第六章・ロミオとジュリエット(その8)

 日が西に傾く頃になって講堂で行われる統一行事で、二日間にわたる文化祭もいよいよフィナーレを迎えることになる。統一行事では生徒会の二年生が主催するイベントが行われることになっていたが、内容は秘密になっていた。


 潮音は講堂の座席に腰を下ろして、隣の席に座っていた紫に、統一行事とはどのようなことをやるのか尋ねてみた。


「高校二年生にとってはこれから受験だから、生徒会が中心になって一緒にイベントをやって盛り上がるのよ」


「ということは、やっぱり松崎さんや椿さんが中心になって何かイベントをやるんだ。でもイベントって、どんなことをするの?」


「年によって違うわね。去年はダンスのパフォーマンスをやったし、その前の年は劇だったけど」


 そうこうしているうちに幕が上がり、舞台はきらびやかな照明でひときわ明るく光り輝いていた。しかしその照明の中心にいた人影を見て、潮音は呆気に取られた。舞台の中心でスポットライトを浴びていたのは、フリルなどの装飾をふんだんに使った、まるでアイドルのようなきらびやかな衣裳に身を包んだ松崎千晶だった。そして千晶の周囲にも、椿絵里香をはじめとする、生徒会で中心になって活動を行ってきた二年生たちが、千晶と同じようなアイドルの衣裳を身にまとって立っていた。


 潮音にとっては、これまで生徒会でも剣道部でもクールで凛々しく振舞い、生徒たちの信用も熱かった千晶が、今こうしてアイドルの衣裳を身につけてステージに立っている、そのギャップがどこかおかしかった。そもそも千晶本人が、何よりも緊張気味で気恥ずかし気な表情をしているように見えた。それでも舞台の真ん中に千晶が現れると、講堂の客席にいた生徒たちは皆立ち上がって歓声を上げた。潮音もその雰囲気に乗せられて、席から立ち上がって手を振り、大きな歓声を上げて千晶を出迎えた。


 やがてスピーカーからイントロが流れ出すと、千晶をはじめとする高等部の二年生たちは、流行しているアイドルグループの歌を歌い始めた。潮音は千晶が物怖じしない堂々とした態度で、講堂全体に届くような声でセンターの役目をきちんとこなしていただけでなく、周囲で絵里香をはじめとする二年生の生徒たちがボーカルやダンスをブレのない足取りでしっかりこなしていたのを目の当たりにして、その場の雰囲気に圧倒されていた。潮音のまわりの聴衆たちも、皆一様に手をあげて拳を振ったり、体全体でリズムを取ったりしながら声を張り上げ、講堂全体が一体になってその場を盛り上げていた。潮音がここでちらりと紫の横顔に目をやると、いつもは落ち着いた紫までもがステージに夢中になっていた。


 しかし潮音は、その熱狂と喝采の中で、少し考え事をしていた。潮音は男の子だった頃は憧れを寄せているアイドルだっていたし、中学校ではクラスの男子同士でアイドルの話題で盛り上がったことだってある。しかし今の潮音が、アイドルに対して向ける視線はその頃とは明らかに違っていた。


 潮音はむしろ、壇上で千晶たちが身にまとっている、きらびやかでかわいらしいアイドルの衣裳に目を向けていた。来年には自分たちがこのような衣裳を着て舞台に上がる番になるかもしれない…しかしここで潮音は、自分自身の心の中にアイドルの衣裳に憧れる気持ちが芽生えていることに気がついていた。もし紫がアイドルとして舞台に立ったら、華麗な衣裳やメイクはますます彼女たちの魅力を引き立たせて、皆の目を釘付けにするに違いない。どちらかというとクールでかっこいい感じのする光瑠だって、アイドルになったらけっこうかわいいかもしれない…潮音はいつしか、自分自身がアイドルとしてきらびやかなスポットライトを浴びながら、紫や光瑠の傍らにいたらと考えていた。


 千晶たちのパフォーマンスが一段落すると、ステージが始まった頃は気恥ずかしそうにしていた千晶もすっかり朗らかな表情で、聴衆たちに手を振っていた。そして文化祭の閉会が宣言されると、生徒たちの割れんばかりの拍手が講堂全体を包み込んだ。


 そこからしばらく、潮音たちも会場の後片付けに追われることになったが、それが一段落して帰宅時間が迫った頃になって、潮音は紫や光瑠、愛里紗と一緒に、千晶と絵里香のところにあいさつをしに行くことにした。


 潮音たちが千晶に会いに行くと、千晶の傍らには中等部にいる千晶の妹の香澄の姿もあった。紫は千晶の姿を目にするなり、目を輝かせながら嬉しそうな声で千晶を呼びとめた。


「松崎さん、あのアイドルのパフォーマンス、本当にすごかったです。椿さんたちのダンスにも感動しました」


 その紫の言葉には、いつもクールで落ち着いていた千晶が、柄にもなく照れくさそうな顔をしていた。そこで香澄が、紫にことの次第を話し始めた。


「生徒会の二年生たちの間で、今年はみんなでアイドルのパフォーマンスをやろうという案が出たときは、うちの姉はははっきり言ってあまり乗り気ではありませんでした。その案が決まったときも、姉はしぶしぶ引きうけたみたいです。しかしそれでも、姉も練習を繰り返すうちに、いつの間にか夢中になって遅くまで練習するようになっていました」


 香澄が紫たちに話をするのを聞いて千晶はいやそうな顔をしたが、今の千晶の充実感にあふれた表情からは、千晶が今回のイベントに手ごたえを感じている様子がありありと見てとれた。


 潮音がきょとんとしながら千晶の顔を眺めていると、そこで千晶が潮音の顔を向き直した。


「そりゃ私だって、はじめにアイドルのパフォーマンスをやろうという話が出たときには、柄じゃないと思ったよ。実際今日だって、ステージに立った時はさすがに緊張したし。でも生徒会長としてほかの生徒の前でいいかげんな態度は見せられないと思ったから、思い切ってやってみることにしたんだ。それは藤坂さんが劇でジュリエットの役をやることを決めたときも一緒じゃないかな」


 そこで潮音はためらいがちに答えた。


「実は私もそうだったんです。…でも私はこんな自分を変えたいと思って、ジュリエットの役に名乗り出ることにしたのです」


 潮音の話を聞いて、千晶は嬉しそうな顔をした。


「良かったじゃない。その思いで劇に挑戦して、ちゃんと成功した経験は、これからいろんなところで生きてくるんじゃないかしら。藤坂さんも来年二年生になったら、生徒会の活動に参加してみたらどう?」


 自分にとって勉強もスポーツも全くかなわない、雲の上の人のように思っていた生徒会長の千晶が自分に対してこのように親しげに話しているとは、潮音はいまだに信じられなかった。そこで香澄も、持ち前の元気な声で潮音に話しかけていた。


「姉の言う通りですよ。私は藤坂さんのジュリエットの演技はすごいと思ったんです。藤坂さんだったら生徒会の役員になっても大丈夫ですよ」


 戸惑いから抜けきらずにぼんやりしたままの潮音を横目に、椿絵里香が紫や光瑠に声をかけていた。


「あなたたち一年生も劇をよく頑張っていたじゃない。いっそ来年は、あなたたちがアイドルをやったらどう? 峰山さんや榎並さんだけでなく、むしろ吹屋さんがやった方が似合いそうじゃない」


 絵里香に言われて、紫と愛里紗も呆気に取られたような表情をしたが、なによりも光瑠がいちばん赤面しながら手を振っていた。


「もしかして吹屋さんは、自分にはアイドルなんか似合わないって思ってるでしょ。でも千晶だって最初はそうやっていやそうな顔してたけど、練習するうちに一生懸命やるようになったわ」


 絵里香に優しげに声をかけられても、光瑠の表情からは戸惑いの色が抜けなかった。香澄も光瑠に声をかけていた。


「私も吹屋さんがアイドルやってるとこ見てみたいです。それに榎並さんだって、さっきのヒースクリフの役もかっこよかったけど、アイドルやっても似合いそうですね」


  香澄のハイテンションな様子には、愛里紗もすっかり当惑させられてしまった。そこでようやく香澄をたしなめるように、千晶が口を開いた。


「香澄も調子に乗ってばかりいないで、少しおとなしくしてなさい。あまり先輩のことにちょっかいを出すものじゃないわ。でも来年の文化祭に何をやるかは、まだ一年あるからじっくり考えるといいわね。ともかくいろいろあって疲れてるだろうし、本格的な後片付けは明日やるから、みんな今日は家に帰ってゆっくり休みなさい」


 そこで潮音たちも、みんなで帰途につくことにした。夕暮れの街をみんなで駅に向かう途中で、潮音はぽつりと紫に話しかけた。


「ねえ紫、来年の文化祭では私たちの学年でアイドルをやってみない? 紫や光瑠がさっきの生徒会長みたいに、アイドルやってるとこ見てみたいな」


 その言葉に光瑠は露骨にいやそうな顔をしたが、紫はまんざらでもなさそうな顔をしていた。


「潮音までそう思うなら、もっと練習しなきゃね」


 そこで潮音は、今回の劇でも練習のときに紫にさんざんしごかれたことを思い出して、今の発言はやぶへびだったかもしれないと思っていた。そこで紫は口を開いた。


「ともかく明日午前中で後片付けが終ると、午後はクラスで打ち上げになるし、明後日は代休になるわ。みんなが頑張った分、明日の打ち上げは盛り上がりそうね」


 潮音は今から、打ち上げのことが楽しみになっていた。



 潮音が帰宅すると、父親の雄一が例によってむっつりしている一方で、母親の則子と姉の綾乃はニコニコしながら玄関で潮音を出迎えた。則子や綾乃にとっては、潮音の演じたジュリエットがなかなかかわいかったようだったが、潮音は家族にまでそのような態度を取られて、気後れを感じずにはいられなかった。


 なんとかして潮音が自室に戻って、スマホをチェックしてみると、SNSに漣がメッセージを送っていた。その内容もやはり、潮音が劇で演じたジュリエットの役に感動したというものだった。潮音はスマホの画面を眺めながら漣のことを思い出して、いつの間にか表情をほころばせていた。

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