第八章・明日への道(その10)

 卒業式が一段落すると、潮音はしばらく期末テストの準備に追われた。潮音は愛里紗に対して調子のいいことを言ったり、弁護士になりたいと周囲に大見得を切ったりした以上、自分もあまりテストで無様な成績を取るわけにはいかないと思っていた。そのため潮音は学校の行き帰りの電車の中でも、英単語や歴史の重要事項が書かれたノートを広げたりもした。


 潮音の家族にはその潮音の意気がいつまで続くだろうかといぶかしむ向きもあったが、それでもたとえ一時的だとしても潮音がやる気を出してまじめに勉強すること自体は結構なことだと思って、机に向かう潮音を温かく見守っていた。さらに日曜日には、暁子と優菜も潮音の家に来て一緒に勉強会を行い、わからないところを互いに教え合ったりもした。


 そのような努力の甲斐もあって、潮音はこのたびの学年末試験では、特進コースに進むには物足りないとはいえ、二学期末の試験に比べてかなりいい成績を取ることができた。潮音もこの成績にひとまずは安堵したものの、愛里紗のことが試験期間中もずっと気がかりでならなかった。潮音は愛里紗がこの期末テストでいい成績を取って、多少なりともスランプを抜け出すためのよすがになればと願っていた。


 潮音はホームルームが一段落すると、さっそく楓組の教室に向かった。潮音が楓組の扉の前に着くと、愛里紗もさっそくそれに気づいたようだった。潮音は愛里紗の表情から、今回のテストの成績が少なくとも悪くはなかったことを読み取っていた。


「榎並さん、その様子じゃテストの結果は悪くはなかったみたいだね。そりゃそうだよ。榎並さんはテスト前にあれだけ勉強頑張ってたんだから」


 しかし愛里紗はその結果に浮かれる様子もなく、クールな態度で潮音を出迎えた。


「たしかに今回の期末テストは前に比べて点数も上がったとはいえ、私の目標はあくまで医学部に受かることよ。そのためにはくれぐれも気を抜かずに、これからもっと頑張らなきゃいけないわ」


 その愛里紗の態度には、潮音がため息をついていた。


「やれやれ、榎並さんってせっかく試験が終ったんだから、少しは嬉しそうにすればいいのに。そんなにいつも勉強のことばかり考えてたら息が詰まっちゃうよ。今日一日くらいは、どっかに遊びに行かない?」


 その潮音の提案に、愛里紗は戸惑いの色を浮べた。


「今日もそのためにわざわざ、この楓組の教室まで来たわけ? 藤坂さんって人の世話ばっかり焼く前に、自分の成績のこと心配した方がいいんじゃないの」


 愛里紗がつっけんどんな答え方をすると、背後から声がした。


「榎並さん、藤坂さんがわざわざ榎並さんのこと心配してくれてるのに、そんな言い方はないんじゃないの」


 紫の声だった。そして紫のそばには、紫と仲がいい吹屋光瑠や長束恭子の姿もあった。紫に続いて、恭子が単刀直入に口を開いた。


「ほんまやで。榎並さんってもっと素直になればええのに。…あたしかて榎並さんは最近までなんかいけすかん子やと思っとったけど、藤坂さんは榎並さんに対してもみんなと仲ようなれるように努力しとったやん。…あたしにはとてもそんな真似なんかできへんよ」


 紫は恭子が口を滑らせて余計なことまで言わないかと冷や冷やしていたようだったが、恭子の言葉に対して愛里紗はすまなさそうな顔をした。


「…わかったよ。せっかくテストだって終ったから、今日くらいはみんなにつき合ってもいいかな」


 その愛里紗の遠慮気味な言葉を聞いて、紫は表情をほころばせた。


「なんか榎並さんも変ったわね。榎並さんは今までだったらそんな風に友達の遊びの誘いに乗ることなんかなかったのに」


 そこで愛里紗も遠慮気味に答えた。


「あの後で藤坂さんのお母さんに言われたんだ。本当に医師になろうと思うんだったら、目の前の点ばかりにとらわれてカリカリしていたらダメだ、もっと広い心を持っていろいろな人のことを受け入れられるようにならなきゃいけないってね」


 愛里紗がこのように発言したのには、潮音までもが気恥ずかしい思いがした。そこで紫は、愛里紗の背中を押すように言った。


「そうと決れば話が早いわ。さっそくみんなで遊びに行きましょ」


 その紫の言葉には、その場に居合わせた潮音や光瑠、恭子までもが歓声を上げた。日ごろ姉御肌で周囲の生徒たちに親しく接し、校内のまとめ役になってきた光瑠も、愛里紗がようやく周囲に対しても心を開くようになってきたことが嬉しいようだった。


 潮音たちが校舎の玄関へと向かったところで、ちょうど帰宅途中の寺島琴絵と出会った。琴絵も恭子から遊びに誘われると、一緒に行くことになった。潮音はこれまで校内でも孤高を保っているかのように見えた琴絵も、以前に比べて多少変わってきていると感じていた。


 潮音たちの一群はそのまま校門を出ると、駅前の繁華街にあるカラオケボックスに向かった。愛里紗は他の生徒たちに比べて流行りの歌などにはあまり詳しくないようで、はじめは緊張して遠慮気味な態度を取っていたが、それでもみんながさまざまな曲を歌ううちに自然と楽しそうな表情になっていた。潮音はポップな曲調の歌もしっとりとしたバラードも歌いこなす紫はさすがに歌がうまいと感心していたが、その一方で琴絵がハイテンションなアニメソングを歌うのには,日ごろはクールで知的に振舞っている琴絵の別の一面が見られたような気がした。


 カラオケが一段落すると、潮音たちは歌を歌うことで試験のストレスを一掃することができたのか、皆一様にすっきりとした表情をしていた。しかし紫たちは潮音が激しい曲調のロックを歌ったことに意外そうな顔をしていたが、潮音はそのような周囲の表情を見て、自分はまだ男の子だった頃の気質が抜けていないのかなと思った。


 それから潮音たちは、喫茶店に入って少しおしゃべりをしていくことにした。みんなでテーブルについて注文を済ませると、愛里紗は落ち着かなさそうな態度をしており、身ぶりにもどことなくぎこちなさが目についた。愛里紗はこれまで授業が終ると部活に出るのでなければ、すぐに帰宅して勉強するか塾に行くかだっただけに、放課後に友達から遊びに誘われること自体に慣れていないようだった。


 そこで潮音は、なんとかして場の雰囲気を持たせようと声をあげた。


「榎並さんが今日みんなと一緒に来てくれて良かったよ。そりゃ榎並さんはこうやってみんなと一緒に遊ぶのに慣れていないのかもしれないけど…今日は楽しそうじゃん」


 そう言われたときの愛里紗は、気恥ずかしそうな様子をしていた。


「そんな…私がこうやってみんなと一緒に遊ぶことができるようになったのは藤坂さんのおかげだよ」


 そのような愛里紗の表情を見守る、みんなの眼差しは温かかった。それを感じたのか、愛里紗も以前に比べて自然と落ち着いた表情になっていた。


 それからしばらくみんなでおしゃべりしているうちに、話題は自然と直前に迫った、新年度の生徒会長を決める選挙のことになっていた。そこで紫は、愛里紗に尋ねていた。


「榎並さんは今度の生徒会長の選挙に立候補しないの?」


 その紫の問いかけに、愛里紗は戸惑ったような表情をした。


「何言ってるのよ。次の生徒会長は峰山さんが本命って言われてるでしょ」


「あら。榎並さんだってこれまでこの学校で頑張ってきて、今副生徒会長までつとめているのだから、生徒会長を目指したっていいと思うけど」


 その紫の言葉に、愛里紗は観念したような顔をした。


「やっぱりあんたには負けたわ。それだけあんたはあたしのことをライバルとして認めているってことでしょ?」


 潮音は新年度になってからも、紫と愛里紗との間の関係は一筋縄ではいきそうにないと思って、内心でやれやれとため息をつきたくなった。それから潮音は、紫と愛里紗のどちらが生徒会長になるにしても、生徒会全体はこの二人が引っ張っていくに違いないとして、光瑠は体育委員になって体育祭を仕切り、文化委員は琴絵あたりが就任するのだろうと思っていたが、そこで光瑠が顔を上げて言った。


「あの…私も生徒会長に立候補してもいいかな」


 その光瑠の言葉には、その場にいたみんなが目を丸くした。潮音も校内ではクールな姉御肌のキャラクターゆえに支持を集めている光瑠も、生徒会長の選挙でいい線にいくのではと思ったが、それにしても光瑠がここにきてなぜと思わずにはいられなかった。


 そこで光瑠は、しっかりとみんなの顔を見つめ直して言った。


「私も特に高等部になってから、体育祭や文化祭をいろいろやってきて、そこからもっといろんなことをやってみたいって思うようになったんだ。そりゃ峰山さんや榎並さんに簡単に勝てるとは思ってないけど、それでも何もしないで後悔するようなことはしたくないから」


 その光瑠の話を聞いて、紫は納得したような顔をした。


「いいんじゃないの? 勝ち負けは別として、こうやって多くの生徒が生徒会の活動に関心を持ってくれるのはいいことだわ。そして誰が生徒会長になったとしても、みんなで協力して学校を盛り上げていかなくちゃね」


 潮音は紫の話を聞きながら、紫と愛里紗と光瑠の誰が生徒会長になったとしても、そこで自分はいったい何をすればいいのだろう、自分だってうかうかしてはいられないと考えこまずにはいられなかった。


 潮音はみんなで喫茶店を後にして駅に向かう途中で、思い切って光瑠に尋ねてみた。


「吹屋さん…どうして生徒会長に立候補しようと思ったの」


 そこで光瑠は、少し考えるようなそぶりをした後で口を開いた。


「私…学校の中では後輩からも頼りにされているように見られてるけど、自分自身はそんな柄じゃないって思ってるんだ。文化祭のロミオだってみんなからはまり役みたいに見られてるけど、最初はそんな乗り気じゃなかったし。だから私は本当に生徒会長になれるかどうかは別にして、これで少しは自分を変えるきっかけになれるかと思ったの」


 その光瑠の言葉を聞いて、恭子も相槌を打った。


「なるほどな…。光瑠って校内では割とかっこいいキャラで通ってるけど、根はけっこうナイーブやということくらい、前から気づいとったよ。でもそう思うんやったらやってみたらええんとちゃうかな」


 光瑠がこの恭子の言葉に赤面するのを見て、潮音は光瑠も内心ではいろいろと複雑なものを抱えているのだなと思っていた。

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