第二章・赤点回避作戦(その5)

 そうこうしているうちに、いよいよ期末テストの期間が始まった。潮音は綾乃から、試験の前夜に無理して勉強したところで悪あがきになるだけだから、早く寝てゆっくり休んだ方が実力を出せると説得されて、試験の前日は早めに就寝することにした。


 そして試験の当日になると、潮音は綾乃に加えて暁子や優菜にも勉強の面倒を見てもらったのだから大丈夫だと半ば強引に思い込んで、覚悟を決めて答案用紙に向き合った。


 しかしそれでも、一日目の全科目の試験が終ったときには、潮音は精神的にヘトヘトになっていた。潮音が教室を後にすると、暁子が声をかけた。


「潮音もその様子じゃ、あまりバッチリとはいかないみたいね」


「これから三日間もこうやってテストが続くのかと思うとうんざりするよ」


「だから潮音、あんたはテスト前あれだけ勉強してたんだから大丈夫だってば。もっと自信持ちなよ。それにそのテストが済んだら冬休みじゃん」


「そうだったらいいけどな。でも明日は英語のグラマーだろ? オレはあれがけっこう苦手なんだよ。早く帰って勉強しなきゃ」


「なんだったらあたしも少し勉強につきあうよ」


 そこで潮音と暁子は、一緒に帰宅することにした。


 そして二人が自宅の最寄駅で電車を降りたとき、隣の車輛からブレザーにネクタイの制服を着た湯川昇が降りたのに気づいた。昇も潮音と暁子の姿に気づくと、さっそく声をかけた。


「藤坂さんも今試験だから、早く家に帰れるの?」


「うん…。でも試験の出来はさっぱりだよ」


 潮音が気のない返事をすると、昇は苦笑いした。


 そして潮音と暁子は、そのまま昇と一緒に駅の改札口を出ると、自宅に向かう道を連れ立って歩き始めた。

「藤坂さんと石川さんって家が隣同士で、一緒に松風に通ってるんだ。いつも仲良さそうでいいよね」


 昇が屈託のない明るい表情で潮音に話しかけると、潮音は複雑そうな表情をした。


「いや、たしかに暁子とは幼稚園の頃からずっと一緒だったけど、仲いいかと言われると…たまにケンカだってするし」


 しかし昇は、それに対しても明るい表情で応えた。


「そりゃ、『ケンカするほど仲がいい』とも言うし…」


 その一方で暁子は潮音のそばを歩きながら、昇と親し気に言葉を交わす潮音に内心で呆れていた。


――潮音のやつ、湯川君の前ではあんなにデレデレして調子良さそうなことばかり言っちゃって。


 そうこうしているうちに潮音たち三人は、昇と一緒に自宅の門の前まで来ていた。


「藤坂さんたちはまだ試験あるの?」


「ああ。まだ今日始まったばかりだよ。なんせ明日は英語でさ。いろいろわかんないことばかりで困ってるんだ」


 潮音が困惑した顔で言うと、昇は仕方がないなとでも言いたげな表情で応えた。


「じゃあ一時間くらいだったら勉強見てあげられるよ。藤坂さんの家に来ていいかな。石川さんも一緒にどう?」


 昇が笑顔でこのように言ったときには、潮音だけでなく暁子までもが驚きで開いた口がふさがらないようだった。


 潮音が帰宅すると、家族は全員出かけていて家には誰の姿もなかった。それでも潮音は、昇を家に上げるときには緊張を感じずにはいられなかった。潮音のそばにいた暁子は、ほんの少しでもおかしなことがあったらそれを見逃さないとでも言わんばかりに、口をつぐんだまま厳しい目つきで二人をじっと見守っていた。


 しかしいざ潮音が自室の勉強机に坐って英語の問題集を何問か解いてみると、昇はその結果を採点して、潮音がわからなくて困っていたところまでわかりやすく解説してくれた。潮音はここで昇に勉強を見てもらっただけでも英語の勉強がだいぶはかどったように感じていたが、潮音の部屋に小型の机を持ち込んで英語の勉強をしていた暁子も、昇の勉強の解説の丁寧さやわかりやすさには感服せずにはいられないようだった。


 その頃になって、玄関で物音がした。綾乃が大学から帰ってきたのだった。しかし綾乃も、潮音の部屋に上がってくるとそこに暁子だけでなく、昇までいたのに思わず目を丸くした。


「湯川君、この子のためにわざわざ勉強教えてあげてるの? すまないわね。お茶とおやつくらいは出してあげないとね」


「姉ちゃん…そんなに気を使わなくたっていいよ。それに湯川君のおかげで、勉強のわかんないところがよくわかったよ。姉ちゃんはバイトで家庭教師やってるけど、姉ちゃんより教えるのうまいんじゃないか」

 潮音が茶化すように言うと、綾乃はいやそうな顔をした。


「こら。潮音ったら余計なことばかり言うんじゃないの。でも湯川君だって自分の勉強があるから、あまり無理しなくていいよ。今日はほんとにすまなかったわね」


「いいです。僕だってこうやって人に勉強教えるのはいい経験になったから…」


 そう言って昇が潮音の家を後にすると、暁子がややふて腐れたような表情をして潮音に言った。


「あんた、湯川君とずいぶん仲良さそうじゃない。もう彼氏ができたってことなの」


 そこで潮音がむっとしながら言葉を返した。


「暁子、なにバカなこと言ってるんだよ。ちょっと勉強教えてもらっただけだろ。オレと湯川君の関係はそんなもんじゃないってば」


 潮音の言動でその場の雰囲気が気まずくなり始めたので、綾乃があわてて暁子をなだめた。


「二人とも今はこんなことでいがみ合ってる場合じゃないでしょ。明日だって試験はあるんだから、暁子ちゃんも早く家に帰って勉強しなきゃ」


 その綾乃の言葉を聞いて、暁子はややむっとした表情をしながら潮音の家を後にして、自宅に戻っていった。その後で綾乃はやや気づまりそうな表情で言った。


「暁子ちゃん、あんたが湯川君と仲良さそうにしてるのを見て、明らかに焼きもち焼いてるわね。あんたが自分のそばから離れていくような気がして、不安になってるんじゃないかしら」


「暁子のバカ…オレが誰と仲よくしようとオレの勝手だろ」


「たしかにあの子だってちょっと大人気ないとは思うけど、あんただって暁子ちゃんの気持ちをもっと考えてあげな。あんたと暁子ちゃんは、ちっちゃな頃から仲良しだったんでしょ」


「そりゃオレと暁子とは昔から一緒だったけど、いつまでも昔のままの関係でいろなんて無理だよ…」


 潮音はそれだけ言い残すと、自室に戻っていった。綾乃はその後姿を見送った後で、その場に留まったまま少し考えていた。


――そりゃ暁子ちゃんと潮音の関係がずっと今までのようにいくわけがないなんてことはわかってる。でも二人の間の関係にひびが入ったりしなければいいのだけど…。


 そう思いながら、綾乃は首をかしげて不安げな表情を浮べていた。



 ようやく試験期間が終ると、潮音はその疲れがどっと出たような気がした。生徒たちの間には、試験が終って早くもクリスマスや冬休みの話題で盛り上がっている者もいたが、潮音はただ休みたかった。そこで潮音はさっそく帰宅の途についたが、駅前でばったり流風と出会った。


「潮音ちゃん、試験はどうだった? なんか疲れてるようだけど」


「ああ、なんとか…。赤点取ってなきゃいいけど」


「綾乃お姉ちゃんから聞いたけど、潮音ちゃんもずいぶん勉強頑張ってたみたいじゃん。きっと大丈夫だよ。ところで潮音ちゃんはクリスマスはどうするの?」


「いや、まだ全然決めてないんだ」


「うちの学校はね、クリスマス会をやるの。礼拝の後で賛美歌を歌ったりハンドベルの演奏があったり、チャリティーバザーをやったりするのよ」


「…これで漣の気持ちも少しは晴れるといいのにな」


「潮音ちゃんって優しいんだね」


 潮音は駅前で流風と別れてからも、内心では漣のことが気がかりだった。潮音はせめて流風や、布引女学院の富川花梨がクリスマスに漣と一緒にいて、その孤独な心を癒してくれたらと思っていた。



 試験が終った二日後になって、答案の返却が行われた。潮音の成績は学年の順位でいえば相変らず下から数えた方が早かったとはいえ、なんとか全科目で赤点を取ることは免れた。潮音はとりあえず、赤点を取らずに済んだことに安堵した。


――オレのためにわざわざ勉強の面倒を見てくれた、暁子や優菜、それに湯川君にも感謝しないとな。


 ホームルームが終って、潮音がさっそく暁子のところに行って赤点を取らずに済んだことを伝えると、暁子も嬉しそうな顔をした。


「良かったね。勉強頑張った甲斐あったじゃん」


「これも暁子や優菜が勉強の面倒見てくれたおかげだよ。ともかくこれで、なんとか楽しいクリスマスを迎えられそうだ」


 しかしそこで、暁子は皮肉めいた顔で言った。


「あんたはやはりクリスマスは、湯川君と一緒に過ごすわけ? せっかく頭が良くてかっこいい彼氏ができたんだものね」


 潮音は暁子が唐突にこのような態度を取ったことに対して、戸惑いを感じずにはいられなかった。


「どうしたんだよ暁子…。もしかして妬いてるのか? 何度も言うけど、オレと湯川君の関係はそんなんじゃないってば」


「違うよ。…このところなんか不安なんだ。あんたがいつのまにか、あたしがちっちゃな頃から知ってるあんたじゃなくなっちゃうような気がして…」


 そこで潮音はムッとしながら口調を荒げた。


「いいかげんにしろよ、暁子。オレだってオレの考えがあるんだ。オレがいつまでも暁子の好きなオレのままでいてほしいなんて、そんなの無理だよ」


 すると暁子は、急に表情を曇らせて潮音に言い放った。


「そんなことあたしだってわかってる。でもあんたってあたしの気持ちなんか何もわかっちゃいないんだから…潮音のバカ」


 そう言ったときの暁子の声の最後の方は涙声になっていた。そしてそのまま暁子は潮音に背を向けて走り出した。潮音はそれを呼びとめることすらできなかった。


 潮音はしばらくこの場に佇んだまま、唇をかみしめていた。


――最悪だ…。せっかくこれからクリスマスやお正月は暁子と一緒に遊ぼうと思ってたのに。でももしかして以前優菜が言ってたように、暁子はやっぱりオレに対して気があったのだろうか。


 潮音はそのまま学校を後にして帰途についてからも、街を彩る華やかなクリスマスイルミネーションも目に入らなかった。街路樹から落ちて歩道に舞う枯れ葉が、本格的な冬の訪れを示していた。

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