第八章・明日への道(その7)

 それから一夜が明けて月曜日になっても、潮音は気が重かった。潮音は今日愛里紗がちゃんと登校するのかが不安でならなかった。


 潮音が不安な気持ちを引きずりながらも自宅を後にすると、そこでばったり暁子と優菜に出会った。暁子は潮音を一目見るなり、潮音に元気がないことに気がついた。


「どうしたの? やはり進路のことで悩んでるの?」


「いや、それだってあるけど…優菜って榎並さんと同じ楓組だよね。このところ榎並さんの様子になんか変なところはなかった?」


 優菜は潮音からいきなり愛里紗のことを尋ねられて、怪訝そうな顔をしていた。


「どないしたん? いきなりそんなこときいて。そりゃ榎並さんはこないだの模試の結果があまり良くなかったみたいで、ちょっと悩んどったみたいやな。榎並さんは勉強できるんやから、一回模試の結果が悪かったくらいでそんなに落ち込むことなんかないと思うんやけど」


「…ありがとう。それだけ聞きゃ十分だよ」


 そう言って潮音は、暁子や優菜と一緒に駅に向かって歩き出した。潮音は昨日母親と口論して家を飛び出した愛里紗を自宅に招いたことは、暁子と優菜には黙っておくことにした。


 三人が登校する途中も、話題は自然と二年生からのコース分けや進路のことになっていた。三人とも難関大学への進学を目指す特進コースに進むことは少々厳しそうだったが、進路調査も悩みの種だった。そこで潮音は、思い切って暁子と優菜に本心を打ち明けることにした。


「最近…ある人から弁護士を目指してみてはどうかって言われたんだ」


 そのときの潮音の自信のなさそうな物言いを聞いて、暁子と優菜は呆気に取られていた。


「潮音、ほんとに大丈夫なの? 弁護士になるための司法試験って、すごく難しいらしいじゃない。こりゃ今のあんたの成績じゃ、ちょっとやそっと勉強して受かるようなものじゃないよ」


 しかし潮音は、そこで暁子に対して首を振った。


「…そんなことくらい言われなくたってわかってる。でもどんなことだって、やってみなきゃ始まらないだろ。やる前から諦めてたら何にもならないんだ」


 そして潮音はさらに言葉を継いだ。


「自分は男から女になってつらいこともあったし、苦しい思いだってした。でもだからこそ、この経験を活かしてできることがあるんじゃないか、こうやっていろいろ悩んでいる人や困っている人を助けることだってできるんじゃないかって思うんだ。そう考えるとじっとしていられなくなって、もっと高い目標を目指したいって思うようになったんだ」


 暁子はその潮音の言葉の一部始終を、神妙な面持ちで聞き入った後で口を開いた。


「ほんとにあんたは偉いよ。あたしなんか今まで学校の勉強や日ごろの生活のことについていくのが精一杯で、学校卒業してから何がやりたいかなんて、そんなこと全然考えてこなかったのに」


 それには優菜も同感のようだった。


「アッコの言う通りやで。でも私も、そろそろどこの大学行きたいか、その後でどんな進路に進みたいか、もうちょっとまじめに考えなあかんな。私なんかブラック企業やないええ会社入れて、そこでOLにでもなれたらええかなくらいにしか思うてなかったけど」


 そして潮音たちが学校に着いたときには、愛里紗がきちんと登校しているか潮音は気がかりでならなかった。しかし潮音が一年楓組の教室の前を通りかかると、そこではちゃんと愛里紗が自分の席について黙ったまま授業の準備をしていた。


 潮音は楓組の教室の戸口に立ったまま、愛里紗が登校したことに安堵していたものの、愛里紗に対して軽々しく声をかけることは憚られた。ちょうどそのとき、潮音の背後で紫の声がした。


「榎並さんもなんとかお母さんと仲直りして、落ち着きを取り戻したみたいね。私もあの後ずっと心配してたけど、ほっとしたわ。それも潮音がちゃんと榎並さんの相手をしてくれたおかげよね」


 紫もほっとしたような顔立ちをしているのを見て、潮音はいささか照れくさそうな顔をした。


「私は何も大したことなんかしてないよ。晩になってから愛里沙のお母さんから電話がかかってきて、そこでようやく仲直りできただけだから」


「それは違うね。何か特別なことをしなくたって、そばにいて寄り添ってあげる、それだけでも全然違うはずよ」


 そのとき愛里紗が、桜組の教室の戸口で話している潮音と紫の姿に気がつくなり、紙袋を手にしてつかつかと二人のもとに寄ってきた。潮音はどきりとしたが、二人を前にしたときの愛里紗はすまなさそうな顔をしていた。


「藤坂さんも峰山さんも、昨日はせっかく楽しい休日を過ごしていたのに、私が迷惑かけてすまなかったわね。あ、このコート貸してくれてありがとう。ちゃんと返しとくね」


 そう言って愛里紗は、きちんと畳んだコートの入った紙袋を潮音に手渡した。その愛里紗の態度に、潮音は肩透かしを食ったような思いがした。


「迷惑なんてとんでもない。それより榎並さんはもっと私やほかのみんなにもいろんなことを話してほしいんだ。つらいときや悩んでいるときは、何もかも一人で抱え込まないで、私にも遠慮せずに相談してほしいんだ」


 そう言われたときの愛里紗は一瞬返答に困っていたが、しばらくして遠慮気味に口を開いた。


「…ありがとう。でも二人ともそろそろ朝のホームルームが始まるから、教室に戻った方がいいんじゃないの?」


 そう言われて潮音と紫は、そそくさと桜組の教室に向かった。



 昼休みになると、さっそく愛里紗が桜組の教室まで来た。愛里紗が潮音と紫に向けて目配せをすると、二人も愛里紗についてカフェテリアに向かった。


 紫は愛里紗とカフェテリアのテーブルで向き合って席につくと、弁当を口にしながら口を開いた。


「あのまま榎並さんが家に帰れなかったらどうしようと心配だったけど、その点は何とか安心したわ。これも潮音がいろいろやってくれたおかげよね。でもこの後で榎並さんは何か親と話したのかしら」


 紫に問いかけられると、愛里紗はためらい気味に答えた。


「家に帰ってから母とも話したけど、医療関係で働きたいのなら医者以外にも進路はいくらでもあるって言ってたの。看護学校に進んで看護師になる道だってあるし、母のような薬剤師や医療事務の仕事もあるから、医学部に行けなくたってそんなに思いつめることなんかないって…。親もどうしても医学部に行きたいなら、一浪くらいなら認めてやるって言ってるけど」


「でも榎並さんはこれまで医学部に行きたいと思ってずっと頑張ってきたから、その目標を諦めきれないわけね」


 紫の返答に対して、愛里紗は黙ったままだった。そこで潮音は思わず声を上げていた。


「榎並さんも医学部を簡単に諦めたりしないで、思いきり頑張れるだけ頑張ったらいいじゃん。それでダメならダメだったで、それはその時考えればいいことだよ。それに何度だって言うけど…家にお金がないとかそんな理由で、夢や目標を諦めるなんて絶対おかしいよ」


「藤坂さん…あなたのまっすぐな正義感はもっともだけど、それはあなたがとやかく言ったところでなんとかなるような問題じゃないわ」


 愛里紗はそう言って潮音を落ち着かせようとしたが、それでも潮音はくやしそうに唇をかみしめていた。


「私だって…紫のお父さんから弁護士を目指したらどうかとか言われたけど、弁護士なんて私が勉強してなれるかどうかわかんないのに」


 そこで紫も潮音をなんとかしてなだめようとした。


「潮音みたいなまじめで真っすぐな子は、きっといい弁護士になれると思うよ。潮音ももっと自分に自信を持った方がいいんじゃないかな」


 紫に言われて、潮音は少々気恥ずかしそうな顔をした。このような潮音と紫のやりとりを見て、愛里紗はいつしか表情をやわらげていた。その面持ちからは、ここ数日の思いつめたような様子は薄らいでいた。


「藤坂さんが私のこと心配していろいろやってくれるの見てると、ちょっと勉強がスランプになっていて模試がうまくいかなかったくらいで、クヨクヨしてたのがバカらしくなってきたわ。藤坂さんのお母さんだって言ってたけど、本当に医者になろうと思うんだったら、もっと心にゆとりを持たなきゃいけないのかもね」


 愛里紗が多少なりとも元気を取り戻したのを見て、紫も嬉しそうな顔をした。


「ともかく勉強や進路のことでなくてもいいから、落ち込んだときはみんなと楽しい話でもすればいいよ。榎並さんはこれまで周りに対して変に壁作ってたようなところがあるけど、そんなことしたって何もならないじゃない」


「うん…ありがとう。私はこのお嬢様ばかりの学校で、なんとかして周りについていこうと必死で頑張ってきたけど、大事なのはそんなことばかりじゃなかったんだね」


「わかればいいのよ」


 潮音がこれまでなにかと対立しがちだった紫と愛里紗が仲良さそうにしているのにほっとしていると、愛里紗が潮音の方を向き直して言った。


「でも藤坂さん、弁護士になろうと思うんだったらあなたの成績だったらもっと勉強しなきゃいけないんじゃないの」


 愛里紗のこの言葉には、紫も同感なようだった。


「その通りよ。たしかに私は潮音だったらいい弁護士になれるとは言ったけど、そのためには今の潮音の成績だったら勉強は並大抵ではいかないわね」


 愛里紗と紫の両方から口々に言われて、潮音はいやそうな顔をした。


 そのようにしているうちに昼休みが終りに近づいたので、潮音たちは教室に戻ることにした。しかしその途中で、潮音は菫組の国岡真桜とすれ違った。潮音は文化祭の美術部の展示で見た真桜の描いた絵や、百人一首大会のときの真桜の活躍を見ていただけに、真桜もどのような進路を目指すのかが気になりだしていた。

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