第55話 昨日ぶり
「昨日、ぶり」
翌日、午前授業で終わった学校帰りにキルシェの店に寄って遅めの昼食をとっていると、僕の後ろからパンの包みと飲み物を持ったアッシュブロンドの子が声をかけてきた。
「隣、いい?」
制服姿のツィトローネは僕の返事も待たずに隣に座るが、なぜか距離が近い。この前のキャンプの時より近い。ほとんど膝と膝がふれあう距離だ。
「近くない?」
「店が混んでるから、仕方ない」
ツィトローネは昼食時のピークを過ぎたせいで空席の方が目立つ店内を見回しながら、パンの包みを解く。その際に肘同士がぶつかったけど、不思議と嫌な感じはしない。
「何の用かな?」
「用がないと、会いに来たらダメ? アプフェルから、ラッテ君はよくここにいると聞いた」
彼女が珈琲の入ったカップを傾けると、白い喉がごくんと鳴った。口の端からわずかに垂れた液体が妙に劣情を誘う。
「というのは、冗談。じつは……」
ツィトローネみたいな可愛い子に近付かれて嬉しいし良い匂いがするけど、マズイ。
二つの意味で、マズイ。
「どなたですか~、ラッテ様にくっついている、この小さな子は?」
思い描いたことは現実になる。店の奥から、鬼の形相でキルシェが出てきた。
凄みのある声にツィトローネは驚いた面持ちで振り向いたが、キルシェが身に付けた三角巾やエプロンを見て余裕を取り戻した。
ツィトローネも貴族だから、平民をあからさまに見下さないまでも態度は変える。
命令する者とされる者、それが貴族と平民。
馬鹿にしているわけではなく、ただTPOをわきまえているだけだ。僕みたいに貴族と平民の合いの子と言われる男爵や、平民に頭を下げないと暮らしていけない貧乏貴族でもない限りはそうするのが常識であり、良識だ。
だがツィトローネの顔からたちまちのうちに余裕が崩れさる。
「店員が、貴族の語らいに何の用?」
ツィトローネがキルシェを親の仇のような目でにらむ。
何があったのかと思うけど、彼女の視線の先を見て見当がついた。
具体的には女子が最もコンプレックスになりやすい体の一点を。山脈と平原を比べているようなもので、ツィトローネには勝ち目がない。
見下されたことに多少は腹を立てたキルシェだけど、ツィトローネの反応を見て余裕を取り戻したらしい。
「私は、ラッテ様の恋人ですが?」
キルシェは自信たっぷりの笑顔でそう言い放つと、エプロンの下で腕を組む。豊かなること山の如しの二つのふくらみが押し上げられ、さらに存在感を増す。
恋人と言うのはロルフやライナーから彼女を守るための方便だけど、他にも人がいるこの場で合わせないわけにはいかない。
「そ、そうなるかな」
咄嗟にそう言ってしまったけど、奥さんが複数いるのが普通のポーレンで育ったツィトローネなら問題ないだろう。
と思ったのだけれど。
ツィトローネは、なぜかますます不機嫌な表情になった。
「この、大きいだけの、牛女、」
彼女の細い手が腰のペンほどの大きさの魔法杖に伸びそうになる。
「ツィト!」
いつかのようにタルト・タタンとカプチーノを注文していたアプフェルがツィトローネの手を掴んで止めていた。
「カペル、何事です、の……?」
アプフェルと目が合うと、彼女は真っ赤になって反らしてしまう。こんなところで漏らさないと良いけど。
マリグネ狩りから帰って狩りから帰って以来、彼女の調子がおかしいらしい。
噂によると家では逆に興奮した様子らしいし、マリグネ狩りから帰って父親に熱に浮かされた様子で何かを話し、父親や使用人たちはそれに驚愕し、アプフェル自身は何かの準備を着々と進めているらしい。
ラ―ベ戦の後アプフェルが何か重大そうなことを言っていたけれど、あれと関係があるのかな?
まあいいか、とりあえずは目前のことだ。
気を取り直してアプフェルに今までの顛末を告げると、彼女は呆れたように肩をすくめる。すぐに元の調子に戻っていた。
「この子と彼の関係はそういうものではございませんわよ。男子という虫除けのための方便ですわ」
アプフェルの言葉にツィトローネは安堵した様子で杖を収めたが、キルシェは不満そうだった。
「この平民はキルシェといって、私の家に卸すタルト・タタンを届ける店の娘。私は何度かお話ししただけですけど」
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