最後の景色

 あの日から、十年の月日が流れた。俺は、玄関扉の取手を握ったまま、深呼吸を繰り返した。大きな眩暈に襲われたが、震える手に力を込めた。そして、意を決して、玄関扉を開いた。その瞬間に、玄関で倒れこんでしまった。

「みっちゃん!? どうしたの!?」

 血相を変えて、ヒロが駆け寄ってくる。俺は、歯を食いしばって、這うようにしてリビングへと向かった。心配そうに、ヒロは俺を見つめている。リビングの中央で仰向けになって、激しく咳き込んだ。口に手を当てると、生ぬるい感触があった。手をかざすと、手の平は真っ赤に染まっていた。

「みっちゃん! 血が出てるよ!? 大丈夫!? 早く病院行かないと!」

 顔面蒼白で、ヒロは顔を寄せてきた。今にも泣きだしそうな顔をしている。ああ、やはり、俺が好きなヒロの笑顔を、奪ってしまうのか。

「ヒロ。聞いて欲しい事があるんだ」

「後で沢山聞くから! まずは、病院行こう! ね?」

 小さく、顔を左右に振った。ぼやけた視界で天井を眺めていると、ヒロの顔が突然現れた。心配そうに、俺の事を覗き込んでいる。

「ヒロ。ありがとう。大好きだ」

「うん、私も大好きだよ。でも・・・」

「お願いだから! 俺の話を聞いてくれないか?」

 思わず、怒鳴り声を上げてしまった。ヒロと暮らし始めて、初めての事だった。驚いた表情を見せるヒロに、罪悪感が生まれた。

「ごめん。でも、聞いて欲しい」

 大きく息を吸うが、異物が喉に詰まっているようで、息苦しい。

「ヒロと出会った時、俺は医者に宣告されていたんだ。余命一年だと。それが原因で、前の嫁とは別れたんだ。正確には、捨てられたんだけど」

 ヒロは放心状態だった。受け入れがたい事実に、思考が停止しているのかもしれない。

「だから、これだけは、覚えておいて欲しいんだ。お願いだ」

 つかえながらも、肺に酸素を送る。そして、ゆっくりと吐き出した。

「俺は、病気なんだ。だから、俺が死ぬのは、ヒロのせいじゃない! 絶対に違う! だから、自分を責めないで欲しい。お願いだ」

 ヒロの大きな瞳からは、大粒の涙が溢れ、頬を伝っている。

「みっちゃんから、お願いされるの、初めてだね」

 ヒロは、呻き声を漏らしている。ヒロの涙を拭って上げたくて、腕を伸ばしたけど、通過してしまう。

「病気って、治らないの?」

「ああ、医者が言うには、不治の病だそうだ」

 思わず、笑ってしまった。十年前に聞いた時も笑ってしまった事を思い出した。なんだ、その適当な病名は。もしかしたら、正式名称を言われたのかもしれないが、『ようするに、不治の病というものです』と言われた言葉だけが、脳裏に焼き付いている。冗談みたいな話だ。

「本当は、一年で死ぬはずだった俺が、今まで生きてこられた。それは、ヒロのお陰だよ。一日一日が、本当に楽しかった。幸せだった。ありがとう」

 ヒロは、懸命に首を振った。

「お礼を言うのは、私の方だよ。みっちゃんのお陰で、幸せでした」

 スッと頭を下げたヒロは、涙を零しながら、無理しているのが見え見えの、笑みを見せてくれた。そして、十年前のように、左手を持ち上げ、手の甲を見せる。俺も左手を上げた。目には見えない、結婚指輪を合わせた。

「俺は、どうしようもなく、弱い人間だ。ヒロを悲しませると分かっていたけど、どうしても・・・最後は、ヒロの顔が見たかったんだ」

「帰って来てくれて、嬉しい。突然、バイバイじゃ辛すぎるもん」

 互いに笑みを浮かべ、見つめ合っている。時間が止まってくれたら、良いのに・・・。

 次第に、ヒロの顔が薄れてきた。視界の端から、暗闇が迫ってくるように感じた。

「みっちゃん! また、会えるよね? きっと、会えるよね?」

 俺は、小さく口を開いた。

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