第六章・ロミオとジュリエット(その4)

 それから一夜が明けて、いよいよ文化祭の当日になった。この日は秋の空もすっきりと晴れ渡り、カーテンの隙間からは朝の穏やかで澄んだ光が差し込んでいた。潮音たちの高等部一年桜組の「ロミオとジュリエット」は、文化祭一日目の午前十一時という早い時間に演じることが決まっていたため、潮音も当日は早めに登校して劇の準備にあたることになっていた。


 潮音はもちろん、一晩寝たくらいで心の中から不安をすっかり払拭することなどできるはずもなかった。しかしここまで来た以上はしょうがない、この一ヶ月もの間練習で紫にさんざんしごかれたことが無駄になるはずがないと無理にでも思い直して、パジャマを制服に着替えることにした。


 潮音が食卓に就くと、母親の則子はすっかり上機嫌になっていた。彼女は潮音が劇でヒロインのジュリエットを演じることが楽しみでしょうがないようだった。


「この子が学校の行事で劇の主役をやるなんで、今までなかったんじゃないかしら。お母さんもちゃんと見に行くからね」


 その則子の舞い上がりようには、潮音のみならず姉の綾乃までもがげんなりしていた。父親の雄一は、すっかり則子の元気さに押されたかのように黙ってむっつりとしていた。


「ちょっとお母さん、潮音がすごく緊張してるじゃない。あまりプレッシャーかけないでよ」


 綾乃にたしなめられると、則子も少し調子に乗りすぎたと反省したのか、少しおとなしくなった。そこで綾乃は、朝食を済ませて席を立とうとする潮音の肩をぽんと叩いてやった。


「あんただったら大丈夫だよ。このところずっと放課後も練習頑張ってきたけど、中学のときまであんたはそんなことなかったじゃない。むしろ失敗したって構わないって、そのくらいの気持ちでドンと行きな」


「わかったよ、姉ちゃん」


 綾乃の言葉に、潮音は少し表情をほころばせた。そこで綾乃は言葉を継いだ。


「流風ちゃんからも連絡があったけど、今日の文化祭には流風ちゃんも来るみたいね。それから若宮さんって子も一緒に来るって言ってたわ」


 潮音は流風や漣も自分の劇を見に来るのかと思うと、ますます無様な演技は見せられないと思って身震いがした。しかしここで潮音は、なんとか漣がこの劇を見ることで、少しでも元気を出してくれたらと考えていた。


 そして潮音が身支度を整えて家を後にすると、ちょうど暁子も家から出てきたところだった。


「暁子も早いじゃないか」


「手芸部でバザーの準備をするからね。でもあんただって劇の準備があるから早く出たんでしょ。あんたが劇でジュリエットの役をやるなんていまだに信じられないけど」


 そう言うときの暁子は、どこか複雑そうな表情をしていた。


「暁子だってもっとしっかりしろよ。手芸部でバザーをやるのだって、大事な文化祭の行事だろ。舞台でライトを浴びて注目されるばかりが文化祭じゃないんだよ」


「あんたからそんな説教される日が来るなんて思わなかったよ」


 暁子は少しため息混じりに、潮音の顔を見ながら答えた。



 潮音と暁子が二人で学校に着くと、校門にはすでに「文化祭」と大きく書かれた、華やかな装飾を施したアーチが立てかけられ、来場者を出迎えるのみとなっていた。さらに校内もあちこちに色とりどりの装飾がなされ、廊下や教室までもが日ごろの授業がある日と違って華やいで見えた。とはいえ九時に開会式があり、一般客の入場は十時からとなるので、校内は生徒たちが準備の仕上げに大わらわになっていた。


 潮音は校門で暁子と別れると、講堂の裏の控室に向かった。この控室は、潮音たちの桜組が劇の準備のために押さえていたものだった。潮音は劇の出演者や音響、照明の担当と簡単に打ち合わせを済ませると、九時から始まる開会式に参加するため講堂に向かった。


 潮音が講堂の座席に腰を下ろすと、周囲には文化祭の開幕を今か今かと待ちわびる生徒たちの高揚感がみなぎっていた。しかしその生徒たちの中には、隣同士でおしゃべりをしながらこの文化祭にも男子が来ることを楽しみにしているように見えた者もいたのには、潮音もいささかげんなりした。そこで潮音は、浩三は水泳の練習に明け暮れているからここには来ないとして、昇に自分の劇を見られたらやはり少し恥ずかしいかもしれないと気をもんでいた。


 やがて学園理事長である吉野うららのあいさつで開会式が始まると、続いて高等部生徒会長の松崎千晶が壇上に立った。千晶が何ら物怖じすることなく、堂々とした態度とはっきりとしたよく通る声で開会の辞を述べる姿に見惚れている生徒も少なくなかったが、潮音はその千晶の開会のあいさつを聞きながら、来年はこの壇上に紫か愛里紗が立つことになるのだろうか、そしてそうなった場合、自分は何ができるだろうかと考えていた。


 文化祭の開会式が終ると、潮音たち桜組のメンバーたちはさっそく控室に駆けつけて、劇の準備に取りかかった。潮音が周囲の衣裳担当の生徒たちの協力も得て、制服からジュリエットのドレスに着替えるときには、胸の高鳴りが止まらなかった。潮音は今になってセリフを忘れたりしないかや、演技でミスをしないかということが気になり始めていた。


 その傍らでは、光瑠がロミオの衣裳に着替え終っていたが、桜組の生徒たちの注目を一身に集めていたのは、男物の衣裳を凛々しく着こなしている光瑠のロミオの方だった。潮音は果たしてこれでいいのかとため息をつかずにはいられなかったが、そこですでにモンタギューの衣裳に着替えていた紫がそっと潮音に声をかけた。


「緊張してるの? そりゃそうよね。劇のヒロインになったのだから、緊張しない方がおかしいわ」


「紫ほどのバレエの腕前があっても、舞台に立つときには緊張することあるのか…」


 その潮音の言葉を耳にして、紫は呆れたように目を丸くした。


「当り前じゃないの。私だって小学生のときは、発表会の前の日は不安で眠れなかったことだってあるし、今だってバレエの本番の前には緊張で逃げ出したくなることなんかしょっちゅうあるよ。でもそれを乗り越えないことには、バレエだって上達しないし自信もついてこないものだわ」


 そのときの紫の表情を目の当たりにして、潮音ははっと息をつかされた。その紫の表情は、これまで他人の前では弱みを見せないように気丈に振舞ってきた紫が、今まであまり人前で見せたことのないものだった。


 しかし今の潮音に、紫の心中を詮索している余裕はなかった。そこですぐさま、光瑠がその場にいた桜組の生徒みんなに元気よく声をかけた。


「ともかくこの日のために、劇に出る子だけでなく、桜組みんなが頑張ってきたんだからね。そのみんなの努力をムダにしないためにも、なんとかしてこの劇を成功させなきゃいけないけど、練習をここまで頑張ってきたんだからきっと大丈夫だよ。特にジュリエット役の藤坂さんは峰山さんにさんざんしごかれながらも、それによく食らいついて来たじゃない」


 潮音は自分の名前をいきなり出されて、思わず顔を赤らめてしまった。しかしそこでさらに光瑠は、みんなに向かって声をあげた。


「劇が始まる前に、今ここでみんなで円陣組もうか」


 潮音は待ってましたとばかりに、右手を差し出した。そして劇の出演者全員で手のひらを重ねて円陣を組んで声をあげると、潮音は全てをここにぶつけるしかないと意を新たにしていた。潮音の脳裏からは、先ほどの紫の表情が離れなかったが、潮音はこのことは劇が終ってからゆっくり紫に聞けばいい、今は劇に集中するしかないと思って雑念を心から振り払った。

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