第23話 卑屈

 二人きりのダンスが終わった後もアプフェルは会場に戻ろうとしなかった。

 僕と並んで欄干にもたれかかり、夜景を眺めている。星空の下に映る夜の町は、茜色の街灯があちこちに輝いていた。

 ダンスで火照った身体が、夜風で冷やされて段々と寒くなってきた。

 戻ろうか、そう言いかけた僕の腕をアプフェルがそっと抱いた。

 布地の少ない夜会のドレス越しに、彼女の火照った体温が伝わる。

「アプフェル?」

 むき出しになった肩やわずかに谷間が覗く胸元から素肌の感触が伝わってきて、嬉しさと恥ずかしさと興奮がないまぜになる。

 でも彼女の行動の真意がわからなくて、でもこういう時どうすればいいか知らなくて、ただなされるがままだった。

「こういう時は、殿方からアプローチするものですわ、馬鹿……」

 拗ねたように言うアプフェルは今まで見せたことのない表情で、「可愛い」以外の言葉が思い浮かばない。

 え? え? どういうこと?

 本心か?

気の迷いか? 

 そもそも僕の腕を抱く理由がどこにある?

 寒いからか?

 そうだよね、寒いから僕の腕を抱いているだけだよね。そうでなければアプフェルが僕に触れようとするはずがないよね、いや侯爵家では異性の腕を抱くことに何か特別な意味か合図を持たせているのかもしれない。

 駄目だ、自分でも何を考えているのかわからなくなってきた。

 ふと僕の肩越しにアプフェルと目が合った。

 至近距離で互いの瞳にお互いの姿が映った瞬間、彼女の林檎のように赤い頬がさらに赤くなった。きゅっと唇を引き結び、恥ずかしそうに視線を反らす。

 少なくとも嫌な相手にはしない表情だよね、

 でも、男爵風情の僕なんかにアプフェルがこんな態度を取る理由が理解できない。

 体育魔法祭の雰囲気にあてられて、しかもさっき一緒にダンスを踊ったから気分が高揚しているだけかもしれない。

 この表情は今だけで、明日になったら今日のことなんてなかったかのように振舞うのかもしれない。

 そう思ったとき、心が急に冷めていくのを感じる。

 視界の端を何かが横切ったのが見え、それを目で追うと僕たちの方へ近づいてきた。 

 アプフェルの目の前に何かが止まる。

 グロテスクな模様が描かれており、男の僕から見ても気持ち悪いと感じる。

 その、子供の手のひら大はあろうかという大きなものが羽を広げ、アプフェルの整った顔を覆い隠すようにした。

「きゃああ!」

 アプフェルが絹を引き裂くような悲鳴を上げる。

目をつむり、身を縮こまらせる。

僕の腕にしがみつく力をさっきよりずっと強くした。

 さっきまでよりもずっと強く感じるアプフェルの「女子としての」感触。

 でもそれを堪能する暇もなく、僕はアプフェルの顔に止まった何かをもう片方の手で必死に追い払った。

「なんだ、蛾か……」

 蛾は僕の腕から逃れるように、コウモリにも似た不器用な飛び方で夜の闇へと消えていった。

「もう大丈夫だよ、アプフェル」

「アプフェル?」

 彼女の様子がおかしい。

 返事がないし、俯いたままで小刻みに震えている。

 そんなに怖かったのだろうか。まあ男の僕でも引いたくらいだし、女子で、しかも箱庭育ちのアプフェルならなおさらだろう。

 安心させようと、空いた方の手を彼女の肩にそっと置く。

 でも彼女はぶるっと、一際強く震えて。

「あ、ああ」

 恥ずかしそうな、でも少しだけ気持ちよさそうな声と共に。

 足元に黄色い染みが広がっていった。



 アプフェルはズィーベンの時のようにアイシクル・エングレイビングで漏らしたおしっこを結晶化させて処理した。塵よりも細かい結晶と化し、臭いすら後には残っていない。

 でも、なぜ? 以前のように命の危機に陥ったり、強い恐怖に襲われたわけでもないのに。

「ばれて、しまいましたわね」

 処理を終えたアプフェルは観念したかのように薄く笑うと、堰を切ったように喋り始めた。

 月光に照らされたその笑顔は薄く儚い。

「わたくし、昔からびっくりすると漏らす癖がありますの。それもヒグマに襲われたという大仰なものでなくても。小さい頃は肩を叩かれただけで漏らしたこともありますわ」

「お父様もお母様も、わたくしが小さい頃は『子供だから』『大きくなれば治る』と心配していませんでした。でも、治りませんでしたわ。社交界で漏らした時は流石のお父様も慌てていました」

「想像できます? 領主として務めを果たされる時も、マリグネと先陣を切って戦う時も動揺しないお父様が慌てたのを見たのは後にも先にもあの時だけですのよ」

アプフェルは喋りつづけた。まるで今まで心の底に貯め込んでいた澱のようなものを吐きだすかの如く。

「学園に入る頃にはわざと傲岸に振舞って、感情を自分の中で誤魔化す方法も身につけましたから多少のことでは漏らさなくなりました。でもあのズィーベンとの戦いで体が思い出したのかもしれませんわね」

「おかしいでしょう? 普段は尊大に振舞っておいてこのざま、笑いなさいな、言いふらしなさいな、私を物笑いになさい」

狂ったように笑うアプフェル。

月の光を浴びて、本来は幻想的なはずの彼女の姿が狂気に染まって見える。

おかしい。

 前やったみたいに、普段の彼女なら口止めをするはずなのに。

権力と地位、この二つでいくらでもこのくらい切り抜けられるはずなのに。

 幸い、この場にいるのは僕だけだ。やりようはあるはずなのに。

 僕の前で漏らしたという事実は同じなのに、まるで別の人間に見られたような反応の違いだ。

 アプフェルのエメラルドみたいな瞳に涙が滲み、散った滴が闇夜に光る。

 今の彼女には僕をビンタする気の強さも、キルシェにも礼を忘れない淑女らしさも、月明かりの下でダンスを踊った時の美しさもなかった。

 もう、見ていられなかった。

 なんとかして、彼女を止めたかった。

「別に、おかしくないと思うよ」

 僕は彼女の目を真っ直ぐ見て、それだけを言った。

 言葉はシンプルに。ただ真心が伝わるように。

 でも僕の言葉を聞いても、アプフェルはシニカルな笑みを浮かべただけだった。

「誰にでも弱点はある、とでも言いたいのですの? そんな偽善的な台詞は聞きあきましたわ」

「そうじゃない。自分でもわからないけど、笑おうとする気になれないんだ」

 アプフェルに高圧的に振舞われたことは多いから、ざまあと思ってもいいはずだけどそんな感情は湧いてこない。

 ふと、今までの人生を思い出す。

 男爵というだけで、貶められ、嘲られた日々を思い出す。

 自分を笑った人間たちの声、空気、耳を塞ぎたくなる記憶。

「笑われるのが嫌だから、人を笑う気にもならないのかもしれないね」

 僕がふと漏らした一言に、アプフェルは目を見開き僕をじっと見る。何を考えているかはわからないけど、真剣に何かを考えている目。

一秒にも満たない時間の後、ふたたび目を反らした。

「笑われ続けたから、人を笑うことを嫌いますのね…… さすがは男爵風情」

 アプフェルが正面切って僕にそんなことを言うのは初めてだ。

 男爵風情、と僕の身分を揶揄する言い方を。

 最近少しはいい雰囲気かと思っていたけれど、やっぱり僕の勘違いだったのか。

「軽蔑…… なさいませんの?」

 彼女は恐る恐る、と言った口調で僕の顔色をうかがうように聞いてきた。

 彼女らしくない。全然、アプフェルらしくない。

「言ったとおりだよ。人のことを笑うのも、笑われるのも嫌いなんだ。男爵風情だからね」 

 コンプレックスからくる、情けない言葉を言っただけなのに。

 なぜかアプフェルはひどく安心したような、見捨てられると思った子犬が飼い主にじゃれる時のような、そんな表情をしていた。

「あなたはバカですわね。卑屈ですわね。でもそういうの、嫌いじゃないですわ」

 アプフェルはもう一度僕と目を合わせる。さっきまでの涙の痕は、もう乾いていた。


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