第10話 難しい
僕はキルシェを麓まで送っていくことにした。
イェーガ―侯爵はせめて共に帰ろう、とは言ってくれたけど丁重にお断りした。
狩りに招かれたわけでもない僕が同行しているところを見られたら変な噂になるだろう。
そして変な噂は大体、悪意のある噂に変質する。
「よかったんですか、ラッテ様」
帰り道、キルシェがそう聞いてきた。
この道は焚き木や木の実を取るために山に入るためよく開けているし、さっきの一件を受けてイェーガ―家の腕利きの付き人が真っ先に駆除を行なっていた。そのせいか、ズィーベンはおろか虫一匹見えない。まず襲われる心配はないだろう。
「私は平民です。貴族様とは住む世界が違いますけど…… 命を救ったのに、何の見返りもないなんて、そんなのおかしいです。目立つ称賛が嫌なら、金品を要求するとか」
「ありがとね、キルシェ。君がそう言ってくれて、とっても嬉しい」
僕はそう言ってキルシェに笑いかけた。
するとキルシェは顔を背けて、俯いてしまった。
きっと男子と人気のない場所で二人きりなのが、怖いんだろう。
「でもいいんだよ。お礼をもらわなくたって、生きていけるから。領地のない男爵家が貴族社会で生き延びるには、手柄を立てるより目をつけられないほうが重要だから。テストでいい点を取るためには難しい問題を無理に解くよりも、簡単な問題をミスなくこなすほうがいいんだ」
「私は学校なんて行ったことがないし、テストなんて受けたことがないからわかりません。 命がけだったのに、口頭でのお礼だけなんて…… 上等の材料で作ったとびきり美味しいパンを、普通のパンの値段で売ったのと同じことじゃないですか。命がけだったんですから、それに見合う報酬があるべきだと思います」
キルシェは納得がいっていない様子だけど、それでいいと思う。
誰もが納得できる答えなんて、ありっこない。
そんな僕を見て、キルシェは俯いたり、拳を握り締めたり、「こんなこと…… と思われたら嫌ですし」と一人で呟いたりしている。
まるで何かしようとしているのに、なかなか決心がつかないときみたいだ。
再び顔を上げたキルシェは、熟れた桃みたいに頬がピンク色に染まっていた。
「ならせめて、こうします!」
キルシェはそう言うや、僕の腕を取ってしがみついてきた。
彼女の豊かな双丘の間に、僕の腕が挟みこまれる。
絶妙な弾力が布ごしにも伝わってきて、今までの人生で一番気持ちが良かった。
焼き立ての、ふわふわのパンに両腕を包まれているかのようで。
柔らかさが幸せで。
「な、なにしてるの」
僕はそう聞き返すのがやっとだった。
「私が、代わりにお礼をします。それにズィーベンを退治できてなかったら、私の、方に、向かってきた可能性もあるわけですから、私なりのお礼ということで」
挟みながら喋っているので、振動が腕に伝わってくる。
彼女の心臓の鼓動まではっきりと感じ取れた。
でも、感じ取れるのは柔らかさと気持ちよさだけじゃない。
腕が震え、かなり無理してるのが伝わってくる。
キルシェみたいに可愛い女の子に抱きつかれて嬉しくないわけはないけど、無理やりにさせるのは駄目だ。
絶対に駄目だ。
それじゃあ、キルシェに絡んでいた二人の貴族と同じになってしまう。
僕は鋼鉄の精神力で、キルシェをゆっくりと振りほどいた。
名残惜しかったな…… もっと挟まれていたかったな……
後悔ばかり浮かんでくる。一度逃がしたヴァルハラはもう、帰って来ない。
「結構自信あるんですけど、嬉しくなかったですか……」
引き離されたキルシェが肩を落とし、目に見えて落ち込んでしまった。
無理させてるのを止めたのに、なにが良くなかったのだろう?
考えても、わからない。
女心って難しいな。
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