第六章・ロミオとジュリエット(その7)

 その翌日は文化祭の二日目だ。この日は潮音にとって、夕方になって統一行事に参加するまではほぼ自由行動だったので、潮音が学校に着くなりどこに行こうかと思っていると、昨日の劇でロミオの役を演じた吹屋光瑠がさっそく声をかけてきた。


「藤坂さんの調子はどう? 藤坂さんは練習のときからずっと緊張しっぱなしだったけど、少しは疲れも取れたかしら」


 潮音は光瑠の顔を見るなり、劇のときのロミオを演じていた光瑠の表情を思い出して、思わず緊張のあまり顔をこわばらせていた。その潮音の様子を見て、光瑠はふとため息をつきながら言った。


「やはり昨日の劇の緊張がまだ抜けていないみたいね。今日はいろんな展示を見て回りましょ」


 そこで潮音は、二日目の昼から開催される、楓組の「嵐が丘」の劇が見たいと言った。しかしその劇が始まるまでは少し時間があったので、午前中は校庭の野外ステージで行われているバンドの演奏を見に行くことにした。このバンドには潮音のクラスメイトである能美千夏もギターで参加しているので、潮音としてはこれを見ておきたいという思いもあった。


 それでも潮音と光瑠が連れ立って、文化祭でにぎわっている校内を歩いていると、周りの生徒たちは皆一様に二人に熱い視線を向けたり、ひそひそうわさ話をしたりしていた。潮音はそのような生徒たちの様子を感じ取って、身が縮こまるような気まずさを感じずにはいられなかった。


 光瑠はすでに中等部の頃からバスケ部で活躍し、その凛々しい雰囲気とも相まって校内で注目を集める存在になっていたが、高等部からの新参者でありながら、その光瑠を相手に堂々とジュリエットの役を演じてみせた潮音のことも、校内ではすっかり評判になっていたようだった。中等部の生徒の中には、二人に積極的に声をかけてくる者すらいたが、潮音が対応の仕方に困っていると、光瑠は中等部の生徒に対して姉が妹に接するかのような気さくな態度で接していた。これを見て、潮音はまだまだ光瑠には勝てないと気後れを覚えずにはいられなかった。


 なんとかして潮音と光瑠が野外ステージに着くと、バンドの演奏が始まる前から観客席には人だかりができていた。やがてステージの上に千夏をはじめとするバンドのメンバーたちが現れ、演奏を始めると場の盛り上がりは最高潮に達した。


 曲目は有名なバンドの楽曲のコピーもあったが、千夏たちが自ら作詞作曲した楽曲が流れると、生徒たちの間から歓声が上がった。潮音も日ごろから、千夏がノートを広げてオリジナルの楽曲の歌詞の中に入れるフレーズを考えているのを目にしてきただけに、自分たちの力で曲まで作ってしまった千夏はやっぱりすごいと思った。ステージの上でギターを巧みに弾きこなす千夏の熱のこもったパフォーマンスに乗せられて、潮音はいつしか歓声を上げる周囲の観客たちと一体になって盛り上がっていた。


 千夏たちのバンドの演奏が終ると、潮音と光瑠はさっそくステージの裏に行って、千夏にあいさつをしに行った。千夏は全身から汗をかきながら肩で息をしていて、演奏のときの興奮からなかなか抜け出せないようだったが、それでも演奏をやり遂げたことに対して手ごたえを感じていることははっきりと見てとれた。


 それでも千夏は、光瑠と潮音の姿を見ると笑顔で二人を出迎えて、潮音とハイタッチをした。


「能美さん…すごく演奏うまいじゃん。これだけギターを弾けるなんてすごいよ」


 潮音が上気した様子で千夏に話しかけると、千夏もすがすがしい表情でそれに応えた。


「私たちはそのために、夏休みもずっと練習してきたからね。藤坂さんや吹屋さんだって劇の練習頑張ってたじゃん。私も劇見たけど、藤坂さんのジュリエットもなかなかうまかったよ」


 しかしそこで、潮音はかすかに考え込むような表情をした。


「みんながそう言うんだけどさ…その次は何を目標にすればいいのかな…。能美さんはバンドがあるけどさ…」


 そう言われると、千夏もいやそうな顔をした。


「私のバンドだって、趣味でやってるだけだよ。来年まではまだいいけど、それ過ぎたら受験があるからね」


 潮音は「受験」の二文字を聞いて、自分自身気が重くなった。自分自身この一年間、女子としての生活になじむことに必死で、何年後かの受験のことまで考えている余裕などなかったからだった。自分だってやがては受験という現実に向き合わなければならなくなるのだから、それまでにやりたいことはしっかりやっておかなければと潮音は考えていた。


 しかしそのとき、潮音の背後で生徒たちの歓声が上がった。その声のする方を潮音が振り向いてみると、潮音の一つ上の先輩で、高等部の生徒会長をつとめている松崎千晶が、椿絵里香と二人であいさつに来たのだった。剣道部でも主将として活躍し段位も得ており、生徒会長としてもてきぱきと仕事をこなし生徒からの支持を得てきた千晶と、華道部で凛とした身のこなしを身につけてきた絵里香が場に現れるだけで、その場の空気が引き締まるように思えた。


 生徒の出し物の一つ一つにも、生徒会長としてフォローを忘れない千晶はやはりすごいと潮音が思っていると、バンドのメンバーとの話を終えた千晶が、潮音と光瑠の姿に目を留めた。


「あら。一年桜組の吹屋さんと藤坂さんじゃない。峰山さんと同じクラスよね」


 生徒会のリーダーとして学校内を仕切ってきた千晶にいきなり声をかけられて、潮音はすっかりあわてふためいてしまった。そればかりか、周囲の生徒たちの中には学校の中でもカリスマ的な人気のある千晶と絵里香が潮音に対して親しげな態度を取っているのを見て、嫉妬にも似た視線を向ける者すらいた。しかし千晶は、潮音のこのような動揺ぶりなどそ知らぬかのようだった。


「昨日あなたたちがやったロミオとジュリエット、二年のあいだでもけっこう話題になってるわよ。吹屋さんはバスケ部で活躍してて、ロミオの役も前評判が高かったけど、藤坂さんも体育祭で学ラン着て応援団をやって以来、二年の間でも結構知ってる子はいるしね」


 千晶に褒められて、いつもはクールな光瑠も少し気恥ずかしそうにしていた。


「そんな…松崎さんと椿さんの去年の劇の方がずっとすごかったですよ」


 そこで千晶の隣にいた絵里香も、光瑠と潮音の方を向き直して言った。


「二人とももっと自信を持ちなよ。藤坂さんのジュリエットもなかなかうまかったじゃない。けっこうかわいかったわよ。いっそ藤坂さんも来年は生徒会に入ったらどうかしら。副会長になった峰山さんも、あなたのことはけっこう買ってるみたいよ」


 絵里香がニコニコしながら自分のことを話しているのを聞いて、潮音は血が沸騰しそうになった。特に潮音は、男子だった自分がジュリエットを演じて、「かわいい」と言われたことに対して、動揺せざるを得なかった。


 そこで千晶が、潮音と光瑠に声をかけた。


「講堂ではもう少ししたら、一年楓組の『嵐が丘』の劇が始まるよ。こちらは榎並さんが主演のヒースクリフの役をやるのが楽しみだわ」


 潮音は光瑠と一緒に野外ステージを後にすると、千晶と絵里香に先導されて、楓組の劇が行われる講堂に向かった。潮音たちが講堂に着くと、すでに紫や琴絵も席についていたので、潮音は紫の隣の席に腰を下ろすことにした。


「紫はやはり、榎並さんの劇見るのが楽しみなの?」


 潮音に尋ねられると、紫は首を横に振った。


「いや、楽しみってわけじゃないけど、私たちは来年も劇をやるかもしれないから、参考になるところがないかちゃんと見ておきたいの」


 その紫の話を聞いて、紫は愛里紗の前ではやはり変に意地を張って素直じゃないなと内心で思った。潮音たちの近くの椅子に坐った千晶も同じように感じたようで、あまり対抗意識にとらわれることなく、愛里紗のいいところは素直に認めることが大切だと紫に諭していた。一年ではリーダー格の紫も、千晶の前ではおとなしくなるところが潮音にとっては何かおかしかった。


 しかしブザーが鳴って幕が上がり、楓組の「嵐が丘」の劇が始まると、潮音は男装して主役のヒースクリフを演じる榎並愛里紗の姿に目が釘付けになっていた。同じ男装とはいっても、光瑠の演じたロミオの演技がスマートで洗練されていたのに比べて、愛里紗のヒースクリフ役はいかにも粗削りに見えた。それは長年バレエを練習し続けてきた紫の演技と比べてみても明らかだった。しかしむしろそのような愛里紗の荒々しい演技こそが、激しい感情を胸に秘めたヒースクリフの人柄を力強く表現しているように思えた。


 潮音はヒースクリフを演じる愛里紗の姿をじっと眺めながら、かつて愛里紗の住んでいる古びたアパートを訪ねたときのことを思い出していた。お嬢様学校と世間では噂されているこの学校で、家計も裕福ではない愛里紗が自分の居場所を確保するためには、今の劇の演技と同様に絶えず気を強く持ち続けるしかないのだろうかと潮音は考えていたが、そこでそれなら自分はどうなのかと自問せずにはいられなかった。


──オレだってこの勝手のわからない女子校で、なんとかやっていこうといろいろ頑張ってきた。その中でもオレはオレでいたい、まわりの子たちに負けたくないとずっと思ってきた。…それは榎並さんだって一緒なのだろうか。


 潮音は舞台の上でヒースクリフを熱演する愛里紗を眺めながら、自分が昨日の劇でジュリエットの役を演じたときの感触を思い出していた。


 やがて劇が一段落し、出演者たちのあいさつも済んでからしばらく経った後で、愛里紗たち楓組の生徒たちが劇の後片付けを済ませて講堂から出てきた。しかし衣裳から制服に着替え終った愛里紗も、千晶と絵里香から演技のことを口々に褒められるといささか照れくさそうにしていた。


 そこで紫も愛里紗に声をかけた。


「榎並さんのヒースクリフは、なかなか迫真の演技だったわね。感動したよ」


 しかし愛里紗は、そのような紫に対してつれない態度を取っていた。


「お世辞だったら結構だよ。私なんか吹屋さんのロミオに比べたらまだまだだからね」


 しかしそこで、愛里紗は紫の隣でもじもじしていた潮音に目を向けた。


「藤坂さんこそ、ジュリエットがあそこまではまり役だとは思わなかったわ」


 そのときの愛里紗の表情を見て、潮音はなかなか返す言葉が見つからなかった。潮音は愛里紗が、すでに自分の心の中までも見透かしているように感じていた。


「そりゃ男役といっても吹屋さんと榎並さんでは役も性格も全然違うけど…あの役は榎並さんじゃなきゃできなかったと思うよ」


 そこで愛里紗は、潮音に答えて言った。


「だったら藤坂さんしかできないことって何かしら」


 そこで潮音は、また難しい課題を出されたような顔をして黙ってしまった。そこで愛里紗は言葉を継いだ。


「あなたはジュリエットという難しい役をちゃんとやってのけた、それだけで十分答えは出ているはずだと思うけど」


 紫も愛里紗の言葉に同感だとでも言わんばかりの表情で、潮音の顔を見ていた。紫と愛里紗の両方から視線を向けられて、潮音はますます気まずそうな表情をして口をつぐんでしまった。

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