淳之は自分に、辛抱強く、と言い聞かせた。

「そうか。じゃあ、父さんは会社行くからな。休みたいなら、休んで、落ち着いたら母さんに顔を見せてやりなさい」

 そっとドアを閉め、時間が迫ったこともあり淳之はけっきょく妻に任せて家を出た。


 昼休みに家に電話した。

 妻は欠席の電話をかけた時に担任に由香の学校での様子を聞いてみた。元気にやっていると言う。由香の担任はまだ若い男性で、どうも頼りない。

 由香は、まだ部屋から出てこないと言う。


 定刻に会社を出て帰宅すると、妻は泣き出しそうな青い顔で出迎えた。

 淳之はそのまままっすぐ2階の娘の部屋に向かった。あなた、あなた、とうろたえた妻が追ってくる。

「由香。父さんだ。入るぞ」

 ドアを開け、電灯をつけた。

 由香は朝見たまま布団に潜って丸まっていた。

 淳之は険しい顔で言った。

「由香。学校でイジメに遭ってるのか?」

 娘は答えない。

「どうなんだ?」

 じっと答えない。ふだん優しい父親の険しい声に怯えているようにも感じられる。

 淳之は険しい声のまま言った。

「もしいじめられているなら、無理に学校なんか行かなくていいぞ」

 丸く盛り上がった布団がかすかに動いた。妻も慌てて「あなた」と手を引く。淳之はその細い手を両手で包み込んで娘に向かって言う。

「学校は生徒なんか守ってくれない。取り返しのつかないことが起こってしまってからじゃ遅いんだ」

 淳之の両手の中で妻の手がグッと握り返してきた。

「起きなさい、由香。父さんも母さんもおまえの味方だ。父さんたちは絶対おまえを傷つけさせるようなことはしない! さ、起きて、いっしょにご飯を食べよう」

 待っていると布団がもぞもぞ動いてパジャマ姿の娘が顔を現した。幼い子どものような顔で涙を流していた。

「さ、おいで」

 淳之は優しく娘に手を伸ばした。


 翌日。

 淳之は会社を早退して由香の中学校に担任に会いに行った。

 あらかじめ電話を受けて待っていた担任教師は見るからにガチガチに緊張していた。

 淳之は訊ねた。

「失礼ですが、先生は教師になられて何年目です?」

「今年が初めてです……」

「ではずいぶんご苦労されていらっしゃるでしょうね?」

「ええ……、まあ…………」

 彼が善人であるのは分かる。今年教師になりたてなら理想の教師像、理想の学園像を胸にいだいて一生懸命やっているであろうことも想像できる。が、しかし。先生というのはそれだけではダメなのだ。このお坊ちゃんお坊ちゃんした若者が、教師として経験不足で力不足なのは明らかだ。

「先生は、日頃イジメ問題への対処はどうされています?」

 緊張しきっていた教師は理想に目を輝かせて張り切って言った。

「ホームルームの時間に折を見て生徒たちに話しています。日頃からできるだけ生徒たちに話しかけ、彼らとの信頼関係を築くよう努力しています」

 ニッコリ笑う彼に同調してうなずき、淳之は問うた。

「それで、クラスでそのような問題はありませんか?」

「ええ。皆、仲良くやっています」

「イジメの兆候など、ない?」

「……ええ、ない、と思います……………」

 じっと見つめる淳之に表情が泳ぐ。

「ない……です…………」

「そうですか」

 淳之はわざともったいぶった間を取る。授業の空き時間に時間をもらっている。職員室のしきりに囲まれた応接テーブル。出入りの一角から丸見えだし、話し声も丸聞こえだ。担任教師は同じく授業が空きで机に向かって書類仕事をしている同僚たちの存在を気にする。虚をついて淳之は問う。

「昨日今日と2日間娘が休みました」

「え? ええ……」

「何もありませんか?」

「ええ……」

「みんな仲良く?」

「はい………………」

 淳之は威圧するように恐い目で教師を見た。

「娘が丸1日食事をとらずに真っ暗な部屋で布団に潜って泣いていて、それでクラスはニコニコみんな仲良くしていたわけですか?」

「い、いや、ちょっと待ってください!」

 教師はたまらず手を振って問い返した。

「つまり、お嬢さんがクラスでイジメにあっていると、そうおっしゃるんですか?」

「そう疑っています」

「いや、そんな、まさか……」

 若い教師は狼狽し、唇を噛み、しきりと視線を泳がせながら考え込んだ。

「たしかに……、先週は元気がなかったような気がしたが……」

「妻への電話では元気にやっていると言ったそうですが?」

「揚げ足を取らないでください。……ううん……、いや、僕には分かりません。他の生徒たちにもそんな様子は見えないし……。いや、きっとそうです、お嬢さんの元気のない様子を生徒たちも気にかけているんです。イジメなんて、そんなことは、ないです」

「言い切れますか?」

「僕は生徒たちを信じます。イジメはいけないって、いつも言ってるんです。きっと、別の原因があるんです」

「別の原因ですか?」

「そうです。いろいろ敏感な年頃です。ちょっとしたなんでもないことを思い詰めたりしてしまうこともあるでしょう? 僕が話してみます。話し合って原因が分かれば、なんでもないことなんだって、本人も納得するでしょう」

 淳之はじっと教師を観察した。彼は自分の言葉に酔っている。理想の師弟関係を夢見て、冷静な現実認識ができていない。

「娘と話してくださるのはけっこうですが、それなら、きちんと娘の言葉を聞いてやってください。そして、自分の手に余ると思ったら、早急に他の先生方に相談するなり、警察に相談するなりしてください」

「け、警察う!?」

 声が裏返った。淳之はソファーから立ち上がり、部屋にいる全員に聞こえるように言った。

「子どもたちはみな、本心はいい子たちばかりだ、なんて考えないことだ。ニュースを見ていれば、最近の子どもがどれだけ狡くて残酷か、分かるだろう!? 子どもだろうがなんだろうが、悪い奴っていうのは徹底して悪いものなんだ!!」

 淳之は胸にわだかまるイライラを鼻から太い息で吐き出して、

「どうも失礼しました」

 と、礼儀正しく頭を下げて辞去した。

 担任教師は他の教師たちと呆気にとられながら見送った。


 廊下を歩きながら淳之は思っている。なんとも大人げない。しかしあれだけ脅してやれば、少なくとも由香がケガをさせられるようなことだけはないだろう。

 ふと自嘲する。

「最近の子どもたち……か…………」

 もうめったに歩くことのない学校の廊下を歩きながら思う。体育館からピーッという笛の音や、どこかの教室から生徒たちの英語のセンテンスを読み上げる声が聞こえる。

 淳之は自分の学生時代を思い出す。

 あれも、中学1年生の時だった…………

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