死にかけた洗礼
もしかして、泥棒かもしれない。最初に考え付いたのは、それだ。しかし、泥棒が住人にわざわざ声をかける事もないだろう。『待て!』と言われても待たないし、『出ていけ!』と言われても出ていかない。恐怖心は、まるで生まれなかったのだが、気になって眠気が薄れていく。仕方がないから、体を起こそうと思ったけれど、体が言う事を聞かない。これが、金縛りというものだろうか? 頭は起きているけど、体が眠っているというものらしい。
色々試してみたが、指一本動かなかった。頭を振ってみると、頭は動いたので、顔を扉の方へと向ける。
「誰かいるんですか?」
声が出たので、呼びかけてみたが、反応がない。もし、泥棒だったら、逃げていってくれると、ありがたいのだが。すると、寝室の扉が、ガリガリと音を立てた。扉の向こう側、つまりリビング側から、爪で扉を引っ掻いているような音だ。
「あの、煩いんで迷惑なんで、止めてもらえますか?」
新手の嫌がらせだろうか? あ! と、一つの閃きがあった。もしかしたら、猫が迷い込んでしまったのかもしれない。ペット可のマンションかどうか忘れてしまったが、いつの間にか、この部屋に入り込んでしまったのかもしれない。そう言えば、荷解きをしている最中は、換気の為に窓を解放していた。その時に、迷い込んだのかもしれない。
言葉を話す猫がいたら、それはそれで恐怖だ。確実に『出ていけ』と言っていたのだから。体が動かないのだから、思考を働かせる事しかできない。思考を巡らせている間も、ずっと扉を引っ掻く音が聞こえている。泥棒の線も迷い猫の線もないとすると、いよいよ本命はあれしかないような気がしてきた。不思議なもので、頭は非常に冷静だ。
三人が無くなって、二人が夜逃げ同然に居なくなった。
例のアレだと考えると、辻褄があってくる。まさに、霊のアレだ。あれこれ考えていると、扉がゆっくりと開いていく。部屋の中は、外からの光が漏れて、薄暗い状態だ。残念ながら、見えてしまう。懸命に頭を持ち上げ、首がつりそうになった。そして、確実に目が合っているのだ。
扉の隙間から、こちらを覗く顔がある。
「出ていけ! 出ていけ! 出ていけ!」
その人物は、突然大声を出し、扉を叩き始めた。鈍い音が、部屋中に広がっている。くぐもった声だが、女の声だ。亡くなった人の性別を聞いておけば良かった。しかし、ここで亡くなった人とは、限らない。
まず間違いなく、幽霊という奴だろう。初めて遭遇した。ひょっとして、これは夢か? まるで、現実味がなく、恐怖心もない。
「あの、ここは俺の家なんで、そちらが出てって下さい」
「ここは、私の家だ! お前が出ていけ!」
「契約書持ってますか? 家賃払ってますか? あと、煩いんで、出て行かないなら、静かにしてもらえますか?」
もし、幽霊なら、こんな話が通じるのだろうか? 対処法が分からない。警察に行っても、相手にされないだろう。では、霊能力者か? 本当にそんな人がいるのか怪しいものだ。まずは、神社か寺に相談すれば良いのだろうか? 除霊という奴を施してもらえるかもしれない。とにかく、体が言う事を聞くようになったら、調べてみよう。そんな事を考えていると、いつの間にか、静かになっていた。上半身を起こす。体も動く。扉を見ると、閉まったままだった。
寝ぼけていたのだろうか? 不思議な事もあるものだと、眠りについた。
翌朝、目を覚まし、食事の調達ついでに、必要な生活用品を買いそろえる事にした。腹の虫が、怠惰的な俺を急かすように、鳴りやまない。精神的には非常に後ろ向きなのだが、体は生きるように訴え続けている。自炊するのも面倒なので、手ごろなインスタント食品を買い込む事にする。鴨川社長の温情で、暫く有給休暇を取らせてもらっているので、家から出ないで済むようにしたい。
買い出しから戻り、適当にインスタントラーメン食し、布団に横になった。ウトウトしかけていると、隣の部屋から歩き回る足音が聞こえてくる。立派そうなマンションだと思っていたが、近隣の生活音が聞こえる程、壁が薄いのかと溜息をついた。1LDKだから、たぶん大丈夫だろうが、隣が家族で住んでいたら、嫌だと思った。家族の楽し気な会話や、子供の声など聞こえたら気が滅入ってしまう。と、思った瞬間に、体を起こした。ここは角部屋で、隣の部屋はうちのリビングだ。先ほどまで忘れていた、昨夜見た奇妙な夢を思い出した。忍び足で歩き、息を殺して扉を開いた。小さな隙間から、リビングを覗き込むと、そこには誰もいなかった。やはり気のせいだと、布団に戻り眠った。
目を覚ますと、部屋の中は暗くなっていた。携帯を開くと、時刻は日付が変わっていた。変な時間に目が覚めてしまった。とにかく、目を閉じ、横になった。
「・・・出ていけ」
はっきりと聞こえた。しかも、耳元からだ。流石に、鳥肌が立ち、目を開ける事ができない。
「出ていけ。出ていけ。出ていけ」
吐息を感じそうな距離で、力の抜けた女の声が体内に流れ込んでくる。夢にしては、あまりにも質が悪い。鬱陶しいから、耳を塞ぐように、布団を頭まで被った。しかし、お構いなしに、女の声が聞こえ続けている。次第に苛立ちが増してきた。蚊が耳元を飛び続けているような不快感に襲われ、布団を跳ねのけた。
「うるせえんだよ! さっきから!」
真夜中に怒鳴り声を上げてしまった。その後、激しく咳こんだ。キッチンへと急いで向かい、水道の水をがぶ飲みした。カバンを漁り、薬を飲んだ。無様にも薬に飛びついた姿を想像し、不愉快な感情が、毛穴からにじみ出てくる。空になった薬の容器を投げ捨て、寝室へと向かうと、やはり誰もいなかった。
その後、奇妙な声に悩まされる日々が続いた。逃げ出した二人の住人は、これが原因だったのかもしれない。出て行く事を訴え続けてくる。何だか、逃げ出すのも癪だから、意地でも残ってやろうと決めた。そして何より、もしかしたら、幻聴なのかもしれない。無意識の内に、孤独の寂しさから、居もしない住人を作り出しているのかもしれない。そう考えると、あまりにも惨めで泣きたくなった。
数日後、風呂に入っている時の事だ。小さいながらも、湯船に浸かれるのは、気持ちが良い。目を閉じ極楽を味わっている。
「ねえ? どうして、出て行かないの?」
突然、目の前から声が聞こえて、驚いて目を開くと、逆さまの女の顔があった。悲鳴を上げて逃げ出そうとすると、足を滑らせ後ろ向きに、浴槽に沈んでいった。大量のお湯を飲み込み、必死になってもがいた。なんとか、浴槽の淵に手をかけ、体を持ち上げた。むせ返り、呼吸が困難になった。落ち着かせるように、荒々しかった呼吸のペースを遅らせていく。ゆっくり吸って、ゆっくり吐いた。
気のせいだったのか? いや、そんな訳がない。あんなにもはっきりと、女の顔が見えたのだから。今度は、幻覚まで見えたのか? この部屋が可笑しいのか、俺が可笑しいのか分からない。
「確か、ここで溺死してるんだったよな? まさか、さっきのが、原因か?」
笑えない冗談だ。現に、死ぬかと思ったのだから。
死んでも構わないとか思っておきながら、必死で浴槽を掴んだ。あまりにも滑稽で、情けない。
今夜も、またあの嫌がらせを受けるのかと思うと、気が重い。とうとう、顔まで見てしまった。一瞬電気を消す事を躊躇ってしまったが、悔しかったのでスイッチをオフにした。そう言えば、悔しいとか負けたくないとか、そんな気持ちを抱いたのは、久し振りだ。
布団に潜り込んだのだが、一向に睡魔はやってこない。むしろ、目が冴えている。自分で自分が分からない。まるで、待ち構えているような気分だ。暫く、暗い部屋で天井を眺めていると、リビングの方から声が聞こえてきた。やはり、今日も来たか。そう思ったのだが、今日はいつもと様子が違う。いつまで経っても、声をかけてこないのだ。しかも、聞き耳を立てていると、小さくすすり泣くような声がする。
布団から抜け出し、ゆっくり扉を開くと、リビングの角で背を丸めてうずくまっている人物が確認できた。踵から床を踏み、小さな背中へと歩み寄る。
「おい、今日は、諦めたのか?」
声をかけると、その人物は、体を大きく震わせた。そして、恐る恐るこちらに振り返ったのだ。若い女が、ボロボロと涙を零しながら、俺を見上げている。
「だって、おじさん。ちっとも出ていってくれないんだもん」
「どうして、俺が出ていかなきゃならんのだ?」
「だって・・・う、ううううう」
泣き出してしまい、会話どころではない。どうすれば良いのか分からず、彼女の後ろに腰を下ろした。
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