透明リング

「みっちゃん! みっちゃん! 起きて起きて! 朝だよ! 朝朝!」

 この『いわくつき』のお値打ち物件に住み始めて、早くも一年が経過した。驚く程、時間の経過が早く感じる。年を取ると、時間の流れが速く感じると言うが、年齢だけが原因ではない。新生活が始まって、目覚ましをセットする習慣がなくなった。喧しい目覚ましが、常に傍にいるからだ。お陰で遅刻する事もないが、その副作用とでも呼ぶべきか、休日でも起こされてしまうのが難点だ。

「はいはい! 起きました! 起きましたよ!」

 どうやら、ヒロには、睡眠が不要らしく、俺が眠っている間は、一人で退屈な時間を過ごしているらしい。その反動で、俺の起床時間が待ち遠しいらしく、テンションが爆発する。以前よりも起床時間が早くなったのは、家を出るまでヒロの相手をする為だ。ヒロの妄想や希望などをウンウン頷きながら、聞いてあげるのだ。話し相手がいて、相手が相槌を打ってくれるのが、堪らなく嬉しいそうだ。その気持ちは、良く分かるし、コロコロと変化するヒロの表情を見ているのが、楽しいのだ。

 今では、昔住んでいた陰鬱で暗い世界の景色を、思い出す事すら難しくなっている。

 俺が住んでいる世界は、こんなにも眩しかったのか?

 半年程前まで、鴨川社長が気にかけてくれて、家に遊びに来てくれたり、食事に誘ってくれていた。不思議なもので、鴨川社長には、ヒロの姿が見えていなかった。だから、暗い話になると、慌てて社長を外へと引っ張り出した。最後に食事に行った時に、社長に言われた事で、確信した。

「何があったか知らないが、お前はもう大丈夫だよ。良い顔してる」

 思わず泣き出しそうになってしまい、必死で奥歯を噛んだのを覚えている。なんの確証も保証もないけど、もう大丈夫な気がする。

 今では、一分でも一秒でも、長く生きていたいと、心の底からそう思えるのだ。

「ねえ、みっちゃん! 聞いて聞いて!」

「ずっと、聞いてるよ」

「さっきね、ベランダに猫がいたんだよ。どこから来た子かな? 茶色でモサモサしてて、超かわいいの! 私がね、『ニャー!』って言ったらね、『ニャー!』って言って、逃げてっちゃった! 私が見えてるんだね? また、遊びに来て欲しいなあ!」

「うーん、ビックリさせたんだろ? もう来ないかも、しれないな」

「えーヤダヤダ! ねえ、みっちゃん! お仕事の帰りに、猫缶買ってきてよお! ベランダに置いておけば、また遊びに来てくれるかもしれないよ?」

「まあ、覚えていたらな」

 とか、なんとか言いつつ、俺は猫缶を買ってくるんだろうな。猫缶を選んでいる姿が、容易に想像できる。俺がいない間、ヒロは退屈だろうから、遊び相手にでもなってくれたら良いが・・・しかし、五階のベランダに迷い猫とは、そんな想像をした記憶がある。実際は、若い女の幽霊だったけど。

 その日の夜、猫缶を買って帰宅した。まるで高価な宝石でもプレゼントされたように、ヒロは目を輝かせていた。

「みっちゃん! これ、ベランダに置いてよお!」

「はいはい、分かったよ」

 窓を開けて、ベランダに猫缶を置いた。ヒロは、窓の前にちょこんと座り、猫が来るのを待っていた。

「みっちゃんも、モリモリご飯を食べなきゃダメだよ」

「はいはい、分かったよ」

 この一年で、体重が増えた。ヒロは、食事も取らなくて良いのだが、俺には食事を取るようにしつこく言ってくる。自分が食べたい物を俺に食べさせるのが、たまに辛い時がある。四十代と二十代では、胃袋の活力が違うのだ。他にもやりたい事や行きたい場所は、沢山あるだろう。俺に出来る事があったら、ヒロの願いを叶えてあげたい。

「なあ、ヒロ?」

「なあに? みっちゃん」

 ヒロは、クルリと振り返り、いつもの鮮やかな笑顔を浮かべた。

「ヒロはさ、やりたい事とか、行きたい場所とか、ないのか?」

「そりゃ、いっぱいあるよ!」

 ヒロは、願望をツラツラと並べていく。その姿には、目を丸くした。『好きなだけ願望を述べよ』と言われても、ヒロのように出てこない。どれほどの時間が経ったか分からないが、ようやく願望が底を尽きたようだ。全く持って、驚くばかりだ。

「でもねえ、一番やりたい事はあ」

「まだ、あるのか? 凄いなあ、感心するよ。で? 一番は?」

「結婚式!」

「は?」

「私、結婚式がしたい! それで、素敵なお嫁さんになりたい!」

 複雑な気持ちになってしまった。その願いは、俺では叶えられないからだ。

「ねえ? みっちゃん?」

「え? ああ、何だ?」

「みっちゃんは、私の事どう思ってるの?」

「え? ど、どうって、一緒にいて、楽しい人だよ」

「違う! こういう場合は、女性として好きかどうか、聞いてるの! ライクかラブかを聞いてるの! で、こう聞く人は、だいたい好きなの! 良い年して、そんな事も分からないの!?」

 あまりにも唐突過ぎて、放心してしまっている。二回り近く年の離れた女性に責められている。大きく息を吐き出し、勢い良く立ち上がった。椅子が激しい音を立てて床に倒れた。ヒロの瞳孔が開いていた。

「俺は、ヒロの事が好きだ。あ、いや、ラ・・・ラブの方で」

 最後は、締まらない形になってしまった。しかし、ヒロは、今まで見た事がない程の、満面の笑みを浮かべていた。まだ。上があったのか。

「私も好きだよ! 大好き! みっちゃん! 結婚しよ!」

「結婚って・・・それは」

 年齢の問題もあるが、それよりなによりも、ヒロは・・・いや、無粋な考えは捨てよう。俺はヒロが好きで、ずっと一緒にいたい。この一年間、本当に幸せだったのだ。ヒロを失いたくない。

「分かったしよう」

 真っ直ぐにヒロを見つめた。もう迷わない。すると、ヒロが歩み寄ってきて、誓いの言葉を口にした。

「新郎、道夫。あなたはヒロを、病める時も、健やかなる時も、妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」

「はい、誓います。新婦、ヒロ・・・」

 同じ口上を述べると、ヒロも『はい』と頷いた。嬉しかったけど、少々恥ずかしい。

「みっちゃん、左手出して」

 俺が左手を出すと、ヒロは、三本の指で指輪を掴む真似をして、俺の左手の薬指にそっと触れる真似をした。同じ事を俺もした。

 ヒロは、左手をスッと持ち上げ、手の甲を見せる。

 その指には、何もないはずなのに、俺には光り輝く指輪が、はっきりと見えた。

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