いつもの夜とは違った。
京 志鳴
いつもとは違った夜。
いつかの夜。
常磐線で江戸川を越えるとそこはもう東京と呼べる場所だった。
背の低かった建物達がだんだんと視界を遮るかの如く成長していくように見えた。寄りかかる壁から電車の振動が伝わる。手を入れているポケットからは誰かから連絡でもきたのか、携帯が震えていた。取り出すこともなく手探りで電源ボタンを探し、通知のバイブを止める。その瞬間、謎に張り詰めていたものがなくなったような気がした。小さくため息を吐く。
どう言い訳しようか、と考えながらも体は進んでいく。今日はしっかりと仕事が入っている日だった。過去形になってしまっているのは、そういうことだ。もうそろそろ職場の最寄駅を五駅過ぎた頃だろう。そもそも降りるつもりもなく電車に乗ったわけだが。また電話が掛かってくるんだろうなと考えると同時に、どこか自分が一皮向けたような清々しい気持ちでもあった。私に目的地はなかったが電車はそろそろ終点に着くようで人々が降りる準備をし始めた。
ドア付近によく立つ人間ならわかると思うが、どうしてこうも大多数の人間は早く降りたがるのだろうか。そんな不満を持ちながら後ろから圧とも言えるような力で押してくるサラリーマンを睨む。目があったところで気にもしないかのように大きく鼻息を漏らすそいつに苛立ちが募るだけで、私は怒りの矛先を変えるためにと携帯を取り出す。電源をつけると案の定、画面には仕事先からの着信履歴が残っていた。ため息も漏らさずにそのままその通知をタップした。電車が止まると同時にリリリ…と鳴り出す。後ろからさっきのサラリーマンからだろうか、舌打ちが聞こえた。
常磐線品川行きの電車から人がどっと溢れる。その中に携帯を耳にあてる私もいる。呼び出し音が鳴り止んだかと思えば携帯の向こうから「あ、やっと出た。」なんて気だるい聞き慣れた声がした。「今日出勤だよ、もしかして忘れてた?」その言葉にどう返そうかと考えるが「あー、」としか声に出せなかった。「今どこにいるのよ」「今ですか、」歯切れの悪い言葉を返しながら掲示板を見上げる。正直に言おうか嘘でも吐こうか迷っていたが、無慈悲にもホームのアナウンスから駅名が告げられる。
「は?お前今、品川駅にいんの?」その言葉に一人で、あちゃあ、という顔を浮かべながら私は歩き出した。もとより今日は働ける気分ではなかったから逆にこれはこれで面倒臭くないとも思った。「そうらしいですわ。なんか戻りの電車がしばらく動かないらしいので今日は出れそうにないす、すいませんす。」はきはきともしない声で返す。ちょっと待って、なんて声が聞こえたような気がしたけれど携帯からはツーツー、と聞こえるだけだった。耳から離してその画面をぼうっと見ていると人がぶつかってきて再度、自分は人波の中にいることを知らされる。
人もたくさん行き交っているし沢山のお店で賑わっているが、ターミナル駅特有の無機質さと湿った匂いを感じた。特に目的もなく彷徨っていた私だったがふと見知った掲示板が顔をあげるとそこにあった。
十二番線 JR東海道本線 熱海行き 十九時五十二分発
オレンジ色のそれにフラッシュバックされる二年前の記憶。記憶と言ってしまえる時点でなんだか寂しいような気もした。知らず知らずのうちに眉間に力が込められていることに気づいた。
─どうしたのそんな顔して。その言葉と誰かの笑顔が思い出される。そうして撫でられる眉毛と眉毛の間。無意識に左腕をさすってしまう。私は思い出を全て芸術として左腕に刻んでいる。それぞれ、文字、鹿、花、それと少し不思議な絵。人間はどうしても時間に思い出を奪われていく。それが例え望んでいたことじゃなかったといしても。それなら、と私は思い出が消えかかってもいつでも奪い返せるようにと黒いインクで残していた。
あれから二年経ってしまったが、私の気持ちは変わらずだった。その思い出の人には「君ならきっと大丈夫、もう少し大人になれば私のことなんか忘れられて幸せになれるよ。」なんて微笑まれていたけど、残念ながらその予測は外れていたよなんて笑いたくなった。─若いから。と済ませるにはあまりにも私は進み過ぎてしまっていた。連れて来られたのだろうか。どちらにせよ、そう頼んだのは私だった。あの頃は大人のふりを一生懸命にしていた。どうにかあの人に追いつけるようにと、経験も知識にも差はできてしまうかもしれないけれどそれを必死で埋めようとはした。そこにきっと不安定さが徐々にできていったのだろうか。彼女もきっと気づいていたのかもしれない。私が躍起に頑張っていたのは、もともと壊れている部分を隠すことだけだった。
ポケットの中の携帯がまた震える。はっとして気づけば自分の息が少し荒くなっていた。大きく息を吸い込むも喉のどこかがちくっとして咳き込んでしまった。いつか昔の夜もそうだった。泣きじゃくりながら、そして息が整わない私を彼女は必死に背中をさすって救い出そうとした。あの日は酔っていたにせよ、きっと間違いだった。強くいようとした結果が裏目に出てしまった。初めて心を許してしまった相手だったから、きっと無意識のうちに弱い自分を出したくなったのかもしれない。弱さを誇示して強くなろうとしていたのかもしれない。そんな強さ、誰も羨むわけなんてないのに。
目の前にはJR東海道線のドアがあった。開いているにもかかわらず乗り込まない私を周囲の人はちらっと一回見ては不思議そうな面を残してドアの向こうへ姿を消す。
「馬鹿だなあ、」自笑して電車には乗らず横目に見て歩き出す。今更会いに行ってみようとしたって彼女はもうあの場所には居ないのに。きっと二人が一緒にいた場所ではないどこかで、幸せに暮らしているはずなのに。そう思っても歩き出す体とは正反対に、心がどこかへ置き去りにされたようでなんだか落ち着かなかった。そわそわする。ただ単に脈が早くなっているのかもしれない。ちゃんと地に足は着いているだろうか。
その瞬間、東海道本線の発車メロディーが鳴る。─十二番線、ドアが閉まります、ご注意ください。と都内の駅特有の男性の声で放送される。ドアが閉まるのを目で見ながらため息をつく。「本当に馬鹿だなあ。」こんなに人がいる中で泣いてはいけないと顔をあげ右から左へ流れていく景色を少し潤んだ瞳に写した。
ぼうっと半無意識でもあったのか、昔の癖なのか手に持っていた荷物を全て鞄へしまう。そしてアナウンスが聞こえた。
─まもなく、横浜、横浜、お出口は右側です。
いつもの夜とは違った。 京 志鳴 @kebabuyamada
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