第二章・赤点回避作戦(その4)

 それから一夜が明けると、潮音は暁子の声で目を覚ました。


「潮音、そろそろ朝ごはんの時間だよ」


「暁子、今日は日曜なんだからもう少し寝させてよ」


 実際、季節も朝方に温かい布団から寒い外に出るのが少し億劫に感じられる時期になっていた。潮音が眠そうな声で布団をかぶりながら返事をすると、今度は優菜のじれったそうな声がした。


「潮音、テスト前やから勉強せなあかんやろ。日曜やからと言うてゴロゴロしとったら、ほんまに赤点取ってまうよ」


 そこで暁子は、潮音の掛布団を引っぺがした。潮音がしぶしぶ起上ると、暁子と優菜はすでにパジャマから部屋着に着替えていた。部屋の窓からは、初冬の澄みわたった朝の光が差し込んで室内を照らしていた。


 潮音が眠い目をこすりながら着替えと身支度を済ませて食堂に下りると、すでに朝食ができていた。潮音が食卓について朝食を口に運んでいると、暁子が少し心配そうに声をかけた。


「潮音、なんか眠そうじゃない。昨日よく眠れなかったの?」


「ああ。ちょっと考えごとしててさ。二年生になったらどのコースに行けばいいんだろうとか、その後大学に行ったら、オレと暁子や優菜の関係はどうなるんだろうとかね」


「潮音、大学のこと考えるなんてまだ気が早いで。今は目の前のテストを何とかする方が先やろ。このテストを乗り切らんかったら、大学も何もないよ」


 優菜が潮音をたしなめる一方で、暁子はどこか不安げな顔をしていた。


「でも潮音の気持ちだってわかるよ。あたしたち、高校を卒業して大学行ってからもずっと友達でいられるのかなって…。今までそばに潮音や優菜がいるのは当り前で、何とも思ってなかったけど」


「アッコも案外寂しがり屋やね。別の大学行ったって、会う機会なんかいくらでもあるよ。大学でもまた新しい友達できるやろし。それに何にせよ今は試験が大切で、こんなことクヨクヨ心配してる場合やないやろ」


 優菜にたしなめられて、暁子は少し表情を持ち直したようだった。三人は朝食を撮り終ると、今度は昼まで英語を一緒に勉強した後で、昼食を取ったら解散しようということになった。


 潮音は英語の教科書に載っている文章を読み直して単語をチェックしながら、ぼそりと口を開いた。


「キャサリンだったら、やっぱり英語は楽勝なのかな…。それに紫だって去年カナダにホームステイしたというし」


 そこで暁子は、教科書から目を話すことなく呆れたように口を開いた。


「だから潮音、そうやって他人を当てにしてばかりいちゃだめでしょ。勉強するのは自分自身なんだから。それを言ったら潮音の親戚の流風お姉ちゃんだって、お母さんがフィリピンの出身だから、やっぱり英語ができるんじゃないの?」


 たしかに潮音は、小さな頃からモニカに英語の絵本やおもちゃなどを見せてもらっていたが、こんなことになるならもっと早くからモニカに英語を教わっておくべきだったと今さらのように思っていた。


 そうやって三人で問題集を解いたり、単語や英語をチェックし合ったりしていると、潮音は一週間ほど前に比べたら単語の意味も少しはわかるようになっていることに気がついた。潮音はここしばらく、綾乃から毎日英単語のテストをさせられて少々げんなりしていたが、それも無駄ではなかったのかなとうすうす感じていた。


 正午近くになって、三人はこの勉強合宿の締めくくりとして古文を勉強することにした。潮音は古文の教科書を開きながら、本が好きで文芸部に所属している寺島琴絵から、学校で古文を教える傍らで源氏物語の研究にもいそしんでいる石野先生の授業を聞いて、古典文学に興味を持つようになったという話を聞かされたことを思い出していた。


――でも寺島さんは、文学の研究者になってそれで暮らしていくのは難しいって言ってたよな。寺島さんはこれからいったいどうするんだろう…。


 そこで潮音はぼそりと口を開いた。


「古文の石野先生って、学校の先生やりながら源氏物語の研究やって、カルチャースクールでも源氏物語の講義をやってるんだよね…。それでちゃんと結婚して子どもだって二人育ててるんだから、やっぱり旦那さんの理解があったのかな」


 そこで暁子が口を開いた。


「あんただってちょっとはわかったんじゃない? 女の一生って大変だってことが」


 暁子は母親の久美が子育てをしながらアパレル業界で働いて苦労しているのをずっと見てきただけに、暁子の言うことにも説得力があると潮音は感じていた。


「男だって大変なことなんかいくらでもあるけどな」


 そこで優菜が口を開いた。


「そりゃ男かて女かて、何かしようと思たら何だって大変よ。でも石野先生ってうちの学校の卒業生やけど、学校行っとったころは百人一首大会で優勝の常連だったらしいよ」


 潮音も松風女子学園には、毎年正月明けに百人一首大会があってけっこう盛り上がるという話はかねてから聞かされていた。


「あのクールな寺島さんだって、百人一首大会ではけっこう燃えるというからね」


 暁子が相づちを打つのを聞いて、潮音は自分がもし百人一首大会に出たとしても、全然札を取ることなどできないだろうなと気後れしていた。


「オレ、百人一首なんて坊主めくりしかやったことがないから…」


「あたしだって一緒だよ。でもその前に、おしゃべりもこのくらいにしてちゃんとテスト勉強しないとね」


 暁子にたしなめられて、潮音は古文の教科書に再び目を向けた。


 正午過ぎになって古文の勉強が一段落し、みんなで昼食を取る時間になると、潮音は則子の作ったサンドイッチを口にしながら暁子に話しかけた。


「うちの英語の先生はみさきちで助かったよ。あの先生、ちょっとお調子者のところはあるけど、授業だってわかりやすいしオレの話にもいろいろ相談に乗ってくれるし」


 暁子もそれに応えた。


「そうよね。みさきちが担任やってるおかげで、うちの桜組もだいぶ盛り上がれたと思うよ」


「うちの楓組の山代先生は生物の先生やけど、大学卒業して就職した会社がブラック企業で、心身を壊して会社辞めてニート生活しとったところを、松風で同級生やった美咲先生に誘われて先生になったらしいからね」


 優菜の話を聞いて、潮音は表情に驚きの色を浮べた。


「あの真面目そうな山代先生がニートだったの? 信じられないんだけど」


「真面目だからこそ、無理しすぎてダメになってまうことかてあるもんよ。潮音かて自分が女の子になってしもたときは学校行けへんかったから、ちょっとは気持ちわかるやろ」


 優菜に言われると、潮音も納得せざるを得なかった。潮音は優菜自身、小学生のときに受験勉強をして松風女子学園の中等部に入学しようとしたにもかかわらず、それに失敗した経験があるからこそ、そのようにして人に対しても優しくなれるのだろうと思っていた。


 しかしここで、優菜は声のトーンを変えた。


「ちょっと聞いた話なんやけど、英語の美咲先生、今婚活しとるらしいで。その相手がどないな人なんか、そこまでは知らへんけどな。理事長のうらら先生がそういう縁談話をいくつか持ってきとるという話を聞いたけど」


 潮音はいくら松風女子学園の生徒たちはうわさ話をするのが好きとはいえ、どこからこんな話を仕入れてくるのかと呆れざるを得なかった。しかし潮音はその一方で、自分もやがてそのようなことを考える時がいつかは来るのかもしれないと思うと、いささか複雑な気分になった。


 昼食を食べ終ると、暁子と優羽は勉強会を終えて帰宅の準備を始めた。二人が玄関まで来て家を出ようとする間際に、則子が声をかけた。


「暁子ちゃんも優菜ちゃんも、潮音の面倒をちゃんと見てくれて助かるわ。またいつでも家にいらっしゃい」


 そのそばにいた綾乃も、暁子と優菜に元気な声で言った。


「暁子ちゃんも優菜ちゃんも本当にありがとう。この子の勉強のことだったらビシバシしごいて構わないからね」


 綾乃の言葉に潮音がいやそうな顔をしていると、暁子が靴をはきながら、潮音を励ますように言った。


「潮音もまだまだバッチリとは言えないけれども、昨日と今日よくがんばったじゃん。こうなったら自分を信じていけばいいよ」


 潮音も暁子と優菜に声をかけた。


「暁子に優菜、昨日今日とオレのためにわざわざ勉強の面倒見てくれてありがとう。おかげでわかんなかったところもだいぶわかるようになって、勉強がだいぶはかどったような気がするよ。前にも言ったけど、テストが終って赤点取ってなかったら、一緒に思いきり遊ぼうな」


 暁子と優菜も、潮音の言葉に笑顔で応えて潮音の家を後にした。潮音も暁子と優菜の後ろ姿を見送りながら、この二人には勉強のことでさんざん面倒を見てもらったのだから、自分もそれをムダにしないように頑張らなければと考えていた。

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