5-3 贖罪

「・・・アライさーん、背中、貸してもらえるかい?」


歯を剥き出しにしていたアライグマに、フェネックが声をかける。

肩をビクンと震わせ一瞬固まったアライグマ。

だがやがて、視線は黒かばんに向けたままその背中を下げた。


「あれマ、逃げないんですカ?」


「君が逃げられなくしたんじゃないか。」


首元に手を回して、背中に体を預けて。

空いたもう一つの手には、どこから取り出したか、小さい水鉄砲が握られている。

腹のどこかが破れたのか、或いは頭から垂れてきたものか。

淡い黄色と汚れた灰色の二人の毛皮は同じ赤褐色に染まっていった。

痛みに歪む顔にはもう余裕なんてない。

その顔が前を向く前に。


「ジャアアアアア!!」


「アライさん―!?」


這うような威嚇。

直後、起こされる体。

振り落とされかけたフェネックを背中に。

狐の視界の目と鼻の先で、黒い顎が虹色の爪と火花を散らした。


「お行儀よく待ってはいられませんからねぇッ!」


飛び掛かってくる黒かばんの脇には、再生しきった触手が迫る。

野生開放するだけのサンドスターも満足でなく、二人分の重みを指せる足が震える。

食いしばった口からは呻き声が漏れる。


「ギイイイ・・・!」


「右に―!!」


咄嗟に傾けられた頭の脇。

垂れ下がった左手と、握られた水鉄砲を肩に乗せて。


音が消える。

静かだ。

酔狂な叫びも、必死の唸り声も、まるで聞こえない。

頭は痛いし、お腹も熱い。

世界はグルグル回りかけている。

でも。

外しやしない。


「・・・当たって。」


引き金は引かれ。

そして。


「―痛あああああぁぁぁッ?!!」


放たれた水の奔流は、正確に顎の付け根を捉えた。

大口開けて迫っていた触手はまず根本が、そこから先端へ、見る見るうちに固まっていく。

と同時に、空中の黒かばんも体勢を崩し地に落ちる。


「今―!」


言われなくともとばかり、虹色に光る鋭い爪が触手を砕く。

更にそのまま、一段と大きくなった絶叫の元へと、視線を向けた。


「フジャアアアアア!!」


地面と水平に撥ねた勢いに任せて。

相手に反応の隙すら与えず。

振り上げた爪は、黒かばんの体をろっじの柱に打ち込んだ。

吹っ飛ばされた小柄な体。その上の首が、大きくガクンと揺れたかと思うと、やがてぐったりと動かなくなった。


「クルルルッ!」


「?・・・アライさん引いて!」


満足げに喉を鳴らすアライグマに、フェネックが注意を飛ばす。

柱の上、辛うじて未だ崩れていなかった部屋の一つが、今までの均衡を崩していた。

初めは微かな、やがて轟音を立てて。

セルリアンの頭上に、瓦礫が降り注いだ。


・・・


暗い。

冷たい。

固い。

じめじめしてる。

気持ちいい。

足音。

誰?

餌?


「ああ・・・ハァ・・・ハハ・・・ハハハァ・・・」


餌?

耳?

無い。

尻尾?

無い。

キラキラ?

無い。


「本当にいたんですね・・・ハハッ、ここまで小粒ばっかりで・・・でっち上げかと思いましたよ。」


熱い。

眩しい。

おいしそう?

違う。


「もう弾も残り四発ですか・・・。ハハ・・・それでも全く構いませんがねぇ?!ハハハハハハ?!アーハハハハハハ!」


うるさい。

食べたい。

おいしそう?

違う。


なんで?


「素晴らしい獣たちをあんな醜い姿にだなんて!躾けられたまるで家畜だ!飼い主はもっと家畜だ!こんなことが許されるのでしょうか神様!いや、いやいやいや、いやいやいやいや許されるわけがないっ!!どうしてっ!!ああなんで!ボクにこんなひどい光景を見せるんですか神様っ!!ああ!だからそうなのですか!分かりました!」


振り向いた。

逃げる?

嫌だ。

熱い。

食べる。

うるさい。


「それに比べて君はああなんて!遂に見つけた!なんて美しいんだ!これが矛盾した見るに堪えないソドムとゴモラへの使徒というならば!剥き出しの自然へと導いてくれるならば!この私■■■■はあなた様への供物となりましょう!!」


振り向いた。

こっちきた。

光ってる。

熱い。

熱い。

熱い。

食べる。

食べる。

食べる。


「全ては野生の、けものの本能のために―」


・・・


「・・・ッ!!―ッ?!」


跳ね起きた。と同時に、頭をぶつけた。

暗い。痛い。何も見えない。

記憶が途切れ途切れだ。

あの二匹と戦って、一瞬冷たいと感じたら、触手の先が裂けるように痛くて。

輝きは・・・ある。ここからそう遠くないところに二つ。いや、一つ?

あの距離ということは、気を失ってからそこまで時間が経っていないのか。

或いはあの二匹に、どこかへと連れてこられたのか。

ともかく、この暗さでは何もできやしない。


「マッチがまだ残っていたはずなんですガ・・・おッ、あったあっタ。」


以前の地下室を思い浮かべながら、慣れた手つきでマッチを擦る。

ジュッという音と共に、辺りがパッと明るくなった。

目の前に何かが映る。

艶々とした、真っ白な円。

灯りを近づけると、それが裏返った。


「ひいッ?!」


怖い。

真っ黒だ。

咄嗟に体を引っ込めて、再び瓦礫の天井に頭をぶつける。

思わず手放したマッチが地面に転がる。

悶えながら前を見ると、裏返った何かが見えてきた。


白い環の中に黒い丸。

ぼんやりと映る黒い少女。

目だ。

大きい目だ。

目の周りは暗めの灰色で、天井から背後まで塗りつぶされている。


「・・・まさか、これ全部、サンドスターロウですカ・・・?」


地面を除いて辺り一面がサンドスター・ロウで埋め尽くされている。

となれば、ひたすらこちらを凝視するこの目も、余りによく知っているもののはず。

恐る恐る手を伸ばす。自分の一部であるはずのものが、なぜこうも怖いのか。何故。

手を触れると同時に、ドロッとした感触が体に流れ込む。

不快感と活力という、相反した二つが押し寄せる。

崩れ広がる空間と共に、目の前に映る自分もぼやけていく。

瞳に映る自分が、やがてくすみ、崩れて、彩を失って、溶けていった。


・・・


「ジャアアア・・・」


「大丈夫だよアライさーん。フェネックのことはフェネックにお任せなのさー。」


嘘だ。

お腹が熱い。熱いものがどくどくと流れ出ていく。

二人の毛皮は元の色が分からない程。

ぶら下がっていることすらもはや困難だ。

こんな体では何もできやしない。


「それよりも、もうそろそろ出てきそうだよー?」


喉を鳴らしたり、顔を舐めたりと、あらゆる方法でフェネックを慰めていたアライグマが、その一声で身構えた。

目の前の黒い塊が不規則にうごめいている。

瓦礫が崩れてから数分だろうか。

迷ってばかりだったが、この場面だけは決めなくてはならない。

ここで間違えては、もう迷えない。


「来る―!」


「フジャアアッ!!」


飛んできた黒い一筋。

爪が捉えた。

頭も逸らした。

的が見えた。

そして、今度も当たった。


「今―!!」


いつもの号令。

落ちた破片。

正確な跳躍。

確かな手応え。


のはずが。


「ギヤッ!?」


「イッ?!」


「ボクも一度やられたんですヨ、瓦礫の中からの奇襲。」


腹がひしゃげた。

左腕が消えた。

飛んでいった。

その先には黒い破片。

だが触手ではない。

家具か何かだろうか。

きっと一度は使ったことあるはず―


「あ、あとこれもですネ。」


世界が反転する。

右腕にはもう力がない。

落とされると同時に、恐らくはもう片足が嫌な音を立てる。

もう一つ嫌な音。

目の前には灰色の何か。


耳に雑音が戻る。

何か話しているのだろうか。

ブツ切れの言葉が耳に投げ込まれる。

そんなものはいい。

這う。

這う。

這って、届く。


「アライ・・・さん・・・」


腕を掴む。


「今、来たよ・・・」


胸に乗せる。


「アライさんはね、私の自慢だよー・・・」


顔を寄せる。


「だから、ごめんよー・・・」


唇をつける。


「もう、生きて―」


凄まじい光。

焼けるような熱。

裂けるような痛み。

呆けるような眩しさ。


そして、目の前のフェネック。

自分。

濡れた顔。

涙が血か。

体が私を起こす。

そう。

それでいいの。

もう逃げて。


「ジャアア…」


違うの。

吠えないで。

違うの。

戦わないで。

違うの。

動いて。

一度でいいから、後ろに行って。

立ち向かわないで。


「・・・二度も死ぬほど、アナタは悪くはないはずでス。」


・・・私のこと?

でも聞けない。

黒が迫って。

視界が割れて。

熱が消えて。

痛みも引いて。

光も消えて。


ねえ、アライさん。

今、どこにいるの。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る