第二章・赤点回避作戦(その3)

 翌日の土曜日の午後になって、潮音の家を訪ねに来た暁子と優菜を、玄関口で出迎えたのは綾乃だった。


「二人ともよく来てくれたわね。潮音の勉強を見てくれるようで助かるわ。広い和室を開けてあるから、そこを使うといいわよ」


 綾乃が暁子と優菜を和室に通すと、さっそく二人はカバンを開けて勉強の準備に取りかかった。潮音は二人のカバンの中に教科書や問題集、ノートだけでなく、寝間着や着替えまでもが入っているのを見て、今日は夜中までこの二人にみっちり勉強させられそうだと思って身震いがした。


 暁子と優菜はちゃぶ台の上にノートを広げて、どの科目から先に勉強するか少し話し合った結果、三人とも数学に難がある点は共通しているようだったので、まず数学の問題集を一緒に解いてみて、それが済んだら答え合わせをしようということになった。


 しかしみんなで問題を解き始めてからも、潮音が問題を解くペースは暁子や優菜に比べても遅れを取っていることは明白だった。潮音は公式を覚える段階からして、早くもつまづいていることがありありと見てとれた。暁子や優菜が問題を解く傍らで、潮音がしばしば手を止めて考え込んでいる様子をはたから見ながら、綾乃はやれやれとでも言いたげな表情をしていた。


 みんなが問題を解き終わって答え合わせを行っても、潮音の点数は暁子と優菜に比べてだいぶ悪かった。その結果を見て、暁子と優菜は一気に表情を曇らせた。


「潮音、もっとちゃんと勉強しないとほんとに赤点取るかもしれないよ」


 暁子に心配そうな顔で言われても、潮音はぐうの音も出なかった。暁子が仕方がないなとでも言いたげな顔をして、潮音に数学の問題の解き方を教えると、潮音も少しは問題の解き方を理解できたような気がした。潮音は暁子に内心で感謝するとともに、暁子にしばらく頭が上がらないなと感じていた。



 そのようにして潮音たちが勉強しているうちに、初冬の日は早くもとっぷりと暮れて、街灯の光が冷気の中でひときわ澄みわたっていた。その頃になって、台所からおいしそうなにおいが漂ってくると共に、則子が潮音たちに声をかけに来た。


「みんなよく勉強頑張ってるわね。でももう夕ご飯できてるわよ」


 潮音たちが勉強の手を止めて食堂に向かうと、暁子と優菜は食卓の上に並べられた料理に目を丸くした。


「すいません、私たちのためにこんなご飯まで用意してくれて…」


 暁子が照れくさそうな顔をしながらお礼を言うと、則子は取り澄ましたような顔でそれに応えた。


「いいのよ。潮音もこのところ一生懸命勉強してるけど、どうもうまくいかなくて困ってるみたいだったからね。暁子ちゃんや優菜ちゃんも勉強して疲れてるだろうから、これを食べて元気をつけるといいわ」


 さっそく潮音たちが食卓について夕食を取り始めると、暁子はさっそく則子の料理に顔をほころばせた。


「この煮物おいしいですね。あたしにも作り方教えてくれませんか? 栄介だってサッカー部の練習やってるとよく食べるから、このところ料理のレパートリーを増やさなきゃと思ってたんです。あとこの味噌汁も、ちゃんとだしを取って作ってるんですね。うちは味噌汁は、ついインスタントにしちゃうけど」


「それはいいけど…やっぱり暁子ちゃんはえらいわね。ちっちゃな頃から勉強しながらちゃんと家のこともやってきて、栄介ちゃんの面倒だって見てきたんだから。今日だってわざわざ潮音の勉強見てあげてるし」


 則子が感心したような顔で言うと、優菜も相づちを打った。


「アッコはやっぱりこういうとこしっかりしとるよね」


 そこで綾乃も暁子に声をかけた。


「私も暁子ちゃんのこういうところはえらいと思うけど…あまり無理しすぎない方がいいよ。頼りたいときには遠慮しないでいつでも私たちに頼ればいいから」


 しかしそのとき潮音は箸で食事を口に運びながら、暁子に対していささかの気後れを感じずにはいられなかった。そこで潮音はぼそりと口を開いた。


「オレだって暁子は勉強も家事も頑張ってきたのはわかるけど、オレなんかいつも暁子や優菜に頼ってばかりで、暁子のために何もしてやれていないから…」


 暁子は潮音が遠慮気味に肩をすくめているのを見て、じれったそうな顔をした。


「そんなこと言わないでよ。あたしは今の学校であんたが頑張ってるのを見てるだけで、あたしだっていろんなことを頑張らなきゃと元気をもらえるような気がするんだ。自分が何もあたしの役に立ってないなんて、そんなこと思う必要なんかないよ」


「ほんまやで潮音。あんたはようやっとるよ。あたしのために何かせなあかんなんて、友達ってそういうもんとちゃうやろ」


 暁子と優菜にそこまで言われて、潮音はますます気恥ずかしい思いがした。そこで則子が、ご機嫌な顔で言った。


「暁子ちゃんも優菜ちゃんも、今日はほんとうにありがとう。いつも潮音のことで気を使わせてすまないわね」


 そして夕食が一段落すると、優菜も満足そうな顔をしていた。


「潮音のおばちゃん、料理上手でええな。けっこうおいしかったしおなかもいっぱいになったで」


「だから潮音もそれを見習って、もう少し料理の勉強すればいいのに。でもせっかくご飯作ってもらったんだから、自分の食べた分の食器くらい自分で洗うよ」


 潮音は暁子が話すのを聞いて、暁子がそうする以上自分も食器を洗わなければなと思った。


 食器を洗い終わると、則子が潮音たちに声をかけた。


「みんなこれからもう少し勉強するんでしょ? でもお風呂は交代で入ってね。あといくら勉強が大変だからといって、あまり無理して夜更かししない方がいいわよ」


 三人で話し合った結果、最初に風呂に入ることになったのは暁子だった。暁子が入浴している間、潮音と優菜は潮音の部屋に移って小さなテーブルの上に世界史のノートや問題集を広げたが、潮音のノートを見て優菜はやれやれと言いたげな表情をした。


「潮音、ノートはもっときれいに取らな」


「そんなこと言ったって、授業のペースが速くてノートを取るだけでも大変だよ」


「だからと言うて、最初からテスト前に人のノート写させてもらうの期待せん方がええよ。牧園先生のプリントかてあるんやから」


「さすが優菜は、中学入試落ちてからも中学でちゃんと勉強してたからな。水泳ばっかりやってたオレとは大違いだよ」


 そして潮音と優菜が世界史の重要な項目をチェックし合ったりしていると、風呂から上がった暁子がパジャマ姿で現れた。


「いいお湯だったよ。潮音の家のお風呂入るのも久しぶりだわ」


 暁子は洗いたての髪をとかしながら、さっぱりと気分が良さそうにしていた。


「久しぶりって、アッコは潮音の家のお風呂に入ったことあるん?」


「ああ、ちっちゃな頃はお母さんの帰りが遅いと、栄介も一緒に潮音の家で面倒見てもらってたんだ。その頃は潮音の家のお風呂に入れてもらったこともあるよ」


 暁子がお風呂の話をするのを、潮音は恥ずかしそうな顔で聞いていた。


「潮音も変にかしこまることないじゃん。あの頃はあたしたちもまだちっちゃかったんだから。潮音なんか、お風呂から上がると素っ裸で部屋の中走り回って、それを綾乃おねえちゃんと潮音のおばさんで潮音をつかまえて服着せてたんだから」


 暁子の話を聞いて潮音がいやそうな顔をするのを、優菜もニコニコしながら見守っていた。


「でもなんか変な感じするよね。暁子とオレが高校生になっても、こうやって同じ高校行って一緒に勉強してるんだから」


「そうだよね。それもあんたが女の子になっちゃって、一緒に女子校行くことになるなんて思ってもなかったよ」


「そうやって感慨にふけっとるのもええけど、その間にあたしがお風呂入ってくるよ」


 優菜が風呂に入りに行ってしばらくたってから、潮音は暁子と一緒に世界史のノートを広げながらも、小声でぼそりと暁子にたずねてみた。


「暁子ってやっぱり高二になったら特進コースに行くの」


 その潮音の話を聞いて、暁子は驚いたような顔をした。


「何よいきなり…。あたしの成績じゃ特進コースはちょっと厳しいよ。大学でどの学部行くかだって、まだ全然決めてないのに…」


「オレだってなんとかして自分の行ける範囲の大学行って、それなりのちゃんとした会社に就職できりゃいいなくらいにしか思ってなかったけど、学校のみんなを見てると、それじゃあいけないような気がしてきたんだ。だったらオレに何ができるか、今はまだおぼろげにしか見えてきてないけど…」


「その『おぼろげに』って何よ」


「オレは男から女になっていろいろ苦労だってしたけど、なんとかしてそれを活かせたらと思うんだ。だったら何をすればいいか、まだ具体的にはつかめていないけど…」


 そのように話す潮音の顔を、暁子はしばらくの間しげしげと見つめた末に口を開いた。


「いいんじゃない? あたしもこれこそが、ほかの誰も持ってない、あんたの強みだと思うよ。それをどのように活かすかはあんた次第だけど。…でもそう思うならあまりおしゃべりばかりしてないでちゃんと勉強しないとね」


 やがて優菜も風呂から上がり、潮音もその後で入浴を済ませてから三人で少し勉強すると、ちょうど日付も変る頃になっていた。そこで綾乃が声をかけにきた。


「みんな勉強するのもいいけど、あまり無理しないで夜はちゃんと寝た方がいいわよ。でもあまり夜遅くまで騒がないようにね」


 そこで三人は就寝することにして、布団を潮音の部屋まで運び込んだ。


「オレの部屋で三人が寝るのは狭すぎない?」


 潮音は遠慮気味な表情をしたが、優菜は意に介さないようだった。


「ええやん。三人一緒におられるのはこういう時くらいなんやから」


 暁子と優菜は、床に敷かれた布団に潜り込んで部屋の電気を消すと、勉強疲れもあってかすぐに眠りに落ちていった。それでも潮音は、ベッドの中で少し考えていた。潮音の耳の奥からは、先の夕食のときに暁子が言った言葉が離れなかった。


――あたしは今の学校であんたが頑張ってるのを見てるだけで、あたしだっていろんなことを頑張らなきゃと元気をもらえるような気がするんだ。


 そこで潮音は、幼い頃のやんちゃだった暁子のことをあらためて思い出していた。


――オレが女になってなかったら、今こうして暁子や優菜と同じ学校に行って、一緒に勉強したりバカやったりすることもなかったわけだよな…。もしオレが男のままだったら、どこの高校行ってたかはわかんないけど、そこで友達作ってそれなりに過ごしてたかもしれない。でも暁子ほど、オレのことわかってくれる人はいただろうか。


 そう思うと潮音はじっとしていられなくなって、暁子や優菜を起さないように気をつけながらベッドから起上った。そして服を上に一枚羽織ってベランダに出ると、手すりに頬杖をついて初冬の冷たく澄みわたった夜空を見上げた。


――でもこの高校を卒業したら、オレと暁子や優菜とは別々の道を歩き出して、本当に別れなければいけない時が来る…。オレはそのときいったいどうすればいいんだ? 少なくとも今から、暁子や優菜の好意に甘えてばかりいるわけにはいかないよな。


 潮音は考えれば考えるほど、自分の先に何が待ち受けるかわからなくなっていくような気がしていた。静まり返った宵闇の中では、冬の星座が潮音の心の迷いなどそ知らぬかのようにまたたいていた。潮音はしばらくその夜空を見上げていたが、体を冷やしてテスト前の大事なときに風邪などひいたらまずいと思って、部屋に戻って床につくことにした。潮音が寒いベランダから戻って布団に潜り込むと、布団の温もりがことのほか恋しく感じられた。

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