第二章・赤点回避作戦(その2)

 潮音はバレエ教室から帰宅して夕食を済ませてから、さっそく机に向かったものの、まず次の期末テストに出題される科目のうちどれから先に手をつけていいのかすらわからなかった。潮音が英語の教科書を広げたところで、意味の分からない単語がいくつも出てきて問題集のパラグラフを読み通すだけでも一苦労だったし、数学は数式の羅列を見ただけで頭が痛くなった。世界史についても、潮音は以前に三国志についての漫画を少し読んだことがあるとはいえ、それに続く目まぐるしい王朝の交代や制度の名前を目の当りにすると、何が何やらさっぱりわからなくなった。


 このような五里霧中の具合だから、潮音は机に向かって教科書やノートを広げてみても、勉強に集中することなどできるはずもなかった。潮音はこれではどうしたってらちが明かないと思うと、問題集を放り出してベッドに横になった。


 潮音は天井を見上げながら、自分はいったい何がやりたいのだろう、勉強したとしてその先に何を目指すべきなのだろうと考えていた。そこで潮音は、弁護士になるという目標のために東大を目指している昇や、キャサリンを前にしても臆することなく英語で話していた紫、博識で潮音が悩んだときにはいつも相談相手になってくれた琴絵、さらに家計が裕福ではない中で特待生になるために勉強についていこうとしている愛里紗の表情を次々と思い浮べていた。潮音はみんながそれぞれの目標に向けて着実に歩き出している中で、自分が一人だけ立ちすくんでいるように感じて、このままでいいのかという焦りの念ばかりが心の中につのっていった。


 そこで潮音はベッドから身を起し、手のひらを目の前にかざしてしげしげと眺めてみた。潮音の手は、男の子だった頃のがっしりとしたものとは打って変って、指が細くなってしなやかなものになっていた。潮音はその自分の手を見つめているうちに、心の中に確かな感情が湧き上がってくるのを感じていた。


──オレは男から女になっていろいろ苦しい思いだってしたし、今の学校になじむのにだってだいぶ苦労した。でもだからこそこの経験を活かして何かできるはずだ。…できれば自分のように悩んだり苦しんだりしている人の助けになれるようなことができたら…。


 そこで潮音が思い出していたのは、漣のことだった。潮音の脳裏からは、いつもどこか不安げな表情を浮べて、人とコミュニケーションを取る糸口すらなかなかつかめずにいるように見える漣の姿が離れなかった。さらに潮音は、いつも優しく振舞っている流風も、心の奥底では自らの出自について悩みを抱えていることを、今さらのように思い出していた。


──やはり今のオレは勉強するしかないのか…。自分のことを支えてくれたみんなのためにも。


 そこでようやく、潮音がベッドから起上ろうとしたときだった。ドアの向こうで綾乃の声がした。


「潮音、ちゃんと勉強してるの?」


 潮音がまずいと思う間もなく、綾乃は言葉を継いだ。


「どうせその様子じゃ勉強してないんでしょ。入るわよ」


 綾乃がドアを開けて潮音の部屋に踏み込むと、ベッドの上でようやく身を起したばかりの潮音を見て呆れ顔になった。


「あんた、ちゃんと勉強しないと期末テストで赤点取っても知らないよ」


 そこで潮音は、綾乃に懇願するように言った。


「姉ちゃん…オレだって勉強しなきゃいけないってことくらいはわかってる。でも勉強しようと思っても、どれも難しくてちんぷんかんぷんなんだ。姉ちゃんはバイトで家庭教師やってるんでしょ? だからオレにも少し勉強教えてよ」


 潮音の話を聞いて、綾乃はますます呆れ顔になった。


「私もバイトやってみてわかったけど、本人に勉強しようって気がなかったら、いくらお金かけて家庭教師を頼んだり塾に通ったりしたって何にもならないよ。私は去年家庭教師やった子は、それで全然成績が伸びずに私も家庭教師クビになったし」


「姉ちゃんだって苦労してるんだな」


 潮音がしんみりとした表情をすると、綾乃はむっとした表情になった。


「当り前でしょ。私だって勉強教えられるところは教えてもいいけど、あまり人のことをあてにしないでまずは自分の力でやってみないと何も始まらないよ」


 そこで綾乃は、潮音の机の上に置かれた英語の単語帳に目を向けた。


「そこまで言うなら、明日から期末テストまでの毎日、十問づつ英単語のテストをするよ」


 潮音はテストが終るまで、綾乃に勉強させられる日がずっと続くのかと思ってげんなりとしたものの、そこまで来た以上もう退くことはできないと思って覚悟を決めた。


「お手柔らかに頼むよ」


 そこで綾乃は、いぶかしむような顔で潮音を見返した。


「あんたは今までだったら、こうなると露骨にイヤそうな顔をするだけだったのに、ちょっとは変ったじゃん。勉強しようという目標でも見つかったのかしら」


 そこで潮音は照れくさそうな顔をした。


「まだ何がしたいとかどんな大学に行きたいかとか、そこまではまだ十分はっきりとはわからないけど、それでも勉強しないことにはその目標に近づくこともできないと思ったから…」


 そこで綾乃は、深くうなづいて言った。


「わかったわ。あまり無理しすぎないようにしっかりがんばることね。でも高二になったらコースも分かれるから、進路については今のうちにしっかり考えた方がいいよ。あとお風呂沸いてるから、ちょうどいい頃合を見て入るのよ」


 潮音の部屋を後にしてからも、綾乃は潮音が自分から勉強するようになった様子を思い出して、やはり潮音は以前と比べて変ってきていると感じていた。


──中学まではろくに勉強しようとしなかった潮音が、自分から勉強するようになるとはね。あの子も少しは成長しているということかしら。



 それから数日間、潮音は通学の途中の電車の中や休み時間の教室でも、英語の単語帳や世界史の用語集を広げるようになった。帰宅すると綾乃から英単語のテストを出題され、その後も夜中まで机に向かう日々が続くと、潮音もいささか疲れ気味になった。


 そのような潮音の様子を、学校でいぶかしみながら眺めていたのは暁子と優菜だった。二人とも中学生のときには、潮音がテストの前にこんなに勉強するところなど見たことがなかっただけに、潮音はいったいどうしたのだろうと戸惑わずにはいられなかった。


 そこで暁子は、金曜日にホームルームが終って帰宅する間際に、思い切って潮音に声をかけてみた。


「潮音、このところすごく勉強頑張ってるじゃん。今まであんたがこんなに勉強してるところなんか見たことなかったよ」


「高校に入って勉強がぐんと難しくなったからな。それについていくだけでも大変だよ。まして赤点なんか取ったら大変だし」


 潮音が答えるのを聞いても、暁子の顔からは不安の色が抜けなかった。


「あんたがそうやって勉強を頑張ってるのはえらいと思うよ。…勉強についていくのが大変なのはあたしだって一緒だし。でもあまり無理しすぎない方がいいんじゃない? 今のあんた、なんか顔色悪いよ」


 潮音が黙っていると、そこに楓組のホームルームを終えた優菜が来た。


「アッコからも聞いとるけど、潮音はこのところえらい勉強頑張っとるみたいやな。潮音は中学で水泳部におった頃から根性あったけど、その根性があるから今でもここまでやってきとるんやね」


 優菜に言われて、潮音は照れくさそうな顔をした。


「でもあたしもテスト勉強で大変なのは一緒やで。そこで思いついたんやけど、明日の土日、アッコも一緒になって勉強合宿せえへん?」


 その優菜の提案を聞いて、潮音と暁子は呆気に取られたような表情でお互いの顔を向け合った。


「一人で自分の部屋にこもってうじうじしとるくらいやったら、みんなで勉強やった方が楽しくできるやろ? 難しいところやわからへんところかて、その方がわかるようになるかもしれへんし」


「まさかオレが勉強サボったりしないように、暁子と優菜で監視しようとか言うんじゃないだろうな」


「ほんまのこと言うと、うちもあまり人の心配しとる余裕なんかないけどな」


 しかし暁子も、優菜の提案にまんざらでもないような表情をしていたものの、どこか迷いが抜けていないようだった。


「たしかに優菜の言ってることもわかるし、それも楽しそうだけど…誰の家でやればいいのかな」


 そこで潮音は、もうやけくそだと言わんばかりに口を開いた。


「それだったらオレの家でどうかな。うちの母さんや姉ちゃんだったら、暁子と優菜が泊りに来てもダメだとは言わないだろうし。あと姉ちゃんはバイトで家庭教師やってるから、ちょっと勉強教えてもらえないかな」


 そこで優菜は、一気に嬉しそうな顔をした。


「勉強もできて、潮音の家でお泊り会もできるなんて一石二鳥やわ」


 その優菜の様子には、潮音はさすがにげんなりとした顔をした。


「おい優菜…『お泊り会』って遊ぶんじゃないんだろ。勉強はどうするんだよ」


 そこで暁子は、なんとかして二人をなだめた。


「ともかく明日の土曜日の午後三時に、勉強の準備と着替えと洗面用具を持って潮音の家に集合っていうのはどうかな」


 潮音がここで、話をしめくくるように声をあげた。


「ともかく今は勉強しなきゃな。テストが終ったら、みんなで一緒に思いっきり遊ぼうぜ。でも赤点取ったら追試やら何やらでそれどころじゃなくなるから、赤点だけは取らないようにしなきゃな」


 そこで潮音たち三人は、学校を後にして帰宅の途についた。


 潮音は帰宅して、則子に暁子や優菜と一緒に勉強合宿をしようという話を伝えると、途端に目を輝かせた。


「みんなで一緒に勉強しようというんだったら、さっそくスーパーで食材もたくさん買ってきてごちそうしなきゃね」


「あの…唐突な話だけどほんとにいいの? それに暁子や優菜も、遊びに来るんじゃないんだけど」


「もちろんよ。気にする必要なんかないわ」


 ご機嫌そうな則子の傍らで、綾乃もニコニコしていた。


「潮音の勉強の面倒見てくれる子がいて助かるわ。でも隣の湯川君はどうなの?」


「姉ちゃんのバカ」


 すっかり舞い上がっている則子と綾乃を見て、潮音はやれやれとでも言わんばかりの顔をしてため息をついた。

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