第四部

第一章・潮音の誕生日(その1)

十一月に入り秋がますます深まると、文化祭で盛り上がりを見せていた松風女子学園の雰囲気も、徐々に落ち着きを取り戻してくる。校内の植木の葉も色づき、やがて風も冷たさを増して落葉が校内にも舞い散るようになり冬が近づいていることを思わせる。空は青く澄み渡り、柔らかい陽射しが校舎の奥にまで射し込むようになる。街では早くも、クリスマスイルミネーションがぼちぼち目につくようになり、生徒たちの中にはクリスマスや年末年始の予定について話を始める者もいた。


 そのようなある日、藤坂潮音は放課後の教室で古今東西の絵画やその見方について解説した本を広げていた。少し前に一緒に美術展を見に行ったのを機に、寺島琴絵が潮音も少しは絵画のことにも詳しくなって視野を広げた方がいいと言って、中高生にもわかりやすく書かれた美術についての入門書を潮音に貸したのだった。


 その本の中には、モナリザをはじめとするルネサンスの絵画や江戸時代の浮世絵、印象派から現代絵画まで、さまざまな絵が載っていたが、潮音は解説までは十分に理解できないような気がした。琴絵はあまり難しいことは考えず、最初は本をパラパラとめくってみて、「いいな」「きれいだな」と思うような絵が一点でも見つかったらそれをじっと見てみるといいと言っていたが、潮音は人体をデフォルメして描いたピカソやダリの絵、カンバスに絵の具を撒き散らしたポロックの絵などを見ると、かえってわけがわからなくなった。


 ちょうどそのとき、背後で潮音を呼び止める声がした。声をかけたのは石川暁子だった。 


「どうしたのよ。なんか難しそうな本読んで」


 暁子は潮音が読んでいる本に目を向けると、その本をパラパラとめくってみて、ステンドグラスのような深い色合いで描かれた、シャガールの絵に目を止めた。


「このサーカスの絵、色がすごくきれいじゃない」


 しかし潮音は、空中ブランコで舞う曲芸師の上を魚が飛んでいたり、緑色をした馬が描かれたりしているのを見るとこれは何だろうと思わずにはいられなかった。そこで暁子は少しページをめくると、次はマグリットの絵が載っているページを開いた。


「この絵、青い空や雲の書き方がすごく上手よね」


 潮音はむしろ暁子の方が画集をまじめに見ているのを、ぼんやりと眺めていた。そのような潮音の様子を見て、暁子も少し気づまりな表情をした。


「どうしたの? 潮音はこのところ休み時間なんかもぼーっとしてることが多いけど」


 そこで潮音は、あらためて暁子の顔を見つめ直すと、ぼそりと口を開いた。


「いや、あれからもう一年になるんだなって…」


 その潮音の言葉の「あれ」が何を意味するのか、暁子はよく理解していた。


「ああ…たしかにそうだよね。でもあの頃と比べて、あんたは大きく変ったよ」


 潮音は黙ったまま教室の窓の外に目をやると、空を見上げた。潮音はあらためて、自分の運命を一変させた「あの日」--潮音が祖父の敦義の家の土蔵の中で古い鏡を手にした日もまた、今日と同じような、晩秋の穏やかな空がよく晴れわたった日だったことを思い出していた。


 潮音は今になって、ちょうど一年前の自分が女になってしまってから間もない日々の頃を思い返すようになっていた。あのときの潮音は、自分の身に何が起きたのか、自分は何をすればいいのかも全くわからないまま、真っ暗な闇の中を手探りで進むような日々を送っていた。


 そこで潮音は、もう一度自分の手を目の前に持ってきてしげしげと眺めてみた。その指は自分が男だった頃と比べても繊細になっていたが、今の自分はそのような自分の手を目にしても、もはや戸惑うことはなくなっていた。


 さらに潮音は身の回りを見回してみた。松風女子学園の制服は今の自分にしっかりなじんでいるのに気づくと、潮音は今の自分がこのようにして毎日スカートの制服を身につけ、女子校に通っていることを一年前の自分が知ったら、果たしてどのような顔をするだろうかと思っていた。この一年もの間に、一年前には想像すらできなかったようないろいろなことが起きて、それによって自分を取り巻く環境が激変したことを潮音はあらためて痛感していた。


 暁子は潮音の様子を目の当たりにして、潮音の心中をだいたい察していた。そこで暁子はそっとなだめるように、潮音に声をかけてやった。


「潮音…どうせあんたは、ほんの一年前まで男だった自分が、こうして女として女子校に通ってるなんてと思ってるんでしょ。あたしだってそう思ってるし、あんたが男から女になっちゃったなんて、今でも信じられないもの。でも…この一年間、あんたはほんとによくやったよ。ちょうど一年前の今ごろは、あんたが高校に入学することすらできるのだろうかって心配だったんだからね」


「暁子がこうしてオレのこと心配してくれるのは嬉しいけど…こればかりは誰も助けてなんかくれない、自分自身の力でなんとかするしかないからね」


 その潮音の言葉を聞いて、暁子はじれったそうな顔をした。


「だから、そうやって変にかっこつけて無理しないでよ。つらいときはつらい、悩んでるときは悩んでるとはっきり言えばいいんだから。そりゃたしかにあたしには、あんたのつらさを取り除いたり、問題をなにもかも解決したりできるような力なんかないかもしれないよ。でも自分の気持ちを何もかも打ち明けることができる人がいる、それだけでもずいぶん違うでしょ」


 そこで潮音は、暁子の顔を向き直しながら言った。


「暁子こそ、人の心配するより先に自分のこと心配したらどうだよ。なんか中学のときの暁子の方がもっと明るくて元気で、オレや優菜に対しても言いたいことをはっきり言ってたような気がするけど」 


 潮音に言われると、暁子は一気に顔を曇らせた。


「だってこの学校の子ってみんな勉強だってすごくできるし、おしゃれでかわいいし、それ以外にも何やってもかなわないんだもの」


「…そりゃオレだってそうだよ。だからオレはそれに流されたくないと思っていろいろやってきたんだ。特に峰山さん…彼女には負けたくないと思ってた」


「あんたってほんとに強情で負けず嫌いなんだから。そうやって必死で頑張ろうとするのが、あんたのえらいところだけど。でもちょっとこわいんだもの…あんたがこの学校の子と仲良くして、いろんなこと頑張ってるの見てると、あんたがちっちゃな頃からあたしが知ってたあんたじゃなくなってしまうような気がして…。それにこのところよく思うんだ。あんたに比べて、あたしは何やってるんだろって。むしろ今じゃあんたの方が、あたしより先に進んでるような気さえするんだ」


 その暁子の言葉に、潮音は当惑せずにはいられなかった。


「暁子はオレに男のままでいてほしかったのか? でもそんなの今さら無理だよ…。オレだって女になってから、なんとかしなきゃと思って必死で頑張ってきたのに…」


「それはあたしだってわかってる。あんたに変ってほしくないなんてわがままだってことくらい」


 そう話すときの暁子は、潮音の顔を直視しようとしなかった。しばらく黙った後で、暁子は口を開いた。


「…そろそろ潮音の誕生日だよね。十一月の二十二日だったっけ。ちっちゃな頃は、あたしや綾乃お姉ちゃんも一緒になってお誕生会を開いたりもしたっけ」


「去年の今ごろは、あんなことになって誕生日どころじゃなかったけどな。この日はオレに何かしてくれるのか?」


「まだ考えてないけどね。六月のあたしの誕生日のときには、あんたはわざわざあたしのためにケーキを焼いてくれたじゃない。これまであんたはそんなことしたことなんかなかったのに。だったらあたしも何かしなきゃね」


「そうやって変に気を使ってくれなくたって、オレは暁子が元気になってくれたらそれで十分だよ」


「そんなくさいセリフが言えるようになったところも、あんたが昔に比べて変ったところなのかもね」


 暁子は少し元気を取り戻したようだったが、潮音はその暁子の言葉を聞いて少し照れくさい思いがした。


「そろそろ家に帰ろうか」


 すでに晩秋の陽も西に傾きつつあり、教室も影が濃くなっていたので、潮音と暁子は家に戻ることにした。教室を後にするときに、潮音は琴絵から借りた美術の本を畳もうとしたが、そこにはマグリットの、どんよりと曇った海の風景を切り取ったように、飛ぶ鳥の形をした青空が広がっている絵が載っていた。潮音はこの絵にふと目を止めると、自分の心の中にもかすかに日が射したように感じた。

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