雑草のシンデレラ
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雑草のシンデレラ
喝采の中心では小さな踊り子が綺麗なお辞儀と共に今宵の幕引きの感謝を伝えている。観客は一斉に席を立ち、踊り子の少女に盛大な拍手を送った。
顔を上げても拍手は続く。鳴り止まない拍手に高揚し、胸が、頬が沸くように熱くなる。それは身体からも溢れそうなほどで、思わず踊りで表現したくなったが、既に本日の舞台は終わっていた。だから息を吐き、熱を呼気として出すことで一時的に熱を下げた。
下手へ向かうとスポットライトが後を追ってきた。
最後まで、美しくあれ。
努めて背筋を伸ばし、しっかりと前を見据え、軽やかに歩を進めた。
刹那、幕前で足を留める。躊躇いは舞台から下りることへの名残惜しさのためだ。あと一歩進めば、もう今後一切舞台に立つことはない。
無意識に、ここまでやってきたこと、生きてきた月日を思い返していた。
後悔は一つもない。
少しの寂しさを胸に抱き、「またいつか会えますように」と人知れず呟き最後の一歩を進む。呟きは拍手の音にかき消えて誰にも届くことはない。しかし観客の記憶には、小さな踊り子の舞台上で舞う姿がはっきりと残るのだった。
◆◆◆
小さな踊り子はヒメと呼ばれる。
千年に一人の逸材。
演劇界を震撼させる一筋の光。
『あの踊り子には秘密がある』
そう言ったのは大道具係で、あまりに突拍子の無いことを言うものだから、聞いた者たちは笑い飛ばしたものだった。
けれど誰もの胸にはこんな思いもあった。
━━彼女の噂ならば、どんなことでも信じられるだろう。例え彼女が天使や神や、はたまた悪魔だったと打ち明けたとしても、誰も疑いはしない、と。
コンビニで買ったクリームパンを口に詰め込みながら、彼女について考えていた。眠気を誘う朝の電車の中、行儀が悪いと分かっていつつも、朝ごはんをこうして食べている。あまりにスマートさに欠けていたけれど仕方がない。これから稽古でかなり動くので、エネルギーが必要なのだ。
それに今は誰も自分のことを見ていない。みんなスマートフォンとにらめっこして、にらめっこしていないなら小説を読むか、この後の仕事や学業のために目を瞑り一時の眠りに浸っている。斜め向かいに座る女子高生はそのどちらにも当てはまらないが、左手に鏡、右手にビューラーを武器のように手にして幼い顔を大人びさせようと奮闘していた。
周囲の人間の視線の外側にいるならば、多少の行儀の悪さも許される気がしていた。バレると良くないのは分かっていたが、オーラも何もない僕だからそんなことを気にするよりもエネルギーを摂取していたい。大方、今の僕は寝坊した大学生くらいにしか見えないだろうし。
もしも彼女がしていたならどうだろう?
電車でクリームパンなんて食べていたらかわいいだろうなと思う。手の届かないほどの人が庶民的なことをしていると、どこか親近感が湧くものだ。とはいえそもそも彼女はいつも車移動のようだから、そんなシチュエーションはあり得ないのだが。
彼女━━久遠姫(ヒメ)は新進気鋭の舞台俳優だった。
つい半年ほど前のこと『明治の国のシンデレラ』という明治を舞台にしたミュージカルのオーディションで、彼女は才能を見出だされる。
オーディションの日、一台のバンがスタジオの前に止まったという。後部座席の扉が開き、可憐な桜色のハイヒールを履いた少女が降り立った。少女は、運転席へと回り運転手に礼を言う。
「春の舞姫に、ご多幸を」
運転手の男はそう言って彼女を送り出した。
彼女は全くの無名で、履歴書にも当たり障りのないことしか書いていなかった。これまで舞台に立った経験すら無かったらしい。
演技は普通。歌唱力は平均より少しあるくらい。ダンスの部門で彼女の真価は発揮される。
課題曲がかかり、ステップを踏む。あまり見たことのない踊りだったが、おそらくかつてバレエや日本舞踊をやっていたのであろう動きだった。頭の上から指先、足先まで意識して、自らを律しながらも曲に合わせて楽しげに踊った。そのとき季節はまだ冬の寒い日だったが、春の訪れを全身で表現して新緑の中で舞い踊るかのような無邪気さがあった。
素朴なのに味がある。洗練されていないが、人を惹き付ける魅力がある。
『彼女のダンス無しに、このミュージカルは完成しない!』
監督に絶賛され、有力候補がいたにも関わらず彼女は見事舞台の主演を勝ち取ったのだった。
また、普通だと評価されていた演技と歌唱力は言い換えれば伸び代であり、練習する中でめきめきと上達していった。
そうして、まだ一度も開演していないというのに話題になり、彼女の存在は世に知り渡りつつあるのだった。
スタジオに着いて、僕は自分の《木嶋至(イタル)》という札を表にする。控え室で着替えて台本を持って稽古場へ。既に人はほとんど揃っていた。
このミュージカルは、いわゆるシンデレラの明治時代バージョンの設定の話だった。
ヒメは踊る場面が多いので、衣装の感覚を掴むため丈の長い和装の羽織を纏っている。その隣では相手役の俳優がヒメに笑いかけていた。
正体不明の新人俳優に相手役の男性俳優もはじめこそ彼女の実力を疑っていたが、稽古が始まればそれは杞憂に終わる。
いわゆる脇役の僕としては、やはり彼女の正体が気になっていた。彼女にはあまりに生活感が無い。これまでの経歴はほとんど分からず、彼女自身も共演者とあまり話す方ではなく、こうして近くにいるにも関わらず謎は多い。
「みとれてんなよ!」
そうして二人の演技をぼーっと見ていたら、ペシンと台本で叩かれて先輩に怒られる。分かってる。本当は彼女の謎を追う暇などない。
「彼女について、気になるじゃないですか」
「そんなことやってる場合か?暇人め。そんなことを考えてる暇なんてないだろう?だからお前は━━」
その後に続く言葉は途切れて、代わりに「なんでもない」と一言いって先輩は稽古に戻っていった。
『だからお前は━━そこ止まりなんだ』
きっと、そう言おうとしていたに違いない。
僕が子役として持て囃されたのも今は昔。自分でも分かってる。可愛かった子ども時代の栄光にいつまでもすがっていられる訳も無く、ネットニュースにも落ちぶれたなんて書かれてしまって。
だからって、どうすればいいんだ?
パッとしない。
実力がない。
才能がないことを突きつけられてしまった。
本当は役者なんてもう辞めるべきなのかもしれない。けれど、自分にはそれしかないからと、すがるように役者を続けている。
稽古が終わり、僕は帰る支度をする。
ほとんどの人が帰っていく中、ヒメはまだ残っていた。目が合ったと思ったが一瞥するのみで練習に戻っていった。
同じ舞台に立つのに、僕は眼中にすら入らない。そんなもんだよな、とため息を吐きながら僕は稽古場を出た。
時刻は七時でさすがに腹が減っていた。だから、近くのラーメン屋で腹ごしらえをする。そうしてラーメン屋を出ると、自主練習を終えたらしいヒメが大通りで迎えの車を待っていた。時計を見れば八時半を過ぎている。あれからずっと練習していたのかと思いつつ、「お疲れ様です」と挨拶をして通り過ぎ━━ようとしたのだけれど。
目を伏せて軽い会釈で僕の挨拶に答えたが、様子がおかしかった。
泣き出してしまいそうな、いつも真っ直ぐに前を向いている彼女とは明らかに違い何かに怯えているような様子で、違和感があった。
ふと背後からの人の気配に気付く。彼女はどうやらその気配に怯えているらしい。
「大丈夫?」
助けを求めるような目だったから、そう尋ねれば一つコクリと頷いた。
「マネージャー、遅れるみたいで……」
スマートフォンの画面を確認し、背後をチラリと窺うように見る。
僕はそんな彼女を置いてこのまま帰るわけには行かなかった。なんせ、その人影にはどこか悪意のような物さえ感じられるのだから。
「行こう」
「え?」
「巻く。安全なところに行こう。マネージャーに後で連絡して」
彼女の肩を叩き、付いてくるように言う。
人通りの多い道に入り、そのままオフィス街へ。以前来たことのある事務所が近くにあったから、暗証番号を押してビルに入った。ここならば安全だろうし、知り合いに会っても事情を話せば分かってくれるだろう。
階段室に入り二人で一番下の段に座った。さすがにここまでは追ってこれない。
「もしかして、ストーカー?」
「そう、みたいで」
「こんなことは前にも?」
「……降板を願う人がいるらしくて。前に手紙も送られてきた」
「誰か分かる?」
「わからない」
「恨まれる覚えは?」
「ないと、おもう」
そして、続けた。
「━━恨まれるということが、よくわからない」
本心からそう言ったようだった。《恨む》という感情が分からないという人がいるとは思えなくて、僕は聞いた。
「オーディションに落ちたときとか、恨みたくならない?」
僕にはある。その人がいなければ、僕がその役になれたのではないかと思い、恨むことが。お前さえいなければ、と。
「ならない。実力が伴わなかっただけだと思うから」
そう返答した強さが、あまりに眩しく思えた。
「強いんだね」
「強くない。しんどいこともあるし」
「しんどい、か」
「しんどいけど、楽しいわね。人間って」
「こんなことがあった後でも言うの?」
「ええ」
彼女と僕は、やはり違う場所にいるらしい。こうして隣にいても、遠い存在なのだ。
少しの間が出来て、気まずい沈黙が流れる。話題を探そうと思って脳裏によぎったのはあの噂だった。
いわく、『あの踊り子には秘密がある』。
「君には秘密があるの?」
「ある」
捻りもなく聞けば、彼女は妖艶に微笑みながら告げ、
「━━と言って、信じるの?」
次の瞬間ににっこりと楽しそうに笑う。
彼女も冗談を言うのかと僕は面食らってしまった。
「馬鹿げてるわ。今ここに見えてる私が全てよ」
彼女は話を続けた。
「憧れてる人はいたのよ。有田里奈っていう俳優。知ってる?」
「もちろん」
有田里奈さんはかつて僕と同じように子役をやっていて、会えば挨拶や世間話くらいはするくらいの仲だった。僕とは違って今も主役を演じる技量を持つ人だ。この舞台も、元々有田さんが有力候補だったのただ。
「昔ね、くるくると道の真ん中で踊る女の子がいたの。その人が有田さんだった。有田さんは舞台に立つ人だと知って、憧れて舞台に立つのが私の夢になった」
夢を語るヒメは、いつもよりどこか近くに感じられる。聞きながら、そういえば僕も昔は憧れる俳優がいたことを思い出していた。
「ねぇ、花は好き?」
「まぁうん、好きかな」
「私ね、お花屋さんに居候してるの。知ってる?フラワーショップ日野」
その店には覚えがあった。
「もちろん、劇場の隣だもの」
劇場に飾るスタンドフラワーも請け負う花屋だった。何度か店主も見たことがある。
「居候ということは、どこか遠いところ出身なの?」
自然な流れで聞いたから、すんなり答えてくれるものと思っていた。しかし彼女は少し考えた後にこちらを向いて。
「……秘密よ」
人差し指を唇に当てて、一つ秘密を増やすのだ。
そうして三十分ほどが経った頃に彼女のスマートフォンが鳴った。マネージャーがビルの側まで来たのだ。
ビルを出るともう怪しい人影は無く、狐目のマネージャーが立っていた。目を細めて探るように僕を見る。不躾な視線が不快ではあったが、こんな状況なら仕方ないだろう。
「彼は一緒に待ってくれてたの」
ヒメが言うと、マネージャーの纏う空気がふっと、紐を解くようにほどける。
「悪かった、ありがとう」
狐目の男はそう手短に礼を告げた。
そうして彼女は車に乗り込んで、去っていった。
舞台の上で舞い踊る少女は今日も楽しげにステップを踏む。
彼女の舞う姿を見る度に、くすぶるように胸が痛んだ。
今日も彼女は素晴らしい。才能に溢れていて、周囲を魅了して視線を集める。
ならば、自分は?
自分……は?
悩んでいる内にどんどん凹んで自信を失っていく。
かつて子役だった頃の自分は、どうやって舞台に立っていただろう。才能のない自分は、どうすればいいのだろうか。
正解なんて無くて、ドツボに嵌まっていく。何より、鬱々としている自分が嫌いだった。
稽古が終わると、ヒメは今日も練習をしていた。そういえば、いつも残っている。彼女は本当に才能でここまでやってきたのだろうか?誰よりも練習をしている彼女は、努力をしてこの場にいるんじゃないのか━━?
今日の練習終わりは六時で、丁度帰りのラッシュに巻き込まれてしまった。満員電車に乗り込むと「おつかれさまです」と声が聞こえて、振り向くとヒメが人に揉まれながらなんとか立っていた。僕は移動して、手すりを掴める場所を彼女に譲った。
「電車なんて珍しい」
「マネージャーは神事があるらしくて」
「……シンジ?」
「本業みたい」
「そう、か」
「私も少し用事があったから、丁度良かったの」
シンジという言葉を頭の中で変換出来ず、またマネージャーは本業ではないことを不思議に思っていたが彼女は説明する気も無いようでそのまま話題は終わる。
そうしている内に次の駅に止まり、扉が開いて人が入ってきた。
そのとき、突然目を疑うことが起きた。
ジャキン、という音。
銀色に光る刃物。
そしてハラリと彼女の肩に黒髪が落ちた。
彼女の頬にかかる髪が、切られたのだ。
逃げようとするその人の腕を、彼女の腕が素早く取った。その人が先の尖ったハサミを突き立てようとしたから、僕は慌てて手首を叩いてハサミを落とさせる。
金属音が辺りに響いた。
「やっと、捕まえた」
ヒメは震えてはいたが━━目を見れば分かる。彼女は恐怖ではなく、怒りに震えているのだ。
そして目の前にいたのは、有田里奈。ヒメの尊敬する、今回の舞台の有力候補だった人だった。
「あなたが私の場所を盗ったんだ。あの役は!私がするはずだったのに!!なんでどこの誰かも知らない奴が、この私を置いて主演になったわけ!」
泣き叫ぶような声で、有田さんは悲痛に言う。
「ずっと頑張ってきたのに」
「実力が無かっただけでしょう」
冷たい言葉ではあったが━━紛れもない事実でもあった。それにその言葉は、ヒメだからこそ言えるのだ。
この人は努力で勝ち取ったのだから。
「あなたは、何をしているの?こんな嫌がらせをして、主役になれるとでも思ったの?降板するとでも思った?」
努めて冷静に、ヒメは尋ねる。
「だって……主役は私のはずだった。その場所は、私の居場所になるはずだった。イタルだって分かるでしょう?恨んだことが無いなんて、言わせない。自分には才能がないことを呪ったことが無いなんて、言わせない」
ああ、有田里奈は僕だ。
努力し続けなければ、自らを更新し続けなければすぐに取って代わられる。それでも僕たちはこの場所を、舞台に立つことを選んだのだからやるしかない。
「だから何?だから私の場所を奪おうとしたというの?それであなたは満足したの?違うでしょう?自分の居場所なんて自分の立つ場所にしかないに決まってるじゃない!
悔しいなら、ちゃんと根付かせて咲けばいいでしょう。あなたなら出来たはずでしょう?まさかあなただと思わなかった。お願いだから、憧れるままのあなたでいて。あなたのことをずっと見てた。私の演技はあなたがいなければ無かった。ずっと、あなたになりたかった」
何度挫折したとしても、何度でも努力するしかない。
僕たちは必死に前を向き、もがき続けるしか無いのだ。
騒ぎを聞いた人が駅員を呼び、有田さんは警察に連れていかれることになった。
「……夢を叶えるために、誰かを蹴落とさないといけないことなんて分かってた。それでも、私は━━舞台が立ちたかったから」
有田さんが連れていかれるのを見ながら、ヒメは目に涙を溜めて続ける。
「だって、頑張ったもん。だからここにこれたんだもん。有無を言わせないほど頑張って、勝ち取るしか無かった」
彼女は才能があったわけでは無かったのだ。ただ、ひたすらに憧れるものになるために、日夜邁進した。
「ヒメが、魅力的な理由が分かったよ」
僕達なんかとはそもそも覚悟が違うのだ。
遠くだと思っていたはずの彼女を、今はどこか近くに感じた。彼女の才能は才能ではなく努力の賜物だと言うのなら、僕も悩んでいる場合じゃない。
「僕も君みたいになれたら良かったのに」
魅力は内から溢れ出る物だ。
彼女のこの素直で真っ直ぐな在り方と、覚悟に、憧れた。
するとヒメは目を丸くして、
「じゃあ、なればいいじゃない」
そして微笑みながら、
「悩むなら、やりながら悩めばいいのよ」
そう簡単に言ってのけてしまう。
「私達は憧れるものを目指すしか無いんだから」
舞台の幕が開いた。
ミュージカルは絶賛され、彼女の人気は爆発的に増していった。チケットは売り切れて、連日スタンディングオベーションで幕を下ろす。
ミュージカルは大成功のように思われたはずだった━━が、大千秋楽の朝、彼女は舞台袖で深いため息を吐いていた。その様子が気になって、僕は軽い気持ちで声を掛ける。
「どうしたの?」
「なんでもないわ」
そう言ったものの、少し考えた後に彼女は告げた。
「今日で最後の舞台だから、感慨深くて」
「え?」
あまりの急なことに、僕も言葉が詰まる。
「言っちゃった。けれどお願い、深くは聞かないで。監督は最初から知ってたの、オーディションのときから。私には時間がない。抜擢されたのは、私こそがシンデレラみたいな物だったからでもあったのよ」
彼女は美しく、そして今日はどこか儚く微笑んで。
「私のことを覚えていてね」
そして大千秋楽の舞台へと踊り出た。
喝采の中心では小さな踊り子が綺麗なお辞儀と共に今宵の幕引きの感謝を伝えている。観客は一斉に席を立ち、踊り子の少女に盛大な拍手を送った。
顔を上げても拍手は続く。彼女の頬は高揚し、熱を吐き出すように深く息を吐いた。
真っ直ぐな背筋は彼女の心を現すようでもあり、あまりに美しい。しっかりと前を見据え、軽やかに歩を進め舞台袖へと戻ってくる。
刹那、足を留める。彼女の考えることなど知る由も無かったが、再び足を進めた彼女の表情に迷いはなかった。
観客の記憶には、小さな踊り子の舞台上で舞う姿がはっきりと残るのだろう。
千秋楽を終えた次の日、少女は引退を表明する。
そして、そのまま消息不明になった。
マスコミなどがあれやこれやと調べたものの彼女に関する情報はほとんどなく、忽然と姿を消した。名前を変えているとか、一人の少女に戻って学生をしているのだとか、そんな噂は回っていたがどれも推測の域を出ない。
きっとこのまま幻の舞台俳優として名を残し、この話題さえもそのうち治まって行くのだろうと思う。
ただ一つ、僕だけが知っていることがある。
だから確認するために《フラワーショップ日野》に来ていた。
背の高い、人の良さそうな人が店先に立っていた。店主だ。
「久遠ヒメさんを知りませんか」
「さぁ、誰のことだろう?」
「ヒメが、ここに居候していると以前言っていて」
一度しらばっくれたけれど、目を優しく緩ませて。
「……ああ、なるほど。多分俺は君のことをヒメから聞いたことがある。優しいばかりの人だと、言っていたかな」
そう懐かしむように呟いた。
「彼女はもういないよ。役者を止めてからすぐに出ていってしまった」
「消息は分からないんですか?」
「全く分からないね」
「そこを、なんとか」
「どうしてそんなに彼女のことを気にしているんだい?」
「……僕はどうやら彼女に、感謝していて。あと多分……恋をしてしまったらしくて」
そう思いきって言うと、日野さんは噴き出すように笑った。
「気付くのが遅すぎやしませんかね。……お互いに」
「お、お互いにって……?」
「いいや。こっちの話ですよ」
そうして、不意に花屋の側の地面に生えている草花を指差した。僕でも見たことがある、野山や空き地に生えている、何の珍しさもない花。
「雑草ってね、本当は雑草って言う名前じゃなくてちゃんとした名前があるんですよ。ほら、そこの花とか」
葉は三角形に近く、不思議な形をした花を付けていた。
「可愛い花ですね」
「いいことを言うじゃないですか。そうでしょうそうでしょう?もっと言ってやって下さい。マイハギっていう音に反応すると回る木があるんですが、どんな植物でも音を聴いているっていうのが最近の研究で分かってきたらしくてね。こいつも喜んでることでしょう。誰も気にも止めないような、その辺の空き地にも生えているようなよくある花でも」
「名前は?」
男はニヤリと笑った。どこか、嬉しそうに。
「あなたならどんな名前を付けます?」
上は大きく、根本の細い花だ。踊り子の衣装のようにも見えてくる。
「そうですね……まるで春に舞いを踊る少女のような……」
「いいね、ほぼ正解みたいなもんだ。おっと、時間だね。ちょっと俺は用事を思い出したんで中に入るが、お兄さんゆっくりしていってよ。気に入った花があったらどんな花でも綺麗に綺麗に飾ってあげるから言ってくれ」
日野さんは、ちらりとその名前の知らない花を見た。
「うまくやれよ」
「何か言いましたか?」
「いやいや、こちらの話です。一人言みたいなもんですよ。一人言みたいな、ね」
そうして僕は花と二人にされた。花は日向の下で輝いて、吹いた風に少し揺れる。その様子は彼女が踊る姿を思い出させたから。
「ここにいたんですね」
気付けばそう呟いていた。
不意に隣に何かが降り立つような気配がした。同時に、この人が来るからこの人が来るから日野さんは中へ戻ったのだと悟った。
「久遠真と申します」
狐目の男が言う。男は、久遠という━━ヒメと同じ名字を名乗った。けれど、彼女の親族という訳では無いのだろう。
「人になりたかった花の話を聞きませんか?俺の創作なんですけど」
「どうして、突然?」
「あなたには知っておいてもらった方がいいかと思いまして」
狐目の男は愉快そうに口を歪めた。心底楽しそうで、もはや人間離れしている笑いだった。
「ここって、劇場の隣でしょう?だからか、とある花が夢を持ってしまったんですよ」
「花が……夢を、ですか?」
「物に心が宿りつくも神になるように、万物には心が宿るものですよ。で、そこに狐が通りがかってしまいまして」
意味深に笑う。狐目の、男が。
「狐は気まぐれに花と話をしたんです。そしたら並々ならぬ想いをお持ちのようだったので、叶えてやったんですよ。これまた気まぐれに。まぁその後のことは知らないですがねー」
「マネージャーしてた人がよく言いますね」
あまりの白々しさに笑ってしまった。
「ヒメはこの花だって言うんですか?」
信じたくなくて、冗談めかして言ったのに。
「そうですよ。可愛いでしょう、ヒメオドリコソウ」
彼女の本名を、あっさりと言ってしまった。
「もう人にはなれないんですか?」
「しばらくは無理ですね。彼女、結構疲れてますし。次の活躍は数年後というところでしょうか」
「え?また会えるんですか!」
あまりに驚いて大声になってしまった僕に、狐はやはり愉快げに笑った。
「雑草の強さに学ぶこともあったでしょう?」
「はい、それはもう」
「そもそも身体しか与えてないのに、二本足で立って言語を喋って、人間と遜色ないところまで頑張るなんて思ってもみなかったですから。そこまでやるなら応援するしかないですよね。本業削ってでも。いやほんと強いわ」
「…………努力のレベルが違いすぎて、もうほんと尊敬するしか無いです……」
花が美しく咲くのは、しっかりと地に根を張って生きているからだ。
まだ僕も彼女のようにはなれないけれど、一歩ずつ前に進んでいこうと思う。数年後、遠くに見ていた彼女の隣に並べるように。
「また来ます」
春の風に花が揺れる。
日の下に咲く少女の物語に、暗転が訪れることはない。
雑草のシンデレラ 2121 @kanata2121
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