第54話 温かい

 庭のほとんどない、平民の民家とほとんど変わらない大きさの屋敷の前に到着する。ミュンヘンの貴族の屋敷が立ち並ぶ場所の端の端、平民の居住区との間に建てられたこの家は立地からして貴族と平民の合いの子という感じだ。

 暗く、冷たい屋敷の門前に立ち、鍵を開けようとポケットに手を伸ばす。

 後ろに、息を荒げている誰かの気配を感じた。

 こんな時間に誰だ? 

 僕は警戒心と共に後ろを振り向く。

 だがそこにいたのは、さっき別れたはずのキルシェだった。

「何で、ここに?」

「様子が変だったので、気になって…… こんな遅い時間なのに、放っておけなくて。気がついたら、追い掛けてここまで……」

 キルシェは頭をかきながら苦笑いしていた。

「私、なにやってるんでしょうね?」

 困ったように笑う彼女は、体を抱きかかえるようにして震えていた。

 ミュンヘンの秋の夜は寒い。僕でさえ寒さを覚えるくらいなのに、あんな寝巻き一枚で出てきたのならもっと寒いはずだ。

 これが大貴族なら家に招待して暖かいお茶でもメイドに入れさせておもてなしするんだろう。

 でも、僕はそんなことはできそうにない。お茶の入れ方なんてろくに知らないし、お茶の葉にしても安物しかないし、暖炉に火を入れるところから始めないといけない。

 キルシェは明日の朝が早いし、そうしている余裕なんてないだろう。

 僕が言い淀んでいるとキルシェが目を細めて、口元を柔らかくして、少しだけ困ったように眉根を寄せて、微笑んだ。

 僕のことを心配してくれているのが、痛いくらいに伝わってくる。

 その笑顔を見ているだけでささくれだった心が溶かされていくような、そんな感じがした。

 キルシェは僕の方へ半歩、近付く。たった半歩の距離なのに、彼女の存在が急に近付いた感じがした。

 そのまま寝巻きに包まれた細い腕を、風に舞う柳の枝のようにしなやかに広げて。

少し俯いていた僕の頭を、胸の中にぎゅっと抱きしめた。

 顔じゅうが柔らかい感触に包まれ、山にそっと生える野苺の様に甘酸っぱい香りで全身が満たされていく。

 なにを…… と僕が言おうとしたら、キルシェが先んじた。

「なにも、言わなくていいです」

 冬が来れば自然に落ちてゆく木の葉のように、僕の体から力が抜けた。

「私はパンを買いに来る人たちをいっぱいいっぱい、見てきましたから。顔や仕草でなんとなくですけど、その人がどんな状態かわかるんです」

「詳しい事情はわかりませんし、知った所で平民の私は何もできないでしょう。でもラッテ様がとても辛いことを思い出されている、それだけは他の誰よりもわかるつもりです」

「だから、何も考えなくていいんです。今だけは、全て忘れてください」

 キルシェが僕の顔を抱きしめる力をこころなし強くする。

 どれくらい、そうしていただろうか。

 僕がそろそろいいかな、と思うとまるで僕の心を読んだみたいにキルシェは僕を抱きしめていた腕の力をそっと緩めた。

「元気、出ました?」

 彼女は暗闇の中でもはっきりとわかるくらいに頬をさくらんぼみたいな色に染めていた。口元からこぼれる吐息も、寒さのためかわずかに白い。

「とっても。ありがとね、キルシェ」

「お礼なんていいです。初めてケルナ―・ブロートで出会ったときも、それからも、ラッテ様は私を救ってくださいました。だから少しでも私に恩返しさせてください」

「ラッテ様は、私にとってはこの世で一番素晴らしい方です。あ、二番目はお母さんです」

 キルシェは少し気恥ずかしそうに語尾を小さく言うと、走って家の方に駆けていった。

 寒いはずの秋の夜は、とても暖かく感じた。

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