第二章・赤点回避作戦(その1)

 十一月も終りに近づくと、特に朝晩は肌寒さを感じるようになるとともに、年末を控えて街は慌ただしさを増してくる。藤坂潮音の通う松風女子学園でも、生徒たちの中には早くもクリスマスやお正月のことを話題にする者も現れるようになった。


 そのようなある日の昼休み、潮音は暁子と一緒に教室で弁当を食べていた。その席で潮音は、どこか戸惑い気味に暁子に声をかけた。


「暁子、このところ寒くなってきたけど、オレにはどうもわかんないことがあるんだ」


 その潮音の顔を、暁子はいぶかしむような表情で眺めた。


「どうしたの? 潮音」


「どうして女子って、寒くなってもスカートはいてるわけ? せっかくうちの学校には制服にスラックスだってあるのに」


 そう言う潮音は、スカートの中で足をすり合わせて寒そうにしていた。そこで暁子は、呆れたような表情で潮音に返事をした。


「そんなこと言ってるけど、あんたこそこれまでは女の子の足見て喜んでたんでしょ。そこまで言うなら、あんた自身が学校にスラックスはいてくりゃいいじゃん。うちの学校には、あんたがそうしたからといってあんたのことを変な目で見るような子なんかいないと思うよ」


「暁子こそ小学校のときはずっとズボンばかりで、せいぜいキュロットだったのに。中学に入る前は、制服でスカートはくのがいやだと言ってたっけ」


「もう…昔のことばかり言わないでよ。あたしだって年頃になったら、おしゃれの一つくらいしたくなるよ。…潮音こそ、もっとあんたらしくしてりゃいいのに」


 そこで潮音は、神妙な面持ちで暁子を見返した。


「悪いけど暁子、おれはその『自分らしく』って言葉が嫌いなんだ。だってそういうこと言う人って物わかりの良さそうな面してるけど、そう言われてオレが『自分らしく』した結果失敗しても責任取れるのかよ」


 潮音に強い口調で言われて、暁子は口をつぐんでしまった。


「そもそも『自分らしさ』なんてものがどんなものかわかって、その通りにやってりゃ楽しい人生送れるようだったら、人間だれも苦労なんかしないよ。椎名は水泳に打ち込むことこそが自分らしく生きる道だと思ってるからこそ、南稜の水泳部で寮に入って厳しい練習を積んでるんだろ? 紫がバレエやってるのだって同じようなものだよ。そういうの見てると、少なくともオレは『自分らしく』という言葉を逃げ道にするような真似はしたくないんだ」


 潮音が話し終ると、暁子は口からため息を漏らしていた。


「あんたってそういうところは変にまじめなんだから。…あたしにはわかってるよ。あんたがこの学校でずっとスカートをはいてたのは、この学校の女の子たち、特に峰山さんとかに負けたくないと思ってたからでしょ」


 暁子に言われて、潮音は少しの間返答に窮したが、その後でためらい気味に口を開いた。


「ああ。たしかに紫はすごいよ。勉強だってバレエだってオレはとてもじゃないけど紫にはかなわないし、あの通りの美人だし…オレも紫に近づきたい、スカートだって難なくはきこなせるようになりたいと思っていたからこそ、こうやってスカートをはいてきたのかもしれない。…でももうすぐ期末テストだけど、紫はそこでまたちゃんといい点取るんだろうな」


 そこで暁子は、あらためて潮音の顔を向き直した。


「そのテストのことなんだけど、潮音はちゃんと準備してるの?」


 そこで潮音は、ぎくりとして顔面を蒼白にした。


「…正直に言ってやばいよ。二学期の中間テストではなんとか赤点取らなくて済んだけど、このところ授業のペースが速くて全然ついていけてないし、この前の模試の成績だってさんざんだったし」


 そこで暁子はため息混じりに言った。


「たしかにあんたは今の学校になじむのだって人一倍苦労したわけだし、勉強が大変なのはわかるよ。でも今ここで赤点取ったら、みんながクリスマスやお正月を楽しんでいる間に、あんただけ勉強しなきゃいけなくなるかもしれないよ。そりゃあたしだって、ちゃんと勉強してて試験はバッチリなんてわけじゃないけどさ」


 潮音がますますびくりとする間もなく、暁子は言葉を継いだ。


「二年生になったらコースも分かれて、勉強もますます大変になるからね」


「紫や寺島さん、あと楓組の榎並さんあたりは難関大学を目指す特進コースに進んで、そこでますます熱心に勉強するようになるのだろうな。でもそれだったら、オレは何を目指せばいいんだろうと思うけど…やっぱりオレは紫には負けたくないんだ」


「潮音…まさかあんた、峰山さんとか寺島さんと同じ特進コースに行こうとか思ってるんじゃないよね」


 暁子は呆気に取られながら潮音の顔を見つめ直した。


「それよりあんたは、今度の期末テストを何とかしないといけないでしょ。進路のことだったらまだ少し時間はあるからもう少しじっくり考えるといいけど、それより前に期末テストで赤点なんか取ったら、行きたい進路にも行けなくなるよ」


 暁子が語調を強めたとき、ちょうど昼休みの終りを告げるチャイムが鳴った。そこで二人が自席に戻る間際に、暁子が潮音をねぎらうように声をかけた。


「潮音…あんたは峰山さんに追いつこうなんて無理しない方がいいよ。あんたはこうやって今ちゃんとこの学校に行けてる、それだけで十分立派だから」


 しかし午後の授業が始まってからも、潮音の心中からは迷いが消えなかった。


 紫は二年生になると特進コースに進み難関大学を目指すことになるが、そうなると潮音はバレエだけでなく勉強でも、ますます紫から置いていかれるように感じていた。そのためには潮音も特進コースに進めたらと思っていたが、自分の学力ではそもそも特進コースに進めるのか、進めたところでどこの大学に行って何を勉強すればいいのか…そう考えれば考えるほど、潮音の心の中には迷いだけでなく、ますます不安と焦りばかりが募っていった。



 その日の放課後、潮音がバレエ教室に行ってからも、潮音の心からはモヤモヤしたものが消えなかった。その日のレッスンが一段落した後で、紫が潮音に声をかけた。


「潮音、バレエを頑張るのもいいけど期末テストは大丈夫なの? テスト前と期間中はレッスン休んで勉強しなきゃね」


 潮音は紫にまで期末テストのことを尋ねられてぎくりとしたが、その様子を見て紫は図星だとでも言わんばかりの表情をした。


「その様子じゃ、やっぱり勉強で困ってるみたいね。今日のあんたのレッスンを見てても、どこか心配事があって身が入ってないのが見え見えだったよ」


 潮音はうなだれ気味に、小さな声で答えた。


「そうなんだ…でも紫ってどうして、あれだけバレエも生徒会の活動も一生懸命やってるのに、テストでいい点取れるわけ」


「そもそも日ごろからちゃんと授業聞いて勉強やってりゃ、テストの前になってからあわてて無理に詰め込みの勉強なんかしなくていいはずよ」


 潮音は内心で、自分はそれができないから苦労してるのにと思う一方で、このようなセリフをさらりと自然と口にできる紫にはやはりかなわないと感じずにはいられなかった。そこで紫は少し語調を強めた。


「ともかく、潮音はクラスの副委員長になったし、劇に出たりしてクラスだけでなく中等部の子たちからも注目されているみたいなのよ。そんな潮音がテストで赤点なんか取ったら示しがつかないでしょ」


 潮音は紫が語調を強めるのを聞いて、いつもは温厚で優しい紫が文化祭の劇の練習のときには容赦なく潮音を厳しくしごいたことを思い出して、あらためて内心でびくりとしていた。そこで潮音は紫に尋ねてみた。


「紫ってやっぱり二年生になったら特進コースに行くんだよね。でも紫ってどんな大学行って、その後はどんなことがしたいと思ってるわけ」


「さあね。私もそこまではまだ決めてないんだ。マスコミ関係とかにもちょっと憧れるけど、そういうところは倍率もうんと高くて入社するのも難しいみたいだからね。就職するならマーケティングとかの勉強ができるところの方がいいかな」


 その話を聞いて、紫はすでに将来についてもきちんと考えていることに対して、潮音は気後れを感じずにはいられなかった。それと同時に、紫はどの進路を選ぶのであれ、そこでキャリアウーマンとして立派に働きそうに感じていた。そこで潮音は口からふと言葉を漏らしていた。


「いっそ紫は、プロのバレリーナとか目指したら…」


 その潮音の言葉に紫は目を丸くした。


「冗談言わないでよ。あの世界でやっていくのがどれだけ大変かわかってるの」


「…言ってみただけだよ。でも紫はちゃんと将来のこととか考えてるのに、私はこの環境に慣れるだけで精一杯でさ…。でも紫が特進科に行くなら、自分だって負けたくはない」


「もしかして潮音も特進科に行きたいと思ってるの? だったらもっとちゃんと勉強しなくちゃね。ここでおしゃべりばかりしてないで、早く帰って勉強した方がいいんじゃない? テストまであと一週間ちょっとあるから、どうしてもわかんないとことかあるなら、少しなら教えてあげられるよ」


 潮音はやはり結論はこれしかないのかと思い直すと、帰り支度を整えてバレエ教室を後にした。冬も間近の街は日もとっぷりと暮れて、通りには街灯がまたたいていた。

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