第八章・明日への道(その8)

 それから数日がたった放課後、潮音が帰宅の準備をしていると、背後から声をかける者がいた。その声の主は寺島琴絵だった。


「潮音、紫から話は聞いたよ。榎並さんのためにいろいろ頑張ったんだってね。ほんとに潮音って、困った人を見ると放っておけない真面目な性格だけど、あの榎並さんに対してまでちゃんと相手をするのだから大したものよ」


 潮音は早くも自分の噂が校内に広がっているのかと思うと、内心でやれやれと言いたくなったが、琴絵はさらに話を続けた。


「でも紫も言ってたけど、進路についてちょっと悩んでるんだって? 私ともいっぺん話してみない」


 潮音はまた、琴絵が根城にしている文芸部の部室に行くのかと思ったが、潮音はその文芸部の雰囲気そのものは嫌いではなかった。


 しかし潮音が琴絵と連れ立って教室を出たところで、廊下を急ぐ人影と鉢合わせになった。その人影こそ、潮音が先日の百人一首大会以来気に留めていた国岡真桜その人だった。


 真桜の方も教室からいきなり潮音と琴絵が出てきたのに驚いたようだったので、潮音はあわてて真桜に謝ろうとした。


「ごめん、菫組の国岡さん…だっけ、こないだの百人一首大会ではずいぶん成績上の方まで行ってたじゃん」


 しかし真桜は、潮音にいきなり声をかけられて、それにどのように返答すればわからずにぽかんとしていた。


「桜組の藤坂さん…ですよね。私に何か用ですか?」


「いや、百人一首大会のときから国岡さんのことがちょっと気になってたから、いっぺんちゃんと話してみたいって思っててさ…」


「百人一首大会だったら、そこにいる寺島さんこそ優勝したじゃないですか」


 真桜に名前を呼ばれて、琴絵も当惑したような表情をした。


「国岡さんだって百人一首の腕はなかなかのものじゃない。練習とかしてたの?」


 琴絵にまで話しかけられて、真桜はますます当惑したように目をぱちくりさせた。


「用があるなら手短にしてください。私はこれから美術部に行く途中です」


 そこで潮音は、文化祭に出展されていた真桜の油絵を思い出していた。真桜の描いたメルヘンチックな油絵は、あまり絵に詳しくない潮音の心にもどこか響くものがあった。


「国岡さんって美術部にいるんだよね。こないだの文化祭に出した絵、すごく良かったよ。でもまた新しい絵描いてるんだ。今からちょっと見に行ってもいいかな」


「私も国岡さんの描いてる絵、ちょっと見せてもらえないかしら」


 潮音と琴絵が共に興味深げな様子を示したことに対して、真桜はますます不思議そうな顔をした。真桜は今までこのようにして人から声をかけられたことなどあまりなかったらしく、コミュニケーションの取り方そのものに戸惑っているようだった。


「別に見に行ってもいいけど…大した絵ではありませんよ」


 潮音が琴絵や真桜と一緒に美術室の隣にある美術部の部室に行くと、潮音はさっそく部室の片隅にあるイーゼルに架けられた一枚の油絵に目を奪われた。その絵は澄んだ青を主体とした色調で、海の中を色とりどりの魚たちが泳いでいる幻想的な風景が描かれていた。この絵の筆致の確かさは、潮音だけでなく琴絵も認めているようだった。


「この絵、国岡さんが描いてるの? まるで絵本の中の世界を描いたみたいで、すごくうまいじゃない」


 しかし真桜は潮音や琴絵の態度にも動じることなく、服が絵の具で汚れないようにするための上っ張りを着て、絵の具箱を取り出して絵を描くための準備を始めていた。そして琴絵は絵筆とパレットを手に取ると、イーゼルに架かった油絵に手を加え始めた。そのときの真桜の真剣な眼差しには、潮音と琴絵も思わず引き込まれていた。


 しばらくして真桜は、油絵に絵の具を足しながら口を開いた。


「どうしたんですか? 二人ともこうしてわざわざ部室まで来たのに、さっきからずっと黙っちゃって」


「いや、さっきから国岡さんはずっと真剣に絵を描いてるから、声なんかかけたりしたら邪魔にならないかなって思ってさ…」


 潮音に言われても、真桜は絵筆を動かす手を止めようとしなかった。


「もっと私の描いた絵が見たいんだったら、そこに私の描いたスケッチブックがありますから、それを見ればいいですよ」


 潮音と琴絵はそこで、真桜の描いた水彩画やデッサンが描かれているスケッチブックを開いてみた。しかしその途端に、潮音はそのスケッチブックに繊細な筆致や淡い色合いで描かれた、花瓶に生けられた鮮やかな花の絵や風景画に思わず絵を奪われていた。そこで潮音は思わず口を開いていた。


「国岡さんって絵がめっちゃうまいじゃん。…すごいよ」


 しかし潮音の褒め言葉に対しても、真桜はそれを素直に受け止めようとしなかった。


「…私はちっちゃな頃からいつもぼんやりしてて、周りから何を考えているのかわかんない子だと言われてました。友達と一緒に遊ぶより、一人で絵を描いたり粘土細工をしたりする方が好きだったけど、学校とかでも『ノロマ』と言われて、運動会やスポーツでも私と一緒のチームになると負けるとか言われたりして…。そんなときは絵を描いているのが一番楽しかったのです」


 琴絵もその真桜の言葉には、少し感じるものがあったようだった。


「私だって国岡さんの気持ちはわかるよ。私はちっちゃな頃から暇さえあれば図書室とかで本ばかり読んでたけど、先生からは『本ばかり読んでないで、もっと友達と一緒に遊びなさい』とか言われてたし」


 しかし真桜は、自分の過去に対して琴絵に同情などされてほしくないようだった。


「でも寺島さんは生徒会で書記だってやってるし、勉強の成績だっていいじゃないですか。私なんてほんとに絵を描くしかないから…」


 そこで潮音は、思わず声をあげていた。

「国岡さんもそんなに自分のことを悪い方にばっかりとらえるのはよしてよ。これだけの絵が描けるんだから、国岡さんは十分すごいよ。…国岡さんはこの絵の才能が活かせるような仕事につけばいいのに」


 そこで真桜は、絵筆を持つ手を止めて表情を少し曇らせた。


「私だって本当は美大や芸大に行きたいんです。…この世界で自分の実力がどこまで通用するかはわかんないけど、自分は会社に勤めるとかそういうの向いてないと思うから…」


 潮音は真桜を励ますように言った。


「国岡さんだったらきっと大丈夫だよ。…絵を描くのを邪魔しちゃ悪いからそろそろ帰ろうか。国岡さんが本当に美術の学校に入れてもっと絵がうまくなれたらいいのにね」


 そこで潮音は琴絵と目配せをして、美術部の部室を後にすることにした。部室を去る間際、琴絵はちゃんと真桜に声をかけるのを忘れなかった。


「絵を描くのに夢中になるのもいいけど、あまり遅くならないうちに帰りなさいよ」


 潮音は琴絵と一緒に美術部の部室を後にすると、放課後の廊下を連れ立って歩いた。


「国岡さんってあれだけ絵がうまいんだから、もっと自分に自信持てばいいのに」


「でもあの子もあの子なりに、周囲との人間関係をどう築くかには悩んできたみたいね。…その気持ちは私だってちょっとわかるような気がするけど。ちょっと文芸部の部室に寄って行かない?」


 この琴絵の誘いに、潮音も乗ることにした。



 文芸部の部室に着くと、琴絵はさっそく潮音を部室の中央にあるテーブルの傍らの椅子につかせた。琴絵も潮音とテーブルを挟むようにして席につくと、潮音の顔を見て単刀直入に語りかけた。


「で、潮音はちょうど今進路調査のことで悩んでいるわけね」


 琴絵を前にしても、潮音は琴絵の顔を直視しようとしなかった。


「私は自分にできることは何か、自分にしかできないことって何かって考えているうちに、自分は男から女になってしまって、そのときいろいろ悩んだり苦しい思いをしたりしたこともあったから、いろいろな悩みや苦しみを持った人を助けるような仕事がしたいって思うようになったんだ。…でもそのための仕事って何があるのかわかんないから悩んでるんだ。榎並さんだって、医者になりたいって思ってそれが難しいとわかりながらも頑張ってるのに」


 その潮音の言葉に、琴絵は黙ったまま耳を傾けていた。琴絵はしばらく考えるようなそぶりをした末に口を開いた。


「潮音のなりたい仕事の方向性は間違ってないと思うよ。でもそう思うなら、弁護士以外にも仕事やできることなんかいくらでもあるんじゃないかな。今はもっといろんな人の話を聞いて、そこから本当に自分のやりたいことやできそうなことって何なのかをちゃんと考えればいいよ。今はまだ焦る必要なんかないから」


「でも琴絵だって将来のことで悩んでるって言ってたよね。本当は小説を書いたり文学の研究をしたりしたいけど、それじゃあなかなか生活していけないって」


「そうなんだけどね、私はやっぱり大学では文学部で文学の研究がしたいって決めたよ。この前古文の石野先生にどうすれば文学の研究者になれるか相談したら、こう言われたんだ。『確かに文学の研究は仕事の役に立たない学問とバカにされることだってあるし、就職だって有利とはいえないけど、文学について研究して理解を深めることはどんな進路を目指すにしてもそれだけ自分の人生を豊かにしてくれる、その覚悟があるなら文学部で文学の研究をすればいい』って」


 潮音が黙って琴絵の話を聞いていると、琴絵はさらに言葉を継いだ。


「みさきちだって言ってたよ。『本当に自分は何がしたいのかや、何ができるかにろくに目を向けようともしないで、単に就職に有利だからというだけの理由で進学先や就職先を選ぶ人なんて、どんな進路に進んだって大成しない』って。だから私は先行きは険しいかもしれないけど、大学では自分のやりたいことをやってみるよ。小説を書くのだって、趣味だっていいから続けたいし」


「みさきちは英語の先生になる前にアメリカに留学して、そのときはいろいろ苦労もしたけど学んだことも多かったし、あのときの経験がなかったら英語の先生にはなれなかったかもしれないって言ってたよね。やっぱりそのときの経験からそう言ってるのかな」


「やっぱりあの先生は、自分が理事長先生の娘だからといって優遇されているとは思われたくないと思っているみたいね」


「ともかく今日は琴絵といろいろ話できて少し気が楽になったよ。それに国岡さんの絵だって上手だったし」


「…実を言うと私、あの子のことはちょっと心配だったんだ。ちょっとコミュ障でクラスの子ともあまり積極的に会話しようともしないし、ほんとにみんなとうまくやれているのかなって…。でもあの子はちゃんと自分の世界を持ってるんだから、美大に入ってその才能を活かせる道に進めたらいいのにね」


 その言葉には潮音も同感のようだった。そのまま潮音と琴絵は文芸部の部室を後にして、帰宅の途についた。

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