第一章・潮音の誕生日(その3)

 モニカは潮音や流風、敦義を車に乗せると、自ら運転席に坐りハンドルを握った。車が走り出して、ごみごみした家並みを抜けて幹線道路に出ると、後部席に坐った潮音は隣の席に腰かけた流風に声をかけた。


「モニカさんって車の運転もうまいよね。うちの姉ちゃんとは大違いだよ」


「ああ。綾乃お姉ちゃんの運転する車に乗ったときは、私まではらはらしたものね」


 この点に関しては、流風も潮音と全く同感のようだった。


「ほんとに姉ちゃんの運転する車に乗ったら、命が縮まるような感じがするよ」


「潮音もあまり調子に乗ってないで、綾乃お姉ちゃんの悪口もいいかげんにしておきなさい」


 流風にたしなめられると、潮音はあらためて流風の顔を向き直しながら言った。


「ねえ流風姉ちゃん…再来年高校を卒業して大学に行ったら、やはりあの家を出るの」


 潮音は幼い頃から何度も訪れてすっかり見知っていた敦義の屋敷から、流風がいなくなることがどうしてもイメージできなかった。それに対して流風は、軽く首を振りながら答えた。


「まだわかんないって言ってるでしょ。たしかに東京の大学に行ってみたいという気もあるけど、大学の入試に受からなきゃどうにもならないじゃない」


「オレも大学で東京に行ったら、もっといろんなものを見られるのかな」


「だからその前に入試に受かんなきゃいけないでしょ。そもそも潮音ちゃんはどこの大学に行って何を勉強したいか、そこからまず考えなきゃいけないじゃない」


 潮音は流風の言う通りだと思って、しゅんとして口を閉ざしてしまった。そこでモニカが、ハンドルを握りながら口を開いた。


「潮音ちゃんはちっちゃい頃からお姉ちゃんっ子やったからね。やっぱり流風がおらんようになるのは寂しくて不安なん?」


 そのモニカの言葉に対して、潮音はもじもじしながら答えた。


「たしかにそれもあるけど…自分も来年になって高二に進級したら、文系か理系かを決めなきゃいけないんです。自分はこの先どんな大学行って何を勉強するかなんて、まだ全然わかんないし、そもそも今の自分の成績で行ける大学なんてどのくらいあるか、それすら心配で…」


「だったら潮音ちゃんも、もっと勉強せなあかんやん。いっそ理系行ったら? 最近はリケジョとか言うとるやん」


 モニカはあくまで、ご機嫌そうな様子を崩そうとしなかったが、潮音は勉強のことを言われていやそうな顔をした。


 そうこうしているうちに、車は海岸沿いの駐車場に着いていた。モニカが駐車場に車を停めて車を降りると、潮の香りと海鳥の鳴き声が潮音たちを出迎えた。


 潮音が砂浜に出ると、海は秋も終りに近づくにつれて青さも深みを増し、午後の穏やかな日の光を浴びて波間がキラキラと輝いていた。この日は波も穏やかだったが、頬をなでる海風はやや冷たく、澄んだ空気は海峡を行き交う船や対岸に見える淡路島の島影をはっきりと見せており、冬がすぐそこまで迫っていることを感じさせた。


 潮音はそのような海を見つめながら、海面に反射する光のまぶしさに目を細めていたが、流風がそのような潮音の横顔を眺めながら声をかけた。


「やはり気分が沈んだときやくさくさしたときは、こうやって海を見に来るのが一番よね。広い海を眺めていると、気持ちもスカッとして、小さなことでくよくよするのがバカらしくなってくるよ」


 そこで潮音は流風に尋ねてみた。


「流風姉ちゃんはフィリピンに行ったときにも海を見たんだよね。やはりフィリピンの海はきれいだったの?」


 その潮音の言葉に、流風は大きくうなづいた。


「もちろん。フィリピンは日の光が日本よりずっと明るくて、なにもかも色がずっと鮮やかに見えるんだ。ビーチで海風を全身に浴びて、真っ青に澄んだ海や、そこに沈む夕陽を見たときのことは、今でも目を閉じると思い出せるよ」


 潮音はそのような流風の横顔を眺めながら、流風の中に流れているフィリピン人の血が、流風の心をフィリピンに引きつけているのだろうかと考えていた。そうやって潮音と流風がフィリピンについて話すのを、モニカははたからご機嫌そうな顔で聞いていた。


「潮音ちゃんもいつかフィリピンに行ってみいへん? フィリピンって海だけやなくてそのほかの景色もみんなきれいやし、食べ物かておいしいし。そのときはうちが案内したるよ」


 しかし敦義は陽気に話すモニカを横目に、元気がなさそうにただ水平線の彼方をぼんやりと眺めるのみだった。敦義はこの一年でだいぶ顔にもしわが増えて身ぶりも縮まったように見え、ここ最近の気力の衰えは潮音のことでショックを受けたせいばかりでなく、老いが忍び寄っていることにもよるものだということをまじまじと感じさせた。


 潮音はそのような敦義の姿を見ているうちに、昔自分が幼かった頃の夏の日に、敦義に連れられてこの海岸に海水浴に来たときのことを思い出していた。


 あのときの敦義は砂浜に腰を下したたまま、水泳パンツ一丁で歓声を上げながら波打ち際へと元気よく駆け出し、寄せては返す波と戯れて遊ぶ潮音の姿を、満足そうな面持ちで眺めていた。そのときの敦義は、潮音はこの先たくましく成長して、この海のような大きな度量を持った男になるだろうと期待していたのかもしれないと思うと、潮音はやはり胸に重荷を背負わされたような気持になって、敦義の顔をしっかりと直視することすらできなかった。


 潮音はあらためて、敦義の屋敷には幼少の頃からよく訪れていたにもかかわらず、敦義のことを全然知らなかったことに気がついていた。敦義は貿易商として若い頃から仕事で多くの国を訪れており、それらの国を訪れたときのことを潮音に話してくれたこともあったが、幼い頃の潮音にはそれらの外国の話は遠い世界の不思議な国のことのように思えて、今一つ実感がつかめなかった。しかしそれでも、外国でいろいろな仕事を経験し、何度も修羅場をくぐってきた敦義の、浅黒く日焼けした力強くたくましい姿を眺めているだけでも、幼い潮音は敦義は自分の知らない広くて遠い世界を見てきたと感じていた。


 潮音は幼い日にこの海岸で、敦義が自分にこの海を見せながら、このように語りかけたことを今さらのように思い出していた。


「いいか潮音。これからは狭い日本のことばかりにとらわれていてはダメだ。この海は世界中のいろんな国につながっているんだ。お前も多きくなったら、この海を越えて世界に大きく羽ばたいていけるような、そしてこの海のような大きな男になれ」


 潮音は昔のことを思い出せば出すほど、敦義の心中を思って気が重くなっていった。そこで潮音は、独り言のようにぼそりと口を開いた。


「おじいちゃんもそんなに落ち込まないでよ。オレは女になったとはいえ、こうして元気でやってるんだから。…頑張ってしっかり生きていくことに、男も女もないって、自分がこの立場になってよくわかったよ。おじいちゃんは何も悪くないし、責任を感じることなんか何もないよ」


 そこでモニカも、敦義にそっと声をかけた。


「潮音ちゃんの言う通りやで。ダンナももっと潮音ちゃんのこと信用したらどないなん。そりゃあたしかて去年のあのときは、ほんまに潮音ちゃんは大丈夫なんやろか、いったいどうすればええんかと心配で夜も寝られへんかったけど、この一年間で潮音ちゃんはほんまにようやったよ。学校かてちゃんと行っとるし、それに潮音ちゃんは前にもまして明るうなったやん」


 しかし潮音は、モニカの言葉を打ち消すように、やや不安げな表情を浮べながら言った。


「…そこまで褒めてもらうほどでもないよ。自分だって高校に入ってから、みんなについていこうと必死で頑張ってきたけど、そうしてみんなについていけるのか…ましてこれから大学の入試とかあるのにほんとに今の自分のままで大丈夫なのか、この先やっていけるのか…不安でしょうがないんだ」


 そこで流風が口をはさんだ。


「そんなのだれもがみんな思ってることよ。そうやってウジウジ悩んでる暇があるなら、その間に少しでも自分の手を動かして、何でもいいからやってみることが大事じゃないかな。そう思って、潮音ちゃんはまたバレエを始めたんでしょ?」


 潮音は流風が話すのを聞いて、漣のことを思い出していた。


「流風姉ちゃん…漣もずっと同じようなこと考えながら過ごしてきたんだろうか」


「それは私にもわかんないわね。なんだったら、もういっぺん漣ちゃんにも会って話をしてみたら?」


 そこで潮音は、あらためて漣のどこか不安げな表情を思い出していた。潮音は近いうちに、もう一度漣に会ってみたいと思うようになっていた。


 そうしてみんなで海を眺めているうちに、敦義も多少は元気を取り戻したようだった。


「ともかく潮音…人生はこれからも決して楽やないぞ。わしもお前のことをもっと見守うてやりたいけど、わしもいいかげん歳取ったからな」


「おじいちゃんこそ無理しないでよ。今度また、一緒に釣りにでも行かない?」


「ああ、近いとこでええからまた一緒に釣りにいけたらええな」


「それからおじいちゃんが昔外国行ったときの話ももっと聞かせてよ」


 その間にも、晩秋の陽は西に傾きかけて、砂浜に落ちる潮音たちの影もいつしか長くなっていた。海から吹く風の少し冷たくなってきたので、潮音たちは車に乗り込んで海岸を後にし、敦義の屋敷に戻ることにした。


 潮音が敦義の屋敷を後にして帰途についてからも、潮音の脳裏からは敦義の髪の白さが離れなかった。年老いても元気に潮音たちを元気に迎えてくれた敦義の落ち込みようには潮音も内心でショックを受けるしかなかったが、敦義のためにも自分は頑張らなければならないと意を新たにしていた。

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