第六章・ロミオとジュリエット(その5)

 ブザーが鳴って劇の幕が開くと、講堂の座席はすでに観客で埋まっていた。潮音はこの劇をどのくらいの人が見に来たのかが気がかりだったが、劇の準備やセリフの確認に追われていて、実際に自分の家族以外に誰がこの劇を見ているのかを確認する余裕はなかった。


 しかし講堂の客席では、潮音の両親や綾乃だけでなく、暁子もバザーを抜け出して劇を見に来ていた。そしてその傍らの席には優菜の姿もあったが、むしろ不安げな表情を浮べた暁子よりも優菜の方が、劇を楽しみにしているように見えた。


 それだけではなく、客席には流風と漣の姿もあった。漣も流風に誘われて、潮音の劇を見に来ていたのだった。そして講堂の隅っこの席では、潮音がこの劇を見に来るかどうか、誰よりも気にしていた人影がぽつりと腰を下ろして、劇が始まる前の舞台をじっと見つめていた──その人影こそ、湯川昇その人だった。


 潮音は文化祭の一週間ばかり前に、帰宅するときにばったり自宅の前で昇に出会っていた。


「藤坂さん、このところずっと帰りが遅いね。文化祭の準備で大変なの?」


 そこで潮音は、思い切って昇に自分は文化祭で開催されるクラスの劇に出演することを打ち明けた。潮音の話を聞くと、昇はご機嫌そうな顔をしていた。


「藤坂さんが劇に出るなんて楽しみだな」


 そこで潮音は、昇に文化祭の日取りや自らが劇を行う時間を伝えていた。潮音自身、なぜ昇に自分の劇を見てほしいと思ったのかわからなかったし、昇と別れて自宅に戻ってからも、果たして昇が劇を見に来るのか気がかりでならなかった。


 潮音は昇が劇を見に来ていることも知らないまま、劇はすでに始まっていた。劇は序盤のモンタギュー家とキャピュレット家の対立についての説明に続いて、ジュリエットが乳母と話をする場面に転換した。潮音は乳母の役を演じる恭子とともに、発声練習で鍛えた大きなはっきりとした声を講堂の中に響かせた。


 そして舞台はさらに進み、ロミオとジュリエットが仮面舞踏会で初めて出会い、恋に落ちる場面になった。顔に仮面をつけて凛々しい衣裳をまとったロミオに扮した光瑠が舞台に登場したときには、講堂で劇を見守っていた松風女子学園の生徒たちが一斉にざわついたが、そのままジュリエットの潮音とロミオの光瑠がダンスを始めたときには、潮音は内心で緊張を抑えることができなかった。


 潮音はバレエの心得はあるとはいえ、まして女子を相手にこのようなダンスをする機会などなかった。このダンスのシーンだけでも潮音は何度も練習をさせられたが、潮音のダンスの腕は堂々と演技をする光瑠とは比べ物にならなかった。本番になっても、仮面をつけた光瑠の顔が目前に迫ってきたときには、潮音は胸の高鳴りのあまり思わず顔を背けそうになったが、なんとか光瑠にリードされながら、ダンスの場面をやりすごしてみせた。


 しかしその後に続くのは、キャピュレットの屋敷に忍び込んだロミオが、バルコニーでジュリエットと出会う有名な場面である。素早く大道具の転換が行われ、ジュリエット役の潮音はロミオ役の光瑠と恋の問答をすることになるのだが、潮音ははじめてこの部分の台本を読んだときには、あまりにも気恥ずかしくなるようなセリフばかりが続くので、思わず体中がむずかゆくなるような思いがした。


 潮音はそのジュリエットの役をどのように演じるべきなのか、かなりの長い間悩まずにはいられなかった。一年ばかり前まで男だった自分に、ジュリエットのような恋するかわいらしい少女の役を演じることなどできるのか──そのように考えると、潮音の不安は広がっていくばかりだった。


 そして考え抜いた末に、潮音は一つの結論を出した。それは舞台の上では変に気取ったり女の子のようなそぶりを見せたりせずに、ありのままの自分の姿を出すしかないということだった。そのとき潮音は自分が一年ばかり前にいきなり自分が女になってしまって以来、悩みながらも自らを取り巻く現実に向き合い、必死で道を切り開こうとしてきたこと──それを全てこのジュリエットの役にぶつけてみるしかないと意を新たにしていた。


 潮音が声をしっかりと張り上げながら、可憐な装飾が施されたバルコニーの上からロミオと会話する様子を客席から見ながら、暁子はいささか気恥ずかしそうな表情をしていた。暁子は潮音が女子として学校に通うことができるかどうかすら不安を抱いていたはずなのに、その潮音が自分の予想をはるかに超えた成長を見せていることを認めざるを得なかった。暁子は目じりにかすかに涙を浮べてさえいたが、優菜もちらりとそのような暁子の横顔を見ていた。優菜も暁子の心中を察しながら、黙って潮音の演技に目を向けていた。もっとも、他の女子生徒たちはロミオを演じる光瑠の、剣を抜いて殺陣も演じてみせる堂々とした凛々しい演技の方に注目していたが。


 そこから劇はさらに進み、いよいよ終盤のクライマックスにさしかかっていた。そこは墓所で横たわるジュリエットを前にして、ロミオが毒薬を仰いで自らの命を絶ち、しばらくして目覚めたジュリエットもロミオの亡骸を目にして短剣で自らの胸を刺すシーンだった。


 光瑠が盃を口にして舞台の上に横たわると、潮音もやがて置き上がり、横たわる光瑠を前にして短剣で胸を刺すそぶりを見せ、光瑠の体の上に折り重なるようにして倒れこんだ。この場面は劇中のクライマックスということで、潮音と光瑠も何度も練習のやり直しをした甲斐があって、その迫真の演技には観客も皆息を飲んで見守っていた。


 そして劇が終ると、いったん閉じた幕が再び開いて出演者のあいさつになった。出演者たちが舞台の上にスポットライトを浴びて一列に並ぶと、一番の声援を浴びていたのは言うまでもなくロミオ役の光瑠だった。モンタギューに扮した紫にも、生徒会の副会長として注目が集まっていたが、やがてジュリエット役の潮音にあいさつをする番が回ってきた。潮音は自分はミスなく台本通りに演技をやりとげたとはいえ、自分の演技など光瑠や紫に比べたらまだまだだということなど十分わかっていたので、観客たちがどのような反応を示すのか不安でならなかった。


 しかし潮音があいさつを済ませると、講堂の観客席からは割れんばかりの拍手が鳴り響いた。潮音は自分の演技がここまでみんなに評価されていたのかと意外に思ったが、潮音に続いてあいさつを締めくくったのはロミオ役の光瑠だった。その自分よりもはるかに大きな拍手と声援、さらに女子生徒たちの憧れの入り混じった目つきには、潮音もいささかげんなりせずにはいられなかった。



 舞台の後片付けが一段落して控室に戻ると、桜組の生徒たちは一斉に歓声をあげてガッツポーズをした。彼女たちは皆、クラス一丸になって劇を何とか成功させたことに対して、確かな手ごたえを感じていたようで、どの顔も充実感で満ちあふれていた。


 潮音が衣裳のドレスから制服に着替えを済ませると、紫や光瑠はすでに着替えを済ませていた。そこで潮音は、光瑠の顔をまじまじと見つめながら話しかけた。


「ありがとう…吹屋さん。自分がヒロインのジュリエットの役なんかできるのかずっと不安だったけど、なんとかできたのは吹屋さんがロミオの役として、私のことをしっかりフォローしてくれたおかげだよ」


 しかしそのような潮音の様子を、光瑠は怪訝そうな顔で眺めていた。


「藤坂さん、どうして自分はジュリエットの役をやれるか不安だったわけ?」


「え…そりゃ私なんて、ジュリエットみたいに全然かわいくないし演技だってうまくないし…。二年の椿先輩とかだったら、ジュリエットの役ももっとうまくやれると思うけど」


 潮音が自信のなさそうな口調で話すのを、光瑠は打ち消すようにして言った。


「そんなことないと思うよ。あんたは自分からジュリエットの役に名乗り出て、一生懸命練習してきたじゃん。それに藤坂さんは変に自分のことをかわいく見せようなんてしないで、素のままの自分を舞台の上でも見せようとしていた。そのような姿勢で舞台に取り込んだからこそ、みんな藤坂さんのことを認めてくれたんじゃないかな」


 光瑠がしっかりとした口調で話すと、紫も相槌を打った。


「光瑠の言う通りよ。潮音はジュリエットの役を自分の中に落とし込んで、自分だけのジュリエットを演じてみせた。それだけでも潮音は十分大したものだと思うよ。ともかく潮音は、このことに対してはもっと自分に自信持っていいんじゃないかしら。これから潮音もクラスの副委員長になって不安なこともあるかもしれないけど、その心意気で行けば大丈夫じゃないかな」


 さらにそこで、恭子が潮音に言った。


「あんたが真っすぐで根性のある子やなんてことは、桜組のみんながわかっとるよ。だからみんなもそれにこたえてくれたんやと思うよ」


 光瑠や紫、恭子だけでなく、控室にいた桜組の生徒たちみんながそれに同調するようなそぶりを見せたので、潮音はますます照れくさそうな顔をした。そこで紫が、クラスのみんなに声をかけた。


「ともかくみんなお疲れ様。後片付けが終ったら、しばらくみんなで文化祭を見て回ってもいいわよ」


 紫の提案に、桜組のみんなはあらためて歓声をあげた。

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