第八章・明日への道(その9)
潮音は周囲から弁護士の仕事を勧められて以来、学校の図書室で弁護士の仕事やなり方について解説した本を借りて、時間の合間を見てパラパラめくってみたり、インターネットでそれらについて検索したりした。潮音は絵を描いているときの真桜の真剣な眼差しを思い出すと、普段はぼんやりしているように見える真桜も自分の目標に取り組むときにはこんなに一生懸命になるのかと思わされて、自分もうかうかしてはいられないと思わずにはいられなくなった。
潮音はこれまでニュースなどを見て、弁護士という仕事は裁判で被告人の弁護を行う仕事だと思っていた。しかし潮音が実際に弁護士の業務内容について調べてみると、それだけでなく世間一般のあらゆる人や企業の法律に関する幅広い相談に乗っており、特に家庭の不和や子どもの人権、LGBTをめぐる問題などに取り組んでいる人もいるという話を聞くにつれて、自分自身弁護士という仕事の内容により強く心を動かされるものがあった。しかし弁護士になるためには試験そのものが大変なだけでなく、法科大学院などに通ったりすれば学費だってバカにはならないという現実を知らされると、自らの先行きについてあらためて不安を覚えずにはいられなかった。
潮音はそのたびに、心の中で昇のことを思い浮べていた。潮音はそもそも、自分自身が弁護士の業務に関心を抱くようになったこと自体が昇の影響を受けたからだと思っていたが、自分がこのようにして将来のことについて迷いや不安が生じたとき、昇ならどうするだろうかと思わずにはいられなかった。潮音はこれまで昇の「優しさ」にはだいぶ救われてきたが、自分がいざ弁護士になれたときに本当に昇のように人に優しくできるのかと問われると、自分自身も自信がなかった。
そこで潮音は、自分自身がもし女にならず、男子のまま高校に通っていたとしたらどうなっていたかと考えていた。その場合昇が自宅の隣に引越してきたとしても、名門校に通う昇は自分とは住む世界が違いすぎて、そこまで昇と仲良くなれることも、昇の言動から自分が影響を受けることもなかったに違いない、それどころか昇と自宅の門の前で顔を合わせてもろくに言葉を交わすことすらなかったかもしれないと思うと、あらためて自らを見舞った運命の不思議さをかみしめていた。
さらに潮音は、もし自分が男のままだったら、進学先やさらにその先の進路について今ごろどのように考えているだろうと思うと、ますます心の中で迷いばかりが膨らんでいった。潮音は暁子からことあるごとに、自分はクラスの男子同士で悪ふざけばかりしていた頃よりも、女になってから後の方がずっとしっかりしていると言われることを思い出して、内心で気恥ずかしい思いがした。
潮音は昇にもやはり、自分も弁護士になりたいと思っていることをいつかきちんと打ち明けよう、昇のことだからそれでもいやな顔はしないだろうし、いろいろな助言をくれるかもしれないと思い直すと、すでに高一の全生徒に配布されていた、二年生以降の進学コースや文系・理系の志望を書くための用紙を通学カバンから取り出した。
潮音は自分自身の実力では、とうてい紫や琴絵と同じ特進コースに進んで難関大学を目指すことなど無理だとわかっていた。しかし潮音は一般の進学コースに進んだとしても、大学進学がゴールではないし、どのみちこれから自分の進むことになる道は平坦ではないと思うと身震いがした。
それから潮音は家族とも少し話し合った後に、文系の一般進学コースに進みたいという希望をアンケートに書き入れた。潮音の両親や綾乃も、潮音が弁護士を目指したいという希望をしっかり打ち明けたことにはじめは一瞬目を丸くしたが、両親も潮音が高い目標を目指すこと自体は悪いことではないと言って、その希望を承諾することにした。
これまで潮音を前にしてはどちらかといえば厳格で寡黙な父親であった雄一も、潮音がいつしか成長していたことに感慨深げな様子をしていたが、綾乃は少し心配そうな顔をしていた。
「潮音、あんたが弁護士になりたいって言ってるのは、もしかして湯川君を見てそう思ったからなの? あまり人の進路のことなんか気にしないで、自分は本当にできることをもっとよく考えた方がいいよ」
しかしその綾乃の言葉に対して、潮音は首を横に振った。そのときの潮音の覚悟を決めたような眼差しを見ると、綾乃もそれ以上とやかく言うことはなかった。綾乃は口にこそ出さなかったものの、心の中に疑念を抱いていた。
――潮音ってもしかして湯川君のことを、異性として意識し始めているのでは…。
そして二月の末になって、アンケートを提出する期限の日が来た。潮音が朝自宅を後にすると、ちょうどそこでばったり暁子と優菜に出会った。
潮音は駅への道のりを暁子や優菜と連れ立って歩いている間に、あらためて暁子に尋ねてみた。
「今日がコース分けのアンケートを提出する期限だけど、暁子はあれからちょっと進路について考えてみたの?」
それに対して暁子は少し気恥ずかしそうに答えた。
「…それなんだけどね。あたしはうちのお母さんがずっとアパレル業界で働いてきたから、やっぱりそこで働きたいって思ったんだ。そのためにはどんな進路があるのか、大学でもどんな勉強すればそれが役に立つのか、先生や両親とももっとよく相談しなきゃって思ってるんだけど」
その暁子の希望を聞いて、潮音は納得したように答えた。
「いいんじゃない? 暁子はこれまでお母さんがその業界で働いてるとこ見てるから、それが役に立つことだってきっとあるんじゃないかな。でもそのためには暁子自身、もっとファッションセンスを磨いた方がいいんじゃないの?」
その潮音の最後の言葉に、暁子はむっとした顔になった。
「ほんとにあんたって口を開けば、いらないことばかり言うんだから」
その潮音と暁子の様子を見て、優菜はやれやれとでも言いたげな顔をした。
「あんたら二人も相変らずやな。そこがあんたら二人らしいと言うたらそれまでやけど」
その優菜の言葉の中の、「あんたら二人らしい」という言葉には、潮音と暁子も共に気恥ずかしそうな顔をして口をつぐんでしまった。
「優菜こそ進路はどうするのよ」
「あたしは最近になって、インテリア関係のデザインの仕事に興味を持っとるんやけど、アッコのやりたいことともちょっと重なるところがあるかもしれへんな。ま、将来と言うたってまだぼんやり考えとるだけで、大学行っとるうちにやりたいことは変わるかもしれへんけど」
潮音も暁子や優菜も将来に向けて動き出しているのだから、自分もうかうかしていられないと思った。しかしそこで優菜が、潮音に声をかけた。
「ところで三月に入って卒業式が過ぎたら、その後期末テストになるで。潮音やアッコはちゃんと勉強しとるん?」
潮音はその優菜の話を聞いて、自分自身周囲に対して大見得を切った以上は、今度の期末テストはちゃんと勉強しなければなと意を新たにしていた。しかしそれより、潮音は愛里紗が今回のテストを頑張って、自信を取り戻してくれたらと思っていた。
松風女子学園の卒業式は、三月一日に行われるのが習わしである。その日はまだ風には冷たさが残っていたものの、空も青々と晴れ渡って早春の澄みわたった光がうららかに校内を照らしていた。
理事長のはなむけの言葉の後で卒業生たちに卒業証書が手渡され、在校生を代表して生徒会長の松崎千晶が堂々とした口調ではっきりと送辞を述べた。そして卒業生の代表があいさつを読み上げて校歌が斉唱されると、式典はおごそかな雰囲気のうちに終了した。
式典の後で講堂を後にした生徒たちの多くは、クラブや仲良しの友達同士で集まって写真を撮っていたが、その中には先輩との別れを惜しんでいるように見える者も少なくなかった。千晶は生徒会の先輩や剣道部員たちのところにあいさつをしに行ったが、いつもはバスケ部でクールに振舞っている光瑠までもが、部の先輩が卒業するのに寂しそうな表情をしているのが潮音にはどこかおかしかった。
喧噪も少し一段落してから、潮音は暁子に声をかけた。
「こうしてみると、やはり三年生が卒業しちゃうと学校ががらんとして寂しいよね」
「でもその代わり、四月からは学校に新しい子たちが入ってくるんでしょ。潮音だって高等部の先輩になるんだからしっかりしないとね」
「しかしこうしてみると、私が高校入ってから一年になろうとしてるんだもんね。長いような短いような一年だったよ。でもこれから二年生になったらますます勉強大変になりそうだけど、それ言ったら特進コースの子たちはもっと勉強大変なわけだしな」
そこで潮音と暁子は、紫が卒業生たちと談笑している姿に目を向けた。卒業生たちも紫になら生徒会の後事を託せると信頼しているようだった。潮音は中等部から松風女子学園に通っている紫には、先輩との関係でも自分のあずかり知らないところがあるのだろうと感じていた。
それを見て、暁子はぼそりと潮音に耳打ちした。
「ねえ潮音、峰山さんってやっぱり四月からの生徒会長に立候補するのかな。さっき送辞を読んだときの松崎先輩はやっぱりかっこよかったよね。生徒会長になったらあれくらいできなきゃいけないのかな」
「ああ、期末テストが終ったらすぐに、来年度の生徒会役員の選挙があるんだよな。でも紫は勉強も特進コースに行ってバレエもやって、それで生徒会長もやったらますます大変になるよ。私も峰山さんに頼ってばかりいないでちゃんとしないとな」
「あんたってそういうとこ、やっぱりまじめだよね。でもそう言うなら、さっそく家に帰って期末テストの勉強しないとね」
暁子に言われると、潮音はやれやれとでも言いたげな顔をした。
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