第一章・潮音の誕生日(その2)

 暁子と話をしてから数日の間、潮音の心の中からは重苦しい思いが抜けなかった。自分を取り巻く環境が一変してから早くも一年もの時が経っているという現実を突きつけられると、自らを見舞う運命など知らずに、普通の男子として中学校に通って水泳部の練習に出たり、クラスの仲間とふざけ合ったりして無邪気に過ごしていた日々が、はるか手の届かないものになったかのようにあらためて感じずにはいられなかった。今の自分自身がここまで女子としての生活に順応しているとは、一年前の自分には想像もつかなかっただろうと潮音は思っていたが、その現実に対しては一面で戸惑いも覚えずにはいられなかった。


 実際、潮音は自分が男から女になったのだから、男に戻る方法だってどこかにあるかもしれないと心の奥底で考えていたこともあった。しかしこの一年間の生活を経て、自分の直面した生活をしっかりと送ることに男も女もないということを思い知らされると、そのような思いもいつしか抜けていった。それでも潮音はこれから先の人生をずっと女として生きることになるのかと思うと、いささかの不安も覚えずにはいられなかった。


 そこで潮音は、若宮漣のことを思い出していた。漣はすでに小学生のときに男性から女性への変化を体験しているのだから、自分よりももっと長い間、そのような戸惑いを抱きながら暮していたのだろうかと気にならずにはいられなかった。


 そのようにして一人で思い悩んでばかりいても何の解決にもならないので、潮音は自分の気持ちに決着をつけるためにも、一度祖父の敦義の屋敷を訪れてみようと思っていた。潮音は自分があの日土蔵の中で古い鏡を手にしていなければと思っていたが、流風やモニカに今の心中を打ち明けるだけでも、少しは気持ちがおさまるような気がした。


 そして潮音は、土曜日の午後にバレエ教室に行った際、レッスンの後の休憩時間に一緒にレッスンに参加していた流風に声をかけてみた。


「あの…流風姉ちゃん。明日の日曜、家に行っていいかな」


「もちろんいいけど…いきなりどうしたの」


 流風は潮音の申し出を快諾しながらも、どこか怪訝そうな顔をしていた。


「いや、私…がおじいちゃんの家に行って、その結果自分がこうなってからちょうど一年になるかなって…この際だから、おじいちゃんやモニカさんにも会って気持ちの整理がしたいんだ」


 潮音の話を聞くと、流風も少し考え込むような表情をした。


「そうか…あれからもう一年になるのよね。なんかその間、あっという間だったような気がするけど」


 そこで潮音は口ごもるようにして言った。


「流風姉ちゃん…この後いつまで一緒にバレエをやれるのかな。流風姉ちゃんは来年高三で大学受験だし、まして東京とかの大学に行ったら会えなくなっちゃうし」


 潮音が表情を曇らせると、流風はつとめて明るく振る舞おうとした。


「潮音ちゃんもそんなに寂しそうな顔しないでよ。私はなんとかしてバレエは続けたいと思ってるし、それにどこの大学行くかだってまだ決めてないんだ。でももし東京の大学に行ったって、会えなくなるわけじゃないんだから」


 その流風の言葉に、潮音は少し元気を取り戻したようだった。その後潮音は少しバレエのレッスンをした後で、教室の入り口で流風と別れた。



 その翌日の日曜日、潮音は祖父の敦義やモニカ、流風の暮す古い屋敷に向かった。どっしりとした玄関の扉を前にすると、潮音の脳裏には一年前、ちょうど今日と同じような晩秋の一日に、家族の法事に出るためにこの敦義の屋敷を訪れたときの記憶が否応なしに甦ってきた。


 あのときの潮音は黒い詰襟の学生服を着て、この後自らを見舞う運命も知らずに、無邪気にモニカや流風と会話をしていた。そのように考えると、潮音はあらためて自らの身に起きたことの不思議さを感じずにはいられなかった。


 潮音が呼鈴を鳴らすと、モニカが玄関口で潮音を出迎えた。


「まあ潮音ちゃん、どうもいらっしゃい」


 潮音はモニカのいつもと変らない、明るく陽気な様子を目のあたりにして、少しは緊張の糸がほぐれてほっとできたような心地がした。


 潮音がモニカに案内されて居間に通されると、そこには敦義と流風がソファーに腰を下ろしていた。しかし流風に比べて、敦義は元気のなさそうな様子をしていることがありありと見てとれた。敦義は潮音に対して、視線を合わせないようにしているようにすら見えた。


「潮音…ほんまにすまんかった。あの日わしがお前に土蔵の整理を手伝わせたりせえへんかったら、こんなことにはならへんかったのに」


 潮音はうなだれ気味に力なく話す敦義を目の前にして、自分が幼いころに家族で敦義の屋敷を訪ねたときには、いつも元気で豪放に潮音を迎えてかわいがってくれたのにと思うと、胸が痛まずにはいられなかった。


 モニカも敦義のそのような様子を見て、心配そうな顔をしてため息をついた。


「ダンナは潮音ちゃんのことがあって以来、だいぶ老け込んでしもたからな。それまでは七十過ぎてもあんなにかくしゃくとして、釣りやゴルフにもよく行っとったのに。そりゃダンナは前から潮音ちゃんのことをかわいがっとったけど、もう起きてしもたことはしゃあないし、そもそも潮音ちゃんは今もこうして元気でやっとるのやから、もう少し元気になればええのに」


 しかし潮音はこのモニカの話を聞きながら、敦義がまだ幼かった自分とキャッチボールをしたり、敦義に釣りに連れていってもらったりしたときのことを思い出していた。潮音は敦義が男の子だった自分に期待をかけていたことを今さらのようにひしひしと感じていたが、その一方で敦義の気持ちはモニカや流風にはわからないかもしれないと思っていた。


 そこで潮音は、思い切って敦義に声をかけた。


「おじいちゃん…もっと元気出してよ。私が女になったのはおじいちゃんのせいじゃないし、それに私はこうして高校に行って、友達もできて元気にやってるから」


 その潮音の屈託のない様子を見て、敦義は少し目を潤ませていた。潮音は大胆で豪放だった敦義が涙を流すところなどこれまで見たことがなかっただけに、あらためてショックを受けずにはいられなかった。そこでモニカが潮音に声をかけた。


「もしかして潮音ちゃんはダンナが涙を流すとこなんかはじめて見たん? でも人間年取ったら誰でも涙もろくなるもんやで」


 そこで流風が、ぽんと潮音の肩を叩いて居間から立ち去らせた。敦義をしばらくそっとさせてやろうという配慮からだった。


 流風は潮音を、晩秋の穏やかな陽が照らす縁側へと連れ出した。そこからは苔むした庭が一望できた。そしてその庭の片隅には、あの鏡が納められていた土蔵がどっしりと建っていた。


 そこで潮音はまた、先ほどの敦義の元気のない表情だけでなく、一年前のあの日にもそれと同じ庭の光景を目にしたことを思い出して体をこわばらせた。そこで流風が潮音をなだめるように声をかけた。


「潮音ちゃんはちっちゃな頃から、私や綾乃お姉ちゃんと一緒によくこの家で遊んだよね。かくれんぼをしたりゲームをしたりして」


 流風にそう言われて古びた薄暗い座敷の中に目を向けると、潮音は耳の奥にまで幼い頃に遊んだときの流風や綾乃の歓声が響いてくるような気がした。潮音がしばらくその場にじっとたたずんでいると、そっと流風が声をかけた。


「潮音ちゃんはこの一年、ほんとによく頑張ったと思うよ。私は一年前の潮音ちゃんのことをよく知ってるから」


 しかしそこで潮音は、首を横に振った。


「そんな同情なんかしてくれなくたっていいよ。自分はいきなり男から女になってしまって、何をすればいいのかもよくわからないまま、自分の目の前にあることをただやってきただけだから」


「そんなことないよ。ちゃんと毎日朝ちゃんと起きて、ご飯を食べて学校に行って先生や友達とつきあって、勉強したりクラブや趣味をやったりする。その一見地味に見えることが一番大切じゃないかな。私も出自について悩んだこともあった、もっと普通の家の子に生れたかったと思ったこともあったけど、私の父も母もこの世にたった一人しかいないわけだし、今はこうしてみんなと一緒に生きていけることに感謝してるよ」


 そのように話したときの流風の顔は、どこか吹っ切れたように見えた。潮音はここで、高校に入ってから出会った松風の生徒たちや、弁護士を目指して勉強している昇や、水泳の練習にいそしんでいる浩三の顔を思い出していた。


——たしかに自分は勉強では昇や松風の生徒たち、水泳は浩三、バレエは紫にとてもかなわない。しかし自分は、「藤坂潮音」としてこうして生きている。その前では、男か女かさえ、問題じゃないのかもしれない。


 潮音の表情に徐々に明るさが戻ってきたのを見て、流風も少し安堵の色を見せた。そこで流風は潮音に話しかけた。


「そういえば、そろそろ潮音ちゃんの誕生日よね。去年はあんなことがあってとても誕生日どころじゃなかったけど、どうすればいいかしら」


 そこで潮音は照れくさそうな顔をした。


「そんなに気を使ってくれなくたっていいよ。もう誕生日だからといってパーティーを開いたり、プレゼントをもらったりするような歳でもないんだし」


「だから、そんなに遠慮することないじゃない。素直に嬉しいと言えばいいのに」


 そこにモニカが姿を現して言った。


「せっかくやから、みんなで海でも見に行かへん? ダンナにももうちょっと元気になってもらわへんとね」


 そしてモニカは、しぶる敦義をなんとかして屋敷の外に連れ出すと、みんなを車に乗せた。

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