第27話 休憩は大事
早くホームルームを終えてくれ。
部活をやっている人間なら、毎日そんなことを考えたりしているのだろう。素早い動作で荷物をカバンにしまいこみ、腰をほんの少しだけイスから浮かせてそわそわして、教師の次の言葉を待つ。教壇に立つ教師が一通りの連絡事項などを伝え終え「じゃあ以上、解散」と号令をかけた途端、彼らはクモの子を散らすみたいに教室を飛び出していく。
そこまでして早く部室やらグラウンドやらに行きたいのか……熱心なことだ。
彼らの様子を、俺は今まで他人事のように眺めていた。感心半分、呆れ半分で肩をすくめていた。
しかし、今日は違った。
俺はホームルーム中に荷物を完全にまとめ、カバンを手に持つ。イスを少し引いて、いつでも立てるよう準備をしておく。
「今日はここまで。また明日な」
気怠そうな教師の、いつものセリフが聞こえると同時に俺は誰よりも早く教室を飛び出した。
きっと俺のいつもと違う行動にみんな驚いていただろうな……。いつもホームルームが終わっても教室でゆっくりしていたクラスメイトが、人が変わったように一番に教室を出ていったのだから。
無論俺が早く生徒会室に行きたい、なんて思うようになったわけではない。ちゃんとした別の理由がある。
「誰もいない……な」
左右に首を振って人影がないことを確認してから、角を曲がる。ホームルーム直後の校内では、基本的に生徒は教室内にしかいない。よって、多くの生徒が廊下に出てくるまでにはタイムラグが生じる。
ならば。その間に生徒会室にたどり着いてしまえば、『鍵』狙いの連中に襲われる可能性も限りなく低くすることができる。
誰も見当たらない廊下を一人疾走し、生徒会室へと向かう。まったく、誰にも追われずに廊下を走るというのは気持ちがいいな。
「着いた……」
生徒会室の扉を前にして、一息つく。意外と早く着けたな。
俺の教室はここから結構離れているが、時間にしてざっと一分ちょっと……ってところだろうか。
「さすがにこの短時間じゃ誰とも遭遇しなかったな」
こんな……『鍵』のないような状態で誰かに襲撃されてもし俺が持っていないことが知られたら大事になりそうだ。
別に『鍵』が俺の手にあったらいつでもどこでも誰でもかかってこいというわけではないのだが。ともあれさっさと部屋に入ろう。
「……あれ?」
ここにきて予想外の事態発生。入り口のドアを引くが、予想に反してガタガタと音を立てるだけで、ドアは開いてはくれなかった。
「……あ」
そういえば部屋の鍵持ってない。
すっかり忘れていた。いつも俺がここにやってくる時には必ず誰かがいて部屋を開けていたものだから、部屋の施錠のことを失念してしまっていた。この部屋は特別教室や部室の類と一緒。なので最初に来る人が職員室で鍵を借りてから来ないと開くわけがないのだ。
「でもこれってやばくないか……?」
今から職員室に鍵を取りに行くとなったら、きっと生徒の誰かに遭遇することだろう。それが帰宅部のような奴らなら一向に構わないが、もし『鍵』を狙う部活の面々だったら……。それじゃあせっかく一目散に教室を出てきた意味がない。
じゃあここで大人しく誰かが部屋の鍵を持ってやってくるのを待つか? だがもしその前に部屋の外で待ち伏せするために他の人間がやってきたら……。
俺はチラ、と廊下の奥を見る。
生徒会室の面する廊下は、一方は階段や渡り廊下につながっているが、反対側は視聴覚室があるのみ。もちろんこんな時間に視聴覚室が開いているはずがない。
つまり、行き止まり。ここで向こうから古手川さんみたいなやつが現れたら……きっと逃げ切れない。
「どうするか……」
一か八か職員室に向かうか。それともここで待つか。どちらを選択してもリスクが高いことには違いない。
「!!」
次にすべき行動に迷っていると、逃げみちのある方の廊下から、足音が聞こえてきた。床と擦れてきゅっきゅと鳴る上履き特有の音。間違いなく生徒だ。廊下に一人といないおかげで、それはよく聞こえてきた。
音だけで姿が見えないってことは、階段のところから来てるわけか。
「……」
敵か……それとも生徒会のメンバーか。はたまた全く関係ない他の生徒か。
ごくり。
この状態では最早逃げることはままならない。俺は生唾を飲み込んで足音の主が姿を現すのを待つ。
場合によっては、姿を見せた瞬間に突撃してこの場から逃げないといけない。
瞬間、角からスカートの端が垣間見えた。
「先輩、こんなに早くどうしたんですか?」
「貝塚さん……?」
角を曲がって姿を見せたのは、頼れる生徒会の書記だった。
「よかった……」
緊張が解け、思わず俺は胸をなで下ろす。
「そんなにほっとして……何かあったんですか?」
「ああ、いや。狙われないために急いでここに来たのはよかったんだけど、部屋の鍵を持ってくるのを忘れちゃってさ」
「道理で……私が鍵を借りて最初だと思ったのにどうして先輩がいるのかわかりました」
貝塚さんは呆れたように嘆息すると、生徒会室の鍵を指でクルクルと回す。
「それにしても、私が来る前に他の部の人が来たらどうするつもりだったんですか」
「いやーまあ、その時はその時で……」
「まったく、バカなんですね、先輩は」
うろたえる俺を彼女は一蹴し、部屋の鍵を開けて中へと入っていく。
続いて俺も安息の地へ。
二人とも部屋に入ると、貝塚さんはこちらへくるりと振り返る。
「これで先輩が襲撃されて万が一『鍵』がないことがバレたらどうするつもりだったんですか」
眉は水平、声も平坦でいつもどおりなのだが、その口ぶりはいつもとどこか違う。これは……怒っているのか?
「面目ない……」
俺はペコペコと平謝りをする。後輩とはいえ、窮地に陥りかけたのを助けてもらったのだ。
「そう思うなら何かお礼でもしてもらえませんか?」
「お礼……? って言っても俺、あんまりお金とかないから期待には応えられないと思うぞ?」
日々節約生活を送っていても、決してその分お金が溜まっていっているわけではない。物品を要求されたら俺の家計は火の車どころか爆発してしまう。
「別に物とは言いません。ただ……」
「ただ?」
「先輩が副会長と熱い抱擁を交わすところ見せていただくだけで私は満足ですので」
「……は?」
真顔でこの子はなんてことを言い出すんだ。いや、真顔は真顔だが、少しだけ息が荒くなっている。
薄々感じてはいたが、貝塚さんはもしかして……『そういう人』なのだろうか……。
「さあ、するのですか? しないのですか?」
「しねえよ!」
誰が好きで男と抱きあわにゃならんのだ! いくら相手が秋人でも、だ。
「そうですか……」
ぼーっとした瞳はそのままに、残念そうにほんのちょっと眉を下げる。
「では無事に『鍵』の在処を突き止め、取り戻した際には是非とも熱い抱擁を」
「しないから」
中々食い下がらないな。そんなに男同士がいいのか。いや、これを言うときっと物凄い反論が返ってきて軽く数時間は解放されない可能性が。
…………。
なんだかんだで、貝塚さんと二人でこんなに「会話」したのは初めてかもしれない。
たくさん話す彼女をもう少し見てみたいなあ、という気持ちに駆られたが……今はやめておこう。
「……来ない……ですね」
書類をトントンと机で揃えながら、秋人がぽつりと漏らした。
「そうだなあ」
その後、会長と秋人が来てからしばらく経ったが、『鍵』を手に入れたと主張して部屋にやってくる生徒はいなかった。それどころか、生徒会室の扉をたたく人すら誰一人として現れていない。
「ふむ……」
会長はため息にも似た声を出す。『鍵』のことが気になって仕事が進まず、先ほどから手が止まっているみたいだ。
何もできていないのは、俺も同じだった。最近は特に俺がする仕事がない、というのもあったが誰かの手伝いをしようにも、そんな気にはなれない。
無意識のうちに、所在なくなってしまった両手をズボンのポケットに突っ込む。そこには今まであったはずのものがない虚無感。
机の上には、役目を失った状態のカエルのキーホルダー。グリンとした真っ黒な目が、こちらを見つめてくる。
「……少し、休憩しましょうか」
不意に、隣の貝塚さんが言い出した。
「休憩……?」
「はい」
そう言って、物静かな書記は机の上に広げていたファイルをパタンと閉じる。
「っていっても俺、今日特に何もしてないぞ?」
「私も今日は全然進められていない。休憩するなら副会長としてくれ」
会長も、自身の手が止まっていることに対してバツの悪そうな顔をしている。
そんな様子の俺や会長を見て貝塚さんはふう、と一つ息を吐くと、
「何もしていなくても、お二人の心は随分と疲れているように見えますよ。たとえ思い悩んでいるだけでも、体力というものは擦り減っていくものです」
「あ、ああ……そうだな」
そう言われて、会長は目を丸くした。
貝塚さん、ぼーっとしているようで結構周りを見ているんだなあ。
「では、お茶でも入れますね」
静かに席を立つ。そして貝塚さんは部屋の隅の扉を開けると、隣の部屋へと入っていった。
「そういえば、隣の部屋ってなんなんだ?」
初めてこの部屋を訪れた時から気になってはいたが、聞く機会をすっかり逃してしまっていた。なにせこの部屋が散らかっていた頃は大量の荷物に隠れてその存在すら希薄になっていたわけだし。
「ああ。隣の部屋は会議室で、流しとかコンロがついているんだよ」
秋人が机から顔を上げて答える。
「まあ実際あそこで会議をすることなんて最近じゃほとんどないから、ただの給湯室になっちゃってるけどね」
「へえ……」
そういえばこの間の掃除の時は、隣は一切掃除していなかったな。誰かがいつの間にかやってくれたんだろうか。
「会議室を使わなくなってからは、給湯設備を使うこともほとんどなくなってな。だが貝塚書記がそれをきれいにして、今では時々使うようになったのだよ」
「なるほど……」
結構マメなところがあるんだなあ。今日は意外な一面をよく見つけている気がする。
数分後、お盆に人数分のマグカップを載せて貝塚さんが生徒会室に戻ってきた。
「紅茶のパックがたくさん余っていたので紅茶にしましたが、先輩方は問題ありませんでしたか?」
「大丈夫だよ、ありがとう」
秋人が柔和な微笑みを彼女に向け、マグカップをメンバーに配って回る。
「あと、これもどうぞ」
そう言って貝塚さんはビンを机に置いた。中には雪のような真っ白な粉が詰まっている。
「砂糖……?」
「はい、疲れたときには甘いものを摂取するといいですから」
「ああ……」
勧められるがままに、俺は紅茶に砂糖を入れる。あまり砂糖は入れない派なのだが、今日は二杯、入れることにした。
「いただきます」
ほどよくかき混ぜて、一口すする。程よい甘さが、まるで脳に直接浸透していくような気分だ。
「ふむ……貝塚君の紅茶は美味しいな。ありがとう」
カップで半分見えなかったが、会長の顔はさっきよりも穏やかなものになっていた。間違いなく、貝塚さんの紅茶のおかげだろう。
これが彼女なりの気の遣い方なのかな。寡黙で、辛辣なことしか言わないちょっと変わった後輩なりの、やさしさ。
無言の気遣いだったが、俺には心地よかった。なんだか力が湧いてくるような気分だった。
こんなやさしさも悪くない。
そう思いながら、俺はやさしさの入った甘みを飲み干した。
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